【10】 巨獣モービィーディック強襲
観測班との無線通信は三時間以上経過しても途絶したままだった。
まず間違いなく魔獣の餌食になったのだろう。
つまりメスラム要塞は魔獣の軍勢を眼の前にしながら目と耳を失った事になる。日頃から魔獣の動向を探ってきた観測班は言わずもがなベテラン揃いだ。その彼等が下手を打つとは考えにくかった。
彼等をして尚、予想外の事が起きたのだろう。
既に夜を迎えていた。
一年中分厚い雲に覆われた大陸は夜が早く、加えてこの時期は日没も早い。通信途絶の一方が舞い込んでからあっという間に闇に呑まれた。
緊急対応としてカリバーンを要塞から一キロ付近に配置し、魔獣の急襲に備えるのが限界であった。敵影を発見次第、照明弾で襲撃を知らせる算段だ。
目と耳を封じられた以上、今日は防衛に徹する他ない。
偵察兵を展開し、原始的な目と耳に頼った索敵網で暗闇に網を張る。渓谷の地形上、魔獣の侵攻経路はほぼ一直線だ。待ち構えていれば必ず何処かに引っかかる。
しかし持てるだけのサーチライトを運び込んでも、焼け石に水だ。いつ魔獣が飛び出してくるか分からない中で神経を張り詰め続けるのは至難の技だ。
凍てつく様な寒さにも関わらず、皆冷や汗が止まらなかった。
レナートはライフルを固く握りしめ、何度目とも知れない自問を繰り返す。
(……本当に、本当にあの二人に……エコウとオルクを偵察に送って良かったのかっ?)
エコウの提案で、自分とオルクの二人で魔獣の集結地点へ斥候を行うと言い出したのだ。
エクシーダーの力を使えば僅かな光を増幅することで、この暗闇の中でも視界に支障はなく、逃げるだけならばオルク一人で十分。上手くいけば巨獣らの位置も把握できるため、防衛戦を優位に進められる。
成功すれば大きな見返りが期待出来るが、あまりにもリスクが大きすぎるとレナートは強く反対した。しかしエコウも譲らず、最終的にはアインズの鶴の一声で可決されてしまった。
妥協案としてレナートは三時間で戻る事を条件に見送ったものの――二人が出立してから、既に五時間近く経過していた。
『奴らは信用できませんッ』
脳裏に昼間のウルの言葉が蘇る。
魔獣と遭遇し何処かに身を隠していることも十分にあり得るのにも関わらず、どれだけ否定しようとも、最悪の可能性が際限なく自分の中で膨らみレナートを苛む。
やはり行かせるべきではなかった。
割れんばかりに歯を食い縛り、何とか思い直す。オルクが裏切るのならばもっと簡単な場面は幾らでもあったはずだ。何よりメリットがほぼ皆無だ。オルクたちは薬を手に入れなければならない以上、反旗を翻せばそれは叶わない。武力に訴えても、行き着く先はやはり同じだ。
今は無事を祈ってジッと耐えるしかない。
どれだけの時間が立っただろう。
幾度目かの見張りの交代を済ませ、仮設テントで隊員が淹れてくれたコーヒーを片手にヒーターに当たっていると、小さく何かが破裂するような音が聞こえた。
「隊長ッ!」
テントに只事ではない様子でウルが飛び込んできた。
直ぐに外に出たレナートは遠く空で光を放つそれを見た。
信号弾だ。方角から見てもまず間違いなくエコウ達だ。更にもう一発撃ち上がり、もうスピードでこちらに帰還している事が伺えた。
しかし彼等の無事に安堵する間もなく、信号弾が発する色にレナートは足元が崩れるような錯覚を覚えた。
エコウらが示した色は赤。その意味は――作戦の決定的な瓦解。
失敗ですらなく、勝負の土台にすら立っていなかった事を知らせる凶星だ。
次々と等間隔に撃ち上がる信号弾に部隊が騒めき出す。何か予想もしていなかったことが起こっている。
「隊長ッ。指示を!」
「照明弾を撃てッ。展開中の隊員を引き戻し、此処にいる一班は迎撃準備。通信班はメスラム要塞への緊急回線を開け」
「了解!」
