【14】 忘れられた奇跡の土地
辺境。
大陸を南北に分断するオリンピア山脈、その南側の極東を王国民たちはそう呼ぶ。
王国に迎合せず、かつては史上最大の反乱を引き起こし、王政とユグド教が固く禁じてきた魔獣の肉を食す異教の民たちが住む地。
差別と迫害の果てに一族が世界樹の枝さえ届かぬ未開拓領域へ姿を消して以降、グリームニルと揶揄される戦士を除けば、彼の一族が表舞台にたった記録は一度としてない。無論、辺境に脚を踏み入れたカーディアーカ人も皆無である。
つまりエコウ達は何十年間の時を経て、再び彼等とまみえた稀有な人間という事になる。
逆に言えば、それは辺境の民も同じこと。
「避けられているな……いや当然か」
「彼等からすれば私達は魔獣が闊歩する魔境に追い遣った国の人間だ。特に君達軍の源流たる騎士団は彼等とのハーフさえ締め出したらしいじゃないか。今だってオルクたちが街へ出るだけでも嫌な顔をされるんだ。歓迎されないのは当たり前だろう」
「憎んでいるわけではありませんよ。ただ皆怖いんだと思います。我々は外の世界をあまり知りませんから」
食事を振る舞ってくれるというユーリに付いていく道すがら、物陰からの視線に気付いたレナートにエコウが歴史を持ち出して仕方ないと首を振る。ユーリがフォローを入れたが、それも本質は何も変わらない。実態を知らないのであれば歴史から学ぶのは必然。印象としては両者の認識には左程違いは無い、というのがエコウたちの所感だ。
「俺たちを介抱してくれていた人たちもいつの間にか何処かへ消えてしまいましたしね」
「辺境の奴らは皆グリームニルみたいに仮面を被ってる、もしくは俺達には素顔を曝せない風習があると思ってたけど、違うみたいだな」
「にしても女子供ばかりだ。男手が殆ど……というか全然見当たらない」
隊員たちの会話を受けエコウは改めて視線だけを動かして観察すれば、確かに男性の姿は一人として見えない。オルクや他のグリームニルたちは間違いなく男性故に、女性系譜の一族というわけでもなさそうだ。
ただ気掛かりなのがユーリを含めて辺境の民は平均年齢がかなり低い。あくまでエコウが眼にした範囲での話ではあるが、成人年齢を迎えている者が極端に少ない印象だ。
単に大人たちは出稼ぎに出ている、という話では済みそうにない。
「ユーリ君といったか。改めて助けて頂いた感謝をしたいのだが、村長のような方と面会をお願いすることは可能だろうか?」
「……まずはお食事に致しましょう。皆さんお腹が空いているでしょう? お口に合うかは分かりませんがご用意致しましたので」
「あ、いや。んん……ではお言葉に甘えてご相伴に預かろう」
「レナートッ……」
レナートが微妙に言い澱んだのは辺境の民の食文化を思い起こしたからだろう。肘で彼を嗜めたエコウも本心では気後れしている。
案内されたのは礼拝堂にも似た広間であった。エコウ達が寝かされていた泉と同じく、洞窟内を照らす無謬の光は同じであるが、広間は更に明るい。
広間のあちこちに生える六角柱状の結晶が金色の光を放っているのだ。ユーリが大テーブルの傍にある結晶の一つに、窪みに溜まっていたワインのような赤い液体をかけると、結晶は更に発光を強めた。
「どうぞこちらに。いまお食事が運ばれてきますので」
「いや、それより此れはどういう原理なんだい? 発光する結晶なんて見たことが無い」
「結晶はリオン鉱石、その主成分が結晶となったものですよ。鉱山都市でも利用されていると兄から聞かされましたが、違いましたが?」
「確かに都市でも光源には使われているが、こんな風に光ることはない。それに火も出ていないのに随分温かいな」
この広間のみならず、洞窟内はかなり温かい。半袖とまではいかないが、コートが無くとも快適に過ごせるほどに。
