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薔薇の咲く庭  作者: 吉幸 晶
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薔薇の咲く庭


       帰路



 翌日も朝から好天に恵まれた。この時期では珍しく、朝から気温が十六度を越える暖かな朝で、空は夜が明けると共に、真っ青に一面を染め新芽が木々の所々に、若草色を(うかが)わせている。文字通りの『小春日和』であった。


 翔太は昨晩の約束を守るため、六時に起きて顔を洗い、着替えを済ませて台所に立った。献立はいつもイギリスで作り慣れている物なので、味や見た目にも自信はあった。

 冷蔵庫の野菜室から、レタスとトマトを取り出し、生野菜のサラダを作った。二人が起きてくる時間を見計らって、パンをトースターへ入れ焼き始め、おかずのベーコンエックに取り掛かった。フライパンを熱して、ベーコンの両面をカリカリに焼いて卵を落した。水を少々入れて蓋をし、火を止めてしばらく待つ。その間にコーヒーをドリップする。

「お父さんは、紅茶の方がよかったかな?」

コーヒーの雫を見ながら呟いた。

「おはよう、翔太。とても良い香りだ。父さんもコーヒーで良いよ」

「あっお父さん。おはよう。もう少しで全部出きるから、座って待ってて」

「そうかい。じゃ新聞を取りに行って来よう」

 玄関へ行こうと回れ右をした時、貴一のすぐうしろに朝刊を持った明日花が立っていた。

「おはよう。」

 昨晩の気まずさから、声が少し震えた。

「おはようございます。」

明日花は普段通りに明るく返した。

「おはよう、翔太。本当に上手だね。手際良いし、段取りも問題無い。見た目も食卓が華やいで見える上に、この漂う香りも。文句無しよ。」

「おはようございます、明日花さん。誉めるのは、食べてからにして。でも、手際や段取りって?」

「ちゃんと、最初から見ていたわ。何処に何がしまってあるか教えていなかったから――。でもその必要は無かったみたいで、ちょっと残念だったかな」

「そうだったんだ。全然気が付かなかった」

「それだけ翔太が、料理に夢中だったということだね。」

「そうね。きっと美味しいわよ。」

「ハードルが、高くなった気がする」

 二人は期待して食卓に着いた。食卓にはトーストとバターにマーマレード。ベーコンエッグと生野菜のサラダが並べられている。翔太は、ドリップしたコーヒーを取りに台所へ戻り、カップと一緒に持ってきた。

「では、いただきます。」と翔太が言い、朝食が始まった。

 貴一は昨夜の明日花の返事をどうするか迷ったが、普段と変わらない明日花を見て、イギリスへ発つまで時間を掛けて、良く考える事にした。

「翔太、あとで冷蔵庫の中を片付けるの、手伝ってくれる?」

「いいけど、どうして?」

「今日から一週間近く留守にするから、野菜と長くもたない食材を、クーラーに入れて実家へ持って行くのよ。それで残った物は、冷凍庫へ移すの。」

「そうか。イギリスでは、無理やり食べて来たもんね」

「そう言えば、結構、豪勢な夕飯だったな」

「夜だけでは食べきれなかったから、朝からご馳走だったよね。やっぱり、明日花さんみたいな人がいると、家の中って変わってくるんだろうな。」

 一睡して普段通りに演じられるまでに、落ち着いていた明日花だが、今の翔太の一言に、動揺してコーヒーカップを倒し、ランチョンマットに溢れた。

「明日花さん。大丈夫?」

「ごめんね、あまりに美味しかったから、お代わりしようと――、慌てちゃった。」

そう言いながら、テーブルを拭いている明日花へ、「まだあるから、ゆっくりどうぞ。」そう言い、翔太は明日花のカップとソーサーを持ってキッチンへ行き、新しくコーヒーを淹れて持ってきた。


 朝食が済み、食事と食材の片付けを始めると言いながら、明日花と翔太はキッチンへ入った。

「翔太、庭の物置からクーラーを持って着てちょうだい」

冷蔵庫の扉を開けて、中の残り物を見ながら、翔太へ言った。翔太は「はい」と返事をして、物置の鍵を手に庭へ出た。

枯れた芝生の合間から、雑草の新芽が覗いている上を、サンダルで歩くと、何か懐かしい感じがした。

「何時だったかな?」

翔太は歩きながら何かを思い出そうとした。

物置自体は、かなりの年代物であった。掛かっている鍵を外し、物置の扉を開けた。中は家と同じ様に、綺麗に整理整頓されている。カビや埃の匂いも無く、床に土や塵なども落ちていない。目当てのクーラーボックスは直ぐ見付ける事ができた。クーラーを持ち出し、扉を閉めようと芝生の上に出た時に、さっき出掛かった懐かしい物が蘇った。

「そうだ、お母さんが手入れをしていた時の、イギリスの家の庭を歩いた感じに似ていたんだ。物置の片付け方も似ている。やっぱり、姉妹なんだ」そう呟いた。

 扉に鍵を掛けて家に戻りながら、一歩一歩を確かめた。恐らく枯れているとは言え、芝の手入れをした時の刈り込みの長さが桜咲のそれと同じなのだろう。それと薔薇や他の植木の位置、幹や枝の伸び方も似ているような気がした。薔薇の木の陰から桜咲が現れて、呼ばれるような錯覚に陥った。

「やっぱり、姉妹なんだ。」と今度は確信して呟いた。


 翔太がクーラーボックスを抱えて、台所に戻ってきた。

「ありがとう。そこへ置いて。」

「庭の手入れって、明日花さんがしているの?」

「えっ。何かまずかった?」

「うぅん。お母さんが手入れしていた時の、イギリスの庭と凄く似ていたから。ちょっと聞いてみただけ」

「そうね。元々は桜咲姉が手入れしていたから、趣は似ているかもね。でも良く見ると桜咲姉より、雑な性格がでているはずよ」笑いながら答えた。

「さて手渡すからその中へ入れていってくれる」

「はい。でもその前に氷を入れないと」

「大丈夫よ。お肉や魚は、フリージングしてあるから、それを氷の代わりに入れて行けば、なるべく多く持って行けるでしょ」

「なるほど。生活の知恵ってやつね」

「そうそう。じゃ、まずこれからね。」そう言って牛肉のブロックを手渡された。


 貴一は、身支度と会議の準備などを済ませて、トランクとボストンバックをハリアーのリアに載せた。そこへ、翔太がクーラーバッグを持ってやってきた。

「手伝おう」貴一が片方の取っ手を持った。

「ありがとう、助かった。明日花さんたら、目一杯いれるから重くて大変だったんだ」

「持っているから、ジムニーのリアを開けて」貴一がクーラーを受け取った。

翔太がリアドアを開け、貴一がジムニーの荷台へ置き閉めた。

「明日花さんの車は、意外と狭そうだね」

成田から乗ってきた、ハリアーと比べ、予想以上に狭い車内を見て、翔太は心配そうに言った。

「あぁ。軽自動車だからね。」

「あと、僕のハードトランクと明日花さんの荷物。そんなに積めるかな?」

「後部席が無い分、スペース的には、何とかなると思うよ。」

「翔太何やっているの?早く支度しなきゃ駄目でしょ!」

 家の中で明日花が大声で翔太を呼んだ。翔太は慌てて家の中へ入り「今すぐするよ!」と返事をした。


 予定の九時を十分ほど過ぎて、国道十八号線を小諸方面へ向け、三人は二台の車で軽井沢を後にした。

 先頭は明日花と翔太のジムニーで、貴一のハリアーが続いた。道順は昨夜貴一が地図上で翔太に教えた通りの道を、明日花は走っている。

 明日花のジムニーは、四輪駆動の軽自動車で、この時期は雪道用にスタットレスタイヤを履いている。そのせいか、路面とのタイヤ音は大きい。サスも板バネ式で、車の性能に疎い翔太は、墓までの僅か二十キロを乗っただけで、乗り心地の差が、こんなにも違う事を初めて知った。


寺へは小一時間と見ていたが、出勤時間を大きく外れたためか、車が少なく予定していた時刻より、早く着くことができた。貴一は寺務所へ行き、住職に会って挨拶をした。住職は久し振りの貴一との再会を懐かしみ、とても喜んでくれた。

また住職の話しの中で、明日花が月に一度は墓参に来て、お墓の掃除をしたり、花や線香を手向けたりしていると聞き、毎月とは知らなかった貴一は明日花へ礼を言った。

 住職との話しは尽きないが、時間があまり無い事を住職に告げ、貴一は寺務所で線香と花を買い、お墓へ向かった。十数年振りだが場所はしっかりと覚えていた。途中、手桶に水を汲み、柄杓と共に翔太へ持たせた。

墓地のほぼ真中に近い所に、祖父母のお墓はあった。

翔太は貴一と明日花に聞きながら、墓石の手入れをした。普段から手入れをしているせいか、雑草やごみも無く、短い時間で掃除が済むと、三人は線香と花を手向け、墓前で手を合わせた。

 貴一は長い間、仕事にかまけて墓参りを怠っていた事を詫び、息子の翔太を、十六年振りに連れて来たと告げた。

翔太は記憶が無いので『始めまして』と挨拶をした。

明日花は、いつも貴一と翔太の無事をお願いしていたが、今日は無事に軽井沢に着いた事のお礼をした。


 墓前で最後まで話しをしていた貴一が顔を上げた。

「一時間ぐらい、掛かるんじゃないかと思った。」

翔太はそう冗談を言ったが、貴一はしゃがんだままの姿勢で、線香の煙を目で追い、その先にある墓石へ「また近いうちに、必ずくるからね。」と言い、立ち上がった。

 その後、住職へ帰りの挨拶をして寺務所を辞去した。駐車場まで来て、暫しの別れを前に貴一が『心配』を体全体から醸し出しながら翔太へ言った。

「ここからは三日後の法事まで、別行動になるけど、明日花ちゃんや、鶴畑の方々へ、迷惑を掛けないようにするんだよ。」

「わかってるよ。大丈夫だからそんな、心配そうに見ないでよ」

「明日花ちゃん。悪いことしたらガツンとやって構わないから」

「貴一さん。翔太が言う様に、心配しなくても大丈夫よ。こう見えても翔太は充分、大人よ。」

「僕には、『大人の姿をした子供』にしか見えないけどね。」

「それより父さんの方こそ、充分に気を付けてね。一人で東京まで行って、それから仕事でしょ」

「運転の休みは多く取ってください。仕事だって事故に遭ったら間に合わなくなるだけ、とにかく焦らずに、安全第一で行ってください。」

「ありがとう。明日花ちゃんも気を付けて。何か有ったら、いつでも良いから携帯へ連絡して」

「電話しても良いんですか?」

「勿論。夜中だって、運転中もハンズフリーを付けるから、本当に遠慮無しに連絡して。それじゃ名残欲しいけど。東京で会おう!」

そう言って貴一は車を、佐久インターに向けて北へ出発した。明日花と翔太も、貴一を見送ってから車に乗り込み、国道百四十一号線を目指し南へ向かって出発した。


 明日花はまず三河田工業団地の交差点で左折して、国道百四十一号線に入った。この国道一本で、清里へ出ることができる。距離はおよそ五十キロほどで、時間にすると二時間ほどの道程である。