すぐに各所から照明弾が上がり、一帯を煌々と照らし出す。レナートの指示に従い、仮拠点に待機していた部隊が臨時の防衛線へと駆けていく。
だがレナートは迎撃準備が無駄に終わるだろうという確信があった。
静かすぎるのだ。魔獣の咆哮も足音一つ聞えやしない。あの信号弾は与えられた意味通り、作戦そのものを揺るがす事態を指し示すものだ。
こちらの位置を把握したのか、レナートたちに方角へ向けて白色の信号弾がやや角度を付けて放たれた。早い。もうすぐそこまで二人は帰ってきている。
「レナアアアアアアトオオオオオオ―――――!!」
一班が前線で迎撃準備を整えてすぐにエコウとオルクの姿が見えた。鉄の狼に匹敵するほどの速度で疾走するオルクがエコウをおぶり、降り積もった雪を圧倒的な膂力にものを言わせながら踏み砕き、帰還しようとしていた。
此処までノンストップの全力疾走だったのか、部隊と確認するとオルクは急速に失速して崩れる様に転倒してしまった。
投げ出されたエコウは一瞬だけオルクに振り返るも、必死の形相で雪を掻き分けて部隊に駆け寄って来る。
「エコウ、何が……」
「今すぐ鉱山都市に急行するんだッ、早く! 一刻の猶予もないッ」
一切の余裕が削がれたエコウはレナートの胸倉を掴んで怒鳴る。落ち着かせようとレナートが宥めても、よほどの事体に錯乱しているのか部隊を戻せとしか言わない。
普段は斜に構えて冗談と笑みを絶やさないエコウがこうまで取り乱す事態に、レナートのみならず部隊に動揺が走る。
「魔獣共が……何処にもいない……」
「何っ!?」
エコウに代わって答えたのは息を激しく乱したオルクだった。よろよろと歩み寄って来る彼は全身から蒸気を上げ、グリームニルの全力疾走に耐え兼ねたブーツがボロボロになっている。
仮面に隠れて分かりにくいが、その声から彼もまた少なからず取り乱しているのが伺えた。
「魔獣がいない!? どういうことだっ」
「言葉通りの意味だ。奴らが集結していた場所には巨獣どころか兎一匹いなかった。だが偶然近くでコレを見付けた」
オルクが取り出したのは受話器の残骸だった。まず間違いなく観測班の無線機のものだろう。集結地点付近にこれがあったということは、間違いなく魔獣の軍勢は集結地点にはいたのだろう。
「帰投予定時間を超過することは承知だったが足跡から魔獣共を追っていた。奴らは、どうやら西へ迂回しているようだ」
「西へ、迂回……?」
理解が追いつかずレナートは眼を白黒させたが、深刻な表情を浮かべ声を震わせた。
「まさか、此処ではなく別の場所から侵攻するつもりかッ」
「なっ……何を言っているんですか隊長!? この渓谷以外から魔獣が侵攻するなど……」
即座に否定してきたのはウルだった。
カーディアーカ王国と大陸の果ては山脈や海によって物理的に隔てられ、生物が渡れるような場所は極限られている。ましてや魔獣は世界樹の加護で退けられ続けてきたのだ。最も加護が弱いこの渓谷こそが魔獣たちの唯一の橋頭保だったはず。
「だが実際に数こそ少ないが何度も侵入を許している。私たちが知り得ないというだけで、此処以外からの侵入路がある事は確実だ」
「ですがおかしな話ではありませんか。確かに近年は魔獣の出没も頻発していますが、それは生存競争に敗れこちらに迷い込んできた個体ばかりですよ!? 此処より西は世界樹の加護もまだ厚いはずですし、数体程度ならまだしも軍勢規模での侵攻など有り得ない!」
レナートとてウルの主張は真っ先に検討した。しかしイレギュラーの頻発はもはや偶然で片付けられない。鉱山都市間までの道中のように巨獣の侵入までを許してしまった要因が必ずあるはずなのだ。
そして答えは既に出ている。
「発想が貧困だな」
「なんだとッ」
水を煽っていたオルクが言外にウルの主張を一蹴する。
