【3】 魔獣強襲
――魔獣。
世界樹樹立以前の大陸を支配していた生態系の頂点。絶対の支配者。
数多の生命が種の存続を危ぶまれるこの冬の檻の中であろうとも、魔獣を殺すことだけは叶わない。
魔臓と呼ばれる半永久機関の臓器を有する魔獣は腹さえ満たしていれば外的要因以外で死ぬ事は無い。別の大陸では獲物を求め移動を繰り返した結果、そこに栄えた文明も生態系すら滅ぼした記録さえ残っている。
その魔獣が、長年魔獣を退けてきた世界樹の加護を嘲笑うかのようにして、エコウらの前に姿を見せた。
大陸南方の第一都市より出発した汽車が襲撃を受けていた。
軍の教本にも添付される代表的な魔獣・デュガーの群れによって。
異様に長い四肢はあらゆる悪路を意に介さず、平地では爪をスパイク代わりにすることで積雪下であろうとも、速度によっては蒸気機関車に並走するほどの脚力を発揮する。
恐らくあの列車はデュガーの発見に遅れ、引き離す前に脱線させられたのだろう。遠目からでも横転した車体の雪の被り具合を見るに、脱線したからそれなりの時間が経っている。乗客の命は殆ど絶望的だろう。
問題はエコウが乗る列車が、いまからデュガーの群れを突っ切る事にある。
先んじて異変を察知し、照明弾で状況を直ぐに把握出来たことは幸運だった。しかし――
「多い……何体いるんだ!?」
エコウが確認できただけでもざっと十五~六体。異常な数だった。
教本でもデュガーは一つの群れに対して多くとも六~八体ほどで形勢されるのが常だ。その倍以上の数でデュガーが行動するなど聞いた事がない。
この列車は先頭の炭水車と車掌車を含め全八両。装備される銃座は各客両に二門、計十二門だ。一門で一体抑えてもまるで足りない。
既に乗務員は戦闘配置に付き、屋根上では銃座のカバーを剥ぎ取り機関銃に弾帯を接続している。もう接触まで時間が無い。
「エクシーダー様、何をしてるんだっ。直ぐに前方車両に避難しろ!」
背後の扉から乗務員が物凄い剣幕で飛び込んできた。一瞬だけグリームニルを睨むも、乱暴にエコウの手を取り車内に引き戻そうとする。
余裕がないのか敬語が抜け落ちており、エコウを掴む手も乱暴だ。
「ま……待ちたまえ。君も中へ!」
エコウはグリームニルに避難を呼びかけるも、彼はその場から動こうとしない。
「こいつらは餌だ。こういう襲撃を受けた際に車両ごとを切り離すためのな!」
「なっ!?」
耳を疑う言葉にエコウは絶句する。
まさかと思い乗務員の手を払い仮面憑きの足元の雪を蹴り落とすと、彼の脚は柵に足枷で繋がれていた。動かなかったのではない。動けなかったのだ。
まさか他にも……!?
「後方三車両には一人ずつそいつ等を繋いである。だが勘違いするなよ。正式な契約と合意の上での待遇だ」
「馬鹿を言うんじゃない。そんな契約を提案する人間も、飲み込む愚か者もいてたまるか!」
「問答してる時間はねえんだ。これ以上駄々こねるならエクシーダーといえど締め出すぞッ。アンタが死ねば俺達全員の首も道連れだ」
最後の脅し文句に一瞬怯んだ隙に、エコウは強引に乗務員に荷物のように脇に抱えられてしまった。
「大人しく餌を演じろよ、魔獣擬き。何なら奴らに尻尾でも振ってくれりゃ俺らは大助かりだぜ」
捨て台詞を吐きながら乗務員が扉を潜る。エコウを抱える逆の手は銃に硬く握りしめられ、その銃口は迫る魔獣よりも先に枷に繋がれるグリームニルを求めるかのようだ。
乱暴な言動に我慢ならず、エコウは乗務員の股間に思いっきり拳を振り下ろそうとした時だった。
「おい」
初めてグリームニルから話を持ち掛けられた。
背を向けたまま彼は閉まりかける扉に構わず言葉を投げる。
「我々をどう使うか否かは車掌の判断に委ねられている。個人の自由意思では戦わない。解放するなら早めをお薦めする」
扉がグリームニルの姿を隠すと、入れ替わりにけたたましい銃声が鳴り響いた。
前方車両へと避難する乗客たちの恐怖を押し殺した悲鳴が上がる。辛うじてパニックは抑えられているが、まだ牽制射撃だ。列車は反転が出来ない以上、速度で魔獣の群れを引き剥がすしかない。
屋根上では今頃煙突の煙に習うように大量の空薬莢が流れているに違いない。この列車の銃座に備えられているのは、対魔獣用に開発された強化火薬仕様の大口径機関銃。軍にも採用されたお墨付きだ。
