Prologue. 告白
「じゃあ、付き合っちゃう?」
「別にいいですけど……」
彼女から何気なく放たれた言葉に、悟倫は考えずに返事をしていた。
「――って、え?」
「ほっ!」
『ア、アア……』
数秒遅れて振り返ると、告白の主は丁度部屋にいた老人の頭部に鉈を振り下ろしていた。
頭蓋骨が割れる耳障りの悪い音が聞こえて、脳漿と黒く酸化した血液が辺りに飛び散る。
畳の上に倒れた老人は手を伸ばして苦しそうな呻き声を上げるが、彼女――戸川江音は容赦なく二発目を叩きつける。
老人が完全に沈黙すると、江音は土足のまま畳に上がって、タンスの中身を漁り始めた。
その実に手際のいい、日々の狩りで洗練された一連の動作を見ながら、柏木悟倫は小さく息を吸ってもう一度訊く。
「えっ、付き合うって……誰と?」
「君と」
「何で?」
「んー、特に理由はないかな? ……強いて言えば他に選択肢がないから? 村には付き合いたい人もいないし。あっ、乾電池発見!」
「…………」
これは素直に喜んでいい話なのか、それとも呆れるべきなのか。未だに女の子と付き合ったことのない悟倫にはよく分からなかった。
先程まで好きなタイプについて話していただけなのに、どうしてこのような展開になってしまったのだろうか。絶賛モラトリアム中の高校生の身からすれば女子大生は憧れのお姉さん的な存在であって、今まで江音を恋愛の対象として見たことがなかったのだ。
「僕の他にもいい人はいるじゃないですか。スーさんとか、森守さんとか……」
「スーさんや矢口はともかくとして、森守さんは萌花ちゃんが狙ってるしね……。ねぇ、悟倫くんってさ。今までに付き合ってた人とかいたの?」
「いないですけど……」
「じゃあ別にいいじゃない」
「いや、そういう問題じゃ……」
会話をしながらも戸棚を漁る手を止めない。預金通帳や印鑑の類はもはや価値がないので、まだ未開封のせんべいや懐中電灯用の乾電池を見つけて鞄の中に入れていく。
「缶詰ありました?」
「ん~、ない。あ、代わりにカップラーメンがあったわ」
「よし。それじゃあ、そろそろ出ますか」
「そ、の、ま、え、に……」
悟倫よりも三センチほど背の高い江音は、ふくよかな胸を張って目の前に立ちはだかった。その顔にニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべて、人差し指でとんと胸を突く。
「答えを聞こうかな?」
「えと……。今は、ちょっと……」
悟倫は視線を逸らし、狼狽したままボソボソと言った。
「私のこと嫌い?」
「いや、そうじゃないんですけど……。その、初めてで……」
「そう……なら、いいわ。待ってあげる」
「えっ、いいんですか?」
「いいわよ。私もそんなガッツいてるわけじゃないしね」
江音はそう言うと、顔を近づけてそっと耳打ちする。
「――でもね、悟倫くん。時間は待ってくれないわ」
「えっ?」
「ううん。何でもない。行きましょうか」
踵を返してさっさと部屋を出ていく江音を追って、悟倫も慌てて鞄を背負い直して続く。
〈喰人〉の集まり具合にもよるが、一つの場所に滞在するのは三十分が限度だ。それを過ぎると群衆に囲まれて動けなくなってしまう。
「おい、集合だ。また集まってきやがった!!」
廊下に出ると男の声が聞こえてきた。マンション脇の駐車場を見下ろすと、数体の〈喰人〉が見える。
「不味いわね……」
「だ、大丈夫なんですか?」
「――まだ大丈夫だ。問題ない」
二人の声を聞いて隣の部屋にいた森守優と愛宕萌花のペアが出てきた。二人も同じように膨らんだ鞄を背負っていて、それぞれ刀と小銃で武装している。
「でも、森守さん……」
「大丈夫だ」
「ホントのホントに大丈夫なんっすか~、先輩?」
「……やれやれ」
うりうりと肘を突いてくる萌花に、森守はため息を吐いた。
「分かった。駐車場の奴らを片付けろ」
「了解っす!」
萌花は頷くとスカートに差した刀を抜いて階段の方に駆けていく。
「これであと五分は持つ。この間に戻るぞ」
「はい!」
三人は満杯になった鞄を担いで一階に下りた。その間にも萌花の殺戮ショウ――改め、戦闘は続いているらしく、「うりゃー」だとか「どりゃー」だとかいう気合の声と〈喰人〉の呻き声が聞こえてくる。
『アアアアア……』
「くそっ、こいつら!」
マンションの表に停めてあった軽トラの周囲では、スーと矢口の二人が裏路地から出てきた〈喰人〉と戦っていた。
スーは大きなバールで、矢口は狩猟用に改造されたエア・ライフルで、それぞれ頭を狙って応戦している。
「大丈夫か!」
「こいつら結構多いぜ!」
「ちっ、銃は使いたくなかったが……」
森守は鞄を荷台に載せて肩に吊っていた八十九式小銃を構えた。本職のような淀みのない動きでカチャリと安全レバーを動かす。
「江音は荷台に乗れ。悟倫は隣の駐車場から萌花を呼んでこい。村に戻るぞ」
「分かったわ!」
「はい!」
悟倫は頷いて踵を返した。駐車場にはバラバラに切断された死体が散らばっていて、その中心には赤く染まった日本刀を携えた萌花さんが茫然と立ち尽くしている。
〈喰人〉の死体には大人から子供までいて、彼らの遺品の中には赤色のランドセルが転がっていた。その持ち主らしき髪を二つに束ねた女の子も、半身と首を切断されアスファルトに転がっている。生首は脳が無事だったらしく、未だに白目を剥いて口をパクパクと動かしていた。
ホラー映画の中でしか見たことがないような異常な現実。しかし、悟倫は既にこの景色に慣れてしまっていた。
「あの、萌花さん……」
急に近づくと反射的に斬られそうで怖い。悟倫はまるで昔に観た『キル・ビル』のワンシーンみたいだとぼんやり思いつつ、少し離れて萌花に声をかける。
「あの、萌花さん! 撤退です!」
「ああ、悟倫くんっすか……」
その時、表の方から爆竹のような銃声が聞こえてきた。
血まみれの肢体の中心で恍惚としていた女子大生は、どうやらその音で我に返ったようだった。
「了解っす!」
萌花はいつもの笑みで頷いて、血を振り落として刀を収める。
「…………」
人間はどんな状況も受け入れて慣れてしまう。慣れというものは怖い。これが普通ではないことを知ってるからこそ、尚怖い。
「ほら、さっさと行くっすよ!」
「あ、はい……」
萌花についていきながら、悟倫はどうして江音が自分を選んだのだろうとぼんやり考える。
理由は考えても分からないし、もしかしたらただの冗談か、江音が悪ふざけをしているとも考えられる。
……だけど、人に好かれるのは嬉しいことだ。
悟倫はこんな終わった世界においても、恋のような何かが始まりそうな予感がしていた。