15、俺は天に見放されるような皇帝にはならぬ
我が子が大泣きしてしまった――珠簾の内側で華凛は焦った。
「よ、よし、よし……大丈夫ですわ。な、泣かないで」
「ふえええん!」
華凛が思うに、我が子は泣き出した後、だんだんと意地のようなもので泣き続けるようになっていった。
最初は「おちっこ漏れた、うわあん」という理由があって泣いていたのだが、時間経過と共に、泣いた理由よりも「ぼくは、泣いてるんだぞ」という状態の継続を目指し始めている。
「はあはあ、……(休憩)ま、まだ泣き止まないもん。もっと泣くもん。ぼく、まだ、かなちいもん。ふえええ」みたいに泣いている。なぜ。
(愛情不足かしら。わたくし、もっと甘やかすべきなのかしら)
侍女と一緒に息子を着替えさせ、「よしよし」とあやしていると、剣舞を終えた夫がやってきた。
皇帝である夫、滄月は、剣舞をしていたのに汗ひとつ浮かべていない。
美しく整いすぎた顔は、冷淡さを感じさせる無表情だ。
(もしや、「子を泣かせて神聖な儀式を妨げるとは何事か」と怒られたりしないかしら。謝らないといけないのではないかしら)
華凛は恐ろしい可能性に肝を冷やしたが、夫は怒号を発することなく、陽奏をその腕で抱き上げた。
切れ長の美しい瞳は、珍妙で不可解な生物を鑑賞するような気配を浮かべていた。
「どうした。俺の子はなぜ泣いてしまったんだ? 大声がよく響いて臣下が驚いていたぞ。お前は元気がいいな」
華凛は「責められている?」と青ざめて謝ろうとした。
しかし、口を挟む隙がない。
返事など期待していない様子で、滄月は独り言めいた言葉を連ねていた。
「さては俺が格好よすぎて恐れ入ったか。爸爸が世界で最も高貴で偉大だとわかってしまったか。自身の無礼さに気付き、後悔して泣いているのだろうか。陽奏よ、俺は三歳児に腹を立てたりせぬ。爸爸と呼んでもいいぞ。俺のことをそう呼べるのは、世界で唯一、お前だけなのだ。光栄に思うがよい」
夫、滄月が我が子の泣いた理由についての考察を深めて、都合のいい結論に達している。
しかも、淡々とした口調で、学者が詩文を読み解くように生真面目に言うものだから、華凛は変な夢でも見ているような気になってしまった。
我が子、陽奏も泣き止み、まじまじと父を見つめている。
間近で父子が見つめ合う姿は、微笑ましいようでもあり、殺伐としているようでもあった。
なにせ、笑顔がない。
両者とも、真顔だ。
「なんかぁ、……やあだああ!」
三歳児の語彙力は、わかりやすく自分の感情を表現した。
父親への反発心が、「ふええ」と泣きたくなっていた気持ちに勝ったのであろう。
対する二十二歳児(?)は……「おお」と目を見開いた。
「泣き止んだぞ。怒っているな。泣いたり怒ったり、忙しいやつめ」
「ぎらああぁぁ、いぃー!」
三歳児が両手両足をばたばたと暴れさせている。
大声で叫んでいるのは、拒絶の意思だ。
父親、嫌い――そんなわかりやすい主張であった。
この声も、臣下に聞こえてしまっているのではないかしら。
華凛は慌てて我が子に手を伸ばした。
すると、夫は察した様子で子供を華凛の腕にゆだねてくれた。
我が子の小さな肩に手を置くと、陽奏は母にぎゅうっと抱きついてくる。
「おかあ、さま……っ」
「よ、陽奏。……よし、よし。いい子ね」
我が子の体温を感じながら背中を撫でてあげると、子は甘えた様子で母の体温に身を寄せて、赤らんだ顔を隠すようにしている。
恥ずかしがっているのかもしれない――華凛は我が子の心を思いやりながら、夫を上目遣いで見た。
「そ、粗相をしてしまったのです……、もう、汚してしまった部分は拭き取って清めましたし、着替えを済ませましたが……」
華凛が説明すると、滄月は「ふむ」と理解した顔になった。
「漏らしたか」
「さ、さようでございますの。わ、わ、わたくしが、至らず」
「別にそなたのせいではなかろう……」
(ご機嫌は……損ねては、いない……みたい)
表情は変わらないし、声も感情が窺いにくくて冷たい印象を受けてしまいそうだが、華凛は夫の機嫌を察した。
夫、滄月は、大きな手で三歳児の頭をぽんと撫でた。
そして、華凛の手に自分の手を重ねて、珠簾の外を視線で示した。
