02. 望むものはただ、
「なあ、辺境の村にある宝玉の話、聞いた事あるか?」
「ああ、その小さな小さな欠片でも、手に入れれば望みは永久に叶うとか」
「本当だと思うか?」
「さあな。でも嘘でも縋りつきたくもなる力だよな」
噂話をしていたのは、誰だったか。記憶は遠い。
昔から似たような話は幾度となく耳にしていたが、さして興味を引くことはなかった。女神の手足となる天使がそのような戯言に惑わされるわけがない。望みが叶うも叶わないも、すべては女神の思し召しなのだから。
「あなた、強い強い望みを抱いているのね」
役目を与えられて降り立った地上で、人間たちに女神の意思を伝えるべく導き教え、全う出来たと一息ついた時に、現れた女。村外れにある豊穣の神を祀る祠に挨拶をし、背を向けたタイミングだった。
天使を認識するはずのない人間から、それでも声をかけられることは稀に起こり得る。各地で語られる伝承がそれだ。生きる世界が異なっていても、波長が合う、また特異な条件が揃うなどすれば、二つの世界は一時的にでも重なる。
それでも滅多にある状況ではなく、ヴァリオルは僅かばかりの驚きをもって振り向いた。
声の主は、使い古された色もないような布地を頭巾のように目深に被った人物。性別とおおよその年代は察するものの、表情ひとつ見て取れずに訝しむ。
「驚かないのか」
「何がでございましょう。流浪の民なれば、不可思議も茶飯事でありますもので」
なるほど、それならば先程の村の中に覚えのないことも頷ける。
これだけ天の者と波長が合う人間なら、ある程度の立場で都にでも生まれついていれば巫女かその類に祀り上げられていてもおかしくはないのだが。巡礼巫女とも見えない。とするなら逆に、奇異の目で疎外され旅をしているのか。
「その流浪の者が何の用だ。天の使いとしてこの地へと遣わされたが、お前に与えられるようなものは何一つ持っていないぞ」
「滅相もない。あなたのお姿をこの目に焼き付けることが出来たなら、それだけで勿体ない限りでございます。ご挨拶だけさせていただければと、恐れながらお声掛けさせていただきました次第で」
「変わり者と言われないか?」
「生まれついてにございます」
ほほ、と笑い頭を下げる女に苦笑する。
人間から見る天使は神々しくありがたいもののようだが、本人たちからするとそれほどでもない。まさしく神々しい、そんな言葉では言い表せぬ神そのものを見知っているのだから、天使なんてものはそれこそ神の使いでしかない。人間を見守りはするが、天気を操ることなど出来ないし、敬虔な祈りを聞き届けてやることも不可能だ。自らの願いさえ成し遂げることが難しいというのだから、何がありがたいものか。
最近になってようやく手に入った幸せを思い返しては噛み締め、――ふと、目を眇めた。
何か、どこか、感覚に触れるものがあることに気付いた。それは微かな耳鳴りのような、遠く呼びかける優しい声のような、眠りの中で聞く雨の音のような。あるいは幾重にも包まれた荷の中身を手探りで当てるような。
それほどに気配は薄く、なのに気のせいと片付けるほどには軽くない。
目の前の女を観察するように、視線で探る。率直な言葉にするなら、小汚いくらいの女だ。現在地からして辺鄙な村なのだから、誰も彼もがみすぼらしいほどの格好なのは把握していてもなおのこと。
女が困ったように首を傾げ、布地で隠れた手で口元を覆う。その時、
「お前――、」
心音と呼応するように煌めく灯火を、見た。
*
「ミア、今日はとってもいいお天気よ。少し散歩でもしましょうよ」
セルフィルは毎日のように友人のもとへと訪れていた。もともと頻繁に顔を合わせる関係ではあったが、あんなことがあったのだ、放っておけるはずがなかった。
ヴァリオルを追いかけて地上へと向かわないよう監視をとの言葉に自ら名乗りを上げもしたが、友人として寄り添おうと決めている、そんな命令など知ったことではない。
自室の窓際に座り込むミアシェルは椅子の上、声は聞こえているだろうに、膝を抱えぼんやりと虚ろな目で遠くを見るばかり。
恋人を失って、彼女は変わってしまった。誰が訪ねようと応じることはなく、家に閉じこもったまま一切の交流を断って。
たくさんの友人に囲まれて、あんなに明るく無邪気に笑っていた彼女が。恋をして、実らせて、うっとりと惚気ける様には呆れもしたけれど、ついこの間まで幸せいっぱいに笑顔を振り撒いていたのに。
気落ちなんて言葉では表せない。魂が抜け落ちてしまったかのよう。
外から差し込む陽射しに浮かび上がる青白い顔。随分と痩せた。日に日に憔悴していくのが目に見えてわかって、セルフィルは自身の無力さに胸が締め付けられる。
お菓子を焼いてみたの、お祭りがあるみたいよ、ハディールが失敗してベソかいてたの、イベントや友人の話題を捻り出し、何かしらの反応がないかと連日話しかけても効果はない。まるで壁に向かって話しかけているかのようだった。
「セフィー、今日も一人か?」
ミアシェルのもとからの帰り道、庭園のベンチで伏せていた顔に落ちた影。目線を足元から引き上げれば、友人たちの見慣れた姿。
「大丈夫か? ……って大丈夫なわけないよね」
顔をしかめた友人たちは無遠慮に隣に腰を下ろす。
こんな時、これまでなら真っ先にそうしていたはずの彼女はいない。当たり前だ、思い悩んでいるのは彼女で、自分は慰め励ます側なのだから。
「あんたまでどうにかなっちゃうんじゃないかって、みんな心配してんだからね」
「大丈夫よ。私はほら、どっからどう見ても元気元気、でしょ?」
「どこが。顔色悪いよ?」
「たまにはミアのことじゃなくて自分のこと考えろよ」
それぞれにかけてくれる声は、気持ちは、とても嬉しい。だからといって、ミアシェルのことを考えないではいられない。
二人が引き裂かれる瞬間を目の当たりにした。寝ても覚めても、あの現実を忘れることも無かったことにも出来るはずがない。
何より、どうにかしてやれることはないかと考えていること自体、ミアシェルのためでもヴァリオルのためでもなく、自己満足でしかないのではないかと自覚している。自分はこんなにも彼らを大切に想っていると、自身を納得させたいのか――。
「あんたがあの子支えるんでしょ? 一緒に潰れちゃダメだよ」
パンッ、と肩を叩かれて我に返る。
「……うん。ありがとね」
向けられる眼差しにそっと微笑みで応えた。ちゃんと笑えていたか自信はない。友人たちも困ったように笑っていたから、きっと笑顔とはいえない表情になっていたに違いない。
ミアシェルもヴァリオルも大切な友人だ。彼が何をもってして断罪されたのか知らされてはいないが、それでも友人であることは変わらないと思っている。彼女もまたそうなのだろう。天使として身に刻まれた女神への崇拝と、彼への愛情と、両立させられない想いに引き裂かれる気持ちに言葉もなく堪えて。
何も出来ない自分があまりに歯がゆい。