「帰還する途中俺達は何度か黒雪に見舞われた。人間には唯の害だが、魔獣共からしてみればアレは天の恵みそのものだ。それこそ世界樹の加護が問題にならない程度に」
「なっ、……いやまて有り得ない!? 確かに黒雪を浴びた魔獣が凶暴化することは知られているが、黒雪は局所的かつ短時間に降るものだ。軍勢規模の魔獣に影響を与えることは――」
「ならコイツがどういう事が説明してみろ」
受話器に続いてオルクがまたも何かを取り出す。今度はウルの足元へ乱暴に投げつけられたそれはベシャリと湿った音を立てて雪に沈む。
子供用のぬいぐるみ程度のサイズのそれを拾い上げたウルは、次には小さな悲鳴を上げて投げ捨てた。
ラービットと呼ばれる兎に似た小型の魔獣、その死骸だ。腹部を食い千切られ本来真っ白な筈の毛皮はどす黒い血に染まり、絶命時のままこの寒さで冷凍保存されていた。
「此処に帰って来るまで、私たちは二度ほど黒雪に見舞われたんだ。帰還が遅くなったのもその為だ。そのラービットもさっきの受話器と同じく、身を隠した洞穴で見つけたものだ。その魔獣の中身をもう一度よく見てくれ」
ようやく落ち着きを取り戻したエコウがオルクの言葉を引継ぎ、ラービットの断面を指差す。
魔獣といえど鮮やかな赤を示している筈の内臓や筋肉は、しかして――
「黒いっ!?」
よくよく観察すれば毛皮も変色した血で分かりにくかったが、浅黒い毛を生やしている。
「……まだ断定は出来ないけど、そのラービットの中身は、恐らく黒雪由来のものだ。オルクもここまで黒化が進んでいるのは見たことが無いそうだ。世界樹の自浄効果が及ばない大陸の果てでは黒雪の降雪は普遍化しているだろうって仮説は前々から唱えられていたけど……」
「待て、待て待て待つんだ……なら今西から迂回している軍勢は――」
レナートの声が擦れて消える。
最悪の可能性が全員の脳裏に過り、誰もが血の気を失う。
間違いであってくれとこの場にいた誰もが神に祈り、しかし最悪の使者は呆気なく訪れた。
「レナート少佐っ!」
呼ばれて振り返れば要塞で見たアインズの部下がたった今スノーモービルから降車し駆け寄って来るところだった。顔面を蒼白にしながら、最も恐れた事態を告げる。
「鉱山都市から緊急連絡。魔獣の軍勢が都市南西方向からアトランタ山脈を越境中、急速接近中とのこと! 至急メスラム要塞へお戻りください!」
「――ッ、全隊緊急帰投! 繰り返す、全隊緊急帰投。目標は鉱山都市へ南西から侵攻している。鉱山都市へ帰還しこれを迎撃する!」
逸早く正気に戻ったレナートが部隊に向け指示を飛ばす。
防衛線を掻い潜られた。
世界樹の加護が通じない、強化魔獣の軍勢が鉱山都市へ迫っている。
野営道具は放棄し早急に帰投準備を整えた部隊は即座に転進した。緊急的な展開であったことが不幸中の幸いだった。要塞へ帰投次第、すぐにスキーシップを発信させる事が出来る。
「魔獣の軍勢の状況は把握出来ているのか!? 進行速度は、規模は、巨獣は何体確認できるっ!?」
「現在偵察隊が情報収集に努めているとの事。しかしこの暗闇故に全容を確認するには時間がが掛かります。ですが足の速い種族が先行しており、第一波は約八時間後には鉱山都市へ到着するかと!」
「八時間……!?」
最速で出発したとしてもレナートたちが到着するまでには半日は掛る。急いだとしても開戦には間に合わない。
幸いにも鉱山都市は城壁と大塹壕に囲まれた堅牢な都市だ。例え魔獣であろうと直ぐには陥落しないだろう。軍の南方支部も既に迎撃に動いている筈だ。楽観視は出来ないが防衛に徹すれば数日間は持ちこたえられるだろう。
最大の懸念材料は、この国が魔獣との戦争にあまりも未熟な点だ。
メスラム要塞とカリバーンを除けば、魔獣との戦争は後にも先にも賢者が世界樹を樹立させるために、魔獣の王へ立ち向かった唯の一度切り。王国に魔獣との戦争のノウハウは皆無と言っていい。