天気は朝から変わる事無く、小春日和のドライブには最適な天気であった。道路も混む事はほとんど無く、順調に千曲川に沿って走り続けた。小海町を過ぎJR小海線の佐久海ノ口駅の先で、国道に沿っていた千曲川と分かれると、すぐにこの道路の難所とも言われる、急な登り坂でカーブが続く山道となる。しかし、この厳しい峠を越すと野辺山高原に入り、目的地の清里まではもう僅かであった。

移動中、翔太は朝食作りの為に張り切り過ぎたのか、春の日差しに負けたのか、乗り心地の悪さを気にする事無く熟睡していた。

佐久の寺を十時半に出てきたので、清里への到着は昼過ぎると思っていたが、道路が比較的空いていたのと、翔太が寝ていて運転に集中できた事もあり、上手い具合に昼食時に着くことができた。

明日花は野辺山の駅を過ぎたところで、寝ている翔太を起こした。

「結構長い時間寝てしまったようで、ごめんなさい。」起きて一番に謝った。

「そんな事は気にしなくて良いわよ。お昼なんだけど、昨日話したとおりにイタリアンのお店で良い?」

「イタリアン。僕ねピッツァを食べる夢を見ていたんだ」

「本当に?」

「うん。マルゲリータとオレンジジュース。デザートはティラミスが良いな」

「了解。それじゃ、いつもの店へ行くね」

 大きく左カーブを過ぎた先に有る、国道に面した店で明日花は車を停めた。

「さぁ、着いたわよ。お昼にしましょ」

「お疲れ様でした。寝ていただけなのに、お腹が空いた。」

「若いって良いわね。沢山食べて、大きくなるのよ」

「十分大きくなっていると思うんだけどな……」

「そうね。あははは。」明日花は、口を大きく開けて笑った。


 奥の方にある窓際のテーブルを選んで二人は座った。翔太は予定通りに、マルゲリータとオレンジジュースにティラミスを。明日花はカルボナーラとコーヒーをオーダーした。料理がくるまでの間に、ロードマップを開き翔太がこの後の行程を聞いた。

「そうね。須玉インターまでは小一時間位で、中央道に乗って相模湖までが一時間半として――。中央道を降りてからもやっぱり、一時間半ってところかな。」

地図の上の線を、細く白い指先でなぞりながら言った。

「あと四時間は掛かるのか……。僕も免許取って来れば良かった」

「どうして?」

「お父さんと軽井沢へ移動した時もそうだけど、お父さんや明日花さんが、どんなに疲れても、一人で運転するでしょ。だから、もし僕が代われたら、少しは楽ができるのかなって」

「翔太は優しいね。貴一さんそっくりだよ。」

「えっ。そうかな。」翔太は照れて頭を掻いた。

「間違いなく、貴一さんと桜咲姉の子よ。良い子に育ってくれて、とっても嬉しいわ。」

 翔太は明日花の目に光る物を見た。「ちょっと失礼。」

明日花は席を立って化粧室へ行った。その間に料理が運ばれ始め、明日花が戻るのとほぼ同時に、テーブルの上に料理が全部出揃った。二人は一時間ほど掛けて、ゆっくりと昼食と休養を取った。


 食後は、中央道の須玉インターへ進み、途中ガソリンスタンドに寄り給油を済ませ、午後二時には中央道に乗ることができた。

「予定通りだね」と翔太がほっとしたように言った。

「今のところはね。問題は、相模湖を降りてから厚木の街中で、退社時間の車と合う事ね。」

「ひょっとして、『渋滞』って奴が見られるの?」嬉しそうに言う翔太をちらっと明日花が見た。

「翔太。あんた渋滞を知らないの?」

「うん。ちょっと混む程度なら知っているけど、長い時は数十キロも続くんでしょ。そんなのは見たことも、経験したことも無いよ。」

「羨ましいわ。」心の底からそう思った。


 高速運転は、一本調子が続くので眠気を誘う。須玉インターから乗ったが、一宮御坂インター辺り迄の僅か四十五分程で、明日花に異変が起きた。昼食後で、昨日のサイクリングの疲れ、その上に長時間の運転。疲れと睡魔が明日花を一度に襲った。翔太はすかさずその異変に気が付き、大声で明日花の名を呼んだ。

 数秒で明日花は我に戻ると、慌てて釈迦堂のパーキングへ車を停めた。

「翔太。本当にありがとう。危うく大事になる所だったわ」

「役に立てて良かった。でも、明日花さんが眠気に負けるとなると、お父さんもそうかな?」

「ちょっと待って」明日花はそう言って、上着のポケットから携帯を取り出すと、貴一へ電話を掛けた。

呼び出し音が数回して、貴一の声が聞こえた。

「もしもし、私です。」

「何か有った?」

「いいえ。こちらは順調に進んでいますよ。ただ、お昼も過ぎて眠くなる頃かと思って、電話しました。」

「ありがとう。僕もちょっと前に眠くなったから、休憩を取った所だよ。こっちは、もう少しで会社に着きそうだ。」

「大分早いのね。飛ばしすぎじゃなくて?」

「そうでもないよ。最高速度は守って走っているから。今日は、何故か車の量が少なくて走り易いんだ。」

「良かったわ。私達はこれから、大月の峠に掛かるところです。」

「山道だね。特に下り坂は気を付けて。」

「はい。貴一さんの大事な息子は、ちゃんと送り届けるから安心して」

「大事なのは、明日花ちゃんも同じだよ。だから、気を付けてね。」

「嬉しいわ。ありがとう。では、自宅に着いたらメールします。」

「待ってる。じゃぁ」電話が切れた。

「お父さん、どうだった?」

「もう少しで会社に着くみたいよ」

「早く着くと、会社の人達は、鬱陶しいんじゃないかな?」

「私は貴一さんが、会社にいるところを見たことが無いから、判らないけど。翔太はどうしてそう思うの?」

「僕は何度か、イギリスと東京の両方に行ったけど、お父さんが大声を出す時があって、その声でみんなが、緊張したのがわかった。だから、お父さんが会社に居ると、鬱陶しいのかなって」

「それは仕方が無い事よ。経営者ってね、社員だけではなくて、その家族の生活を守らなければならないの。それに仕入れ先やお客様との約束もね。その為には無理を承知で、社員へ指示を出すことだってあるのよ。それに会社の人も、貴一さん――。会社の社長は忙しいと知っているから、邪魔をしないように、近付かないのかも知れないわ。」

「そうなんだ。」

「今のは、貴一さんからの受け売り。私も細かい事は良く判らないけど、でも貴一さんらしい考え方だと理解しているわ。」

「お父さんらしい……。そうかもね。優しいだけでは、競合には勝てないものね」

「そう言う事。では、行くわよ」

「了解。お願いします。」


 二人は釈迦堂のパーキングを出て、ビートルズの楽曲と共に、本線を走り出した。急な上り坂とカーブが終わると、四キロを越える長い笹子トンネルに入った。翔太は、「こんなに長いトンネルも初めてだ。」と興奮気味に言った。

そのトンネルを抜けると、今度はカーブの多い下り坂が続く。大月ジャンクションを過ぎ談合坂を越えて、釈迦堂パーキングからおよそ一時間程で相模湖インターに着いた。

相模湖インターから一般道に入ると、湖の周りに沿って走り半周したところで、相模湖から離れ一路厚木方面へと向う。厚木市内に入り萩野を過ぎた辺りから、車の通行量が一気に増えた。

「やっぱり会社へ戻る営業者や、パートの帰り車の時間帯に当っちゃったわ」

「うん。都会でもないのに、車の量が大分増えてきた感じ。」

「この先の厚木市街がまた混むのよね。諦めてのんびりと行きましょ。」

 明日花はそう言って、交通情報を聞こうとCDからラジオに代えた。都合良くトラフィック情報がかかり、厚木市内の水引交差点が渋滞していると言っていた。

「水引って交差点を通るの?」

「渋滞しているみたいだから、『急がば回れ』で迂回するわ」

「さすがに地元の人って感じだね」

「そう?」

「だって瞬時に違う道が頭に浮かぶってことは、それだけの道筋を熟知しているって事でしょ。それって、地元の人の特有な知識だと思うよ」

 車は国道を逸れて、狭い道を右に左にと路地を曲がり、渋滞を避けながら進んでいる。

「翔太は簡単な事を、難しく考えるんだね。」

「そうかな?」

「ふふふ。それに良く考える。それだけ、人の話しを良く聞いているって事。全部誉めているのよ。」

「まるでお母さんと話しているみたいだ。」

「えっ」明日花は動揺した。

「お母さんも良くそう言ってた。性格は違っても、感性は似ているなんて、やっぱりお母さんと明日花さんは、姉妹なんだね。」

「何よ、しんみりしちゃって!そうだ、携帯で、おじいちゃん家へ電話してくれる。」

「良いけど、何て話せばいいの?」

「『あと三十分で着くよって』言うだけで充分驚くから」

「できたら、いきなり脅かしたいんだけどな」

「そう?前に電話した時に、明日帰るって言ってあるから、翔太と二人でいきなり現れたら、まず驚く事は間違いないけど、その代わり今夜の夕飯が、お芋の煮物とか焼き魚とかの和食主体よ。それでも構わないけど」

「大丈夫、おばあちゃんが作った料理なら、お母さんが食べていた味でしょ。充分に味わってみたいもの。そう言えば、この前明日花さんが作ってくれた和食の味って、お母さんのに似ていた」

「本当?基が一緒だからやっぱり似ちゃうのかな――。この橋を渡るとすぐだから、楽しみにしてて」

 緩い上り坂を上りきった所で視野が開けた。大きな川と河川敷が翔太にも見えた。

「この川はね、相模川って言うのよ。右の方、つまり川下へ行くと湘南の地名で有名な、平塚と茅ヶ崎の間を分けて海に辿り着くの」

「湘南って知ってるよ。サザン何とかってグループの歌を、父さんが聴いていたから」

「サザンオールスターズって言うのよ」

「忙しい歌で、歌詞が上手く聞き取れなかった。僕的にはユーニンって言ったかな」

「ユーミンね」

「そうそう。そっちの方が、聴き取り易くてよかったな」

 車は橋を渡りきり、桜咲と明日花の生まれ故郷の海老名市に入った。


 神奈川県海老名市は県のほぼ中央に位置し、西は厚木市、南に寒川町や茅ヶ崎市、東には藤沢市、北は綾瀬市と大和市に囲まれた人口十二万人を越す市である。

交通の便も良く、横浜や茅ヶ崎、新宿、渋谷と言う大都市へも、一時間以内に出ることができる。また、車の便も、圏央道が相模縦貫道となり、湘南海岸から東名高速道路や中央道、最終的には関越や東北道とも繋がる予定でもある。公共機関や道路の面でも、一層利便性が上り、全国でも注目されている市である。

歴史的にも古く、縄文時代の遺跡や土器などが出土したり、奈良時代には相模国の国分寺が置かれたりしており、今もその遺跡は残っている。

 