「落ち着いたならば、臣下たちに健在を知らせよう。心配しているだろうから」
珠簾の外に出て、無事な姿を見せようというので、華凛は内心で「ひぃ」と悲鳴をあげた。
人前で堂々と振る舞うのは、苦手である。
しかし、夏国の皇帝の妃であり、皇子の母という立場を思うと……。
「か、……かしこ、まり、ました」
「うむ。皇帝の隣に慈悲深き天女あり、となれば、求心力も増す。……助かる」
「助かる」ですって。
わたくし、慈悲深き天女などでは、ありませんのに。
青年皇帝が珠簾の外へと誘う手に片手を重ね、もう片方の手で我が子の手を握る。
珠簾の外に出ると、天を揺るがすような歓声が上がった。
季節の花の香りを含んだ微風がふわりと吹いて、華凛の頬を撫でていった。
「皇帝陛下、ばんざい!」
「天女皇妃様――華凛妃様、ばんざい!」
「陽奏殿下……!」
「我が国は、天からのご加護をいただいているのだ。ありがたや……」
敬愛と尊崇の声が口々に唱えられ、希望を感じさせる明るい音の集合体となって、世界を彩る。
「ふわ、あ……っ」
三歳児のあどけない声は、「びっくり」とか「しゅごい」とか、そんな新鮮で初々しい気配だった。
目はきらきらとしていて、頬が赤い。
興奮している様子で、口をぽかんと開けている。
「陽奏よ」
そんな我が子へと、青年皇帝は腕を伸ばした。
そして、危なげなく抱き上げて、視点をより高くして臣下たちが自分たちを讃える光景を見せた。
「この夏国は、我ら一家の治める国家である。今、我らを見上げて敬い、無事を喜ぶ臣下たちは、共に国を守り、民の生活を支える、大事な家族。そして、城下に出れば、他にも大勢の家族がいる。我らの着るものや日々目にする調度品をしつらえる職人、食べるものを調理する庖人に、食材を育み、収穫してくれる農民たちだ。我らは大勢の家族と共に生きており、家長一族として皆を安心させるのが仕事なのだ」
子供には、難しいお話ではないかしら。
華凛はそう思ったが、息子は「きらい」と言って暴れることなく、父の言葉を大人しく聞いていた。
そして、理解したのかどうかはわからないが、幼いながらも利発さを感じさせる声で、はっきりと呟いた。
「かじょく」
「そう。家族だ」
いい雰囲気。そのまま、二人が仲よくなってほしい。
華凛は夫と息子を微笑ましく見守り――「ん?」と首をかしげた。
黒髪を飾っていた髪飾りが、しゃらりと音を奏でて揺れる。
会場は、人の気配でいっぱいで、とても賑やかだ。
ほとんどの者がこちらを見て、明るい表情を浮かべている。けれど、端の方に、なにやら捕縛されて連行されていく人たちがいるような?
「どうした、華凛?」
訝しがる妻に気付いた夫が問いかける。
華凛は少し迷ってから、「あの方々は……?」と尋ねてみた。
すると、夫は秘め事がばれたような目で気まずそうに視線を逸らし、臣下を呼んだ。
「気付かれてしまったか。天女の慧眼はさすがだな」
「……?」
「そなたの心は、わかっている。命までは奪うな、更生の機会を与えよ、慈悲の心を持つ仁君であれ、と申すのであろう」
「…………?」
臣下が夫の指示を受け、去っていく。
夫は妻を抱き寄せ、頬に唇を寄せた。
口付けは一瞬で、ふんわりとした優しい触れ心地だった。
臣下たちの歓声がひときわ大きくなる――皇帝夫妻の仲が睦まじいのを見て、喜んでいるのだ。
「我が隣には、天の心を教えてくれる天女がいる。俺は天に見放されるような皇帝にはならぬゆえ、……天下万民は安心せよ」
皇帝は凛然と宣言した。
口付けに頬を染めつつ、華凛は「天下万民がこれで安心できるなら、誤解されるのも妃のお仕事のうちかしら」と思うようになっていた。
それほどに、臣下たちは嬉しそうで、「よかった!」と喜んでいたのだ。
人が喜ぶ姿を見ると、気持ちが明るく、優しくなっていく――華凛はそんなことを考え、天を仰いだ。
天は明るく地上を照らし、見守っていて、「こら、嘘をつくな」と怒ったりする気配はない。
(西王母様……)
華凛は、西王母に祈りを捧げた。
(わたくし、自分にできる方法で、家族を守りとうございます。この国のために頑張っている夫や、可愛い我が子を助ける妃になろうと思います。ですから……ですから、どうぞ……見守っていて、ください)




