【17】 牢屋の中で一人
泣いて、泣いて、泣き叫んで。意識を狩られたエコウが次に目を覚ましたのは殺風景な地下牢だった。
毛布も何もない固いベッドとトイレ、鎖に繋がれたエコウ自身を除けば、牢屋には何もない。辺りを見渡してもランプの一つさえ見当たらず、一帯は濃い闇に満たされている。目を凝らせば鉄格子を隔てた向うにも牢屋が見えるも、エコウと境遇を同じくする虜囚は見当たらない。
ただひたすらに無音の闇が地下牢を支配していた。
「――……」
目を覚ましてからというものエコウは叫ぶでも喚くでもなく、身動ぎ一つせずにただ抜け殻の様に虚空に視線を投げるばかり。まるで死人の様だった。
闇を求めるのに瞼を必要としない此処では否応に無く辺境での虐殺がフラッシュバックする。
虫けらのように殺されていく辺境の民たちの悲鳴が、死に顔が、飛び散る鮮血の一滴に至るまで鮮烈にエコウの網膜に刻み込まれていた。眼の前で撃ち殺された少女の血と脳漿を浴びた顔が焼ける様に熱い。
顔の熱は怨念だと、エコウは信じて疑わなかった。無慈悲に、ただ過去を理由に命を踏み躙られた辺境の怨嗟の結晶だ。いずれ必ず惨たらしくエコウの全てを焼き尽くし、縊り殺す怨嗟の腕だ。そうでなくては困る、そうであって欲しい。
しかしそれは、彼等の死を理由に現実逃避しているに過ぎない、卑怯者の誇大妄想と何が違うというのか。
あの虐殺を傍観するしかなかった無力から来る罪の意識に耐えられず、亡者を利用しているに過ぎない。
エコウは緩慢な動作で鎖を引き摺り人差し指を噛むと、一思いに爪を噛み剥いだ。
「いっ……っぅ!」
痛みをトリガーにして死んでいた心にドッと感情の波が押し寄せてきた。
殺された。殺された殺された殺された、眼の前で多くの人達がっ!
訳が分からない。壊れた様に涙が溢れてきて、今すぐ無茶苦茶に暴れ出したかった。どうしてあんなことになったのだ。
声だけは上げまいと手を猿轡代わりに思いっきり噛んでも、堪えきれない絶叫が牢に響き渡る。手の皮膚が破け、肉に歯が喰い込もうとも名状し難い感情の嵐で全てが押し流される。
人間の顎は肉食獣のそれとは程遠く、エコウの自傷は自身の手よりも先に顎に罅が入った事で終わった。
再び力なくベッドに身を投げ出す。口と手から流れる血など気にも留めず、心に渦巻く激情に身を焼いた。心臓が張り裂けそうな程痛み、今すぐ鼓動を止めなければ狂ってしまいそうだ。
シルヴィアは語った。あの虐殺は王からの勅命であると。王が、この国がユーリたちを、辺境の民たちの皆殺しを望んだのだ。ユーリ達が待ち望んでいた《約束》を畏れて。
「オルク……」
数日前に鎖で繋がされていたグリームニルを求めて止まなかった。せめて彼だけは無事であってほしい。今すぐ彼に合いたい。
彼が故郷の惨状を知ったら一体何を思うだろう。何を成すだろうか。
戦うだろう。剣を振う対象が魔獣から人間に代わるだけだ。そうなれば王国は国家反逆の徒を粛正するという大義名分の下、彼を殺すだろう。
それは駄目だ。それだけは許されない。
王に問いたださねばならない。辺境を滅ぼした真意を。いずれ必ず同胞の消滅を知るであろう彼のためにも。例え反逆の徒と罵られ、首を刎ねられる事になろうとも。
「動け。動かなきゃ始まらないだろ」
決意を胸にエコウは改めて牢の中を見渡した。脱獄に役立ちそうなものは生憎と見当たらない。壁には窓一つなく、どうにか手の鎖を外して牢のから出る他ない。
エクシーダーの力を使おうにも鎖には能力を抑制する特殊な材質で作られているらしく、力の躍動が全く感じられない。
ならばとエコウは髪の中を探る。
普段から女の身で大陸中を旅している為にエコウは万が一を想定して身体中に色々と仕込んでいる。殆どが没収されたようだが髪の編み込みに隠した細い金属針、靴の装飾に擬装した数発の弾丸、下着の内側に仕込んでいたワイヤーはそのままだった。
「此れだけあれば簡単だね」