 県道四十六号線を越えると、道路上の車の量が半減した。真直ぐに伸びる道を明日花は進んだ。登り坂の上にある赤信号に掛かり、坂の途中で車は停まった。

「そこがこの地の神社なのよ」

「神社って、初詣に行くところでしょ?」

「ははは、初詣の他にもお参りはするのよ。翔太が生まれた時も、ここへお参りしたの。そう言えばもう時期『例大祭』があるはずね」

「なんなの、それって?」

「簡単に言えばお祭りよ」

「お祭り?」

「そう、御神輿がこの地区の、端から端まで練り歩いて。賑やかなのよ」

「へぇ。見てみたいな。」

「法事の当日だからちょっと無理かな?でも、宵宮は見られると思うから行ってみる?」

「良いの。行きたい!」

「それじゃ、ジジババと来ようね。」

信号が変わり動き始めた。坂の上の信号を左に入る、道なりに進むと、「お疲れ様、着いたよ。」明日花は翔太へ言った。


「凄く大きな家だったんだ」

「農家の大所帯だからね。」

そう言いながら玄関の前に車を横付けにした。

「荷物を降ろすの手伝ってね」

「はい。お疲れ様でした」

翔太は明日花へ、お礼と労いの言葉を掛け、車を降りてリアのドアを開けた。

 そこへ明日花の父である鶴畑(つるはた)耕作(こうさく)が、一輪車を押して裏からやってきた。

「翔太じゃないか!」

いきなり翔太の背中へ声をかけた。翔太はびっくりして振り向いた。

「あははは」突然、明日花が大きな声で笑い出した。

「翔太。先に見付かったら、黙ってここまで来た甲斐が無いじゃないの」

「やっぱり、翔太か!大きくなって。年賀状の写真通りだから、じぃちゃんにはすぐに判ったぞ」

「あっ。どうも……、ご無沙汰しています……。」

 驚かすつもりが逆に驚かされて、車の中で考えていた台詞が白紙になり、しどろもどろで祖父へ挨拶をした。

 耕作は急いで玄関を開け、明日花の母の美佐子を呼んだ。

「おーい。美佐子!翔太と明日花が来たぞ!」

「もう、誰が来たって言うの?」

夕食の支度をしていた美佐子が、エプロンで手を拭きながら玄関へ出てきた。

「あら翔太じゃない。明日花も!帰って来るのは、明日じゃなかったかい?」

「お前は何呑気な事言っているんだ。疲れたろ、早く入って休め。さぁ早く」

「はい。荷物を降ろしてから……」

「そんな物、じぃちゃんが出してやるから」

「お父さん、良いのよ。自分達の荷物なんだから、私達でするわよ」

「しかし、翔太は疲れているだろうから……」

「おじいちゃん。疲れているのは、ずっと、運転してきた明日花さんの方で、僕は車で座っていただけだから、疲れてないよ。」

「お前は優しい子だねぇ。桜咲そっくりよ。」

美佐子が目頭をエプロンで押えながら言った。

「もう!どっちでもいいから、とにかく荷物を降ろすから、ジジババはどいてくれない」

 そこへ長女の小百合と夫の明夫が、農作業を終えて裏のハウスから戻ってきた。

「あら、明日花お帰り。えっあんた、ひょっとして翔太?」

「もう。お姉ちゃんまで――。やっぱり電話して教えておくべきだったわ」

「ごめんなさい」と翔太は明日花へ謝った。


 大きなクーラーボックスは。明夫が台所へ持っていってくれた。翔太と明日花の荷物は、ひとまず玄関に降ろし、明日花は車をガレージへ入れて戻ってきた。

「翔太は何処で寝てもらおうかね。桜咲の部屋はしばらく使ってないから、掃除しないといけないし」と美佐子が明日花に聞いた。

「私の部屋で良いわよ。ね、翔太」

「うん。良いよ」

「そんな事はない。じぃちゃん達の部屋のほうが、広くて良いだろう」

「年寄りと一緒じゃ寝付けないし、朝が早すぎて、翔太が気疲れしちゃうわよ」と小百合が助け舟をだした。

「そうか……」耕作は寂しそうに肩を落した。その姿を見た小百合が、「翔太、家の風呂は大きいから、おじいちゃんと入ってみたら」と言った。

「本当!おじいちゃん一緒に入ろうか?」

「わかった。すぐに支度するからな。美佐子、風呂の支度を先にしてくれ」

「はいはい」と美佐子は返事をして風呂場へ行った。翔太が「僕手伝うよ。」と美佐子の後に着いてゆく。

「明日花、お帰り」

静かになって小百合が言った。

「お姉ちゃん、ただいま。」明日花は笑顔で応えた。




       実家



 結局、翔太が風呂に入っている間に、明日花と小百合が急いで桜咲の部屋を掃除して、翔太はそこで寝ることになった。風呂上りに荷物を桜咲の部屋へ移し、荷を解いて必要最小限の物をだした。鶴畑へのイギリスからの土産も忘れずに出し、夕食の時にそれぞれ手渡した。

夕飯は明日花が言った通り、里芋と人参や牛蒡などを、鶏肉と煮た筑前煮と、焼き魚、ホウレン草の御浸しに、明夫が急いで買いに走ってくれた、若鳥のから揚げと、とんかつであった。

皆が揃い夕食と言う時に、小百合と明夫の娘の春菜が、勤めを終えて帰ってきた。

翔太の従姉になる春菜は、翔太を見て「イケメンになったじゃない。女心が擽られるよ」などと冗談を言い「先にお風呂に入るから、夕食始めて」と言って食堂から出て行った。

 夕食が済み、居間でテレビを観ながらの団欒の中で、明日花は寝てしまった。翔太は近くに有った、自分の上着をそっと掛けた。

「めったに転寝(うたたね)なんかした事無かったのに、この子はよっぽど疲れたんだね。」

「昨日ね、一日中軽井沢周辺をサイクリングして、今日は朝からずっと運転だったから……」

「明日花も、翔太や貴一さんに会えて嬉しかったんだよ。」

小百合が言った。

「何を言うか、おじいちゃんだって、家へ着てくれて、とっても嬉しいぞ」

「そうね。みんな楽しみにして、翔太を待っていたのよ。桜咲の息子の貴方がここに来るのを。」

「喜んで貰えてよかったです」

「法事までウチに居られるの?」小百合が聴いた。

「はい。そのつもりです」

 どこかで、誰かの携帯が鳴っている。寝ていた明日花が飛び起きて、自分の部屋に走って行った。


「もしもし、明日花です」

「明日花ちゃん?今、大丈夫?」

「ごめんなさい。家に着いたら、メールすると言ったのに忘れてしまって」

「無事に着いているならそれで良いさ。明日花ちゃんも疲れているだろうから、気にしなくて良いよ」

「本当にごめんなさい。心配掛けてしまって……」

「良いんだよ。今日はゆっくり休んでね。」

「貴一さんも、ゆっくり休んでください。」

「そうするよ。実は、昨日のサイクリングのせいか、足の筋肉が痛み出してね。今までマッサージをしてもらっていたんだ」

「翌日に痛みがでるなんて、若い証拠です。喜ばなくてはね」

「ははは、そうか。僕はまだ若い方だね。翔太へ伝えて置いてくれるかい?」

「ちゃんと伝えます。」

「では、ゆっくり寝て体を休めてね」

「はい。おやすみなさい。」

「おやすみ。」

 電話が切れた。明日花は居間に戻り「お母さん、お茶飲みたいな」と甘えた声で言った。

美佐子は「しょうがないね。」と言いながら、お茶を淹れに台所へ立った。小百合は、ご機嫌な明日花を見て電話の相手を察知していたが、黙って明日花と翔太を見ていた。

 夜十時を過ぎて、耕作はテレビを観たまま、鼾をかき始めた。美佐子が床に入ってもう寝るように言ったが、翔太が起きているのに寝るわけにはいかないと、子供のように駄々を捏ねて、居間に居座っている。

十時からの番組が終わり、小百合の「明日も早いからもう寝るわよ。」の声で、各自が「おやすみ」を言って就寝となった。

 その夜、翔太は母が育った部屋で、一人で寝た。母が過ごしたこの部屋の隅々を見て、母が恐らく見たであろう、天上の節目や欄間のシミが目に付いた。翔太は母が使っていたベッドで、母の思い出に抱き包まれて深い眠りについた。


 海老名は軽井沢より断然温暖な気候である。鶴畑の家の桜も満開を迎えていた。

翔太は早く目が醒め時計を見たが、まだ六時を十分ほど過ぎたところなのに、外で小百合の声がしている。気になり雨戸を開けると、小百合と明夫はもう仕事を始めていた。

 鶴畑の家は、主に花を生産する農家で、母屋の裏にあるハウスでは、胡蝶蘭やシクラメン、カーネーションなどを作っている。その他に、野菜や米も僅かだが作り、グリーンセンターと呼ばれている、農家の直売所へ売りに出していた。女三人のために、長女の小百合が婿を取り、両親と共に農業を営んでいる。娘の春菜は高校を卒業し、海老名駅近くにある、大手電気メーカーに勤めていた。寂しい事だが、鶴畑の農家は小百合と明夫の代で、終わりとなそうであった。


 翔太は窓から小百合と明夫へ「おはよう」と声を掛けた。

「あら翔太。お越しちゃったかしら」と小百合の応えに、大きく首を振って「自然と目が覚めた。」と返した。

「朝ご飯は、七時頃なんだけど我慢できる?」

「大丈夫です。僕も何か手伝いますよ」

「あら、嬉しいわ。じゃ、明夫さんの野良着に着替えて、水撒きでも手伝ってもらおうかしら」

「はい。今降りて行きます」

「貴方、作業服を貸してあげて」

「わかった。この前買ったのが大きかったから、それが良いな」そう言いながら、明夫は家に戻っていった。


 作業服姿でハウスへ明夫と一緒に入った。ハウスの中は、暖かいと言うよりは蒸し暑かった。小百合は、胡蝶蘭が並んだ棚のうち、二列にだけ、葉に水をかけるように言った。翔太は一鉢ずつ「はい水だよ。いっぱい飲むんだよ」と声を掛けながら、丁寧に水をやりはじめた。

「翔太、桜咲と同じね」

「えっ。何が?」

「花に声を掛けるのが、桜咲と同じなのよ」

「そうだね。確か母さんも、明日花さんもこうやって、花に水をあげていたな」

「明日花も?」

「うん。軽井沢を出るときに、しばらく留守にするからって、家の中にあった薔薇の鉢に水をあげるとき、「しばらく一人だけど大丈夫よね」って、声を掛けていたよ」

「そう……。良いこと聞いたわ」小百合は嬉しそうに言った。

 『カシャ』とシャッター音が二人の後ろから聞こえ、小百合と翔太が振り向くと、明日花がカメラを向けて笑顔で立っていた。

「みんな早いのね。朝ご飯できたわよ」

「おはよう、明日花さん」

「今の二人の顔、凄く自然に花と向き合っている感じがして、思わず撮っちゃった」

「明日花、モデル代は貰うからね。翔太、あんたも取らなきゃ駄目よ」

「そうか、モデル代って言う手も有るんだ。」

「何本気にしているのよ、姉さんは冗談で言ったのよ」

「あら、明日花。私は本気で言ったんだけど」

「うそ!」

「さぁ、ご飯にしましょう。」そう言い残し、小百合はハウスから出て行った。


 朝食も和風であった。昨晩の残り物の筑前煮と納豆に味噌汁、梅干に漬物であった。しかし翔太は、納豆にはいささか苦労したが、好き嫌いせずに出されたものを残さずに食べた。春菜に「イギリス育ちなのに、よく納豆なんか食べられるね」と訊かれたが、「ここにいる間は、お母さんが食べていた物を食べる事にしたんだ」と答えた。