鉱山都市の地下街でリオン鉱石は使用されているが、こうまで温かくは無かったはずだ。
「さっきの赤い液体は?」
「エーンジライト鉱石の成分が溶け込んだものらしいです。そのままでは飲み水には適しませんけれどリオン結晶で中和したものでしたら問題ありません……あの、カーディアーカの皆さんはご存じでないのですか?」
「いやいや初耳だよ」
食い気よりも興味が勝ったエコウと同じく、王都で裕福な暮らしをしてきたレナートも目を丸くする。他の隊員も同様だ。
リオン鉱石は忘れられた資源と呼ばれ、主要燃料の地位をエーンジライト鉱石に奪われて久しい。誰もこの二つの鉱石の調和など考えもしなかっただろう。
「実は皆さんが先程まで入られていた温泉も地下鉱脈のリオンとエーンジライトが溶け合ったものなのですよ」
「そうか! だから此処はこんなにも温かいのか。天蓋の光も同じ理屈かな」
「天蓋に見える光は自生する苔ですよ。先程の二つの鉱石の成分を体内で合成し、光合成に必要な光を生んでいるんです。ああでも間違ってもご自身の身体で試されては駄目ですよ? 分量次第では巨獣を内部から木端微塵に出来る反応でもありますから」
ぶーっと冒険心逞しい若い隊員が水と結晶の欠片を盛大に噴き出した。
ユーリの警告は以前オルクも述べていたものだ。エコウのエクシーダーとしての感覚も高性能な爆薬に匹敵するエネルギー量を秘めていると言っている。扱い方では間違いなく巨獣を仕留めるに足りる威力を発揮するだろう。
程なくして食事が運ばれてきた。
此処でもエコウ達は驚きを隠せなかった。洞窟暮らしである為に辺境の民はかなり質素な食事を要されていると勘くぐっていたからだ。
しかしテーブルに並べられたのは少量ながらどれも食指をそそるものばかりだ。野菜の角が取れるまでじっくり煮込まれたシチュー。保存用ではあろうがふっくらと蒸されたパンは香ばしく、各々の小皿には小さな果実まである。
王都でも此処までしっかりとした食事がとれるかどうか。特に酪農がほぼ全滅しているこの時代において、動物の乳をふんだんに使ったシチューなど滅多にお目にかかれるものではない。
誰ともなく腹の虫が鳴る。しかし、その手はテーブルの下から動かない。
――魔獣の肉を口にしてはならない。その戒律が皆の頭から離れない。それらしいモノは省かれているが、辺境の食事というだけに躊躇いは隠せない。エコウやレナートの動揺は少ないものの、やはり手は遠く。
やはり難しいかと物悲し気にユーリが口を開きかけた時、意を決した隊員の一人が木製のスプーンを手に取った。
「いただきますっ」
勢いよくシチューに突っ込んだスプーンを口へ運ぶと、ビクンッ、と身体を強張らせた。
ユーリを含め心配そうに皆が見守る中、隊員はゆっくりと嚥下する。何も言わず、顔を伏せた彼が最初に口にしたのは小さな嗚咽だった。
「あ、あのやはり……」
「うまい」
「……えっ?」
独白は小さく。しかし次にはユーリの眼の前でその隊員は泣きながらシチューを掻き込んだ。
「こんな、こんな美味い飯は生まれて初めてだっ」
がつがつと嗚咽で喉を詰まらせながらも必死にスプーンを動かす。
彼の涙を皮切りにテーブルの下で固まっていた他の手も器へと伸びていく。
「うめぇ……うめぇよ!」
「初めて生きてるって実感できたぜ」
「ちくしょう……死んだ奴らにも食わしてやりてえ。ちくしょう……!」
皆一心不乱に手を動かした。
二度に渡る巨獣の奇襲と雪中行軍で此処に生きて辿り着いたカリバーンはレナートを含め、十分の一以下の僅か五名にまで数を減らしていた。全滅こそ免れたが失ったものはあまりにも大きい。
顔や口にこそ出さなかったが、皆心身ともに限界まで張り詰めていたのだ。自分達だけが生き残ってしまったと、内心では己を責めている者もいたことだろう。