エコウは手枷の鍵穴に金属針を差し込んで内部構造を探ると、金属針を噛んで折り曲げて鍵穴の形に合わせる。何度か調整を繰り返すと、数分と掛らずに解錠に成功した。
腕をさすりながら今度は鉄格子に駆け寄り、同じ要領で錠前を解除してしまう。
「よし」
音を立てないよう慎重に牢から出ると、通路の先に見えた嵌め窓から明かりが漏れるドアへ向かう。
直ぐに手を掛けることはせずに一度耳を当てて向うの様子を探る。物音も人の気配も無いようである。
エコウは扉を潜ると足音を力で消して出口を求めて走り出す。
看守がいれば背後からワイヤーで拘束する覚悟をしていたが、予想に反して誰人一人見当たらない。
途中この監獄の見取り図を発見し即座に暗記。最短距離で施設を駆け抜け地上への階段に脚を掛けた時だった。
銃声が響き、足元のコンクリが小さく砕けた。
「そろそろ叩き起こしに向かおうと思っていたが、手間が省けたな」
「シルヴィア……!」
出口に立ち塞がる王国最強の戦士を、エコウは膝を震わせながらも気丈に睨み上げる。
対してシルヴィアはエコウの脱獄にさして驚いた様子も見せず、硝煙を上げる銃口をエコウに向けた。
「何処へ行くつもりだ?」
「王に問いただしに」
「建国の一族にお前如きが何の疑問を抱いている?」
「君達に下した勅命にだ。あんな虐殺が到底許されるはずがないっ」
「王はお前の許しなど必要としていない」
取り付く島もないシルヴィアに、エコウは我慢ならず声を荒立てた。
「彼等と真面に言葉を交える事もせずに、何故ただ過去を理由に一方的に危険分子と判断出来るんだ。私を含めて彼等に命を救われた人間だって大勢いる。鉱山都市で魔獣と戦うグリームニルを君だってその眼で見たんだろう!」
「それが何だ。いくら献身を示そうとも危険を孕んでいるのなら罰するは必然。それに最早王国ですらない場所を幾ら守った所で、王は見向きもせん」
「は……?」
シルヴィアの言葉が理解出来ず、エコウは一瞬思考が真っ白になった。
「何を……何を言っているんだ」
「はあ……これが俺の弟子だと思うと情けなくて仕方がない」
心底呆れたと言わんばかりに肩を落としたシルヴィアは銃を仕舞うと、代わりにエコウのコートを投げ寄越して外へと出ていく。付いてこい、という事らしい。
逡巡の後、エコウは意を決してシルヴィアの背を追う。どのみち彼女がいる限りエコウは自由に動けない。
地上に出ると驚いた事にエコウが閉じ込められていた地下牢は王都であった。
王国建国時に再び訪れるかも知れない冬の檻に備えて計画された地下都市、その廃墟を改築したものが先の地下牢だ。
大粒の雪が降りしきる中、シルヴィアが向かったのはユグド教の鐘塔であった。
塔の内側に沿う螺旋階段を登りながらエコウは街がやけに騒がしい事に気付く。エコウが知る王都の活気や喧騒ではなく、何処か切羽詰まったものを感じさせるさざめき。
「これは……っ」
やがて頂上に辿り着いたエコウが眼にしたのは、彼女の知る王都ではなかった。
王都はオリンピア山脈を背に緩やかな傾斜地に造られた都市であり、二つのエリアに分けられている。世界樹の膝元でカーディアーカ城を擁する王族、貴族階級が主に住まう一等地。エコウたちが今立っているのは、富裕層が住まう所謂城下町の二等地だ。
戦争時には国民の緊急疎開先として開かれる二等地の凱旋門に長蛇の列を形成されていた。
遠目からでも分かる。誰もが大荷物を抱え不安気に列に並び、幼い子供は親に縋り寒さに耐えている。更にその奥では駅前に雪を被った数多のテントが野営地を作っている。
避難民だ。テントは押し寄せた避難民を検閲が捌ききれず、止む終えずテントで寝泊まりしている人々だろう。焚き木の周りには多くの人々が暖を求め集まり、傍では軍の炊き出しが行われている。
そして王都へ雪崩れ込む避難民とは逆に、王都の大通りからは軍隊が隊列を組んで西の大門から今まさに出兵していく所だ。