 朝食のあと一休みして、翔太は小百合と明夫の手伝いをした。

「母の日に間に合わせて花を咲かせる為に、毎日の世話は欠かせないのよ。花も人と同じ、生き物だからね」

小百合が翔太に話しながら、肥料を水に溶かしたものを撒いている。翔太も小百合を真似て隣の柵に撒いた。

「桜咲もね、私や明日花より、良くお父さんとお母さんの手伝いをしていたわ。私は、どうせこの家を継ぐ事になるから、学生時代は好きにさせて貰ったの。明日花は、遊び感覚で気が向くと、ほんの一時間位手伝う程度でね、桜咲だけが、本当に花が好きで黙っていても、時間があればここに来て手伝っていたのよ。」

「農家の仕事はね、人手が必要だから助かったのよ。」そう美佐子が話しを継いだ。

「おばあちゃん、後でお母さんのアルバムを見せて欲しんだけど?」

「良いわよ。お昼休みに納戸から出してきてあげる」

「楽しみだな。僕の知らないお母さんに会える」

「そうだね。あの子の写真ってどれくらい有るかしらね」

「桜咲の写真って意外と少ないように思ったわ」小百合が少し間を置き答えた。

「どうして?」

「小百合は初めての子だから、お父さんも撮っていたんだけど、桜咲が生まれた頃から明日花が生まれる迄、色々と有ってね、写真を撮っている時間があまり無かったのよ。明日花が小学校に入った頃には家も落ち着いて、また写真を撮るようになったの。でもその時には、桜咲が写真を撮られるのを嫌ってね、だから、家の娘三人で写真が一番少ないのよ。」

 美佐子は申し訳無さそうに、桜咲へ詫びているかのように翔太へ話した。

「でも少ないなら、尚更大事な思い出でしょ。やっぱり楽しみだよ、おばあちゃん」

「ありがとう。お前は本当に優しい子だね。」

美佐子は軍手で涙を拭った。

「お母さん、昨日から泣き過ぎよ。もう、歳とって涙脆くなっちゃったみたいね」そう言いながら、小百合の目にも涙が見えた。


翔太は午前中、ハウスの中でカーネーションの世話をした。耕作がハウスに来て、午後からは畑へ行って、今年最後のホウレン草を取るのを手伝って欲しいと翔太に言い、翔太は快く約束をした。耕作は喜んで、まだ十一時になったばかりだと言うのに、昼飯にすると言って聞かなかった。見かねてハウスの中で写真を撮っていた明日花が、そんな耕作を説得して外へ連れ出した。なんとか耕作の我侭をやり過ごせた翔太は、美佐子と小百合の仕事の手伝いを最後まで続けることができた。

 昼食を済ませ、母のアルバムを見ようとしていた翔太だったが、耕作が早く畑へ行くと言って聞かず、仕方無しに耕作が運転するトラックの助手席に乗って出かけた。

 しかし、耕作は人に出くわす度にトラックを停めて、翔太を紹介するので近いはずの畑が、かなり遠くなった。家から歩いても五分程度の距離が、車で二十分掛けてやっと畑に着いたが、そこでも隣の畑で作業をしている隣人へ、「桜咲の息子でイギリスから来たんだ」と言って話し込み始めた。

翔太は何をすれば良いのかわからないので、暇を持て余していた。そこへ、明日花が自転車に乗ってやってきた。

「お父さん、何しているの!いい加減にしないと、翔太を連れて行くわよ」

「あぁ、ちょっと話しをしていただけだ。すぐに始める」

 耕作は怒ったように明日花へ言い、慌てて翔太に仕事の内容を説明し始めた。


 翔太の仕事は、耕作が鎌で根を切り、一抱え程に山積みされたホウレン草を、コンテナと呼ばれる、押入れなどで使う衣装ケース程の大きさのプラスチックで出来ている箱へ入れ、山盛りになったらトラックの荷台へ乗せるという内容であった。

「いいか翔太、そっと持ってやらないと、ホウレン草は折れてしまうから、優しく、そっと持ち上げて箱へ入れるんだぞ」

「こんな感じかな」

「おおそうだ、そうだ。翔太、上手いじゃないか」と耕作は上機嫌で、ホウレン草の根切りをして行く。

 明日花がそんな風景を数枚写真に撮った。耕作は終始機嫌が良く、孫と祖父の作業風景が、意外と絵になっていた。

「おじいちゃん、もう積めないんだけど」

「そうか?」耕作がトラックの荷台を見にきて、「いかん、最後の二柵だから、乗りきると思って、コンテナが足りなかったか」と言い笑った。

「とりあえず、残った分は、荷台へ全部載せて帰ろう」

「この上に載せていいの?」

「そうだな。家に着いたら、おじいちゃんが直すから全部載せてくれ」

 耕作が刈り取ったホウレン草を、全部トラックの荷台へ載せた翔太は、汗をかいた上に土に塗れ、顔が泥だらけになっていた。明日花は翔太のその姿を再び被写体にして写真に収めた。

 作業が終わり帰り支度をしているところに、一台の軽トラックがやってきた。窓から顔を出した男は「明日花ちゃんじゃないか!」と大声で言って、車から降りてきた。

「やっぱり明日花ちゃんだ。いつ帰ってきたの?」

「なんだ、岡村か」明日花は素っ気無い態度だった。

「明後日の祭りのために帰ってきたの?」

「違う」と一言だけ返して黙った。

「耕作さん、その子は誰だい?」

明日花に相手にされないので、耕作へ矛先を代えてきた。明日花は空かさず「私の息子」と言った。

岡村と呼ばれた男は、二、三歩後退りして、明日花の顔を見ながら聞き直した。

「今、明日花ちゃんの『息子』って言ったよね」

「私の息子だから、息子と返事をしたんだけど」

明日花は変わらず、素っ気無い上に、きつく突き放す様な言い方をした。その横で、耕作と翔太は黙って事の流れを見ている。

「本当の本当に、明日花ちゃんの息子なの?いつ結婚したの?」

岡村は焦り、明日花へ矢継ぎ早に聞いてきた。

「息子が十八だから、十九年ぐらい前よ。私達、仕事終わったから家へ帰るの、邪魔しないでくれる」

「……そうか。明日花ちゃんは、結婚していたのか……」

 あまりにも悲惨な顔をしている岡村を見て、気の毒に思った耕作は、「本当は桜咲の息子の翔太だ。」と本当のことを教えた。

「えっ。桜咲さんの息子……」

「もうお父さんたら、面倒だからそのままで良かったのに」

「それはあんまりじゃ無い?心臓が止まるかと思う程の衝撃だったんだから」

「岡村は大袈裟だから、面倒臭いって言うのよ。」

「おじいちゃん、誰なの?」翔太は遠慮がちに聴いた。

「同じ町内で工務店をしている二代目で、明日花の同級生だ。」

「岡村工務店の次期社長で、岡村和彦と言います。今年は『御輿(みこし)保存会』の会長もしていてね、明後日の例大祭が大役最後の仕事になるんだ」

「御輿って?」

「君は御輿も知らないのかい?」

「翔太は二歳からイギリスで生活しているの、知らなくても仕方ないじゃない」

「そうなのか。それじゃ、例大祭で御輿に付いて回ればいいじゃないか」

「その日は、桜咲姉の七回忌だからここにはいないのよ」

「もう、桜咲さんが亡くなってそんなになるのか――」

いつも賑やかな岡村にしては珍しく、神妙な顔をしたが、すぐにもとの岡村に戻り、「じゃ、明日の昼から御輿の飾り付けや、夜は宵宮もあるから神社においでよ」と誘った。

「そうね。写真も撮って置きたいわね。岡村もたまには良い事言うじゃない。翔太、宵宮へ行って見る?」

「うん。見てみたい」

「それじゃ明日の夜、神社に行くから。岡村、ちゃんと接待してよ」

「任せてよ。特等席を用意して待ってかっら」

法被(はっぴ)はじぃちゃんのを着ていけばいいだろ」と耕作も話に加わった。

「はっぴ?」

「祭りに着るユニフォームみたいなもんだよ」

明日花は、岡村の例えが的を射ていると少し感心した。

「へぇ。絶対着たい!おじいちゃん貸して!お祭りが楽しみだな」

「じゃ明日の晩、神社で待ってるよ。必ず来てな」

 岡村は満足顔で乗って来た軽トラックに乗り込み「じゃ!」と三人へ窓越しに言うと、勢い良く去っていった。

静けさが戻り「私達も帰りましょう」と少し疲れ気味の明日花が二人を促すと、耕作は「そうしよう。帰って積んだホウレン草を冷蔵庫へ入れなくてはならんからな」と言いながら、翔太を助手席に載せ、トラックのエンジンをかけて家路に着いた。


 家に着いて耕作と翔太が荷台に積んだホウレン草を、三畳程もある大きな冷蔵庫へ降ろした。作業が終わる頃に、明夫がやってきて「夕食の後に夜桜を観に行かないか」と誘ってきた。

「夜桜って、お花見の事だよね?」

「そうだよ、良く知っているね」

「一昨年、日本に来た時に、お父さんと会社の人達に連れられて、根津神社って所へ、桜を見に行ったことがあるんだ」

「それは良い経験をしたね。東京で花見なんて、僕でもしたことがないもの」

「それで、何処へ行くの?」と明日花が訊いた。

三川(さんせん)公園が良いと思って、知り合いに車を置かせて貰えるように頼んだ」

「ウチの亭主って頼りになるでしょ」

 小百合が裏のハウスから一輪車を押してきて、嬉しそうに明夫を誉めた。少し疎外感を持った耕作が明夫に訊いた。

「私達も連れて行ってくれるのかい」

「当然ですよ。夜道を歩くので危ないと思いますが、皆で川沿いの桜を観ながら、ぶらぶら歩くなら、お父さんとお母さんも大丈夫でしょ」

「そうね。でも、ジジババ用に懐中電灯が要るわね」と明日花が真顔で言う。

「点くか確認しなくちゃ」と小百合が受けると「何処に置いたか、探すのが先だよ」明夫が落ちを付けた。


「三時のお茶にしましょう。誰かポットを取ってきてちょうだい」

美佐子が玄関先まで、湯飲みと急須、菓子をお盆に乗せて持ってきた。

「僕が行くよ」と翔太が取りに行く。

 耕作と明夫が玄関脇の芝生の上に、椅子とテーブル代わりのビールケースを運んできてセットした。各人が勝手に腰を下ろし、翔太がポットを持ってくるのを待った。

「今日は天気も良くて、家の桜も満開で見頃だから、外でお茶しようと思ったのよ」

「いい考えね、母さん。本当に小春日和で外が気持ち良いもの」

「本当、軽井沢ではまだ雪が残っている所も有るのに、全然違うのね。暖かくて気持ち良いな」

「はい、おばあちゃん。ポット、お待ちどう様」

「ありがとう。翔太もそこに座って」と空いたビールケースを指した。

 庭にある一本の桜をみながら、皆でお茶を飲み菓子を食べ、今夜の夜桜見物や明日の宵宮、そして桜咲の七回忌の話しをした。普段は、三十分程度で仕事に戻るが、今日ばかりは誰も仕事に戻るとは言わなかった。最終的に小一時間も休憩あった。挙句、耕作が早めに夕食を済ませ、早く夜桜見物へ行こうと言い出した。皆が賛同すると、美佐子と明日花が片付けと夕食の支度をする事になり、夕食が出来るまで、耕作と翔太は冷蔵庫の中のホウレン草を束ねる事にした。小百合夫婦はハウスで、剪定した屑の片付けをすると言いハウスへ戻った。

