【16】 剪定された南
――そして地獄の窯はあっさりと開かれた。
魔獣の大規模侵攻の知らせを受け、鉱山都市は狂乱に陥っていた。
緊急避難便を求め駅に押し寄せた人々で混乱を極め、最終便に間に合わなかった人々は避難所や採掘場、或いは大塹壕の地下街へと避難していった。誰もが世界樹に祈りを捧げ、限りある水と食料、燃料を抱きかかえ魔獣の足音に怯えた。
カーディアーカ軍南坊支部は直ちに大規模迎撃態勢が取られ、城壁には固定砲台と対空砲、地上にはありったけの地雷を敷き詰め、歩兵部隊と共に戦車が立ち並んだ。
開戦はメスラム要塞陥落の知らせから、約八時間後。
レナートが予想した通り鉱山都市はその堅牢な護りを遺憾なく発揮し、オルクが辺境から駆け付けた頃には魔獣の第一波は損害を最小限に抑えてほぼ駆逐されていた。
しかし数時間後に第二波、巨獣擁する本隊との衝突を迎え、劣勢を強いられる事となった。
偵察隊の報告から魔獣たちは当初街の南西方向から進軍すると予想され、実際に第一波でその予想は的中し、本体にも目立った動きは無かった。
しかしカリバーン、そしてメスラム要塞を落した巨獣擁する別動隊が守りの薄い東方面を強襲したことで、鉱山都市の護りが揺らいだ。いち早く別動隊の動きを察知していたオルクと一部の兵士たちの奮戦によって押し返す事に成功したものの、巨獣によって城壁に文字通り風穴を開けられてしまった。
大塹壕を乗り越えられる魔獣は少ないもの、街への侵入を許したことで防衛線が一部崩壊。
それでもオルクが一時的にではあるが巨獣を抑えたことで、鉱山都市はその地の利を活かして驚異的な奮戦を見せた。内部に侵入した魔獣が黒化個体であっても、大気根の間近では流石に動きは鈍った。一体ずつ的確に取り囲み、街へ侵入した個体をほぼ殲滅しかけた頃。
それは突如として鉱山都市を襲った。
最初は強烈なブリザードだった。叩き付けるような降雪と強風で降り積もった雪が舞い上がり視界がホワイトアウト。隣の人間すら真面に輪郭を捉えられず、身動きを封じられた。
魔獣さえも一時動きを止めたブリザードの中、更なる気温の急低下と共に、世界が急速に黒く塗り潰されていった。
オルク達は知る由もない。彼等を襲った暗黒の正体が、都市そのものを優に飲み込む黒雪の大雲海であることなど。
――黒竜の冬。
その昔、一度目の冬の檻に大陸を投獄した伝説に等しき大寒波。数多の生物を、国を極寒で凍て殺した竜の息吹が黒く染まっていた。
まるで命の駆除のようであった。ほんのひと時、悲鳴と苦悶がドッと上がった後には入れ替わる様に魔獣の咆哮のみが木霊した。
黒雪用の防護マスクを常備しているのはカリバーンのような特殊部隊のみであり、あっても限られた数が精々。
グリームニルであるオルクでさえ肺に燃えるような激痛が奔るほどの高濃度の黒雪。司令部や補給所といった屋内にいた例外を除いて、南方支部は一瞬にして全滅した。
黒雪は局所的かつ一時的な降雪というのが、観測初期からの通例であった。村一つが消滅した例が過去に幾つかあるものの、降雪範囲と時間に大きな差は認められていなかった。
少なくとも、この日までは。
この天変地異に人間が抗う術は一つとしてない。街へ雪崩れ込んだ魔獣の足音に怯え、ただ祈ることしか許されない。
何とか地下街に逃げ込んだオルクもまた都市を揺るがす地響きにただ耐えるしかなかった。
シェルターや地下街の人々であっても、待ち受ける運命はやはり死だ。どれだけ地下深くに籠ろうとも、黒雪は僅かな空気の流れに乗って漂う。そうでなくとも黒竜の冬がもたらす極寒地獄に凍て殺されるか、或いは魔獣に食い殺されるか。
鉱山都市の人々の生存は絶望的であった。
諦める者、嘆きに命を絶つ者、残した家族へ手紙をしたためる者――戦う者。
「手を貸せグリームニル。まだ軍のスキーシップが何隻かあるはずだ。逃がせるだけ国民を逃がすっ。鉱山都市の最後の意地を見せてやる」
