壱
「この度陛下の側妃となりました、馮雪苑でございます」
「面をあげよ」
その声を聞き、雪苑はゆっくりと顔をあげた。
雪苑は今年で16歳となる、馮王家の嫡女だ。隣には母である馮王妃も控えている。彼女は先々々代の皇帝の娘......つまりは公主である。したがって、玉座に鎮座している彼......この国の皇帝と雪苑は血縁関係、それもはとこにあたり幼き頃、一緒に過ごした仲でもある。
雪苑は、玉座に座っている彼の姿を認め、ほんの少し、眦を吊り上げる。向こうにもこちらの意向が伝わったようで睨み返されてしまった。彼の背後に控えている貴族たちから、なんとお美しい、などと耳がくすぐったくなるような言葉が漏れてくる。羞恥に顔をそむけたくなったが、この国の皇帝である義龍の御前ではそんなことはできない。仮にそんなことをしようもんなら雪苑は不敬罪で殺されかねない。
「久方振りだな。息災であったか」
「陛下の聖恩をもちまして」
本当はそんなこと微塵も思っていないのだが。
元気に決まってんでしょ、と叫びたくなるのをぐっとこらえる。
皇帝の隣には彼の後宮で最高位をほこる、高淑妃が鎮座している。彼女の雪苑を見る目は、厳しい。
なぜならば。
「馮氏を余の貴妃とする。異論はないか、淑妃」
「......勿論に御座います」
皇帝が、彼女よりも高い位に雪苑を据え置いたから。
明らかに異論しかないというようなつんけんとした声で淑妃が言う。
彼女は皇帝が皇太子時代から後宮の最高位として君臨していた。皇帝との間に子も二人いる。
今は寵愛を失って久しいらしいが。
彼女の子達の年齢を考えると、皇帝の幼き時分に、相当入れ込んでいたに違いない。
「貴妃様。大変お美しくお若い貴方様が後宮にお越しになったこと......嬉しく存じますわ」
「淑妃様......そのような言葉を賜り、わたくし」
「貴妃。自分より位の低い女に様などつけなくてよい」
外聞を気にし、わざわざ様付けで呼んだというのに彼は雪苑の気遣いに水を差す。
淑妃は明らかに苛立った様子で雪苑をねめつけた。
「......陛下の仰る通りですわ、貴妃様」
義龍の方をこっそりとうかがえば、口元に笑みを浮かべている。
さてはこいつ、楽しんでいるな。
「では改めまして、淑妃。その様な言葉を賜り、嬉しゅう御座いますわ。わたくしはまだまだ未熟者に御座います。色々と御指導のほど、宜しくお願い致します」
ほのかな笑みを口元に浮かべれば、彼女も微笑み返してくれた。最も、両者とも目が笑っていないのだが。
淑妃はこの国......大華帝国の宰相の娘なのだが、甘やかされて育ってきたがために、非常に我儘だ。立ち回りのきかない女でもあり、新しい女性が後宮に入る度にこのように軽率な行動を取る。美しく生まれてきたがために周りからちやほやされ、自分が一番という短絡思考に陥ってしまっている。この国では女が後宮に入内する際、後宮内での位の宣下を有力貴族たちも聞くことになっている。今の雪苑がその状態だ。こういった場での淑妃の振る舞いに、彼女の父は非常に苦労をしているらしい。可哀そうだとは思わない。甘やかして育てた彼が悪いのだから。
本来同じ皇帝の妻同士、後宮の女たちは助け合っていかねばならない。皇帝の正妻である皇后にも、そういった所謂淑妃とは真逆の性質が求められる。にもかかわらず、身分の良さ、淑妃という位の高さ、そして何より自身の美しさを笠に着て威張り散らしている淑妃の評判はよろしくない。後宮内ではおろか、貴族たちの話題にまで上るほどの評判。しかしほぼ全てが悪評である。
今だって。
「あぁ、もうこんな時間ですわね。わたくし皇子とお食事をとりますので失礼しますわ」
淑妃に不満を露わにする者がほとんどであるなか、彼女の父をはじめ彼女の立后を推す者もいるというのが現実だ。彼女は実家が宰相家とかなり良い身分である。傲慢だが美しく、向学心がある。そして何より皇帝の長男の生母だ。
「待つが良い、淑妃。余の貴妃との会話を放棄し、勝手に退出しようとはどういった了見か」
確かに淑妃の態度は無礼である。だが、雪苑は特に怒りとかそういった負の感情をむけよう、とは思わなかった。皇帝の長男の生母として敬われ、常に後宮の頂点にいた。それなのに、いきなり入内してきた雪苑に一番の地位を奪われたのだ。それが心穏やかでいられるはずがない。
「......体調が優れませんの」
苦し紛れに吐き捨てとも言っていい淑妃は、顔を顰めた。おそらくもうこれ以上、雪苑と顔を合わせていたくないなどと思ったのだろう。皇子云々の言い訳よりこっちをつかえば良かったのに。馬鹿だなぁ、この人。と雪苑は思った。
「まぁ、体調が優れないのですか?」
「えぇ、ですからこれからわたくしと陛下の御子である皇子に慰めてもらいますの。様々な心労が重なり、わたくしも疲れているものですから」