その緊張が一気に崩れ、涙となって溢れていた。隊員の中にはユーリの手を握り、涙ながらに感謝を告げる者もいる程だった。
「ああこれは本当に美味しい」
「躊躇っていたのが馬鹿みたいだ」
レナートとエコウもシチューを味わい、口元に笑みを浮かべる。雫でテーブルを濡らすことこそなかったが、双眸と声にはやはり湿り気があった。
生きている。改めてエコウ達はその実感を強めていた。
食事を終えると隊員たちは子供の様にその場で眠りこけてしまった。軍人としてあるまじき気のゆるみではあるが、今だけはレナートも彼等を咎めない。
代わりにレナートは居住まいを正すと、ユーリへ向けて深々と頭を下げた。
「何から何まで感謝しかない。改めて御礼を申し上げるユーリ殿」
「いえ。皆さん大変な眼に遭われたのでしょうし、これぐらいは……」
「いいえ。貴女方の献身が無ければ私達はいま此処にはおりません。今は何も返せるものがありませんが、この御恩はいずれ必ず然るべき形でお返し致します」
「そ、そんな……頭を上げてくださいっ」
「いやいや。受け取って起きたまえよユーリ。レナートは一応名家出身の御坊ちゃまだ。その彼を助けたんだ、恩は着せるだけ着せまくった方がお得だぜ? 勿論、私個人からも御礼は惜しまないさ」
かしこまるレナートとは対照的にエコウは早くも敬称を省きフランクである。軽く睨むレナートの視線もどこ吹く風だ。当のユーリといえばどう反応すればいいのか見当がつかない様子で、俯きがちに視線を泳がせている。
エコウとしては兄とは異なり反応が素直で大変好ましい。
「ところで少し気になってたんだけど、私たちはどうやって助かったんだい? 憶えている限り、私が気を失った頃はまだ村があるっていう山脈の麓には遠かった気がするけど」
「それは私も気になっていた所だ。例え兄君でも六人を運ぶことは不可能だったはずだ。それとも村には存外に近かったのか?」
「いえ。兄が最初に村へ運んで来たのはエコウ様のみです」
「様は無しでいこう」
「……最初に運ばれたのは……エコウ……さん、のみです」
まあいいかと、エコウは妥協する。
「その頃には私たちは全員完全に気を失っていたな。どういう風に対処したのだろう」
「…………その、お聞きになられますか?」
「今後の参考のためにも差し支えなければ是非お願いしたい」
今までの献身的な姿勢とは打って変わり、ユーリは何故だかこの質問には消極的だ。
レナートも無理強いをするつもりは無いが軍人として、あの危機的状況の打開方法は耳に入れておきたいものだ。
人間の体温は三十六度前後に保たれているが、深部温度が三十℃を下回れば意識障害を引き起こし、身体は震えすら起きない。更に低体温症が進行すれば昏睡、仮死、となり余程の奇跡が起きない限りそのまま死を迎える。
しかしレナートたちには末端の凍傷は見られるものの、こうして存命している。記憶を幾ら振り返っても助かる見込みはほぼないだけに、オルクの処置は極めて有効に働いたのだ。
強く教えを乞うレナートにエコウも加わり、観念したようにユーリは渋々と頷いた。
「最初にお断りしておきますが、これは私の推測です。ただ皆さんが全身血塗れで運ばれてきた事から、まず間違いはないかと」
「血塗れ? 私たちが?」
首を傾げるエコウにユーリは頷く。
確かに多少なりとも怪我はしていたが血塗れというほどではなかった筈だ。
「巨獣との戦いの後、皆さんは魔獣に追われていたでしょう?」
「暫くは追跡を受け続けた。部隊は満足に動けなかったので、殆どが兄君の手で葬られたが」
「兄はそうした魔獣の体内に皆さんを押し込めて、皆さん風雪から守ったのだと思います」
「なるほど………………は?」
――うん!!?