魔獣といえど頭蓋か魔臓を貫けば死に至る。そうでなくとも弾幕を張って近づけさえしなければ、後は列車が最高速度に達しさえすれば速力で引き離せる。
ただ襲撃を受けた列車がそんな単純な理屈に理解が及ばなかったとは考えにくい。
グリームニルの忠告はそれを見越した上でのものなのか。
「最低限の荷物だけ手に前方車両へ。落ち着いて、けれど迅速にお願いします!」
「避難が完了した車両は格納兵装を展開。訓練通り各員第一種戦闘配備に付き、応戦しろ!」
乗客を誘導すると同時に、乗務員は座席下に格納されていた大型機銃を設置していく。
座席を土台とし、手早く弾帯を接続して開口部へ銃口を突きだす。退役軍人の乗客が自ら乗務員に協力を申し出て、補給に加わる。
その間も一斉射の銃声に混じって照明弾が次々と打ちあげられていく。
彼等の対応は決して悪くなく、淀みない。それは余裕ではなく、一人一人が常に最悪の状況を想定し己が役目に徹しているからだろう。
それでもエコウの中でがなり立てる警鐘は死の影をハッキリと捉えている。
「おい。エクシーダー。アンタは念の為に銃を持て。女でもカーディアーカの民なら銃の扱いは心得てるな?」
「君はレディに対する言葉遣いを覚え給え。あと自分の銃があるから、そんな物は不要だ。そんなことより――」
エコウは不満が口にしつつ、ドレスワンピースの上から太ももの辺りを叩いてみせる。女の一人旅だ。拳銃ぐらいは身に着けている。しかし今はその様なこと心底どうでもよく、形のよい柳眉を逆立てエコウは簡潔に要求を突きつける。
「グリームニルを今すぐ解放しなさい。緊急事態だよ。つまらないしがらみに固執すれば、私たちも皆仲良く魔獣共の胃袋だ」
「――ダメだ」
乗務員はすぐさま要求を拒否する。
「何故!? あの列車はグリームニルを乗せていなかったんじゃないかい!? この列車の兵装で迎撃するのは不可能だっ」
「エクシーダーなら知ってるだろ。十年前、南部アルバ砦の陥落で、魔獣共に最南端の世界樹の大気根が伐採されたことを」
「――っ!? だがあれは……」
「グリームニル共もが裏切ったせいで魔獣が俺達の生存圏を脅かすようになった。間違ってもあの売国奴の力は借りない」
いまの状況すら忘却して、エコウは愕然とした。
差別や憎悪をというのは人から冷静な判断を奪う。しかし自分達も辿るかも知れない全滅の可能性よりも優先されるというのか。
激しい憤りを覚え、エコウが掴みかかろうとした時、伝声菅から大喝が飛んだ。
「六十秒後に魔獣の群れに接触するッ! 乗客は姿勢を低くして頭を守れ。射撃手共は弾幕を張り続けて魔獣共を寄せ付けるな。閃光音響榴弾閃光音響榴弾の用意急げよ!」
車内の緊張感が一気に高まる。
口論で避難が遅れたエコウは乗務員に殆ど無理矢理地面に伏せられる。
銃声を跳ね除ける、新たな獲物に歓喜するデュガーたちの獰猛な咆哮が車体の装甲さえ揺らすようだった。
カウントが始まる。際して列車は大量の燃料と引き換えにして加速が始まった。車内からも微力ながら銃撃が加わり、巨大な蜘蛛のようなデュガーたちを牽制していく。
もし先の列車に生存者がいても助けることは叶わない。グリームニルらと同じくこの列車は生存者を囮にして走り去らねば今度は自分達が死ぬ。
しかし彼等の決断に乗客全員の命を委ねていいのか、エコウは確信を得られない。むしろ悪い予感は募るばかり。
どうして前方の列車は襲撃を許した? 星明りもない暗闇がデュガーの群れを包み隠したのだろうか。いいや、あれだけの巨体が通常の倍以上の数で群れを形成しているのだ。全く気付けなかったわけがない。
「あと四十秒!」
もっと別の要因があるのではないか。
例えばそう、デュガーは群れで行動している通り、魔獣の尺度で語れば雑魚の部類だ。大陸の果てには巨獣と定義される更なる怪物たちも犇めき合っている。
デュガーからすれば列車に対する生物の定義は関係なく、ただ巨大蛇程度に認識しているのかもしれない。
数的優位を生かし、尚且つ自らより大きな獲物を仕留めるには短時間で息の根を止めるのが最も合理的だ。
野生の狩りでは待ち伏せ、戦術的観点からはこれを奇襲と称する。
だがそれは相手が無警戒だからこそ最大の効果を発揮する戦術。早期から発見され、迎撃態勢を取られれば奇襲に意味がない。
だからもう一歩、発想を広げる必要がある。
警戒されている。即ち相手の視線は見えている外敵のみに注がれる。
――いけない!