わたくしと陛下の御子、という部分を強調し、淑妃が言ってのける。この場合、様々な心労とは新しく入内してくる娘が自らを差し置いて最高位に付くことを差している。暗に、雪苑の入内を非難しているのだ。この時がぴくりと眉を吊り上げ不快感を余すことなく表情で伝えたの皇帝を、雪苑は見逃さなかった。
「まぁ、何かの流行り病でしょうか。城下でも風邪が流行っていると聞きますし。もしそういった類でしたら皇子にお会いになるのは控えては如何でしょう」
雪苑は正しかった。皇子の実母であろうが、後宮では風邪を引こうもんなら隔離されるのは当たり前だ。皇帝に侍るほかの側妃に移しても大変だし、何より皇子や皇帝本人に移してしまっては洒落にならないからである。それは明文化されているわけではないが、常識、及び慣例というやつだ。
だが、淑妃にはそれがわからない。
「わたくしがわたくしの子と会って何が悪いんですの?」
眦を吊り上げ、言葉一つ一つで雪苑への怒りを現す。皇帝はまた始まった、とでもいうように遠くを見つめていた。
「まぁ、お分かりになりませんの?見事としか言い様のない可哀想なお頭ですこと」
淑妃を揶揄し、嘲るこの言葉は雪苑のものではない。
淑妃の左後ろに鎮座している女性が、艶やかな笑みを浮かべながら淑妃にゾッとするほど冷たい視線を投げかけた。
「......李徳妃」
後宮において、皇后、貴妃、淑妃に次ぐ高位の妃嬪である彼女は、皇帝の長女の生母である。隣国である李国との戦の和睦の条件として嫁いできた皇女で、華国としては大事な客にも値する。彼女に失礼な態度を取れば、天下最強と謳われる李国の大軍が攻め入ってくるだろう。
「皇子様に御風邪が移ってはいけませんことよ。早くお下がりになって自室でその空っぽな頭を冷やしては如何?」
「こんの......!!」
「淑妃!」
怒りに任せ、腕を振り上げる淑妃だったが、皇帝の厳しい声にはっと我に返る。
李徳妃はうふふ、と可愛らしい笑みを浮かべ本当に可哀想、と呟いたがその声は皇帝や淑妃、雪苑には届かなかった。
一連の会話から分かる通りこの二人、物凄く仲が悪い。
「其方の軽率な言動、及び行動は目に余るものがある。それほどまでに皇后......女王の座がほしいか」
皇帝本人の前で馬鹿丸出しな発言をし、注意を受けている時点で皇后になるなど不可能に近いのだが、この国で尊重されるのは皇帝の私的感情ではなく、政治的外聞だ。
「まぁ!わたくしは陛下唯一の皇子の母ですのよ?ゆくゆくはこの国の皇帝となる身。母が皇后でなくてどうするんです?」
この国の後宮では、皇后のみが元妃……つまり、正式な妻、と認められる。要するに淑妃が言いたいのは、皇帝になる皇子のお母さんが正式な妻じゃなかったら世間体が悪いよね、ということである。
「どうだかな。余の妻を決めるのは余の役目だ」
「そうですわ、淑妃様。皇子の母とはいえ、頭の弱い方ではこの国の女の鏡は務まりませんわよ」
明らかに馬鹿かコイツ、と目で語っている皇帝を援護するように、徳妃も言う。
それにしても、2人とも皇帝臨席のこの場で、お馬鹿さん過ぎやしないだろうか。昔の自分が知る皇帝なら今頃殺されてたかもよ、君たち、と何処か他人事に心の中で呟く雪苑。どうやら彼も丸くなったらしい。父親になったからだろうか。
「陛下の長子はわたくしの姫です。この国を継ぐことが出来るのは皇子様だけではございませんわ」
淑妃よりは幾分かましだが、やはり彼女も浅はかだったようだ。ぐるりと見回すと、貴族達も嫌悪の表情を浮かべている。否、中には面白がっている者も居るようだが。
「先程の言葉は淑妃に対してのものだけではないということを理解しろ」
苛立つ皇帝に、雪苑はくすりと笑みをもらす。女達に振り回される義龍は、面白かった。
「お怒りにならないで下さいな、陛下。新しく妃を迎えられた、目出度い場ですのに。そう思いませんこと、貴妃様?」
ねっとりと喋る徳妃に、いきなり話を振られる。驚きはしないが、戸惑う雪苑に、
「答える必要はないぞ、雪苑」
淑妃の、徳妃の……否、背後に控えている高位の妃嬪達の目がつり上がる。刺すような視線が一気に集まるのを感じた。
_______ 馬鹿かお前は!
危うく絶叫しそうになる雪苑。
「……畏れ多いことにございます、陛下」
ようやく、その言葉だけをつむぎ出した。淑妃は出ていくに出ていけないといった表情でこちらを睨みつけてくる。
いや、これに関しては本当に不本意なんだってば!
何て言えるわけもなく、曖昧に微笑んだ。淑妃の表情がよけいに歪んだように思えたが気のせいということにしておこう。
徳妃に関してはおっとりと微笑んではいるものの、その目は凍てつく氷の様に冷たい。淑妃よりかは感情を隠すのに長けている。だが、雪苑に対する憎悪だけは隠そうとすらしていないようで。
というか義龍も義龍だよね!
と、心の中で叫ぶ雪苑。どうして今日、この場でお前に呼び捨てされなければいけないのだ!!
後宮解体まで、できるだけ目立たないように過ごそうと思っていたのに……!
やっぱりこいつ、楽しんでやがる。
後で盛大に文句を言ってやろう。
そう、心に決める雪苑だった。