短編 待ち受け画面の人。 過去を背負った男。
仕事を終えると駅前に広がる繁華街の裏通りにある雑居ビルの地下に誰からも気づかれぬかのようにひっそり佇んでいるバーで少しばかり飲んでから家路に向かう。それが毎週金曜日の俺のルール。
手を抜くのが下手なせいか、金曜日になると必ず疲れのピークがやってくる。
それをリセットするために酒をたしなんでいるが、もともとは酒が苦手な下戸だった。
そんな俺が酒を楽しめるようになったのは徴兵の兵役がきっかけと言えるだろう。
兵役期間は辛く厳しいものだった。緊張の連続だった。
除隊するまで、常に何かを意識し、正確に行動しなければならない日々というものには慣れる事はなかった。
いつしか、その気持ちを緩和させるのに酒が必要になっていた。
娑婆に戻った初めの頃は、得体のしれない不安な気持ちに歯止めがきかず、毎日のように酒に溺れていたが、このままいけば、いつか廃人になるだろうと思い、週一回と言うルールを自分に課した。
会社勤めを始めてからは、会社の人とも飲みに行ってはいたが、元々つるむのが苦手だった俺には、どこか居心地が悪く、やんわりと断っているうちに、誘いもなくなった。
だが、俺にとって、それは好都合で、誰の気兼ねもせず一人で静かに飲める場所を探すことができた。
何軒か入ってみたが、どこもしっくりこず、しばらくふらふらと店を変えていたが、たまたま通った路地裏の道の隅に立てかけてあった小さな看板に目が留まった。
「bar asylum」。その名に吸い寄せられたように階段を下りて、こげ茶色の塗装が所々剥げた木製の扉を開けると、狭いキッチンでグラスを磨いているまだ若さが残るバーデンダーが此方を見て軽く会釈した。
低い通る声で「いらっしゃいませ」と言った。
1kの部屋ほどの空間、程よい音量で1950年代のモダンjazzが流れている。古びた黒い壁には、外国の風景画であろうと思われる小さな絵画が飾ってあり、その部分だけが間接照明に照らされている。
バーテンダーの領域も柔らかな照明で包まれていた。カウンター席が8席しかなく、カウンターのテーブルもよく磨かれてはいたが、木の質感から年季が入っているのが分かった。
これは、後になってから知ったのであるが、この店は「店のファン」の手によって引き継がれていて、彼が6代目になる。
店のコンセプトも店の名の如く、「逃げ場所」。それは昭和の時代からずっと変わらず守り続けられている。だから、柵から逃れてくる者を包み込む雰囲気を醸し出しているのだろう。それが俺には心地よく、この店を見つけた時は、「ようやくみつけた」と思ったほどだった。
軽く会釈して、バーテンダーの斜め前のカウンターに座ると、「いつものを」と、注文した。
それが通じるほど、俺はこの店に愛着を感じていた。
カウンターの壁際の席には、いつもの老人がウイスキーのロックを傾けていた。目が合うと老人も俺の事を覚えていたようで、このバーに通い始めてから初めて会釈をされた。
俺は「誰にも干渉せず。誰からも干渉を受けず」が、この店の暗黙のルールと思っていた。それが居心地の良さだった。しかし、沈黙が破られたからには、これも何かの縁なのだろうと、「どうも」と言って頭を下げた。
バーテンダーは、アイスピックで手際よく氷の塊をゴルフボール大の大きさに砕き、よく冷えたグラスに氷を入れ、「ジョニーウォーカー」をゆっくりかつ丁寧に注いでいった。
ウィスキーと言えば、今やジャパニーズウィスキーが世界の主流であるが、私は、年中曇り空で肌寒いスコットランドの地のオーク樽で何年も寝かされた、スモーキーな味わいが好きであった。
バーテンダーが、「お待たせしました」と言って、静かに俺の前にグラスを置く。
それを見ていた老人は、残り少なくなったグラスの酒を飲み干すと「一杯おごってくれんかね」と、話しかけてきた。
突然の事だったが快く「いいですよ。ジョニーウォーカーでもかまわないですか? 」と言うと、「かまわんよ。わるいね。」と言って、グラスをバーテンダーに差し出すと、少し笑みを浮かべ「すまないね。」と言った。
そして、ふらりと席を立つと「どうだい。一緒に飲まないか? 」と声をかけてきた。
私はこの展開にどうしたものかと戸惑ったが断わる理由もない。「どうぞ」というと彼はゆっくりとした足取りで私の横に腰を掛けた。そして、バーテンダーから差し出されたウィスキーのグラスを左手で持つと「では、遠慮なく」と言って口に含んだ。
老人の振る舞いに戸惑いながらも無言でいては居心地が悪い。しかたなく俺は「いつもあの席で飲んでいるのをお見かけしますが、この店にはいつ頃からきてみえるのですか? 」と当たり障りのないことを尋ねた。