 五時には夕食になり、六時前にそれぞれ支度を終えて、明夫のホンダのステップワゴン一台に乗り込み家を出た。


 三川(さんせん)公園とは、海老名市の北西に位置する県立の公園である。相模川、中津川、小鮎川の三本の川が合流する地点に近いことから、この名前が付いた。

芝生の広場の他に、子供用の遊具や野球やソフトボールの球場。サッカーグランドも併設されており、管理棟となるパークセンター内には、休憩用のスペースも設置されている。また、相模川の支流の鳩川沿いにある、遊歩道には桜並木が続き、海老名市内では桜の名所のひとつとなっていて、初夏には蛍も見ることができる。駐車場は八十台分が常設されているが、使用時間は午後五時までと、行政らしく融通は利かないところが残念だった。


 途中、海老名駅近くで春菜を拾い、三川公園へやってきた鶴畑一家は、人出も多く賑わっている鳩川遊歩道を、ゆっくりと歩き夜桜を楽しんだ。明日花と翔太は写真を撮って周り、明日花は携帯でも満開の桜並木を撮って、貴一へ『春爛漫・桜満開』と付け加え送った。

「翔太が来てくれたから、今日のこの時間を持つことが出来たんだよ。ありがとう」と美佐子が言った。

「本当だな。毎年、花見をしようと言いながら、仕事、仕事の毎日で、結局花見どころか、家族皆でゆっくり過ごすことも無かったな」

耕作が今日までを省みて言った。

「私は、花見より早くご飯が食べたい。」と夕食前の春菜が現実を語った。

「本当ね。私も夕飯が早すぎて、もうお腹が減ってきたわよ。」

小百合が春菜に賛同した。

「帰りに、ラーメンでも食べたいね。」明夫が続く。

「なによ。折角夜桜を見に来たのに、雰囲気が台無じゃない」

「でも、ラーメンは食べたいでしょ。明日花」

「確かに、餃子とビールも良いわよね」

「じゃぁ、じぃちゃんがご馳走してやるか」

「でも、明夫さんが運転だからビールは飲めないわよ」

「私が運転して帰るから、遠慮せずに飲めば良いわ」と美佐子が言った。

「それじゃ、花より団子で帰ろうか」

小百合が締めて桜並木を後にした。


 帰宅後、耕作と翔太が一番に風呂へ入った。風呂から出ると、美佐子が約束の母のアルバムを出してくれていた。翔太はやっと昔の母と対面することが出来た。

アルバムのページを捲る度、美佐子がそのページにある写真一枚一枚の説明をしてくれた。翔太が見て行く中で、母が泣いている写真が一枚有った。美佐子に聞くと、仲の良かった友達が、高校の卒業後に鹿児島へ家族で引っ越す事になっていた。その卒業式の写真だと教えてくれた。

「この人、山下さんって人に似ている」と翔太が母と一緒に写っている人の事を言うと、美佐子がどうして知っているか聞いた。

「お母さんの三回忌に来てくれて、小学校から高校卒業まで一緒だったと、お父さんに話してたんだ」

「そうかい、あの時来てくれていたんだね。」

「うん。お父さんが式に出て欲しいと頼んだけど、親族だけの方が良いって言って、お花だけ置いて帰っちゃたんだ」

「七回忌も来られるのかね?」

「お父さんに訊いたら、遠方だから判らないって、言っていたよ。」

 美佐子と二人で一通り見てから、翔太は部屋に戻り、母の部屋で母の昔の写真をゆっくり一人で見なおした。

そこには翔太が覚えている、笑ったり、泣いたり、ふくれていたり、色々な顔の母がいた。どの写真の母も、翔太へ何か話しかけている。そんな風に感じた。どこか、暖かく懐かしい気持ちに、帰国してからの疲れが出たのか、翔太はそのまま寝入ってしまった。

寝入った事を知らずに、明日花が翔太の部屋にやって来た。

「翔太入るよ」しばらく待った。電気は点いているが返事が無い。

明日花はそっと襖を開けると、ベッドの上で、桜咲のアルバムを胸に乗せたまま、寝ている翔太がいた。明日花は、アルバムを片付けて布団を掛けて部屋の明かりを消した。

「翔太、おやすみ」そう言って部屋を出た。自分の部屋に戻ると「とても綺麗な桜。僕も一緒に見たかったな。おやすみ」と書かれた、貴一からメールの返信が着いていた。


 翔太は昨日と同じ、小百合と明夫の声で目が覚めた。昨晩は、母のアルバムを見ながら、いつの間にか寝入ってしまったようであった。雨戸を開けて、二人へ朝の挨拶をした。

「翔太。夕べはあのまま寝てしまったようだね」

「うん。そうみたい」

「明日花も桜咲の写真を翔太と見たがって、お前の部屋へ行ったら、もう寝ていたって残念がっていたよ」

「そうなの?あとで謝らなくちゃ」

「今朝は、夕べ洗濯して作業着が乾いてないから、手伝いは良いからね」

「良いの?」

「大丈夫よ。それより明日花が、朝食の準備をしているからそっちをお願いするわ」

「うん。判った」

 翔太が台所へ行くと、明日花が味噌汁を作っているところだった。翔太は「おはよう」のあとに先に寝てしまった事を謝った。

「気にしなくて良いのよ。翔太も日本に来てから、色々と見たり、聞いたりして疲れているのよ。体を少し休めないと、明日の桜咲姉の法事で倒れちゃうわよ」

「明日花さん、心配してくれてありがとう」

「何か、照れるな」味噌汁の味見をしながら、明日花は顔を赤くした。

 春菜が慌ただしく起きてきた。すぐに、小百合と明夫もハウスから戻り、耕作と美佐子が揃って席に着き朝食が始まった。

 

 朝食の片付けを始めたところへ「おはようございます!岡村です!」と騒々しく岡村がやってきた。

「明日花ちゃん居ます?」

「一人でよければここに居るよ。」と明日花は呆れ顔で答えた。

「俺、これから神社へ行くんで、翔太君を誘いに来たんだけど……やっぱ迷惑だよね。こんな時間じゃ」

「全然反省している顔じゃ無いんだけど」

「そんな事は無いよ。電話してから来るべきだったと、ちゃんと反省してるよ。」

「翔太、どうする?先に行ってる?」

「うん。折角だから、御神輿の飾り付けを見学してる」

「そうだろ。翔太君は優しいね。」そう言いながら、明日花をチラッと見た。

「私だって、好きな人には優しくするのよ。岡村には金輪際無いけど」

「本当!俺、待っているんだけど。マジ駄目かな」

「マジに駄目ね」

「これで、明日花ちゃんに断わられたの、二十八回目。マジに考え治した方が良いのかな」

「間違い無く、その方が良いと思うよ。私は。」

 朝から騒々しくやってきた岡村だったが、翔太を連れて行くのも忘れるほどに、落ち込んで帰って行った。

「翔太、片付けが終わったら一緒に行こうね」

「はい」


 二人が神社に着いた時には、お神輿は格納庫から出され、飾り付けが始まっていた。

「明日花ちゃんこっちだよ!」

さっきは落ち込んで帰った岡村が立ち直っており、十六人ほど集まった人達へ、飾り付けの采配を振っていた。

 明日花と翔太は邪魔にならないよう遠目で見学していた。

時より明日花が撮る写真に、何とか写りこもうとする岡村を「邪魔!」と一喝しながら、御神輿に化粧がされてゆくところを撮った。

飾り付けが終わった御神輿を中央にし、全員での記念写真を撮ることになった。岡村は念願の明日花の隣で、満面な笑みを見せた。翔太は、自分達を入れても二十人に満たないのに、これだけ楽しい人達と出会い、もっと人が増えると言う、今夜の宵宮がとても待ち遠しく思った。

 記念写真も取り終え、一旦解散となった。岡村は御神輿の番をするために、一番若い青年と二人で残った。翔太は宵宮に来ることを約束して、明日花と家へ帰った。

 家ではすでにお昼を済ませて、一休みしているところだった。明日花は翔太と二人で、美佐子が作ってくれたおかずを温めなおし食べた。

「宵宮って何時までやるの?」

「良く知らないけど、日が変わるまでじゃないかしら」

「明日は午前中にここを出るんでしょ?」

「そうね。お寺に一時でしょ、明日は日曜日だし、渋滞も考えると九時には出たいわね。」

「法事の最中に居眠りできないから、最後までは居られないね」

「そうね。ほどほどにしておこうね」

 午後から翔太は耕作と美佐子の、ホウレン草を束ねる手伝いをした。耕作はとても喜んでくれて、翔太も手伝った甲斐があった。

夕食を済ませ、法被姿の翔太と写真を撮ってご機嫌な耕作は、明日花へ「玄関に置いてある酒を社務所へ持って行ってくれ」と頼んだ。見ると、一升瓶が二本、紙に包まれ紐で結んであった。

「これを持って行けば良いのね」

「頼む。明日は朝から喪服だからな。神社へは行けないだろ」

「そうね。判った。翔太持ってね」

「はい。でもこれって、なんの為に持って行くの?」

「簡単に言うと、寄付かな」

「寄付?」

「そうよ、お祭りって意外とお金が掛かるのよ。だから、『花代』って言ってお金を出したり、お酒を出したりするの。自治会の役員の人達も御神輿を担ぐだけでは無くて、目立たない裏方の仕事を手伝いながら、皆でお祭りをするのよ」

「へぇ。町ぐるみって感じなんだ」

「そう。神様へ豊作祈願のお祭りなの。だから皆一生懸命に、楽しみながらお祭りに参加するの」

「本物が見られなくて残念だけど、今度来たときの楽しみするよ」

「それが良い、毎年やるからいつでも来るが良い」と耕作は言った。


 二人が神社に着くとすでに盛り上がっていた。焚き火に当たりながら酒を飲む若い衆や、作物の話をしている人もいる。社務所に寄って酒を渡し、代わりにオレンジ色のタオルを貰った。法被を着た人は皆、同じタオルを頭に巻いたり、首から下げたりしていた。

