11、夜奏
その夜、皇帝滄月は寵妃と夕餉を取り、そのまま寝所で共寝すると告げた。侍女たち、特に雲英が「寵愛ですわ」「熱愛ですわ」と浮かれて華凛の肌を磨き上げた。
今宵も朝まで大変な目に遭うのか、と覚悟した華凛であったが、夫は意外にも「今宵は抱かぬ」と言い、笛子(横笛)を吹いた。
明るく爽やかな曲調で、伸びやかな音は、聞いていて心地いい。
華凛はうっとりと耳を澄ました。そして、雲英に目配せして琴を持ってきてもらい、音を寄り添わせた。
真夏の涼風のような笛の音は、自らに誘われて従う気配を見せる琴の旋律に気をよくした様子でいっそう爽快に鳴り響き、華凛は有名な戯曲を思い出した。
江湖における武俠の派閥、正派と邪派……その敵対する派閥に属する男女が、互いの正体を知らぬまま、楽器での演奏を通して心を通わせる――そんなお話だった。華山の道士も出てくるお話だ。
華山の道士は、仙人になるために修行をしている人だという。
華凛は仙人を伝承上の存在だと思っていたが、考えてみると自分は(おそらく)西王母に助けてもらって人生をやり直したのだ。
西王母が存在するなら、「作り話だ」と言われていた数々の不思議は実は本当に存在していて、仙人も存在するのではあるまいか。
――♪
夫は、注意喚起するように笛子の音を鳴らしている。
気を散らしているのを見抜かれた想いがして、華凛は演奏に意識を戻した。
異なる楽器の音が重なると、互いに音を引き立て合うようで、とても親しい間柄のような心地になる。
思えば、自分たちも互いをよく知らない仲である。
しかし、こうして演奏するのは楽しくて、今まで「恐ろしい」と思っていた夫も、段々と「この方は自分にとって、恐れる必要のない方なのかもしれない」と思えてくる。
……あの悪夢。妹に言い放った言葉が本当なら。
確認してみたいと思うが、昼間に「その話はしなくてもよい」で終わっている話でもあるので、話題を蒸し返す敷居が高い。
言葉での会話は、そうでなくても苦手意識があるのだ。
(もう、あのお話は……いいでしょう……終わったお話、ですわ。父と会う予定もありますし……父に聞けばいいのだわ)
華凛は、夫と会話を試みるよりも、無言で演奏している方がよほど心が楽で、安心できるのだった。
ああ、もう曲が終わる。
名残惜しい気持ちで最後の一音を奏でると、夫は華凛の心を読んだようにもう一度曲を奏で始めた。
軽やかな笛の音は楽しそうに聞こえて、なんだかやんちゃな子どものよう。
華凛はそおっと顔を上げて、夫の姿を確認した。
二十二歳の青年皇帝の横顔は麗しく、視線に気付いて妻へと送った流し目には色気があって、華凛は心臓をどきりとさせた。
気付けば、曲がまた終わるところだ。体感時間があっという間で、驚いてしまう。
終わった後の静寂は、少し緊張した。
青年はそんな妻の心を感じ取ったのか、手を伸ばして琴をつま弾いた。
ほろほろと鳴く琴の音は柔らかで、それに寄り添わせるように語る青年の声もまた、音楽的に響く美しい声であった。
「もう一度、昼と同じことを言うが、そなたは楽にせよ。子に接するときと同じぐらいだ。俺を三歳児だと思うがよい」
「きゃっ」
気を抜いた一瞬の間に、滄月の腕は華凛を抱きあげ、臥牀へと寝かせた。そして、自身も隣に寝そべった。
三歳児はニ十歳の女を抱き上げたりしない――そんな思いを胸に仕舞い、華凛が身を強張らせていると、夫はくすくすと笑った。
「俺は三歳なので、独り寝は淋しい。妻よ、抱きしめてくれ」
甘えるように言う声は普段より高く、確かに子どもっぽいかもしれない。
まさか我が子の真似をしているわけではないでしょう……、と驚きつつ、華凛はそーっと腕を青年に回してみた。
自分から積極的に彼に触れるのは、初めてかもしれない。
薄い夜着は上質な生地で触れ心地がいい。
布の下に隠れた男の筋肉の硬さと肌の熱さがよくわかる。
呼吸に合わせて上下する肩はがっしりとしていて――「やはり、俺が抱きしめたい」笑いながら言って華凛を抱きしめる夫の胸板は頼もしく、どんなに力いっぱい拒んでもびくとも動かないだろうと思われた。
「お……」
「うむ」
何かを言うのだな、と察した様子で言葉を待つ夫は、少し華凛に慣れた気配がある。
「さっさと話せ」とか「苛々する」とか言ったりしないので、華凛はこの夫がいい人のように思えてきた。
子どもに泥団子をぶつけられたりおれおれ退治されても、張り合うことはあっても、声を荒げて怒ったりはしないので、優しい心があるのだと思う。
――そう思うと、すっぽりと自分を包む体温があたたかくて、居心地がよく思えてきた。
「お……おやすみ、なさいませ……滄月様」
夫の胸板に顔を寄せて囁くと、いい匂いがする。
それに、心臓の音が聞こえる。
彼も人間で、自分と同じように生きているのだ――少し、心音が早い気がするけれど。
「おやすみ、我が妻、華凛。名前で呼ぶのは、とても悦いな。そなたは美しく、可愛らしい。そして、俺に悦いことを教えてくれる天女のような妻である……」
ふわふわとした甘い声で言って、皇帝の手は華凛の黒髪をひと房、掬った。
そして、至高の宝を慈しむように髪に口付けを贈ったのだった。




