01. 終わりが始まった日
――ある人の話
奴らは八時発の通勤快速つくばエクスプレスに乗って東京にやってきたと言われている。
電車が秋葉原駅に到着した時には既に乗客は全滅しており、代わりに出てきた雪崩のような群衆が、プラットホームで電車を待っていた客たちに襲い掛かったのだ。
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「はぁ、はぁ……!!」
昔から走るのは好きで、自分の脚に自信を持っていた。今まで生き残れたのもこの逃げ足のおかげだ。
……だから、なのか。迂闊だった。直線なら逃げ切れるはずが、住宅街は入り組んでいて予想外に狭く、目の前には退路を防ぐように背の高いコンクリート壁があった。
『アアアアア……ッ!!』
路地の先からぞろぞろと人影が近づいてくる。この世界を支配する、『人ならざるもの』の群れ。
「ヤバい……。囲まれた」
手をかけて這い上ろうとするが、無駄だった。悟倫は壁を背にして目を見開く。冷や汗が滲んで熱された夏のアスファルトに落ちる。
― ― ― ―
結論から言えば、この世界は既に終わっている。それも三ヶ月も前に。
ことの始まりは栄世二年――つまり、西暦二〇二〇年の四月十七日。
悟倫はその日のことを今も鮮明に覚えている。確か金曜日で、高校の入学式から一週間も経ってない頃だ。
授業中、悟倫がシャーペンを片手にぼんやりしていると、中庭から耳を貫くような女生徒の悲鳴が聞こえてきた。寝落ちしかけていたクラスメイトの意識が一気に覚醒し、まるで周波数が合わないラジオのようなざわざわという囁き声が教室に広がる。
担任が「静かにしなさい!」と窘めたが、無駄だった。悲鳴は連続して聞こえてきて数分と経たない内に学校中が恐慌に陥った。
その内、別の先生が慌てて教室に駆け込んできた。中庭を避けてグラウンドに向かうようにと指示して、それからまた弾かれたように廊下に飛び出していく。
授業をしていた他の先生が呼びかけて、悟倫はこれから行うであろう避難訓練のように一列になって階段を下りる。他のクラスも一斉に出てきたからか、職員室横の中央階段は凄い人込みになった。
その間にも悲鳴は断続して聞こえていて、段々と近づいているような気がした。今となっては実際に近づいていたのだろうが、その時の悟倫は何が起こっているのか分からなかった。
人の流れに沿ってそのままグラウンドに整列し、周りの先生が慌てて駆け回っているのを体育座りでぼんやり眺めていると、隣に座るクラスメイトが不思議そうに首を傾げる。
「おかしいな……」
「どうしたの?」
「スマホが使えない……」
「うそ……。えっ、アタシもだ……」
どうやら教室からちゃっかりスマートフォンを持ってきたらしい。校則では昼休み以外は使えないことになっているので、悟倫は電源を切って教室の鞄に入れたままだった。
ブラウザには『インターネットの接続がありません』と端的に表示されていた。画面の上にある電波マークも何故か消えており、ネットワークから完全に遮断されているのが分かる。
「何で……」
一応、カメラなどのアナログ機能は生きているものの、もはやこうなるとただの箱だ。
「うわ、マジかよ」
「ちょーだりぃ……」
周りのクラスメイトにとっては今起きていることよりも、ゲームができないことやSNSに繋がれないことの方が深刻なようだ。
『アアアアア……』
「くっ、おい! 誰か!」
その内、整列している生徒たちの前に一人の男が現れた。
おぼつかない足取りで出てきたのは、中年のサラリーマン風の男。着ている背広はペンキをぶちまけたように黒く汚れていて、生気のない顔に混濁した白目を剥いている。
『アアアアア……ッ!!』
男は唸り声のようなものを上げながら、近くにいた生徒指導の教師に向かっていく。
その直後だった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
男が大きく手を広げて抱き着いた瞬間、教師から悲鳴が上がった。
どうやら首元に喰らいつかれたらしく、勢いよく噴出した鮮血がグラウンドを濡らす。教師は抵抗しようと揉み合っていたが、その内に倒れて男が馬乗り状態になる。
「えっ、何あれ……」
「ヤバくない?」
整列していた生徒たちは唖然として、その光景をただ見つめることしかできない。悟倫を含めて助けに入る生徒は誰もいなかった。
……ただ、動けないでいるにしても、手にしたスマホでパシャパシャと写真を撮ったり、動画を撮ったりはしていた。
それはもはや彼らにとって人命救助よりも優先される本能のようなものだった。端末がオンラインであればすぐにでもSNSに共有していたはずだ。
