【11】 巨獣の包囲網
カリバーンが急襲を受けたことを直ぐにメスラム要塞は察知していた。
スキーシップ一基に対し雨あられの如く木々を振り撒いた絨毯爆撃の轟音は凄まじく、その衝撃はメスラム要塞にまで届いたほどだ。
救援要請を待つまでもなく、アインズは緊急事態と認識し直ちに増援の命令を下していた。打ち上げられた照明弾の位置から見ても、そう遠くは無い。
双眼鏡で巨獣の威容を確認したアインズの脳裏に十年前の大敗北が蘇る。
要塞の真後ろは薄っぺらい城壁一枚を除けば大気根が剥き出しだ。背後からの急襲など想定しておらず、直ぐに持ち出せる火器はたかが知れていた。巨獣相手に通じる武器は更に限られるだろう。
「中将っ、あれをっ」
「なんだ、あれは……!?」
部下の悲鳴を受けてもう一度双眼鏡を覗き込めば、異変は直ぐに分かった。
カリバーンがいるであろう照明弾の真下、そこを囲うように地面から檻が形成され始めた。
髭だ。モービィーディックが髭を操り、カリバーンを閉じ込めたのだ。
あれは唯の体毛ではない。以前、アインズはあの髭を材料に造られた鞭でグリームニルが魔獣の体躯を両断する所を見たことがある。あの髭はしなやかでありながら凄まじい強度を誇っているのだ。それを檻に使えば脱出不可能な監獄と何も変わらない。
事態の悪化はそれに留まらなかった。
一本の髭が鎌首をもたげたかと思うと、煌々と光を放つ照明弾を煩わし気に払い落した。無残にもパラシュートを破壊された照明弾は光粒を散らして消え、再び一帯は暗闇に堕ちた。あれでは自分達が置かれた状況を把握することもままならない。
――オオオオオオオオオオオオ。
天地を鳴動させるようなモービィーディックの咆哮。それを待ち望んでいたかのように無数の雄叫びと地鳴り。魔獣だ。本隊とは別にあの巨獣が率いた独立部隊、推定で百五十体。
その大部分が髭の檻を無視してメスラム要塞の背後へ突撃してきた。
「迎撃だ! 迎撃用意ッ!! 急げッ」
もはや救出どころではない。無防備な背中を曝け出したメスラム要塞はカリバーンと同じく恰好の獲物でしかなかった。
突如開かれた戦端に先に上がったのは砲撃音ではなく、悲鳴に彩られた魔獣の雄叫びだった。
「うっ……」
意識を取り戻したエコウが最初に覚えたのは顔に伝うドロリとした生暖かさ。ぼんやりとした思考でそれが血であると理解すると、今度は身体中の洒落にならない鈍痛に呻いた。
一体何が起きたのか。
朦朧とする意識の中、ほど近くで聞こえた誰かの悲鳴を引き金に意識が完全に覚醒していく。
「襲われた……のか、船が」
最初は凄まじい轟音と衝撃だった。とてつもない質量を持った何かが船体を襲ったのだと理解する間もなく、船体は大きく傾いでいき、再び天地を揺るがす様な激震に見舞われた。その時頭を強く打ってエコウは気を失っていたのだろう。
容態を確かめながら慎重に起き上がろうとすると、直ぐに船が傾いているのが分かった。電気系統が破損したのか完全な暗闇であった為に気付くのが遅れてしまった。部屋の間取りを思い出しながら手探りで様子を伺う。
といっても部屋はベッドがその大部分を占領している為、扉は直ぐに見つかった。
「開かない……」
横転時の衝撃で扉が歪んでしまったのかビクともしない。エコウの力では体当たりしても結果は同じ。
その時、天地が慄く様な咆哮が駆け抜け、直ぐに獰猛な雄叫びが押し寄せて来るのを聞いた。
――巨獣、そして魔獣の群れだ。
心臓が鼓動を早め、恐怖と共にどっと汗が噴き出してきた。
この船は今まさに襲われていると、嫌がおうにも理解させられた。思わず山羊頭の仮面を探してしまうが、あるのは自分の手元さえ覆い隠す漆黒だけだ。
(落ち着くんだ……怯えることなら後からでも出来る)
理性を掻き集め、乱れかけた呼吸を苦労して整え、エコウは成すべきことを自身に刻む。
もう此処は戦場だ。そうなってしまった以上、エクシーダーも軍人も関係ない。
動けるならば、動かなくては。
身体中の鈍痛が堪えるが、逆に言えばそれ以外は五体満足。
意を決したエコウは胸の内からペンダントを引っ張り出すと、十字架に嵌められた超々高純度エーンジライト鉱石に力を流し込む。生体電流を火種にエクシーダーの力によって空気の燃焼を省かれた鉱石は電球の様に光を放った。