聞き間違いだろうかと、理解を拒むような声を上げるエコウとレナートにユーリは申し訳なさそうに捕捉を入れる。
「正確には《半殺しにした魔獣に皆さんを詰め込んだ》のでしょう。魔獣は魔臓さえ無事なら心臓が潰れても生き永らえますし、平均体温も人間よりずっと高いそうです。その……以前森で迷子になった私を父が同じ方法で救けてくれたので間違いないかと」
実体験者の捕捉付きである。
つまりエコウ達は魔獣の腸に詰め込まれ低体温症から逃れたのだ。卓越した狩猟技術があって初めて成せる荒業。全く参考にならない。
自分がデュガーの体内に詰め込まれる光景を想像し、エコウは危うく吐きそうになった。ユーリが気まずそうにするはずである。
気絶していた分、エコウ達はまだ幸せだっただろう。生きるためとはいえ父に生きた魔獣の腹にぶち込まれる幼いユーリの何と不憫なことか。彼女にとっては間違いなくトラウマだっただろう。
「ええとっ、あ! そうだこの洞窟。此処は一体どうやって作られたんだい? とても人の手によるものとは思えないけど」
慌てて話題を逸らしたエコウはこの不可思議な洞窟に触れる。辺境の民が暮らすのは場所によっては巨獣さえ通れるほどの巨大空間だ。カーディアーカは活火山が殆どない為、マグマ通りの跡、というわけでもなさそうだ。
「此処は……いえ、実際にアレを見てもらった方が早いかも知れません。着いてきてください」
おもむろに立ち上がったユーリは別の場所へと二人を案内する。その道すがら洞窟の成り立ちを簡単に説明する。
「エコウさんのおっしゃった通り一族が広げた通路や部屋を除いて大部分が自然に出来たものではありません。空になった此処を私たちが利用しているだけです」
含みのあるユーリの説明にエコウは首を傾げる。
人工物でもなく自然に出来たものではない、という事は何かしらの生物の住処だった、と考えるのが自然だろう。しかし彼女の口振りからする巨獣や魔獣とは違う印象だ。
そもそも辺境の民が今日までどうやって存続してきたのかという疑問もある。如何に卓越した狩猟技術を有しているとしても、魔獣の脅威が常にある場所で生きていけるとは到底考えられない。どれだけ巨大な洞窟に身を潜めようともだ。
少なくともこの地にユーリの祖先らが迫害されてから、三百年以上は経過しているのだ。不可解といえば不可解だろう。
何か狩猟とは別に彼等を魔獣から守っていた、それこそ世界樹のような存在があるはずだとエコウは推察した。
この道の先だと、一際巨大な道を進んだ先の開けた空間に出た瞬間、エコウ達は今日何度目とも知れぬ驚愕に眼を見開いた。
――骨だ。巨獣の倍以上もある超巨大生物の骨がそこに屹立していた。
死して尚、四肢で地を踏みつける不動の姿は龍のそれと酷似していた。長大な体躯を支える強靭な四肢は巌の様であり、折り畳まれた二対四枚の翼は羽ばたき一つで魔獣さえ殺すだろう。大剣のような牙を持つ咢は砕けぬものは無かったに違いない。
その生物の暗き眼窩を直視しただけでエコウは畏怖で膝が震え、レナートは呼吸を忘れ滂沱の汗を流した。
説明されなくとも分かる。この生物が辺境の民を匿う洞窟の元主なのだろう。生物であれば例え死んでいようともこの場所を畏れ、近づく事さえないと確信できる。
「神獣マルコシアス。それがこのご神体の名です」
「なっ、賢者の伝説に語られるあの魔獣の王っ……!?」
「確かに逸話に違わぬ異様だね……震えが止まらないよ」
ユーリから明かされた巨大な骸骨の正体に、レナートは耳を疑い、エコウは己が身を掻き抱いた。
マルコシアス。