「明日花ちゃん、こっちだよ!」と岡村の声が境内に響いた。

「うるさいよ!恥ずかしいでしょ!」と明日花は岡村を一喝したが、当の岡村は、酔っているのか今朝みたいに、明日花の睨みが通じなかった。

「よく来たね、翔太君。みんなに紹介しよう!」そう言うと手を叩き、「みんな、この子は桜咲さんの息子の翔太君だ。明日には、イギリスへ帰ってしまうから宵宮に誘った。宜しく頼むよ!」

神輿の周りにいる人達から拍手が沸いた。翔太はちょっと恥ずかしそうに頭を掻いて「春日翔太です。宜しくお願いします」と堂々と、大きな声で挨拶した。再び拍手と歓声があがった。

翔太は数枚、宵宮の風景の写真を撮り、その撮影風景を主に明日花は撮った。

「岡村、明日早いからこれで失礼するね。今日は、ありがとう」

「どういたしまして。来年だってあるから、また来てね」

「岡村のおじさん、ありがとうございました」

「おじさんは無いと思うけど、君も元気で。気をつけて帰るんだよ。来年またおいで待っているから」

「ありがとうございます。次は御神輿を担ぎたいです」

「任せておきな。しっかり教えてやるよ」

「では、帰ります」

 神社をあとにした二人は、宵宮の賑やかな歓声を背中で聞きながら、月夜の道をぶらぶらと歩き家路に着いた。

 

 帰宅すると美佐子と小百合が居間で、お茶を飲みながらテレビを観ていた。

「ただいま。お父さんと明夫さんは?」

「お父さんはもう寝たわ。明夫さんはハウスへ温度を見に行ってる」

「どちらかお風呂へ入っちゃいなさい」

「翔太、一緒にはいろうか?」

「えっ。明日花さんお先にどうぞ。僕はあとから一人で入るよ」

「そう。残念だわ」と言い残し、自分の部屋へ行った。居間に残った三人は、明日花の言葉が本気か冗談か理解に悩んだ。

「翔太、初めての宵宮はどうだった?」

「凄く幻想的で、賑やかで……。とっても良い経験ができたし、写真も撮ったから、イギリスの友達に見せるんだ」

「そう。よかったわね。岡村君に今度会ったら、御礼言わなくちゃね」

「……」翔太が言葉に詰まっているのに、小百合が気付いた。

「どうしたの?」

「あの、岡村さんって、独身なの?」

「結婚した話なんて聞いた覚えがないから、多分独身だと思うけど……。ねぇ、お母さん」

「そうだね、私も結婚した話しなんか聞いたこと無いね」

「それがどうかした?」

「岡村さんって、明日花さんの事、好きなんだと思って」

「それは昔からよ。初めて明日花へ告白したのは、小学校二年生の冬だったかな。それから、毎年のように告白しては振られて、すでに三十回近くになるんじゃないかしら。ふつうなら諦めそうだけどね。それが、どうかした?」

「何となくなんだけど、明日花さんがお父さんと話す時とは、全然違うなって感じたの」

 そこへ明日花が着替えを持って顔を出した。

「なんか言った?」

「別に。翔太から宵宮の感想を聞いていただけよ。早く入っちゃって。翔太が入れないから」

「判ったわよ。極力急ぎます」そう言って脱衣場へ入っていった。


「……で、明日花が貴一さんと話す時と違うって?」

「何となくなんだけど――」

「翔太が気付くとは、本気になってきたのかな?」

「ちょっと小百合。翔太の前で!」

「僕が問題?」

「お母さん。かえって翔太にも聞いて貰って、判断した方が良いかもよ」

「そうかしら……。翔太には、まだ早いと思うけど」

「早くなんかないわ。桜咲が亡くなって七年目になるのよ、もう明日花も素直になっても良いと思う。このままじゃ、本当に生涯独身で終わってしまうわ」

「つまり、明日花さんは、お父さんの事が好きってこと?」

「やっぱり、翔太も感じていたの?」

「何となく、この三日間でそうなのかなって。」

「明日花はね、軽井沢へ行って迷子になった時に、迎えに来てくれた貴一さんが『白馬の騎士』だと、本当に思ったらしいの。だから、貴一さんの背中に一生懸命付いて行ったのよ。それだけじゃないわ。桜咲も苦手だったアプリコットだって、明日花にしてみれば、『大』が付くほどの嫌いな食べ物だったのよ。でも、貴一さんの好物だと知って、数種類のアプリコットジャムを買ってきて、毎朝パンに塗って食べていたわ。可愛いところあるでしょ」


 小百合に聞かされた話しは、翔太にとって正直ショックなものであった。母親とその妹の叔母が、共に父を好きになってしまった。取り合う事はしなかったものの、妹の気持ちを知りながらも、父の気持ちを受け入れた母の気持ちと、姉と貴一の幸福を願って身を引いた叔母の気持ちが入り乱れている。そこへ、父自身の気持ちと自分の母と叔母への気持ちが入ってくるので、複雑過ぎて、頭の中で整理ができない。


「貴一さんは明日花の事どう想っているか、翔太知ってる?」

「見ている限り、明日花さんを大事に思っている事は判るんだけど、それが恋愛なのかは、子供の僕には判断が付かないです」

「大事にって、例えば?」

「軽井沢の家の事とか、サイクリングの最中とか。色んなところで、明日花さんを守っているって感じなんだけど……。判らないです」

「ところで、翔太自身は、明日花を母親と認めることができる?」

「どうかな――。難しいな。明日花さんのことは好きだけど、僕の中では、お母さんはお母さんで、明日花さんは明日花さんだから。でも、明日花さんにも、お母さんが居なくなって空いた穴を埋める事は出来ないと思う」

「そうよね。簡単な事ではないと、私もよくわかっているの。でも、できれば明日花が昔から変わらずに、大事に抱いている気持ちを、いい加減実らせてあげたいの」

 翔太は黙って小百合の話しを聞きながら、明日花を母親として向えることができるのか、真剣に考えていた。

「桜咲だって明日花の気持ちは知っていたことだし、まったく知らない(ひと)が貴一さんのところに来るくらいなら、明日花に貴一さんと翔太を任せる方が安心できると思うのよ」

「僕もお父さんがこのままずっと、独身だなんて思っていないし、知らない人よりかは、明日花さんと三人の方がずっと楽しいと思う」

「だったら、明日花をイギリスへ行かそうかしら。そうして、三人で過ごしているうちに、『家族』になれたら素敵じゃない」

今まで黙って聞いていた祖母の美佐子が口を開いた。

「小百合、そんな事はあんたや、翔太がとやかく言うもんじゃ無いの。当人に任せておけば、お互いにお互いが必要なら、黙っていてもそこへ行くの」

「お母さん、私だってそんな事判っているのよ。でも約束も無しでね、次に二人が会うのはどれ位長い年月が掛かるか判らないのよ。今よりずっと歳を取ってしまったら、明日花の事だから婚期は無いような気がするの。だから、明日の七回忌が終わったら、桜咲の面前ではっきりさせて、桜咲も含んで明日花と貴一さんと翔太が、安心できるようにした方が絶対いいのよ」

「そうかねぇ。私は自然な方が良いと思うけど……」

美佐子はあくまでも、自然に任せる方法が良いと言った。

「一生懸命考えたけど、やっぱり僕には良く判らないな。ただ判ったことは、三人で暮らしても、明日花さんはお母さんの代わりじゃ無くて、やっぱり明日花さんだと言う事ぐらいかな」

「翔太、それで良いのよ。明日花は桜咲の代わりじゃ無いわよ。でも、翔太の母親で貴一さんの妻になれるの。判る?」

「何となくだけど、軽井沢の家で過ごした三人の暮らしが、小百合おばさんが話している事じゃないのかなって思える。家族三人で暮らしているって錯覚したもの」

「やっぱり!お母さん。明日花をイギリスへ行かせましょう。三人で暮らしているうちに、『本当の家族』になるわよ。絶対!」

 脱衣場のドアが開く音がして、明日花が風呂から戻ってきた。

「翔太。お待たせ。早く入って寝ようよ」

「はい。」

 この話はここで終わった。明日の七回忌の席で、何かが起こる気配を残したまま。




       告白



 鶴畑家の面々が支度を終えた時、祭りの合図の花火が、青空の中で大きな音を立て鳴った。

「もう、宮発ちか?」

耕作がネクタイを美佐子に締めて貰いながら言った。外では、明夫が車を車庫から出している。翔太が自分の荷物を玄関まで運んできて、明夫が手を貸し車のリアに何とか押し込んだ。

「帰るとなると寂しくなるな」

明夫が車に積んだ荷物を見て呟いた。

「そろそろ出るわよ。」

明日花がみんなに声をかけた。まず、耕作が上着を着ながら出てきた。その後を、続いて全員が玄関に集まり、明夫が運転席に納まっているステップワゴンへ乗り込んだ。

 車が家を出て県道へ出ようとしたところで、交通整理をしている係りの人に停められた。

「御輿が来るな」耕作が言った。

窓を開けると、タンタンと金属同士が当る音に合わせ、『どっこい、どっこい』という掛け声が聞こえて来た。だんだんと声と音が近付いてきて大きくなると、いきなり人山が動いて目の前にきた。

『どっこい、どっこい』の声に合わせ、御輿と人の山が前へ前へと少しずつ進んで行く。御輿が揺れて、鈴の音が掛け声に混ざる。『どっこい、どっこい』と翔太達の前を横切り、坂を降りていった。

「凄いね。僕にもできるのかな?」

「今度挑戦してみたら良いわ」と小百合が言った。


 ここの神社の例大祭は海老名市内を含め、隣接する地域の中で一番早く行われる。また、神輿を担ぎ練り歩く道中も長く、自治会の保存会や住人だけでは担ぎきれないので、神輿を担ぐ為に協力をしてもらう団体が各々の地元からやってくる。法被背中に地元の文字が入った法被以外は、皆その団体の人達で、長屋と呼ばれる御神輿を担ぐ棒に付いて歩きながら、担ぎ手が入れ替わるのを待つのである。


 人の山が坂を降りだして、交通整理の係りの人が『行け』の合図を明夫にした。それを見て、明夫がゆっくりと車を進め、県道に入り東名高速道路の厚木インターを目指した。

 天気の良い日曜の朝なので、東名高速道路の下り方面はすでに混み始めていたが、翔太達が乗った車は、反対の登り車線を悠々と走って行った。用賀のインターや首都高速も意外と空いていて、法事が執り行なわれる寺がある文京区の白山までは、あっと言う間であった。

「早く着きすぎたね」

お寺の駐車場に停まると、車外へ出た翔太が言った。

「本当ね。どこかで、お昼にしましょうよ。」美佐子が言うと「この近くに、お店有ったかしら?」小百合が問うた。

「この坂を登り切るとお店は有るよ。」

翔太が昨年来た時に、貴一と昼食を摂った店を思い出して、みんなに伝えた。

「それじゃ、翔太のエスコートで食べに行きましょう」

明日花が翔太の腕に、自分の腕を絡めて「お願いね」と言った。

「その前に、寺務所へ行って車を停めさせてもらわないと」

「じゃ、私と翔太で寺務所へ行くから、みんなは先に坂を登ってて」

 文京区白山は坂が多いところで、桜咲の墓がある寺は、長い坂の途中に建っている。表正面と裏手に駐車場があるが、明夫は坂を登り表正面の駐車場に停めたので、本堂と寺務所が有る低い裏手の道まで、石の階段を降りることになる。明日花が翔太を連れて石の階段を降りていった。