ましてや鉱山都市へ迫るのは唯の魔獣ではない。黒雪によって少なくとも南の世界樹の支配領域を遂に破った魔獣たち。今の王国が何処まで抗えるか。
鉄の狼を駆り全速力で要塞へ戻るも、隊員たちは焦りを隠せない。
「クソ、最悪のタイミングだ。なんだこの組織だった行動はっ。まるで魔獣に欺瞞の情報で釣り出されたみたいだ」
「まるでではなく、実際そうなのだろうな」
「やっぱり軍勢を統率している個体がいるのかい?」
レナートの機体に乗るエコウにオルクはイルタで並走しながら頷く。
「言語こそ介さないが、巨獣モービィーディックは魔獣の中でも取り分け知能が高い種族だ。本物の鯨は群れで行動する種族もいると聞くが、奴らは同族に加えて特殊な音波で他の魔獣たちをも率いる事がある。そうやって多種属の縄張りを奪い、支配領域を広げてきた」
過去には故郷にも攻め入ってきたことがあったと、オルクは淡々と語る。
モービィーディックの一族からすればカーディアーカとて覇道を突き進む過程に過ぎない、という事だ。
「奴らは賢い。軍勢を操る術に関しては、あちらに一家言があると言っても過言ではない。少なくとも此方の戦力に馬鹿正直にぶつける事を避ける程度には知略がある」
「なら俺達がこうして遅れを取っているのは、巨獣の罠に嵌められたとでも言いたいのか!? 幾ら何でも有り得ない」
「実際そうだろう。俺を含めて此処にいる全員が『魔獣の軍勢』という情報だけに踊らされて、まんまと出し抜かれた」
追い付いてきたウルの反論にオルクは淡々と事実だけを並べて切り返す。
カリバーンを含めて、メスラム要塞には王国の戦力が集中している。観測班を潰された事でカーディアーカ軍は完全に初動を封じられた。夜陰に紛れ軍勢を西へ迂回させたのは、『メスラム要塞からしか魔獣は進軍しない』と疑わないカーディアーカ軍の急所を的確に突いたものだ。
世界樹に寄りかかった王国の脆弱性が最悪の結果で露呈した形だ。
「ただモービィーディックの一族の最も恐ろしい点は別にある。我々の先祖もこれがあって散々煮え湯を飲まされたそうだ。お前たちにとっては朗報で凶報だが、聞くか?」
初めてオルクが見せた気遣いらしい態度にレナートは危機感を更に募らせる。辺境の民をここまで畏れさせる何かが巨獣にはあるという。
部隊の士気を削ぐことにも繋がりかねなかったが、レナートは視線で話を促す。
「奴らは一度交戦して仕留めそこなった獲物を絶対に忘れない。既にお前たちは《撃滅リスト》に加えられている筈だ。戦場で捕捉されれば、真っ先に潰されるのはお前たちだ」
「……なるほど。最低一体は巨獣を確実に引き付けられる、というわけか。確かに朗報で凶報だ」
光栄だ、とレナートは薄い自虐の笑みを浮かべる。
「そのモービィーディックを君達は倒した事があるのかい?」
「なければ今日まで故郷は存続していない」
「じゃあアドバイスか何か欲しいものだけど」
「皮膚は鋼鉄並みの強度だ。よほど一点を集中して攻撃しない限り、銃や大砲でも傷もつけられんと思え。それが難しいなら爆弾でも抱えて喰われろ」
「参考になるよ……」
人柱を用意して腹から爆破しろと、エコウの期待も虚しくオルクが提示したのは自爆攻撃だった。
しかし巨獣はその名が示す通り巨体だ。一般的な観点から考えれば、大火力の火器と相性が良いように誰もが思えた。あの高圧水流こそ恐ろしいが、最新の兵装と戦術を駆使すれば自爆に頼らなければならないとは考えにくい。
オルクの提言は剣や槍を主力武器に頼った前時代的な戦術であると、この時はレナートを含め誰もが深刻に受け止めなかった。
カリバーンは緊急連絡を浮けて三十分足らずでメスラム要塞へ帰投した。