賢者と世界樹の逸話、その最後に賢者と彼に従う騎士団が最後に戦った最強の魔獣。伝承では大陸中央のマルコシアスの寝床で世界樹は育ったとされている。ただ他の魔獣や巨獣と違い、マルコシアスだけには《討ち倒された》や《大陸の果てへと退いた》といった明確な記述が一切なく、存在すら疑問視されていた魔獣だ。
お伽噺の脚色や冬の檻の象徴といった説が有力であったが、今日この時をもって否定された。
「事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだよ。巨大な温泉、神秘の洞窟、最後に魔獣の王とは、やっぱりボクら死んでいるんじゃないのかい?」
「まさかとは思うが……此れは君達の一族が?」
「いいえ。このマルコシアスは何代も前に息絶えた個体ですよ。この地はかつてこのマルコシアスの縄張りであり、巨獣や魔獣の侵入を防いでいた守護神でした。私たちがこうして血を繋いでこれたのは彼の眼にさえ止まらなかった矮小な存在だったからでしょうね」
オルクたちグリームニルの武具はこのマルコシアスの骨を材料に鍛造されたものだとユーリは付け加える。確かに骨であっても通常であれば朽ちていてもおかしくないにも関わらず、こうして現存しているに、最高硬度の素材である事に疑いの余地はない。魔獣の王の威光を宿しているのならこれ以上ない武具だろう。
「古くから我々の村ではマルコシアスは力と勇猛の象徴でした。男児はマルコシアスの卵を持ち帰って初めて成人として認められる《しきたり》さえあるほどに」
「大陸の果てへ遠征に行くのか。確かにそれは厳しいな」
「? いえ、今も昔も神獣はオリンピア山脈を住処にしていますよ」
「なんだってっ!?」
「標高四千メートル以上の場所にこうして穴蔵を構え、数十年に一度繁殖するそうです。先程卵を持ち帰るしきたりがあると言いましたが、厳密には孵った卵の殻ですね。御神体の足元に供えられているでしょう? 勇気を示すとともに、子孫繁栄をささやかながらお伝えしているのです」
エコウが恐る恐る近づいてみると、石造りの祭壇の上に確かに卵の殻のようなものが供えられている。ざっと観察しただけでも旧いものからごく最近の殻も散見される。
きわめつきは殻に張り付いていた葉っぱの一部だろう。葉脈が独特な紋様を描くその葉は間違いなく世界樹の葉だ。
ユーリの話は冗談でも何でもなく、本当に魔獣の王はこの地に留まり続けてきたのだ。世界樹が立つ王都は北方のオリンピア山脈の直ぐ麓だ。伝承ともそう矛盾しない。
加えて言えばオリンピア山脈は世界樹に次ぐ大陸最高峰の山脈。単純に人間の登頂能力が及ばないという理由もあるが、空は世界樹の神域とされてきたため、一定高度以上の登頂を禁止されてきた歴史的背景もある。
エコウは愚か王国がマルコシアスの存在を認知出来なかった理由の一端がこれだろう。
「魔獣の王……いや神獣か。これほどの生物が王国の懐に住み続けていながら、誰にも知られていなかったとは。神獣の機嫌次第で王国は一夜にして滅びていた未来もあったわけだ。国を守る軍人としては戦慄を禁じ得ない」
「生きたマルコシアスを見たものは我々の村でもほんの一握りなんです。特にこの時代では更に神獣は姿を見せません。私が生まれる直前に、父と長兄が大陸の果てへ飛んでいくのを見た、というのが最後の目撃例ですし」
「オルクが?」
「いいえ。オルクは次男です。父と長兄は十年前に戦死しました」
ユーリの身の上話しに二人は息を呑んだ。
つい先日、メスラム要塞でアインズ中将から聞かされた悲劇。十年前の当時、末子の世界樹の大気根を護る魔獣との戦いの最中、二人のグリームニルが当時の中将らによって暗殺された。