それを見て、悟倫は背筋が寒くなった。
目の前の異常もそうだが、それ以上にみんなして撮影に勤しんでいる状況の方がよほど恐ろしいような気がした。
「がっ……」
教師は足をバタつかせて必死の抵抗を続けていたが、やがて息絶えて絶命した。
呆気ない最期だった。当の男は殺すだけでは止まらずに、尚も死に絶えた肉体に食らいついている。腹部が引き裂かれて、腸のようなものが大量の血液と共に引き出された。
「いやああ!!」
「う、うわああ!!」
数秒遅れて悲鳴が上がる。今になってようやく現実に引き戻されたのだ。
恐怖はすぐに伝播して、生徒は目の前の不審者から逃げ出した。散り散りになって、そのほとんどはグラウンドから一番近い裏門に殺到した。狭い出口なのですぐに人が詰まって混乱が起きる。
悟倫はその中でただ一人動けずにいた。恐怖で足が竦んでいたわけではなく、この状況を何となく理解しかけていたのだ。
前にロメロの映画で観たし、漫画でも読んだことがある。混乱する群衆と共に行動するのはむしろ悪手だ。ここはまず現状を把握して、それから武器を持って、水と食料を集めてからショッピングモールにでも立て籠もるのだ。
『アアアアア……』
そうぼんやり考えていた悟倫の前で、今まで食事中だった男が身体を起こした。
白濁した瞳が、ただ一人立ち尽くしている獲物の姿を映し出す。
「――うわわっ!!」
その瞬間、冷静な思考は呆気なく霧散した。
悟倫は跳ねるように踵を返して、脱兎のごとく駆け出した。
既に逃げた他の生徒を追って裏門から外に出る。狂乱と崩壊の中を、悟倫は耳を塞いでただひたすらに駆け抜けた。
家に帰ろうかと思ったが、電車が止まっていてできなかった。ただひたすらに逃げて、運良く治安維持活動に当たっていた自衛隊に助けられて、市役所の敷地内の避難所に収容された。
……それが初日の出来事だ。これだけでもかなり濃い内容だが、翌日からもっと悲惨な出来事が続いた。
依然として続いている謎の電波障害、それに伴うデマの拡散、避難所に次々と侵入してくる『奴ら』との闘い、インフラストラクチャーの完全な崩壊、生き残り同士での食料や水の奪い合い、横行する暴力やレイプ……etc
悟倫は最初の内、この一連の出来事は何となく映画みたいに二十八日以内に収束するという一種の希望的観測を抱いていた。
……だが、状況は悪くなっていくばかりだった。一度壊れた世界は壊れっぱなしだった。政府の対策も虚しく、自衛隊が言う『狂人病患者』は増え続け、数日と経たない内に東京は壊滅した。
報道機関やインターネットが機能しないので、他の都市や海外がどうなっているのか分からなかったが、噂によると、どこも同じような状況らしい。
その内に避難所も崩壊した。
頑丈そうに見えた市役所の正門が、大軍で押し寄せる〈喰人〉(『奴ら』のこと。誰が言い出したのかは分からないが、政府の狂人病患者という呼び方よりも広く普及している)に耐えられなくなったのだ。
それから、僕は逃げた。逃げて、逃げて、逃げて逃げて時々殺して逃げて殺して逃げて逃げて逃げて逃げて――そして、今日に至る。
― ― ― ―
「畜生……っ!!」
思わず叫んで壁を殴りつける。今や死の群衆は数十メートル先まで迫っていた。
こんな最期なんてあんまりだ。何も成さず、ただ逃げ続けてその先で死ぬのだ。思い返せば、自分の人生は常に負け続けだった。何かに負けて、そして逃げた。
大好きだった陸上にしてもそうだ。中体連で完敗して、それからは走るのが嫌いになった。自分の才能を呪い、世界を呪い、他人との競争を避けた。
何もないことを知っていながら、何かを望むことをせずに諦めた。
『アアアアア……ッ!』
この世界を跋扈する捕食者が、涎を垂らして近づく。
それを見ながらも、悟倫は抵抗せずぼんやりとしていた。もしかしたら、既に生きることを諦めていたのかもしれない。
その時だった。
「――おい、そこのお前。生きたいか?」
「えっ?」
声は頭上から聞こえた。
悟倫が壁を仰ぐと、塀の上に一人の男が立っている。
「あ、あの……生きたい、です!!」
「そうか。だったら掴まれ」
男は頷くと鞄から出したロープを垂らした。
悟倫はそれを掴んで、死に物狂いでコンクリート壁をよじ登った。〈喰人〉の群れから逃れ、ひとまず生き残れたことに安堵して、そのまま芝生の上にへたりと座り込む。
庭先には男の仲間がいて、談笑しているのが見える。
「助けてくれて……その、ありがとうございます」
「いい。借りは仕事で返せ」
グループのリーダーらしい眼鏡の男は不愛想に言って、悟倫にそっと手を差し出した。
「……ようこそ、第七十六番村へ」
――それが、森守率いる『外組』との出会いだ。
今からもう二週間も前の話になる。