すると彼は「そうだなぁ。除隊してからだからもう数十年というとこか・・・・・・」と言うと、初めて言葉を交わす私に向かって、老人の人生の一部分を語りだした。
それはグラスの氷が溶けていくようにゆっくりと、そして繊細に。
‘‘‘俺は老人の話を聞きながら横目で見ていたが、その時、初めて老人の身体の異変に気付いた。カウンターに乗せられた右手は全く動かない。薄暗い店内でも常にサングラスをかけていたのは右目が義眼だからだ。
「20年位前の事だが、ニュースでも大々的に取り上げていた、この国が初めて派兵した時の事を覚えているかい?」
「ええ。一応私も兵役を終えてきたので・・・・・」
「そうか。なら、概要は知ってるんだな。だがな、現場はもっと最悪だった」
老人の言葉に、息をのんだ。世間一般に伝えられたこと、部隊内で知りえた事以外に知らない事があるのかと。
「俺たちは、戦闘に関わらない後方支援と言う名目で派兵された。戦場で消費されるあらゆる物品を輸送する役目だった。政治家のお偉いさんも、そう言ってただろう。けどな、あんなの現場を知らない奴の戯言だぜ。相手からしちゃあ、前線部隊だろうが後方支援だろうが「敵」には変わりないし、自分たちの有利になるように敵を仕留めるのが最善なんだから。戦いにキレイも汚いもねえんだよ」
私は老人の言葉に静かに聞いていた。それしかできなかった。
「確かに、俺たちも争いには巻き込まれないだろうと思ってたところがあった。しかし、あの日、戦闘地域外の場所で、突然ロケットランチャーを打ちこまれてな・・・・・・」
老人はそう言うと、顔を歪めながら酒をあおった。
「俺の部下に、人のいい奴がいてな。徴兵制度が発令されてからの一期生の奴だったが、少し不器用だけど真面目で、いつもかわいい嫁さんの自慢をしてた。本当に戦闘に向かない奴だったよ。そいつが、なんでか、移動前に、俺に、「妻にメッセージを残して起きたいから動画を撮ってくれませんか?」って頼んできてな・・・・・・。今思えば、虫の知らせだったのかもって思うが、それで、「縁起でもない事やるなよ」って笑いながら、動画を撮ってやったが、それが、奴との最後の会話になっちまった・・・・・・。被弾したまでは覚えちゃいるが、気が付きゃ、病院のベッドに寝かされててな・・・・・・。ようやく喋れるようになって、事情聴取をしに来た奴に「他に無事な隊員はいるのか」って聞いたら、「あなただけです」と言いやがった・・・・・・」
老人は、動かない右手をさすりながら、声を震わせていた。
「そうでしたか」
「ああ、一瞬で全滅だった。ほんとうに最悪な結果だった」
彼はくたびれたカーキー色のブルゾンの内ポケットからクラシックなスマートフォン型の携帯電話を取り出すとカウンターの上において起動させ、私の方へ押し出すと待ち受け画面を見せた。
「見てくれ。俺の妻だった女だ。綺麗だろう。ミスキャンパスにも選ばれたことがあるんだぜ。俺の人生で唯一誇れるものがあるとしたら、彼女が俺の妻だったってことぐらいだ。でもな、それもわけのわからん正義という名の争いで失ってちまった。」と言って静かに笑った。
「妻だった」と言ったその意味は問うまいと聞き流したが、彼は携帯電話をひっこめると「戦闘で廃人になって帰ってきた俺に帰るところはなかったがな」と独り言のように呟いた。
その時、俺は辛い兵役を思い出しながら、「それでも俺はラッキーだった」と初めて思った。
話し終えた老人は、枯れかかっている花に水を与えるようにグラスを持ち上げたが、グラスの中は空っぽだった。
そして、「俺の人生なんて空虚なものだ」と言いたげな表情でグラスを見つめた。
私は、老人に「どうですか。もう一杯」と聞くと、ばつが悪そうに「気持ちは嬉しいが、つまらん話まで聞いてくれた上にもう一杯だなんていくらなんでも」と断った。
俺は老人の気持ちを汲んで「わかりました」とだけ言って自分の酒をあおった。
バーテンダーは老人の空いたグラスを下げると、新しいグラスにアイスピックで砕いた氷を入れ、棚の隅から「グレンモーレンジ」を取り出し、封を切ると、生まれたばかりの赤ん坊を抱くようにそっと両手でボトルを持ち、グラスに注いだ。
静かに老人の前に差し出された、「グレンモーレンジ」は、この店では初めて見る銘柄だった。「ジョニーウォーカー」と同じ、スコットランド産のシングルモルトウィスキーでありながら、製法は少し異なり、華やかでフルーティな香りを漂わせる。
バーテンダーは、穏やかに「これは僕からのおごりです。」と言った。
老人はにやりと笑い「すまないね」と言ってまたグラスの酒をあおった。