この光景を眼にして事情を察せられない程、エコウは無知ではない。震える声で口にした。
「鉱山都市が……いや、南が堕ちた、のか?」
「そうだ。だが彼等は南からの避難民ではない。ワグナール、そしてその周辺都市に住まう民だ」
「なっ……!?」
つまり鉱山都市ならず、魔獣の軍勢は大渓谷を超えて北上しようとしているという事だ。南の玄関口であるワグナールの人々まで押し寄せているのはその為だ。
「先刻王政は正式に南方の陥落を宣言した。それと同時に黒竜の冬の到来もな。既に南は真っ黒という話だ」
「……っ!?」
「魔獣の軍勢は大渓谷を西へ大きく迂回して進行中。軍はワグナールに戦力を集中させて防衛線を展開中。最前線では小規模ながら衝突しているところもあるそうだ。あと数時間もすれば歴史上最大の戦争が幕を上げるだろうな」
淡々と語るシルヴィアの声がエコウには遠かった。
事実上、南方は消滅したと同義だ。世界樹の加護が及ばない地上で生きるには人間は脆弱過ぎる。
さらに言えば鉱山都市は王国の資源生産の柱そのもの。それが失ったという事は、この先大量の凍死者が出ることを覚悟せねばならない。食料不足は更に深刻であろう。
「……そんな。あそこに南からの避難民が加われば王都の備蓄なんてあっという間に底を尽きる。魔獣との戦線を抱えながら国を維持するなんて不可能だ」
滅亡の二文字が、エコウの脳裏に浮かび上がった。
避難民の中にも、この危機を察している者はいるだろう。
魔獣との戦争だけではなく、食料と燃料の奪い合いで内乱が勃発する危険性さえある。
――本来であれば。
「呆れたな小娘。言っただろ、既に南は王国の領土ではないと。王都に南方の民が加わることは無い」
再びシルヴィアがエコウの言葉を切り捨てる。
確かにそのような事を先も口にしていた。しかしその真意は今だエコウの理解の外だ。
「南が王国ではない? さっきから何を言っているんだ君はっ?」
「さっき自分で口にしていただろう。それとも恍けているのか。大陸中を巡ったのなら、今この王国が養える国民の数を割り出せないほど能無しではあるまい。王の御決断は懸命だ」
はじめ、シルヴィアが何を言っているのか分からなかった。
しかし直ぐに理解した。理解してしまった。
確かについ先程言ったばかりだ。南の避難民が加われば、国を維持できないと。
もっとも単純な解決策は、口減らしだ。
「そ、んなっ……そんな馬鹿なッ!?」
エコウは足元が崩れ去るような感覚に見舞われた。自分が今立っているのかすら分からない。
いやいやと、子供のように首を横に振り、現実に憑りついた最悪を認めようとしない。
それでも心とは乖離した冷静な思考が王政とお同じ試算を導き出していた。
「南の国民を切り捨てたのかっ!? そんな馬鹿な話が許されるものか! 一体何万人が犠牲になると思っているんだ。正気の沙汰ではないッ!!」
髪を振り乱してエコウは叫び散らす。辺境のみならず、王政は国の半分を皆殺しにしたのだ。
到底受け入れられる判断ではない。
「では問うが貴様にはこの危機的状況を打破する考えがあるのか? この国には国民全員を養う蓄えは愚か、遠からず北に達する黒竜の冬で大量に塵灰病の疾病者を抱える事になる。薬で救える民は更に限られる」
「……っ、しかし、こんなのはあんまりだ。救けを求める数万人の命が突然逃げ場を奪われて魔獣に殺されるか、灰塵病で朽ちて死んでいくんだぞ! 人が人を選ぶなんて、そんなの許されるはずが――」
瞬間。エコウは腹部を襲った激烈な衝撃に見舞われ吹き飛んだ。シルヴィアに蹴り飛ばされたのだと理解したのは、エコウを受け止めた転落防止柵から剥がれ落ちた後。
「王の判断が受け入れられないのなら、口減らしにまずお前が死ぬか?」
「……っ」
シルヴィアは腕一本で苦し気に咳き込むエコウを塔の外へ突き出す。今彼女が手を離せば、エコウは間違いなく地面に叩き付けられて死ぬだろう。