漠然とした悪い予感がハッキリと像を結び、迫りくる惨劇にかつてない警鐘を鳴らす。
「すぐ傍に潜伏している個体が――」
いるはずだ、というエコウの叫び声は突如車両を襲った激震と破砕音に掻き消される。本能的に頭を庇い、キツく瞼を閉じた。
それはエコウの代弁だった。
何が起きたのか。理解するより先にエコウが感じたのは凄まじい熱だった。
熱い。火傷しそうなほどの熱を孕んだそれは鉄臭い液体の様で、エコウは背中の殆どにこれを浴びたらしかった。
血だ。それも大量の。
「……っ!!?」
跳ね起きたエコウは、眼の前に広がる惨劇に息を詰まらせる。
背に浴びた血は先の乗務員だった。
車体の装甲を突き破った大鎌のような三本の爪の内の一本が、深々と乗務員の胸を貫いていた。左腕は肩口から引き千切れ、血液が狂ったように噴き出しエコウを赤に染める。
がはっ、と最後に吐血すると乗務員は爪から抜け落ち、エコウの膝元に倒れ込んだ。もう息はない。
その瞬間、狂乱がぶちまけられた。
遅かった。エコウの危惧は現実となってしまった。
伏兵がいたのだ。この大雪と暗闇だ。魔獣の巨体といえど一時でも潜伏するのは容易い。ましてやエコウを含め誰もが今眼に見えるデュガーばかりを警戒した。
いつの間にかに銃声が止んでいた。
銃座の射撃手たちは見たであろう。
雪の下に潜伏していたデュガーたちが、一斉に襲い掛って来る悪夢のような光景を。
射撃手たちを潰し取り付いたデュガーたちは車体の装甲を缶詰よろしく引き千切り始める。いやデュガーたちからすれば正に缶詰と変わりないだろう。ただ血肉を求めて、邪魔な入れ物を壊すだけ。
「ひっ、ひあああ……あああああああああああああああああッ!」
統制は失われ、一部を除いて乗務員たちは前方車両へと逃げ惑う。切り離しを考慮した後方三車両よりも比較的装甲が厚く造られているからだ。
しかし取り付いたデュガーが爪を力任せに振い、不用意に立ち上がった何人かが凶刃の餌食になる。他の車両も似たり寄ったりの惨状だろう。他より頑強に作られた前方車両といえど時間の問題だ。
「全員伏せるんだッ!」
座席の下へと飛び込んだエコウは叫ぶと同時に太ももに括りつけてある銃を抜き放つ。
筒に銃把を取り付けただけのような奇妙な拳銃。単発式の非殺傷拳銃・信号銃だ。
通常は照明弾や発煙弾を発射する為の補助道具として用いられるが、装填されているのは特殊弾。
「そんなものが一体何の役に……!?」
誰かが口走ったクレームに耳を貸さず、エコウは引き金を絞った。
――ヒュイイイインッ。
風が解き放れたような独特の発砲音。放たれたのは煙幕でも閃光でもなく、淡い翡翠色の波だった。
それこそ風のように列車内に波及した翡翠の波は狂乱に陥った人々の心を撫でつけ、恐怖を鎮静化させる。壁一枚隔てた危機の中、誰もが我を取り戻し大陸から失われつつある加護を想起する。
だがそれは副次的な効果に過ぎない。
波は物理的な障害に阻まれる事無く、装甲をすり抜け外へ広がる。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?」
途端、汽車に取り付いていたデュガーたちが苦悶の絶叫を散らし、次々と車体から剥がれ堕ちていく。まるで強烈な高圧電流を浴びて身体の自由を奪われたように。
実際、デュガーたちは電撃にも等しい有害物質を至近距離から浴びせられたのだ。語るまでもなくエコウが放った特殊弾がそれである。
「今のは……!?」
「世界樹の精油を基本原料に調合した被膜響歌薬だよ。御覧の通り至近距離から浴びせれば魔獣をスタンさせられる」
「そんな物があるなら……どうしてもっと早く……!」
「生憎一発限りの試作品だ。しかも材料をちょろまかして私が適当に作った試作第一号。そんなもんに頼れるかッ。そんな事より――」
乗務員の憤りを切って捨て、エコウは伝声菅に飛びつくや否や怒鳴りつける。