 寺務所の玄関に入ると、左手に六畳程の広さがあり、そこに応接セットが置かれていた。翔太が入って行くと、その応接セットに住職と貴一が談笑をしていた。住職はすぐに翔太に気付き、貴一へ「息子さんの到着だよ。」と笑顔で翔太を迎えた。


 翔太と一緒に明日花が住職に挨拶をした。住職はソファを勧めたが、二人は連れの家族が昼食を摂ると言って、坂の上で自分達を待っている事を話し断った。

翔太は貴一も誘ったが、貴一の両親と親族を待っているらしく、住職とここにいると言うので、二人は昼食へ行ってくると告げて寺務所を出た。

「明日花さん急ごう。おじいちゃん達、きっと待ってるよ」

「そうね、食べる時間も無くなっちゃうわね。」

 二人が坂の上に着くと、蕎麦と洋食とで決め倦んでいた。耕作と美佐子と明夫の三人は蕎麦が良いと言い、小百合と春菜は洋食をと退かない様子であった。結局、明日花と翔太が加わった洋食派と、耕作達の蕎麦派とに分かれ昼食を摂った。

 寺に戻った耕作達は、貴一の両親と四年振りの再会の挨拶を交わした。住職が本堂の座に着き、静かにお経が流れ、時間通りに桜咲の七回忌の法要が始まった。

 この場にいるみんなが、住職のお経を訊きながら、桜咲の事を思い出していた。特に、貴一と翔太、明日花の三人にとっては、思い入れが違う。

貴一は先日の軽井沢で、初めて会った時からの思い出が鮮やかに蘇った。翔太は、自分が持っていた母への思い出に、帰国してから今日までの約一週間で見聞きした、新しい母の思い出が加わり、大きかった母との距離が、詰まったように感じていた。

明日花はと言うと、姉と同じ人に恋をし、貴一の気持ちを知って諦めた。しかし、先日の軽井沢のサイクリング以降、そんな辛く苦しかった昔の気持ちが蘇り、貴一への思いと、姉への思いとの葛藤に悩んでいた。

(桜咲姉、私……苦しいよ……)心の中で亡き姉へ助けを願った。


 お経の後に、住職の説法を聞き法要は無事に終わった。別室にお茶とお菓子を用意してあると、貴一がみんなを案内した。

「貴一君、イギリスへは何時戻るのかね。」と耕作が訊いた。

「本当は明日のつもりでしたが、仕事の都合で、明後日の正午の便で戻ります」

「翔太、おじいちゃんとおばあちゃんは見送りに行くからな」

「本当!うれしいな。いつも、お父さんと二人で来て、二人で帰るだけだったから。本当に来てくれたら嬉しいよ」

「翔太にそこまで言われたら、行かないわけにはいかないよね。明日花。」

小百合が、ぼんやりとお茶を飲んでいた明日香へ振った。

「えっ。どうして私に振るの?」

「まさかジジババの二人だけで、成田まで行かせる気なの?」

「あっ、そうか。翔太、仕方ないから私も行ってあげるよ」

「ありがとう。明日花さん」

「仕事は大丈夫なの?」貴一が心配顔で訊いた。

「私はフリーだから、何とでもなります」

「では、私達も見送りに行くか。」貴一の父親が言った。

「そうですね。行かない訳にはいきませんね。」と母親も快く同意した。

「今回は凄いな。僕、見送りされるのって初めてじゃないかな」

「翔太は無邪気でいいな。でも確かに見送られるのは、桜咲と翔太と三人で、初めてイギリスに行く時に、明日花ちゃんにしてもらってからは無かったな」

「そうでしょ。どんな感じなのかな」

「テレビドラマだと、別れが辛くて泣き出すじゃない。翔太もその口だったりして?」

 春菜が茶化すと、翔太は少しむきになって「泣かないよ!」と返したが「おじいちゃんは泣くよ。」と耕作がぽつりと言った。

「今日は家には来ないのか?」耕作が寂しそうに訊いた。

「うん。お父さんと、春日のおじいちゃん家に泊まるから」

翔太が申し訳無さそうに答えた。

「そうか、仕方ないな」

「もう、お父さんたら、子供みたいなんだから」

「小百合に言われんでも判っとる」

「あら、そうですか。それじゃそろそろお(いとま)しましょうか」

 小百合の言葉で順に席を立ち始めた。貴一の父が「夕食をご一緒に」と申し出たが、花の面倒が有るから、と小百合が丁寧に断った。


 小百合の指示で翔太は鶴畑の面々を先に連れて、石の階段を登っていった。小百合は一人そのグループから抜け出して、見送りに付いて来た貴一と並んで歩く明日花との間に入ってきた。

「貴一さん。今日の七回忌が済んで、桜咲に対しては一区切りが着いたわね。」

「そうですね。お陰様で、滞りなく無事に七回忌を済ませることができました」

「そうよねぇ。長い様で短かったでしょうね。貴一さんにとってのこの七年は……。」

「はい。あっと言う間、とまでは言えませんが、翔太と二人、無我夢中でやってきて、気が付いたら七年たってしまったって感じです。」

「貴一さん。桜咲の事では、本当に色々とお礼を言わなければ成らないと思っているわ」

「そんなこと、別に」

「でもね。桜咲が亡くなって七年。一区切り着いたところで、今度は明日花の事を真面目に考えて欲しいのよ。」

「お姉ちゃん!」

明日花は厳しい目をして、小百合を睨んだ。

「明日花は黙っていて」

姉が初めて見せる悲しい顔に、明日花は驚き言葉を失った。

「貴一さんも、明日花の気持ちは昔から知っていると思うわ。私はね、誰か知らない女性が貴一さんと一緒になることも、翔太の母親になることも、明日花が本気で諦めない限り認めたくないの」

 小百合はここまで話して、一呼吸開けて続けた。

「昔、軽井沢で何が有ったかは詳しく知らないけれど。貴一さんとの初めての出会いで、桜咲と明日花は同時に貴方に惹かれたの。どちらも、真剣だった。二人に相談を受けて、何て運命を神様が与えたのか――。別々に聞いた相談で私はそう思ったわ。だから、二人へは『相手の気持ちを一番大事にするべき』と返事をしたわ」

「小百合さんの言葉があったから、だからあの日、ゴールデンウィークに、桜咲が一人で軽井沢へきたのですか……」

「そう。貴一さんの気持ちは桜咲に向いている。そう判って、明日花は黙って『白馬の王子様』を諦めたの、そして桜咲のバックアップに周った。でも、頭では判っていても、心は貴一さんを諦め切れなかったのよ。だから、貴一さん達がイギリスへ行くと決まってから、軽井沢の家の管理人を買って出たの。たとえ少しでも、貴方と繋がっていたくて――」

 明日花は石段の真中辺りでしゃがみこみ、顔を両手で押え泣いている。それでも小百合は話しを続けた。

「桜咲の死を願った訳では無いのに、不慮の事故で桜咲の命は奪われた。明日花は桜咲が好きだったから。恐らく、貴一さんや翔太、私や私達の両親を含めて、この世界中で一番悲しんだと思う。姉妹で一人の男性を好きになって、自分の気持ちに無理やり終止符を着けて。姉の幸せを願っていたのに。桜咲の命を奪ったのは自分ではないかなどと思って、長い時間自分を責め続けたの。私や母がそんな事は無いと何度も言ったけど、明日花は聞き入れずに、そしてあの日、手首を切った。」

 貴一がしゃがみこんでいる明日花を、驚きを隠せずに見つめた。

「幸い、私がすぐに気が付き、大事には至らなかったけど、明日花もこの七年、苦しみ続けてきたの。だからお願い。明日花を……。明日花の気持ちを、貴方自身の心で考えて、明日花へ答えて欲しいの。お願いします。」

 小百合は気丈な性格には珍しく、涙を流し貴一へ深々と頭を下げて頼んだ。

「そんな……、そんなことが有ったなんて……。」

 明日花の目線に合わせるため、貴一はしゃがんで、明日花の両方の肩を抱き言った。

「僕一人の問題では無いから、少し時間が欲しい。せめて渡英するまで……。翔太にも訊かなければならないし……。とにかく、少し考える時間が欲しい。」

 泣きながら、明日花が顔を上げて頷いた。

「いきなり、こんなこと言って御免なさい。もう、お姉ちゃんったら、こんな短い時間で、私の今までの気持ちを全部話しちゃうなんて――。考えてもいなかったわ。この一週間がとても楽しかったから、このまま終わっても、私は良いと思っていたの。でも……」

「明日花、見送りは必然的なものなのよ。貴方や貴一さんや翔太にとって、絶対に必要な物なの。判るでしょ」

「うん。逃げてばかりじゃ、いけないって思っていたけど。私も、見送りの時までに、もう一度自分と向き合って考える。」

 明日花が立ち上がるのを、貴一が手をかした。上で待っていた他の人達は、翔太が気を使い、予め車に乗せてしまった為に、下で何を話しているのか知られずに済んだ。

 明日花と貴一が立ち上がり、再び石段を登り出した。小百合がそれに続いた。翔太が途中まで降りてきて、二人へ言った。

「僕も、子供ながらに、ちゃんと考えてくるから……」

「翔太。君は知っていたのかい?」

「父さんと、明日花さんを見ていて、何となく感じたって程度。だから、僕もちゃんと考える。それで、良いでしょう。お父さん」

「そうだな。翔太にも関係のある事だ。明後日までの短い時間だが、それぞれ考えよう」

「貴一さん、翔太。ありがとう。良い返事が聞けると、私は信じているわ。明日花、帰りましょ」

「うん。では、明後日、ジジババ連れて成田へ行くから。楽しみにしていて」

「了解!」と翔太は明るく答えた。

「おじいちゃん、おばあちゃん。皆さん。本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。また、必ずいきます」

「僕は息子ができた様で嬉しかった。いつでもおいで、待っているから」と明夫が窓を開けて答えた。

「ありがとう。じゃ。気を付けてね!」

翔太は満面の笑みで返事をした。

鶴畑一家を乗せた車は坂を下って行く、貴一と翔太は車が見えなくなるまで見送った。


「さて僕達も帰ろう」

「うん」

小百合の言葉、貴一と翔太の二人に置いていった宿題は、超難題であった。普段から明るい翔太も、今は神妙な顔をしていた。

それを見越した貴一は、翔太の肩を『ポン』と一度叩いて、「さぁ、帰ろう」と再び言った。


 貴一の両親の家に帰り着いた貴一と翔太は、桜咲と明日花の事をそれぞれに考えていた。

 貴一にとっての桜咲は、唯一無二の愛した(ひと)である。それは、未来永劫変わることは無い。だから、明日花を受け入れることなどできる訳が無い。とすぐに答は出る。はずだが、明日花を大事に思う気持ちが存在しているのも判る。恋愛と言う感情では無いと自分に言い聞かせようとするが、では明日花を『大事』にしたいと『愛しい』と言う感情の違いは有るのか……。自問自答で胸が苦しくなる。軽井沢で過ごした約三日間、桜咲との思い出を、出会いから軽井沢を離れるまでが蘇った。しかし、その工程に明日花がいて、彼女を守りたいと思うようになったのも、事実であった。そんな思いがぐるぐると巡り、答えが見えない。貴一は残された時間の中で、答えを出せるか自信がなくなっていた。