待機していた整備士たちが直ちに鉄の狼の簡易メンテナンスに取り掛かり、燃料補給を済ませる。スキーシップはアインズの命令で出発準備が進められ、既に煙突から煙を上げていた。
「状況は聞いているかミュンヘンベルク少佐?」
「道中にて」
「いまメスラム要塞からも援軍の準備に取り掛かっているが第一陣を派兵するには最短でも半日は要する」
つまりアインズたちの戦線への合流には移動を含めて一日以上掛るという事だ。それどころか魔獣の軍勢の動向が完全に把握出来ていない今、メスラム要塞から兵力を悪戯に割くわけにもいかない。派兵は夜明けを待ちこちらの状況を見極める必要もあり、増援はさらに時間を要するだろう。
「直ぐに都市へ急行できるのは貴官の部隊だけだ。負担を強いる様だが頼むぞ」
「ハッ!」
敬礼もそこそこにレナートはスキーシップに飛び込んだ。兵装の積み込みが終えるや否やスキーシップはムチを打たれた馬のように走り出す。
どれだけ急いでも鉱山都市までは半日は掛る。レナートは最低限の警戒態勢を指示し、その他の隊員には出来る限り身体を休ませるよう待機命令を出した。要塞に到着してから渓谷へ緊急展開し、戦闘は無くとも隊員の疲労は濃い。いまどれだけ回復できるかが今度の作戦を左右するだろう。
エコウ達の話では黒雪の降雪があったというので、念のために薬の摂取も厳命しておく。
レナートは甲板に出ると船首にいたオルクの元へ歩み寄る。
「エコウは何処に?」
「もう鎖で繋いでないんだ。俺に聞くな。小娘が五時間以上も外に放りだされれば痛む部分もあるだろ」
確かに魔獣の転身で忘れていたが、オルクとエコウは殆ど身一つで偵察に出たのだ。身体は凍え切って悲鳴を上げるのは当然だ。それこそ黒雪に二度も見舞われながら生還したのは奇跡とさえいえる程だ。
本当ならば労って然るべきだが、レナートは先に確認しておきたい事を優先した。
「オルク。今更だが君達も戦線に参加する、という認識でいいか?」
甲板を見れば要塞で雇われていた他の二人もそれぞれのヒッポグリフと共に乗り込んでいる。
「先に断っておくが共闘ではない。鉱山都市が堕ちれば我々も何かと不都合があるというだけだ。だが死ぬまで戦う義理は無い。忘れるな」
僅かに顔を動かしたオルクの視線を追えば、操舵室から此方を伺っているウルが見えた。
オルクの気遣いに気付かないフリをし、レナートは一つ頷く。
鉱山都市に着けば間違いなく総力戦になる。下手にグリームニルを戦線に組み込めば、不要な血が流れる恐れがある。オルクはオルクたちで動けばそれで構わないだろう。
それはレナートにとっても個人的に都合が良かった。
レナートはもう一度船首に自分達しかいない事、特にエコウがいない事を素早く確認すると、気持ち声量を落して口を開いた。
「頼みが……いや、依頼がある。引き受けてくれるか?」
「内容による」
「鉱山都市へ着く前にあの子を……エコウを逃がして欲しい。ヒッポグリフがいれば可能ではないか?」
「自分でやれ」
「私は軍人だ。戦場から逃げることは出来ない。だが君達なら……カーディアーカの国民ではない君なら問題はない。それとも私に報酬の支払い能力に不安があるか?」
頼む、とウルにばれない程度にレナートは頭を下げた。
体裁を繕っているとはいえ、生粋のカーディアーカ人であるレナートが礼を示した事にオルクは少なからず動揺した。それはオルクのみならず、二人の動向を伺っていた他のグリームニルも同じ。
「……後でアイツから文句を言われるのは俺だぞ」
たじろいだオルクが口をついたのは、親に叱られることを憂う子供の様な不平だった。だからレナートはつい小さく笑ってしまった。
今までも厳しい言葉の裏に隠れていた純朴な優しさが不意に顔を出した。仮面で分かりづらいがレナートの反応にもムっと腹を立てているがの分かる。