「車掌、聞こえているかい!? 聞こえているのなら三秒以内に答えなければカーディアーカ王国直属エクシーダー、エコウ・チェンバースの名において、大量虐殺の主犯格として異端審問にかけるよ」
「なっ……異端審問!?」
視界の隅で乗務員が青ざめるのが見えた。
異端審問とは即ち、教会の教えに背いた者に対する宗教裁判の事だ。
カーディアーカ王国の最大宗教は《ユグド教》。世界樹を信仰し、エクシーダーをその御使いと仰ぐ宗教だ。
エコウに逆らえば、そのまま国民の大多数を敵に回すも同じこと。
泡を食った車掌が伝声菅越しに怒鳴り付けてきた。
「何が望みだ賢者の末裔っ、手短にしやがれよ」
「一人死んだ。さっきの特殊弾はもうないし、効果もその場凌ぎだぞ。迎撃しようにも多勢に無勢だ」
「その前に加速しきる。もう限界まで燃料はぶち込んだ。野郎ども今のうちに尻の車両を切り離せッ」
「それじゃあ間に合わないッ。よく聞くんだ。デュガーがあの数で世界樹の枝元に侵入することはいくら何でも有り得ない。それに気付いてるだろうけど急激に気温が下がり始めている。加護殺しの悪魔が降ってくるよッ!」
「まさかっ――!?」
デュガーにこじ開けられた大穴から乗務員が空を仰ぐ。
煌々と地上に光を注ぐ照明弾がまだ数発上空に留まっている。だが気のせいか、先程よりも明度が落ちている様に見える。それどころか天を塞ぐ雲はあれほどまでに近かっただろうか。
「痛っ……!?」
背中に突き刺す様な痛みが走り、エコウが呻く。
パキパキという微細な音が背中と、足元から聞こえる。不運にもデュガーに貫かれた乗務員が作った血溜まりが急速に凍り付いていく音だ。
白く濁る息に氷の塵が混じり始め、穿たれた穴から車体に霜が降り始めた。
一度目の冬の檻は『極寒』と『魔獣』との戦いだった。
しかし此度の冬の檻において最も猛威を振るうのは、この二つのどちらでもない三つ目の脅威にあった。
世界樹の葉からのみ得られる成分から造られる薬を唯一の特効薬とする、第三にして『極寒』と『魔獣』を引き連れる最大の脅威――『疫病』だ。
病を媒介するのは寄生虫でも微生物でもなく、空から降り注いでくる。
ふっと照明弾が全て空より降り立つ黒い靄に覆い潰され、再び辺りは闇へと没する。
「黒雪だっ!!」
誰かの悲鳴を皮切りに列車がパニックに陥る。
一度吸い込めば身体の内からボロ屑のように体組織を壊死させる灰塵病。それがあの漆黒の雪がもたらす病に他ならない。
雪と称されるも実際には霧状であり、暗雲がそのまま地上に落ちてくるように広範囲に雪崩れ込んで来る。一度その降雪範囲に捉われてしまえば専用の防塵マスクか密閉空間に逃げ込む以外に助かる方法はない。
実質エコウ達が乗る列車に取れる選択肢は一つだけ。
「退避、退避だ。前方車両に逃げ込め! あそこはまだ損傷を受けていない」
「ダメだッ! 損傷した車両を今すぐ切り離せ。奴らが追ってくるぞ」
伝声菅の車掌からの命令は届かない。我先へとシェルターを兼ねた前方三車両に逃げ込んでいく。
黒雪は死そのものだ。絶対的な恐怖を理性で押さえつけられる者はそうはいない。
けれど踏み止まれない者たちが生を享受するほど、この世界は優しくはない。
「――GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」
雪原を揺り動かす咆哮。エコウが弾き落としたデュガーたちだ。歓喜に打ち震えるような雄叫びは、次には雪原を踏み鳴らす疾走となった。
魔臓を有する限り魔獣は病とは無縁。黒雪とて例外ではなく。
むしろその逆。あの黒雪は人に死を、魔獣たちに祝福をもたらす。黒雪を取り込んだ魔獣は凶暴性と身体能力が飛躍的に高まり、効能が切れない限り死ぬまで獲物に執着する。
さきとは比較にならない速度で猛追するデュガーの群れが瞬く間に列車との距離を埋めていく。車掌の言う通り、すぐにでも車両を切り離して強引にでも加速しなければ、乗客全員なぶり殺しだ。