結果として防衛網に致命的な穴が空き、大気根は死滅。軍上層部は全責任を亡きグリームニルへと転嫁し、虚妄は事実として大陸へと伝播していった。
死後さえ辱められたその二人がユーリの実の父と兄であった。
アインズがそうした様にユーリに真相を話すべきかレナートは深く悩んだ。彼女には知る権利があり、ぞれ以前にもレナートたちを護る為に仲間が犠牲となっている。ならば真実を黙している事は余りにも礼を欠いているのではないか。
エコウとレナートは一つ頷くと、慎重に言葉を選んで切り出す。
「ユーリ君。実は……」
「――我々からも一つ聞いても宜しいでしょうか?」
レナートの言葉を遮ってユーリは一歩下がった。ユーリは更に一歩二歩とエコウたちから十メートルほど距離を取る。まるでカーディアーカと辺境の本来の隔たりを示すかのように。
ユーリは背を向けたまま了承を待たずに心の内を吐露した。
「正直な話。兄が貴女達を連れてきた時、私を含め村の皆は猛反対しました。『助ける義理などない。何故捨てて来なかった』……と」
「……っ」
当然といえば当然だ。古き時代から差別と迫害を推奨してきたカーディアーカ人の命を救う理由などこの村には無い。寧ろ今までの待遇が可笑しいほどだった。
「なら、何故私たちを救けてくれたんだ? 身体を温めて、服を洗って、食事までご馳走してくれた理由はなんだい?」
エコウは声を張りユーリだけでなく、いつの間にか広間のあちこちから注がれる視線へと問い掛ける。姿は見えなくとも、この村の全てがエコウとレナートを計っている。
ユーリは直ぐには応えず、御神体と呼ぶマルコシアスの全身骨格を見上げる。無意識に慈しむようにお腹を撫でていたその細い腕は微かに震えていた。
「兄は……オルクは、『亡者の想いを汲み取るのは此れが最後』……そう言っていました。遠い昔に――賢者と交わされた約束の履行が果たされるか否か。貴方たちを通して見極める時が今だと」
オルクも度々口にしていた事だ。彼等は賢者と交わした《約束》の為に、この地に留まり続けてきたという。
「祖先も亡き父も兄も、戦士たちも皆《約束》が果たされる事を信じて、今日まで闘い命を掛けてきました。今の貴女方には理解出来ない事かも知れませんが、我々は代々賢者との約束の為、この地を護ってきました。全てはこの大陸の輝かしい未来の為。もう一度人が外を裸足で駆け回る日を迎える為です。ですがその約束も数多の魔獣に踏み均され、竜の息吹によって白紙になろうとしています」
「……っ」
魔獣との戦争に敗れれば王国の生存圏は大幅に縮小され、来る竜の冬で南側は壊滅的な被害を受けることとなるだろう。それは辺境とて例外ではなく、今まで以上に厳しい生活を余儀なくされる。
願い半ばに散った亡き想い達に背く事になろうとも、ユーリたちは大陸を捨てる選択肢さえ迫られる。
レナートは此処に集った視線の全てを意識してユーリの背に問いかける。
「その《約束》を此処で教えて貰うことは叶わないのか?」
「出来ません」
「それは何故?」
「貴方がカーディアーカの軍人であるからです。ミュンヘンベルクさん」
「軍もまた王国の未来のために命を賭している。確かに今回は君の兄君達に寄りかかる結果になってしまったが、王国と国民の為にいつだって武器を取ってきた! 私の祖先にも諸外国との戦争で戦死した者も多い。それでは足りないとっ?」
「そうではないのです。そういう事では……」
「ならエコウはっ? 彼女はエクシーダー、賢者の末裔だ」
賢者との約束を履行するならば、エコウにはその内容を知る義務があるのではないか。
縋る思いでレナートはエコウを推挙し、彼女も一歩前へ出る。