即席のカンテラを確保したエコウは鞄から止血帯と止血薬を取り出し、頭部の傷口を応急処置した。血液が生命の源であることは言うまでもないが、それと同じく流血は体温も奪う。ただでさえ偵察で冷え切った身体から、これ以上体温を失うわけにはいかない。
止血を済ませるとエコウはベッドのシーツを適当に破ると、ターバンの様に頭に巻き付ける。外に出れば患部から凍傷になり最悪の場合壊死する恐れがあるため、多少おおげさに保護した。
シーツをさらに破って止血帯と包帯代わりを確保したところで、扉の向うから耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
「エコウ、無事かっ!?」
レナートだ。
扉がこじ開けられ、レナートは忘我の表情でエコウに駆け寄ると、震えながらエコウを抱きしめた。彼の心境は推量られるが今はそれどころではないと、腕を解きながらエコウはレナートの瞳を真っ直ぐ覗き込む。
「何があったんだい?」
「巨獣の襲撃だ。周囲を髭の檻で囲まれて退路を断たれた。加えて檻には魔獣が解き放たれている。魔獣たちは今オルクたちが抑えているが、巨獣が動き出せば直ぐに瓦解する」
レナート曰く、巨獣は檻に魔獣を解き放ったのみで自らは手を下さず静観を決めているとの事だ。まるで奴隷と猛獣を戦わせるような悪趣味な戦術だ。
「今は様子を伺っているがいつあの高圧水流のブレスが来るか分からない。そうなる前に檻に穴をあけて脱出する。時間がない。動かるかい?」
「少しふら付くけど……大丈夫だ。君は部隊を動かすことに集中するんだ」
いざとなれば二発限りではあるが汽車で使った被膜響歌薬で最低限自分の身は守れる。場合によっては援護射撃にもなるだろう。
レナートは頷くとエコウの手を引いて後方の格納庫へと走る。流石は精鋭部隊というべきか、船に衝撃が走った時点で殆どの隊員が戦闘体勢へと移行していたらしく、外からはタイプライターの打鍵音にも似た機関銃の銃声が聞こえる。
しかしカリバーンの代名詞である鉄の狼のエンジン音が其処には無かった。それもそのはずで、エコウ達が駆け込んだ格納庫から一機たりとも鉄の狼は出撃出来ずにいた。
「どうだっ?」
「ダメですっ! ハッチが完全にイカれて開口できません!」
船尾に着弾した木の槍は船尾を貫き、後部ハッチの一部を楔の様に固定する形で突き刺さっていた。加えて言えば船が傾いたことで鉄の狼は斜面を転がり、殆どが壁際で横転し積み重なっている。鋼鉄の塊である機体を不安定な足場で、それも人力で回収するのはまず不可能だ。
つまりそれは――
「――完全に機動力を奪われたか……!」
最も起きてはいけない最悪の状況にレナートは呻く。
船は航行不能。鉄の狼は封じられた。四方を囲まれ飢えた魔獣を放たれている。
格納庫には対魔獣重機関銃やロケットランチャーもあるが、歩兵が戦うには外は劣悪に過ぎる。積雪で走ることもままならず、照明弾は撃ち落とされ視界は無いに等しい。
絶体絶命。
それでも留まり続ければ確実に死ぬだけだ。
「船を盾に巨獣との対角地点の檻を爆破しメスラム要塞へ撤退する。グリームニルが魔獣を抑えているこの隙を無駄にするな!」
委細承知と隊員たちは動き出す。
要塞へも魔獣は殺到しているだろうが、少なくともこの場よりかはマシな筈だ。檻の強度は未知数ではあるが、エクシーダーであるエコウの《性質操作》の力で炸薬を強化すれば火力は補える。
機動力を奪われたことは致命的ではあるが、想定していない訳ではない。鉄の狼には大きく劣るがスキー板に小型エンジンを搭載した雪上兵装が配備されている。
しかして《スノウドロー》が納められた壁際のロッカーに飛びついた隊員は半分にも満たなかった。
「何をしているっ。すぐに準備に――」
「無駄でしょうよ隊長さん。どう考えても生き残る望みは少ねえ」
そう吐き捨てたのは部隊では最年長のグエンという男だった。カリバーンでの所属年数だけで言えばレナートは足元にも及ばない古株であり、隊の精神的主柱を担う猛者。
ウルと同じく、オルクたちの作戦への起用に異議を唱えた一人でもある。そして同じようにしてレナートの命令に従おうとしない隊員の殆どがウルとグエンと意見を同じくした者だ。