しかし切り離し作業が出来る乗務員は皆逃げてしまった。
「車掌、グリームニルを開放する。文句は聞かないよ」
「待ちやがれ小娘――」
もう黒雪が列車に到達するまで一分とない。エコウは死んだ乗務員のライフルを掴み取り、連結部へと踵を返す。しかし何故だか脚が前に出ず、つんのめって転びかけた。
「――っ!? 血が……!」
血溜まりだ。靴底が凍結してエコウの脚を張りつかせていた。編み上げブーツのために簡単に脱げもしない。痛恨のミスだ。
直後、再び列車を激震が見舞う。左右から今度は立て続けに何度も。
車体が傾き、車輪と線路が激しく擦れ合い凄まじい火花が吹き上がる。
幸いにも脱線は免れた。
揺れた拍子にエコウは凍結の呪縛から逃れられたが、ホッとするのも束の間、悪夢のような光景に絶句した。
七体ものデュガーが前方車両に取り付いていた。内一体は炭水車に爪を喰い込ませ、蒸気機関車の生命線である水が勢いよく噴き出している。
「くっ……!」
エコウは凍傷で灼熱を発する背中をキッパリ無視し、ライフルを膝立ちに構える。薬室の弾薬に意識を注ぎ込む。
物質の性質に干渉するエクシーダーの能力。エコウはエネルギーロスを極限まで排した弾薬を即席の爆弾に仕立て上げる。
力を受け、弾薬に配合されたエーンジライト鉱石特有の緋色の光の帯が漏れ出す。
最悪、爆発で列車は横転するかも知れないが、四の五の言ってはいられない。照準もそこそこにエコウは引き金を絞る――
「げほっ、げほっ……」
途端、喉が焼けるような痛みにエコウはライフルを取りこぼし、激しく咳き込んだ。肺が内側から燃やされている様だ。苦痛に呻きながら視界が煤を被ったように真っ黒になりつつある光景に、エコウは足元が崩れたような感覚に陥る。
黒雪だ。間に合わなかった。
地上に達した黒き死の大海が汽車を飲み込んだのだ。まるで群がるデュガーの晩餐を祝うかのようだ。
食欲を促進させられたのか、デュガーたちが滅茶苦茶に爪を車両に打ち込み、今度こそご相伴に預かろうと他のデュガーたちも次々に列車に飛びつく。
エコウは咄嗟に手巾で口を塞ぐも、黒雪が孕む有害物質は塵のように細かく、布程度では除去は叶わない。意識が朦朧とし始めた中、荒々しい獣の息遣いが聞こえた。
もう薄っすらとしか利かない視界の中、ゆるゆると顔を上げると、眼前にデュガーの顔があった。
濁った黄土色の双眸が見開かれ、削岩機のように乱立する牙の群れがヌラヌラと唾液で光っている。口の端につい数分前まで奮戦していたであろう射撃手たちの、服の切れ端と肉片がこびりついていた。
ああ死ぬのか。苦痛を訴える身体と乖離して、エコウは何処かぼんやりと覆い被さる醜悪な墓穴を眺める。
死ぬなら、まあこういう最後もいいかも知れない。
走馬燈が見せるのは家族を助ける為に黒雪に飛び込んでいった父の後ろ姿と、エコウを抱き止めて凍死した母親の顔。
「クソッタレがッ!!!」
エコウが本能的に瞼を閉じた、その直後。車掌の自暴自棄に走った声と同時にけたたましい警報が駆け抜けた。
……。
……。
「…………?」
意識が途切れない。いや、黒雪を吸ったせいで死ぬほど苦しいが――つまりエコウは今だ生きている。
恐る恐る瞼を開くと今まさにエコウを噛み砕かんとする魔獣が、無数の肉片となって崩れ落ちていった。以前同僚と遊んだ高く積んだ積木を引き抜く玩具のように、あっけなく魔獣はその形を崩した。
「次からはもっと早く我々を使う事だ」
無駄な死人が出たぞ。
崩れた肉塊の向う。無造作に血糊を払う、黒雪の中でありながら尚その存在感を示す異形の人影。
大きく捻じれた山羊の頭で作られた仮面を被り、その手には武骨な長剣が一振り。
我が目を疑う。この人物は魔獣を斬り捨てたのだ。巨体を支える為に鎧のように発達した魔獣の皮膚と筋肉を、何の変哲もない剣一本で。
黒雪に曝されている事も忘れ、エコウは畏怖に打ち震え彼等の忌み名を口にする。
「仮面……憑き《グリームニル》っ!」