なろう系主人公が嫌われる理由は?
「オレは戦うのが好きじゃねぇんだ……
勝つのが好きなんだよォォッ!!!」
「勝利の瞬間の快感だけが……!!
仲間の羨望のまなざしだけが……!!
このオレの心を満たしてくれるんだ!!」
というのは、ダイの大冒険のフレイザードのセリフですが、これ悪役だから言ってもいいことなんですよね。
ですが、なろう系の主人公のメンタルや、実際にやってることって、結局これなんですよね。
あともう一つ、魔人探偵脳噛ネウロ第35話の「格【ランク】」というお話をご存じでしょうか?
デイビッドという外国人、が小さい時から平等の精神を教え込まれて育ったといいつつ、日本は下等な場所で優越感を得るには最高といい、異文化交流に優越感を求めるデイビッドは、控えめでおしとやかで、日本人女性の鑑のような女性である露木に対して、自分に追従する喜びを教えてやろう、と彼は声をかけたのだが、露木は告白を断った。
日本人のような下等で格下の人間が、格上の自分の気分を害するのは許せないだから殺したと。
それに対して主人公の弥子は言います。
なんか幼稚ですね。
自分より下だと思っている人のところへ来て、自分は特別だと思い込んで得意がる。
それはまるでクラスで相手にされない中学生が、小学生の遊び場でガキ大将を気取るようなものではないか。
振られた腹いせに人を殺すなんて、単純にあなたという一人の人間が格下なだけなんじゃないか?
とですね。
これは、なろう主人公が気に入らない人間は、叩きのめしたり、あっさり殺したりして、気に入ってちやほやしてくるする相手にだけは、とても優しくする論理なんですよね。
なお、鬼滅の刃の炭次郎に対しても、特別にいい人っていうけど、実際はそうじゃないよね、という評価が一部であったりします。
また、冒頭で息のある禰豆子の傷を医者に診せようとしたが、富岡義勇が妹はいずれその子は人の肉を食らって生きる鬼になってしまうから、この場で殺すと言ったわけなのですが……。
そこで炭次郎は、禰豆子は大丈夫だ! この子は人を食う鬼にはならない! と言って説得するわけです。
しかし、そこに何ら根拠も説得力もないのに、富岡義勇も何故だか炭治郎の熱意に負けて、そんなに言うなら大丈夫かもな、と剣を納めてしまうのはおかしくね?
ともいわれてるし、周りからのヨイショとギャグがほんと寒い、きもいともいわれてますから、鬼滅の刃ってなろう系と、ご都合主義のシチュエーション至上主義が結構目立つという点では、実はさほど変わらないんですよね。
鬼滅の刃って、意外とアマゾンとかで辛辣な評価つけてる人多いんですが、そういうのはなんか消されてるみたいだし。
まあ、それはともかく、主人公の態度がそんなのでも周りはちやほやする人間しか残らないという、いびつさになるわけです。
いわゆる太郎系アニメの主人公の多くは人格が劣悪で、人をイライラさせる天才なのですが、作中では「良い人」として扱われてるためなぜかちやほやされるわけですね。
あとえばギアスのルルーシュはかなりのチート主人公ですが、すぐに慌てふためくポンコツシスコン野郎ですし、作中でそういう欠点が指摘されてるので、ちゃんと物語のキャラクターの中でも組み込まれると、そういった欠点が個性にもなるわけです。
無論、ギアスをかけているわけでもないのに、ゼロ(ルルーシュ)の崇拝者みたいな人物もいるわけですが。
さらに、転生系だとその世界に馴染もうとする描写がないことに加えてやたらと無能というか、異世界を文化的に下にしがちなのが問題なのでしょう。
それこそなろう主人公は”自分より下だと思っている人のところへ来て、自分は特別だと思い込んで得意がる”のが気持ち悪いという感覚になりがちなのでしょうね。
もっともなろうの主人公は精神的には普通の人なんでしょう。
しかし、強い力のある人間が普通の人ではまずいので、基本そういった設定の場合はかなり良い人、もしくは弱い相手に力を誇示したりはしないわけです。
拳銃を持つ特別な許可を得て、素手の弱い者にも銃を向けるのがなろう主人公、相手も銃などで武装しているときだけ、銃を使うのが普通の主人公といえばわかりやすいですかね。
まあほかにも、転生する前はせいぜい平凡か多くはコミュ障な人間であるのに対して、転生後には普通に話せたり(でも偉い人への態度はなってない)とかの、完璧超人になれる因果関係が不明でおかしくねとか。
主人公がチートと呼ばれるほどの力を得るが、そもそもそれを得た理由が驚くほど大したことないのに、やたらと強力で制限や反動もなく、しかもそれを借りものだと自覚していない。
物語の流れでハーレムができるならともかく、都合よくハーレムを作りたいがための物語なのがキモい。
などがありますが、これらは”シチュエーション至上主義”が大事な人にとっては大した問題ではないのですね。
ちなみに幼女戦記の主人公を評して”徹底的な利己主義者、保身優先で虚栄心は一丁前にあるけども権威には積極的にへりくだって他人を貶め虐げることも躊躇しないようなクズオブクズ。
社会人からすると、ここまで人の気持ちを顧みない人間は出世も、仕事も、管理も、営業も出来ない”といわれていたりするのです。
ですが、日産時代のカルロス・ゴーンが一時期どういう扱いをうけていて、現在はどうなっているかを考えると、彼は殺されなければ、彼がどんどんやめさせたために会社の業績が傾くという、追放物の勇者パーティの無能勇者みたいな悲惨な立場になってたんじゃなかろうかと、思ったりもします。
好意的な読者、視聴者には冷淡だが超合理主義の優れたエリートサラリーマンに見られてるわけなんですけどね。
結局の所は、主人公が活躍するなら、主人公も敵も味方も特段の理由なくみんな馬鹿で、作者の思うとうりに動くだけの、個性という顔のないマネキンでもいいじゃん、というのを許容できるか、できないかで、なろう主人公を嫌うか許容できるかになるのでしょう。