「自分でも言うのも何だけど、私には確かに伝承にある賢者と同じ力がある。信じられないのなら今此処で力を見せてもいい」
何も言わずユーリは首を横に振る。
背を向けられているためエコウ達にはその表情は伺えない。
ただ少なからずユーリの優しさに触れてきたエコウ達はユーリが言わないのではなく、言いたくても言えないのだという事は察していた。それもまた彼女の優しさゆえだろう。
エコウたちの介抱であってもそうだ。適当に処置するフリだけして、見捨てる選択肢だって当然あったはずだ。
この問答であってもそう。賢者との約束を明かすことは簡単だ。しかし核心には触れず敢えてぼかしているのは、恐らく《約束》を知ればエコウ達の身に危険が迫る事を危惧しているため。
――あるいは過去に《約束》を巡り悲劇が起こった末の現在なのか。
「お二人にお聴き致します」
ユーリが振り返る。エコウとレナートを映す空色の双眸が二人を見定める。
「未来と明日を阻む暗雲が人々を脅かした時、既にある《安寧の箱庭》か、数多の屍を築いた先にあるかも知れない《理想郷》。どちらを選びますか?」
それは此れより訪れる苦難への暗示であり、予言であった。滅亡と繁栄の帰路に立ったその時、どちらの道を選び取り、何を切り捨てるか。
エコウとレナートは知る由もない。この時既に運命の歯車は抗い難い速度で回り始め、未来の分水嶺はもう間もなくまで迫っている事を。
そして二人がそれを知る頃には致命的な過ちに引き摺り込まれている事も。
「分からない……分からないよユーリ。あまりにも漠然とし過ぎだ。もう少し話してくれてもいいんじゃないか?」
ユーリたちにも事情がある事は理解出来るも、エコウにはその真意を見出せない。バラバラに引き裂かれた暗号文を手渡されたような気分でさえある。
あの泉で目を覚ましてから、ぼんやりとした予感はある。それを結像する為の鍵がユーリの問い掛けであり《約束》である確信もある。だが答えを導くための材料がエコウには無い。
それはエコウが王政や軍へ抱いていた不信感にも通じるものだった。
故に確信する。辺境の民が賢者と交わした約束とは、王国が隠している何かである事を。そして間違いなくそれは王政にとって不都合なことなのだ。エコウを異常事態の最前線である南方へ向かわせたくなかった理由も、オルクたちとの接触でその何かが露見することを恐れてのことだろう。
或いはエコウがエクシーダーの力で辿り着く事を防ぐためか。
近い未来では駄目だ。今道を選び取らなければ手遅れになる。
何の根拠もないが身体の内から這い出る焦燥がエコウを「今しかない」と駆り立てていた。
「ユーリ。まだ出会って半日も経っていないけど、私は君のこと好きだぜ」
「……っ!? 突然何を」
ゆっくりとエコウは腕を広げてユーリに近づく。
唐突であまりにも飾らないエコウの言葉にユーリは赤面し、レナートは噴き出す。しかしエコウは至極真面目だ。
「ちょっと特殊だったけど、女同士が裸の付き合いをしたんだ。私としては人種とか歴史とか、そういう蟠りは水に流して真っ新な関係で君達と接したい。勿論、信じられないっていうなら何度だって脱いであげるぜ?」
ローブの前ボタンを外し、胸元まではだけ始めるエコウにどう対処していいか分からずユーリはたじろぐ。
そうこうしている内にあと一歩まで迫った所でエコウは脚を止める。物理的な距離はたった一歩であるが、そこには永遠に等しき隔たりが横たわっている。踏み間違えれば永遠に戻れない奈落。
だからこそエコウはエクシーダーやカーディアーカ人ではなく、ただ一人の人間として言葉と心を偽らずにユーリと対面する。