だが事はエコウ一人の死と引き換えに他の誰かが助かる、という図式が成り立つほど単純ではない。寧ろその逆。
「いい加減甘さは捨てろ。エクシーダーであるオレ達が唯一この苦難を打ち破れる世界樹に干渉できるのだ。灰塵病の薬然り、魔獣を退ける加護然り。お前の命は数千の民と同等と知れ」
「そんなの、出来るわけ……」
「出来るさ。既にお前の命は生まれ故郷を土台に築かれているのだからな」
「……ぅぅっ!」
一瞬、息を忘れた。
黒雪で皆々腐敗し崩れた家族の、幼馴染の、村人の妄念が足元から這い上がって来る幻覚に襲われる。
短い悲鳴が零れる。無我夢中でシルヴィアの腕に縋りつくと、煩わし気に塔の中へと投げ込まれた。
蹴られた痛みさえ忘れて、己を掻き抱いてエコウは震えた。
恐怖もそうだが、何より情けなかった。散々王の判断に否を突き付けておきながら、一度過去をなぞられただけで無様にも生に執着した事が。
エコウは知っている。黒雪を吸い込んだ人間の末路を。
全身が内側から腐敗し始め、進行が末期になると身体がボロ屑の様に崩れていくのだ。
過去エコウは灰塵病に侵された母親を全身に浴びて、死にかけていた所をシルヴィアに助けられた。
「確かに王の判断は非情かも知れないが、現実は国民全員の生存を許容していない。王は最も多くの民を救うために、大気根さえ含めて南を剪定なされた」
「……っ、じゃああの人工精油は大気根を復活させる為じゃなくて、その逆だって言うのか」
「魔獣の侵入を許した時点で、南は人間の領土には成り得ない。なら北へ加護を集中させるのは当然の帰結だ」
まさしくそれは剪定であった。
メスラム要塞で投与された人工精油は大気根を枯らすためのものであり、王政は南の領土を完全に切り捨てた。北の民を確実に生かす為に。
シルヴィアは辺境で部隊の一部を鉱山都市へ残していたと言っていた。それはつまり、カリバーンをメスラム要塞へ派兵した事と同じく確実に大気根を殺すためだったのだ。
全ては王国存続のため。
それでも解せない事が一つ。
「だったら尚更、何故辺境の民を殺す必要があったんだっ!? わざわざ君達に殲滅を命じる理由が無いだろう」
「いいや。あれらの殲滅は絶対だ。王国が南を捨てたと知れば、奴らは王家を滅ぼしに来る可能性が高かった。奴らはこの王国を、王家の存在を揺るがす秘密の全て知っているのだから。……まああと百年早ければ、結果は違ったかも知れないが」
シルヴィアはエコウの耳元に口を寄せ、明らかにする――辺境の《約束》へと繋がる王国の秘密を。
語り終えたシルヴィアはそれ以上何も言わずに鐘塔を後にした。
「――」
一人残されたエコウは動けなかった。
眼の前には故郷を失った彼女を受け入れた街と、黒雪と魔獣から住処を追われた北の民たちがあった。
《約束》はいわば理想郷の生誕であった。
しかしその実現は今や不可能に近く、遅すぎた。例え果たせたとしてもこの王国は事実上の崩壊が約束された様なものだった。
百年。あと百年早ければ、この大陸が再び冬の檻に閉ざされる前であれば、こんな事態は免れた。
「ちくしょう……こんなの、あんまりだ……」
伏したエコウは悔しさに涙し、床を掻きむしった。
かつて辺境の民は王国に反旗を翻し、現在に至る迫害に至った。
違う。彼等以上にこの国の未来を、民を憂いた人達などいない。こんな時代を迎えない為に彼等は孤独な戦いを起こし、破れたのだ。
「ちくしょう! ちくしょう、ちくしょうちくしょうっ!! ごめん、ごめんユーリ。あの時、ボクたちも死ぬべきだった。すまない、オルクっ、ボクたちは大罪人だ……!」
どれだけ懺悔しようとも届きはしないだろう。
やはり辺境の民たちが殺される理由などなかった。
王都に聳える世界樹。大陸に枝葉を伸ばし人々に安寧を齎し、信仰を集めるあの樹はしかして賢者が目指したものではなかった。
――世界樹は不完全だったのだ。
蜷局を巻く黒竜の冬はもうすぐそこだ。