「……無駄、といったか? なら君は此処でむざむざ殺される事を望むか?」
「ケツを捲って逃げるよりかはマシだな。そもそもだ隊長さん。メスラム要塞まで撤退できたとしてその後はどうする。撤退という名の敵前逃亡の恥を曝して、死ぬまでの時間をほんのちょっと先延ばしにするだけだ。それも唯の逃亡じゃねえ。グリームニルに背中を守ってもらいながらの撤退だ。それは王国の軍人じゃねえ!」
火を吐く様なグエンの主張に隊員たちが俄かに騒めき出す。
不穏な空気が漂い始め、エコウは悪寒に身を震わせた。
カリバーンは精鋭部隊だ。如何なる苛酷な状況下に放り込まれても尚理性を保てる栄え抜きの軍人たち。この極限の状況下が浮き彫りにしたのは軍人としての矜持だった。
レナートが規律を重んじる様に、グエンは誇りある死を望む。
「俺達カリバーンが殆ど身一つで要塞に撤退してみろ。『精鋭部隊が敗北を喫した』と背後を突かれた要塞の指揮はガタ落ちだ。例え俺達が全滅しようとも、今まさに魔獣が押し寄せている鉱山都市に『メスラム要塞陥落』の報だけは絶対に送っちゃならねえ。それはこの王国そのものを脅かす猛毒になるぞ。俺達が此処で引いちゃお終めえなんだよ!」
一拍置いてグエンはレナートから視線を切り、格納庫に集う隊員たちにゆっくりと首を巡らせる。
「知っている奴もいるかも知れんが俺は南方出身だ。辺境ほど寂れたところじゃないが、魔獣に家族と故郷を潰された。軍に入隊したのも、カリバーンに志願したのも全てはクソッタレな奴らをぶっ殺す為だ。似たような境遇の奴は他にもいるだろ。奪われた者の純粋な怒りは例え竜の冬だろうと凍てつかせることは出来ねえ! 此処で死のうとも奴らを一匹でも多く殺すことが俺達の責務、散って逝った戦友たちへの手向け、残された軍人たちへを奮い立たせる戦果となるッ!」
グエンはライフルを掲げ大喝した。
「戦えッ! 退く事を恐れない奴だけ俺に付いてこい。俺の全てを持ってしてあのデカブツへ第一の橋頭保にしてくれる。奴らを殺したい奴らは戦え――奴らを殺せッ!」
途端、船を揺るがす様な歓声が上がった。エコウとレナートと数人の隊員を除いて、皆目を狂気に血走らせていた。
戦死者を、己の命すら利用した狂気的な扇動だ。グエンがそうであったようにカリバーンの隊員の多くは、耐え難いが陰惨な過去を原動力に己を叩き上げてきた者たちだ。厳しい訓練と規律で律し続けてきた彼等の内の《復讐の鬼》が死地を前にして解き放れようとしている。
「ダメだ、皆落ち着くんだッ! そんなことをしても誰もうかばれない。魔獣たちの腹を満たすだけだッ!」
「エコウの言う通りだ。冷静になれ、誉れある死を言い訳に思考を止めるなッ! 命一つで護れるものなどたかが知れて――」
ガツンっという鈍い音がレナートの言葉を遮った。
レナートの後頭部にライフルの銃床を振り下ろしたのは若い隊員だった。カンテラ以外碌な光源が無い今、背後に回り込むことは造作もない。倒れ込むレナートにその隊員は苦渋に顔を歪ませながら小さく謝罪を口にした。
「アンタに恨みはないさ。でも自分の死に場所は自分達で決める。アンタらは無事である事をあの世で祈ってるぜ――行くぞッ」
「ぐっ……まて」
レナートの制止も虚しくグエンたちはありったけの武器を手に、右舷の大穴から総攻撃に出た。オルクたちが捌ききれなかった魔獣と直ぐに交戦が始まる。
鬨の声を掻き消すリズミカルな機関銃の銃声、手榴弾やロケット弾の爆轟の後に魔獣の断末魔が大気を震わせる。
「隊長っ、俺達はどう致しますかっ!? このままでは全滅しますっ」
「御指示をッ! 要塞への撤退ですか!?」
エコウの手を借りながら立ち上り、レナートは矢継ぎ早に指示を求める隊員へ命令を下した。
「――ッ、彼等を掩護する! 叩き落とされてもいい、照明弾と曳光弾で可能な限り魔獣たちを炙りだして、支援砲撃に徹するッ!」
「……っ、了解」
半ば破れかぶれな指示に残った部下たちは逡巡するも、直ぐに弾倉と装備を後方支援のものに切り替える。
「レナートっ」
「どのみち数を減らさなくては撤退しようにも必ず追い付かれる。それには巨獣の足止めは不可欠だ」