「もう一度言うよユーリ。私は君が好きだ。もっと君達を知りたいし、君のお兄さん、オルクとも今後とも仲良くしたいと思っている。まだLOVEじゃなくてLIKEの好きだけど、彼のことも心底気に入っているんだ。それにほら、もしかしたら近い将来私は君の義理の御姉さんになるかもだ」
「お、御姉さんって……エクシーダーとグリームニルがっ……!?」
「不満かい? 私は割とまんざらでも無いけれど。君のような可愛い妹って憧れだったし」
「はうぅ……」
顔を両手で隠す可愛らしい反応にエコウはクスクスと喉を鳴らす。オルクと同じく、ユーリもまた根はとても素直で優しい性格なのだろう。彼女達だけでなく、数百年間《約束》の履行を待ち続けた一族がいなければ、エコウは此処に立っていない。
彼等に報いたい。報いなければならない。その使命がエコウ・チェンバースにはある。
「ユーリ、無知な私たちにどうか教えて欲しい。いまボクたちが手を取り合えばきっと素晴らしい未来が待っている筈だ。エクシーダーとしてじゃない。ただのエコウとしてお願いする」
最後の言葉と共にエコウは一国の王女に傅く騎士のように、片膝を付いて空の手を差し出す。その後ろでレナートも同じように片膝立ちになり、静かに頭を垂れていた。
いまの二人には誠意以外に捧げられるものはない。しかし心を丸裸にしなくては蟠りが晴れることもありはしない。
エコウはそれ以上口を開く事はせず、ユーリの眼を真正面から捉え、ジッと言葉を待った。
やがて、絞り出すように怖々と引き結ばれた唇が言葉を紡ぐ。
「我々が現代に至るまで王国に迎合してこなかったのは《約束》が……王国を根底から瓦解させる危険分子だと幾度となく滅ぼされかけてきたからです。《約束》が何であるかを知れば、もう後戻りはできませんよ。その覚悟はおありですか?」
自分達と同じ境遇に堕ちる覚悟を問うてくる。脅しではない。今のユーリたちを見ればそれが唯事実を語ったと容易に分かるだろう。
熟考に熟考に重ねて、エコウは緩く首を振った。
「……それは、どうだろうね。聞いてみなければ分からないよ」
けれど、と言葉を繋ぎエコウは空色の双眸に強く訴えた。
「さっき君はこういった。『もう一度人が外を裸足で駆け回る日を迎える為に』って。人も大陸さえも忘れてしまった春を想っただろう? なら私が命を賭ける理由はそれで十分だ」
もう老人たちも語らなくなった、今となっては奇跡の日々。
太陽という光の塊が地上を温かく照らし、山と平原が緑と花で溢れ、街は活気に様々な彩を擁する。外を出歩くのにコートなんて要らない。浜辺を訪れれば肌着一枚で砂を蹴り飛ばして、生物の営みを内包した塩の匂いを全身に浴びる。
失われた当たり前だった日々。幻想だと誰もが諦めた過去を未来に取り戻す為にと、オルクたちは戦い抜いてきた。
なら十分だ。如何なる苦難が立ち塞がろうとも、命を賭けるには十分過ぎる。
「今一度、お願い申し上げる。誇り高き一族の皆々方――どうかボクたちを導いてほしい」
彼等が命を賭したのだ。ならばエコウらも命を賭けるのは大前提。例え反逆者と罵られる事になろうとも、構いはしない。
再び訪れた静寂を耐える。今度はエコウも地面に視線を下ろしてユーリたちの答えを待った。
どれだけの時間が流れただろうか。
「お二人の覚悟、此処に集った三十一名、確かにお受け取り致しました」
耳が痛いほどの沈黙に優しい少女の声が解きほぐした。
「兄もきっと納得するでしょう。お顔をお上げ下さい」
エコウは自然と弾んだ声で少女の名を呼んだ。
ぱっ、と顔を上げたその瞬間だった。
――乾いた銃声が広間に響き、エコウの顔に熱いものが飛び散った。