用無しとなる灰塵病の配給薬をオルクへ押し付けた、軍の生き残りと炭坑の偉丈夫たちは命ある限り足掻いた。
黒雪が収まったひと時を見計らい、地下街から文字通り血路を切り開く。軍が秘密裏に地下街に作っていた武器庫からありったけの銃器を持ち出し、採掘用のダイナマイトや酒瓶で作った即席の火炎瓶まで振り翳し、死に物狂いで魔獣たちへと立ち向かった。
再び黒雪の津波が都市を覆い隠す間際に、二梃のスキーシップが生存者を抱えて脱出した。
それでも状況は予断を許さない。
スキーシップまで辿りつく道中で多くの生存者が舞い上がった黒雪を少なからず吸い込んでしまっていた。重傷者に優先的に薬を投与しても、オルクが譲り受けた薬だけでは到底足りない人数。
しかし南方第一都市メイナードに辿り着けばある程度の量が期待出来る。誰もがお互いを励まし合い、苦痛に耐えた。東を黒く塗りつぶす黒雲から逃げ続け、ようやくたどり着いたメイナードで一行を待ち受けていたのは――行き止りであった。
街の様子がおかしかった。魔獣の襲撃を受けた様子は見られないが、あちこちで火の手が上がり、物々しい騒音が響いている。
「……よう。あの時のグリームニルじゃないか。また仕事でも探しに来たか? そら、こんな紙屑でよけりゃ持ってけばいい」
乾いた笑みで顔を引き攣らせたメイナード領主、貴族バルク・モントリオールがオルクたちを出迎えた。数日前のオルクの蛮行を糾弾する事もなく、虚ろな眼で酒をかッ喰らっている。
このプライドだけは一人前の貴族が未だ南に留まっている理由がオルクには検討が付かなかった。メスラム要塞陥落の報が渡った日には、貴族の特権を振り翳しとっくに北へと逃げ遂せていると踏んでいた。
そのバルクが治める街では暴動が起こっていた。暴徒と化した民衆が主に鉄道会社と政府施設に雪崩れ込み、引き摺り出された職員が袋叩きにされている。一体何に怒り狂っているのか、いやそもそも何故彼等は暴動など起こしているのか。魔獣の侵攻が本格化した今、メイナードとて安全ではない事など百も承知のはず。
脱出の命綱である蒸気機関車を失うような真似を起こす理由が無い。
「この街は……南はお終いだ。王政は国の剪定をする気なのだ。じきに此処も……鉱山都市と同じ様に滅びる定めだ」
虚ろな眼でバルクはぼそぼそとオルクに語った。
一艇。それがメイナードから北へ脱出した、最初で最後のスキーシップの数だという。
オルクたちがメイナードを後にした翌日に、王政からの勅令でバルクは南北を繋ぐ路線の運用を禁じていたのだ。
魔獣の進入路の調査であると、ヴァルキュリアと名高いエクシーダーから王政の書状を渡された為に当時のバルクは特別疑うことは無かった。
何故かこの勅令は関係者以外他言無用と念を押されるも、法外な謝礼にバルクは眼が眩んでしまった。思い返せばそれが罠だった。
鉱山都市から避難民が押し寄せて尚、その命令は解除される事はなく。
半日前、ヴァルキュリアが率いる特殊部隊は帰還から間を置かずに北へと去って行ったという。その直後、汽車の格納庫が突如として爆発し、蒸気機関車の殆どが運行不可能に陥った。それが何を意味するか、分からぬほど民は愚かではない。
嫌な予感がした。
脱出が急がれた。メイナードにも薬の備蓄は十分ではなく、最早一刻の猶予もない。
スキーシップ用の燃料も一艇分が精々であり、無理矢理乗り込もうとする民衆を押さえ込んで、重篤者を乗せたスキーシップは北へと奔った。助けを求める声を振り切る様に、許される限りの最大速度をもって。
――そして、道は途絶えた。
「此れが、此れがお前たち王国の答えかッ。此れが人の所業かッ! 此れが世界樹に庇護される人間の所業かッ!!」
怒りは底なしの大渓谷へと吞まれていく。
オリンピア山脈と同じく大陸を南北に分断する大渓谷。大地の巨大な亀裂を繋いでいた鉄橋が、半ばから失われていた。
微かに残る火薬の匂いが雄弁に物語る。
黒竜の冬を前にした王国は大陸の南を切り捨てたと。