分かってはいたが、彼等グリームニルは世間一般に揶揄されるような野蛮人ではない。
普通の人と同じ様に誰かを憂い、心を痛める事ができる真っ当な人間だ。過去も魔臓をその身に宿した事など些事に過ぎない。
「頼めるか」
「……言い訳はお前が考えておけ」
「難しい条件だ」
直筆のサインと事情を記したメモを添えた小切手をオルクに渡すと、レナートは握手を求めてみた。エコウの様に強引な距離の縮め方ではなく、お互いの歩み寄りで成立する友好の証。
操舵室でウルが泡を喰っているのが視界の端に映ったが、最早レナートはどうでも良かった。
辛抱強く待っていると、やがてオルクが躊躇いながらマントの奥から手を出してきた。
何度も引いては拳を固めた存外に小さな手は、ゆっくりとレナートの手を――強引に下へ引っ張り頭を強く押さえつけた。
ああ、やっぱり駄目か。
胸に去来した寂寥感は、直後に吹き飛んだ。
ゴオッと空気を逆巻いて何かが頭上に飛来。次の瞬間に操舵室が粉砕された。
スキーシップに激震が見舞う。
バラバラと降ってきた操舵室の残骸に木片が混じっているのをみて、レナートは今のが投擲された丸太だと理解し、絶句した。
「伏せろ、まだ来るっ」
耳にオルクの声と腸が締め付けられるような風切り音の群れ。
夜の帳を突き破り、スキーシップに木の雨が降り注ぐ。
殆どは外れたが船尾と右舷に被弾し、甲板のレナートたちは激震に振り落とされかける。さらにスキーシップは操舵室が破壊された為に操縦を失い、被弾で大きく左へバランスを崩していく。転覆する!
「イルタアアアァッ!」
主の命より早く、ヒッポグリフのイルタは駆けていた。
投げ出される寸前にオルクはイルタの脚に摑まり、イルタがレナートを掻っ攫うように掴み取るや、凶悪な弾幕を掻い潜り空へと逃げ切った。他のグリームニルも同様に。
その下でスキーシップが轟音を立てて右舷から船体を激しく擦る。津波の様に雪と土砂を撒き上げる船は数十メートルを滑り、停止した。
「エコウ、ウル、お前たち!!」
巻き上げられた雪と煙が視界を更に悪くする。
煙の切れ目から確認できた範囲では幸いにも船は先の被弾以外はほぼ無傷であった。綺麗な形で転覆し、降り積もった雪がクッション代わりにもなったのだろう。
しかし操舵室にいたウルと操舵手は即死だろう。
投石ではなく、投木。それも小枝を扱うような気安さの砲撃を可能にする生物など、心当たりは一つしかない。
グリームニルの一人が携行型の信号弾を放つと、その威容は直ぐ傍にあった。
一瞬、小山かと錯覚した。スキーシップの進路を塞ぐようにして聳える巨体は様に陸の鯨だろう。事前に見付かっていた巨獣の足跡からはその体長は十五メートルと推定されていたが、あの個体は更にその倍、体長三十メートルは下らない。体高だけでも五メートルはあるか。
オルクが白鯨と称した様に照明弾の光を跳ね返すその肌は白く、硬質化した皮膚が逆棘の様に無数に生えている。巨体を支える為に発達した胸ヒレに続いて、腹部には更に四対八足の脚が生え、重たい腹を引き摺る様に歩いている。
何よりの特徴は口のみならず獅子の様に頭部までを覆う髭だろう。黒雪の影響か先端部分が黒く変色し、一本一本が鋭利な光を放っている。全てに神経が通ったあの髭全てが矛であり手足であり、そして幾千の魔獣を従える絶対強者の証。
『奴らは一度交戦して仕留めそこなった獲物を絶対に忘れない』
つい数十分前に聞いたオルクの警告が蘇る。
戦場で対峙するまでもなく、奴は軍勢から離れカリバーンを潰しに来たのだ。
――巨獣、モービィーディックがカリバーンの行き先に立ち塞がっていた。
「御使命だ。ああいう手合いはお前の好みか、色男?」
「御遠慮願いたいものだ」
白鯨の咆哮に炙られながら、震えそうになる声を覚悟で押し殺す。
人知れず前哨戦は始まった。