「それって、つまり……」
言葉を詰まらせたエコウにレナートは黙って小さく頷いた。
刺し違える覚悟のグエンたちを最大限利用し、捨て駒にする。
言葉を無くし唖然とするエコウの視線を断ち切る様に弾倉を機関銃に叩き込んだ。
「君だけは絶対に死守してみせる。安心しなさい」
「っ! 私の事などいまはどうでもいいだろう!」
どうして今自分の身を案じるのだとエコウはレナートに掴みかかるも、伸ばした腕を逆にレナートに摑まれた。
「まさかとは思うが、部隊が事実上瓦解したから優先事項が私に移った。だから最大限彼等の突撃を利用するって魂胆か!?」
「こうなった以上それは必然だ。この国はまだ世界樹の庇護無くして存続は有り得ない。その為にはエクシーダーが、君達が必要なんだ。君達の命は此処にいる誰よりも重い。私でなくとも同じ決断を下すだろう。他ならぬ君に恨まれようとも、私は君が生き残る道だけを優先させる。オルクに話は通している。いざとなったら彼を頼れ」
「何をっ……」
遺言めいた弁明を噛んで含める様に一方的に告げたレナートは、間もなくして装備の換装完了を告げる部下に一つ頷く。一歩船から外へ出ればそこは死地だ。例え援護に徹しようとも、一寸先には闇と共に死が蔓延っている。
「皆済まない。全ては私の力不足が原因だ。今更だが、逃げてもこの場では不問にする」
頭を下げるレナートを誰も責めない。ただ軍人としての誇りと理性で恐怖を押し殺し、静かに呼吸を整える。グエンたちの荒々しい戦意とは違う。膨大な訓練と鋼の胆力で研ぎ澄ました精神力で仲間の犠牲を『良し』とした。
覚悟は問うまでもない。カリバーンの隊長として最後になるかも知れぬ号令に、大きく息を吸い込む。
「良し。総員出るぞ。私に続――」
「待つんだレナートッ!」
その時、エコウがレート腕を強く引いた。
「エコウ、今だけは君の我が儘は無しだ」
「そうじゃない、何かおかしいっ」
存外なエコウの強い拒絶にレナートは息を呑んだ。
そのエコウはといえば違和感の正体を探る様に暗がりに首を巡らせていた。
ふと金臭さが鼻を突き、レナートは鼻先を抑え、低く呻いた。暗がりでもわかる指先を濡らす鮮烈な赤を示す液体。鼻血だ。
それはレナートだけでなく他の隊員も、エコウもそう。唐突に鼻血を噴き出し、皆一様に苦し気に咳き込み始めた。
これは――
「黒雪だッ! 全員マスクを着けるんだ!」
口元を抑えながらレナートは防護マスクの収納棚の扉を乱暴に開く。
問答と暗がりで気付くのが遅れたが、カンテラやエコウのネックレスの明かりが煤を被ったように僅かに影っていた。灰塵病を引き起こす黒き雪が魔獣に先んじて船に侵入してきたのだ。
同時に稲妻のように鳴り響いていた銃声もパタリと止んでいる事に気付き、誰かが叫んだ。
「何故だ、予兆が全くなかったぞ!?」
黒雪の降雪時には必ず急激な気温低下が伴い、その激烈な冷気はスキーシップ程度の装甲は容易に貫いてくる。気付かぬはずがない。
グエンたちが置いていったガスマスクで呼吸を落ち着かせながら、エコウは最悪の可能性に辿り着こうとしていた。
考えられるとすれば《急激な気温低下》だけが黒雪の降雪条件ではない可能性。
もしくはもっと単純。
エコウの脳裏に《黒いラービット》と《船を襲った高圧水流》が過る。
つい数時間前に彼女はオルクと共に本来体色は純白であるはずの兎型魔獣が黒く染まっている個体を発見していた。あの場では黒雪の影響であると結論付けたが、それはつまり体内に相応量の黒雪を内包しているという事実を同時に示していた。
鉱山都市へ進行している魔獣たちがそうであるように、カリバーンを襲撃した魔獣も《黒化個体》とでも称する強化魔獣たちであろう。
そしてそれは巨獣といえども例外ではないだろう。
エコウもナートも、グエンたちも巨獣モービィーディックはあの高圧水流ばかりを危険視していたが、黒化個体の存在が明らかになった時点で、更なる脅威を想定するべきであった。
エコウ達を襲った黒雪は自然現象ではなく――
「まさか……これは」
同じ結論に至っていたレナートの言葉をエコウが引き継ぐ。
「――モービィーディックは腹に溜め込んだ黒雪で私たちを殺す気だぞ」