 翌日貴一は会社へ出て、今期初の指示を出した。景気の低迷が窺えるこの時期を、いかに企業として生き残るかの方向性と進め方を指示し、それに伴う人事を発表してミーティングは終了した。

 社長室に戻った貴一は、溜息と共に皮の椅子に深々と座った。インターフォンを押してコーヒーを頼んだ。

会社経営も難しいが、昨日の小百合に言われた事は、もっと難しい話であった。しばらくして、経理の女性社員がコーヒーを運んできた。貴一は礼を言い、美味そうに飲んだ。

「社長、大分お疲れのご様子ですが、少しお休みになられたらいかがですか?」

「ありがとう。資料を早くまとめられたら、そうさせてもらうよ。悪いけど、専務へその旨を伝えて欲しい」

「承りました。それでは失礼いたします。」

 社員が退室して一人になり、仕事の資料に目を通した。幾つかの案件に対し決裁をし、数社の顧客先へ電話をした。

「こんな時にも、明日花の事を考えてしまう。経営者として失格だな――」独り言であった。


 翔太は祖母と、近所の根津神社へ散歩に出ていた。

「暖かくて良かったね」

「そうだね。翔太、何か相談事でも有ったんじゃないのかい?」

「――何でわかるの?」

「私はね。昔、お父さんが倒れてしまって、貴一を一人置いてイギリスへ行ったの。以来、『母より妻』に、(おもき)をおいて来たわ。寂しかったけど、気が付くと貴一との接点が少なくなって、年に一、二度しか会えなくなって、ついに貴一との繋がりが切れたと勝手に判断していたわ。でもね、貴一は手紙で近況や悩みを教えてくれたのよ。私は、母親として何もできないと決め付けていたけど、貴一は離れていても、私を母親として見てくれた。今朝の翔太もね、貴一と同じ顔をしていたじゃない。二人とも同じ事で何か悩んでいるのかなって感じたの。恐らく、明日花さんの事――。」

「なんで、そこまでわかるの?」

「明日花さんは、桜咲さんによく似ているの。翔太と貴一を見ている目は、母であり妻の目なの。鶴畑のお母さんも、ご承知だと思うけど、私からは桜咲さんの手前、話す事はできないから、貴方達三人が良く考えて決めるのよ。」

「僕が考えて、判断しても良いの?」

「当然よ。桜咲さんは翔太のお母さんだし、貴一は父親。明日花さんは、翔太に取って何になるのか、決められるのは、本人の貴方だけよ。」

 話し終わったのが、和菓子屋の前であった。祖母はみたらし団子を八本も買った。

「誰が、そんなに食べるの?」

「悩んで、考えて。答えを出すには、甘いものは欠かせないわ。たくさん食べて、後悔しない答えを導いて頂戴。」


 明日花は昨日帰宅してから、ほぼずっと何も手に付かず、どうしてあんな事になってしまったのか、どうして小百合を止められなかったのか、自分はどんな顔をして貴一や翔太と会えば良いのか。本題にはなかなか入れずに、余計な所で思考が止まっていた。

(桜咲姉は私に、貴一さんや翔太を預けるかな?もし、私が桜咲姉の立場ならどう思う?)

一日殆ど自室に篭り、本題を考えてみても答えは見付からず、考えも纏まらないまま、日が沈み夜になってしまった。夕食の時も、風呂に入っても同じ問いが続いた。ベッドの上で、同じ問いを繰り返したが、やはり答えは見えず、考えは纏まらなかった。


 居間の電話が鳴った。近くにいた明夫が電話を取った。

「はい、鶴畑です」

「こんばんは。明夫さんですか?」

「おっ、翔太君か」

「はい。明日花さんはいますか?」

「うん、居るよ。ちょっと待っていてね」

 明夫は電話を保留にして「明日花ちゃん!翔太から電話!」と二階の自室に居る明日花を、大きな声で呼んだ。

 『バタン!』と大きな音がして、ドタドタと階段を降りて、騒々しい元が居間へ入ってきた。

「もしもし?」

息は多少上っていたが、平静を装って電話に出た。

「明日花さんですか?」

「そうよ。翔太どうしたの?」

「お父さんから伝言で、明日、ゆっくり話したいので、十時頃に空港へ着くようにするから、できたら合わせて貰えないかな。って――。」

「そうね。こっちは遅くても七時には出る積りだったから、大丈夫だと思いますと伝えて頂戴。」

「判りました」と答えた声が、翔太から貴一の声に代わっていた。

「貴一さん――?」

「驚かせてごめんね。翔太が代わって欲しいって言うもので……、途中交代したんだ」

「いいえ――」

「明日、気を付けて来てね。渋滞なんかで遅れても、無理は絶対しなくて良いから。来月中旬には一度日本に来るから、その時に話しても良いと思うし」

「ありがとう。でも、お父さんなんか、明日、翔太に会えるのが楽しみだと言って、六時半に寝てしまったのよ。これで、間に合わなかったら、イギリスまで行く事になりそうだから、頑張って行きます。」

「そうなの、判った。それじゃ、明日花ちゃんも、睡眠不足が一番危険だから、早く寝たほうが良いね。」

「はい。そうします」

「では、おやすみ。」

「おやすみなさい。」

 電話が切れ明日花は溜息を吐いた。

傍にいた家族へ「おやすみ」と言って、居間を出て自室に戻った。ベッドに入り、貴一や翔太の事を考え始めた。明日花は何時の間にか寝入っていた。


 明日花は答えが見付からないまま、夜が明けて当日を迎えてしまった。寝不足と言う程ではないが、睡眠時間が少なかったのは事実であった。

 明夫はジムニーより、運転が楽だからと言って、自分のステップワゴンを借してくれた。正午発の飛行機と言うことで、正味二時間程度の距離だが、都心の渋滞と見送りの時間を加味して、出発までの所要時間を五時間と読み、海老名の自宅を七時前に出た。

保土ヶ谷バイパスは出勤時間の車と重なり、狩場インターまで渋滞していた。狩場インターから首都高速に乗り、横浜ベイブリッヂを過ぎて湾岸線に入った途端、羽田空港の手前で再び渋滞に合った。苛々しながらも三十分程度で渋滞から外れ、ディズニーランドを過ぎ宮野木ジャンクションから、東関東自動車道に入ってからは、渋滞で使った時間を取り戻せるほど順調であった。

成田インターチェンジから新空港自動車道を通り、成田国際空港へは、予定していた通り十時に到着できた。

「お疲れ様、着いたわよ」明日花は駐車場へ車を入れ両親へ言った。

「飛行機は何時発なの?」美佐子が訊く。

「全日空の十二時発よ。昨日の翔太からの電話では、十時には着くように家を出るって言っていたから、丁度良い時間だと思うわ」

 その時、携帯が鳴った。表示を見ると貴一からであった。

「はい、明日花です。」先日のお寺での、小百合が言った事が頭を過ぎりながら電話に出た。

「おはよう、明日花ちゃん。今大丈夫?」貴一の声と話し方がぎこちなく感じた。

「おはようございます。今、空港の駐車場に着いたところです。」

「そうなの?僕も今着いて、レンタカーを返したところ」

「どちらへ行けば良いですか?」

「そうだな――。第一ターミナルの北ウイング五階に、コーヒーショップが有るんだけど、判るかな?」

「ええ、多分行けると思います」

「それでは、先に着いた方が席を取るって事にしよう」

「はい。わかりました。では、あとで」

 明日花は電話を切って、話しの内容を二人へ伝えた。

「翔太が待ってる。急がなくては」耕作が急いで歩き出す。

「お父さん、そんなに急がなくても大丈夫よ」

「そんな事はなかろう。早く行けば、それだけ長く顔を見ることができるじゃないか」

「それは、そうね。」耕作に初めて言い負かされた気がした。

 三人は極力急いで、待ち合わせのコーヒーショップへ向かった。エスカレータに乗っていると、四階で翔太が声をかけてきた。

「やっぱりおじいちゃんだ。おはよう、おじいちゃん、おばあちゃん。明日花さん」

「おう。翔太か、おはよう。どうだわしが言った通り、急いだから途中で会えたじゃないか」

「本当ね、お父さんの言う通りだったわ。」明日花は嬉しそうに言った。

一同は四回のエスカレータの乗り継ぎ場で、他の人の邪魔になってはと簡単に挨拶を交わし、五階のコーヒーショップへ向かった。

 店に入り、隣り合った四人席が二つ空いていたので、両親同士が座り、貴一達三人は隣のテーブルに席を取ったが、翔太が自分の隣の椅子に荷物を置いたため、貴一は明日花の隣に座った。

紅茶とコーヒーを頼んで、やっと一息着くことができた。

「この前は、お姉ちゃんがいきなり変なこと言ってしまって、御免なさい。」明日花は気になっていた事を最初に謝った。

「気にしなくて良いよ。正直、明日花ちゃんの気持ちを聞いて、驚いたけど、聞けて良かったとも思っているんだ」

「……」明日花は貴一の顔を見ることができなかった。

 そこへ、紅茶とコーヒーが運ばれてきた。各々砂糖やミルクを入れて飲み始めた。耕作は何を話し始めたのか気になったが、美佐子から「黙って聞いていれば良いの。」と釘を刺され黙った。

貴一の両親も、耕作や美佐子、貴一と明日花の雰囲気を感じ取り、寡黙にお茶を飲む事にした。

「僕は色々と考えたんだけど、やっぱりこの短い時間の中では答えが見付からなかった」

「私も、です。お姉ちゃんがあんな事言ってしまったから、申し訳無い気持ちが先に立ってしまって、考えが纏まらなかったの」

「僕は、来月の後半にまた来るから、その時に、時間を作るから許して貰えるかな」

「はい。それだけ時間をいただければ、私も答えが出せる気がします。」

「本当にそうなの?」黙ってコーヒーを飲んでいた翔太が訊いた。

「翔太――。本当にって、本当のことだから……。」

「そうよ、本当のことだから……。」

「僕はもう答えを出してきたよ。」

「翔太は子供だから」

「そうじゃないよ!」翔太は貴一の言葉を遮り、少し大きな声で言った。

「御免なさい。大きな声出して――。でも、もう子ども扱いしないで欲しいんだ。と言うか、今から僕の気持ちを聞いて欲しいんだけど。お父さんとお母さんの息子としての、正直な気持ちを――。」

 翔太はコーヒーを一口飲んで、息を整えゆっくりと話し始めた。

「今まで僕の心の奥には、イギリスの家の庭で、薔薇を手入れしているお母さんがいたんだ。薔薇の香りまでが本当に香って漂いそうな感覚の中で、お母さんが僕に話しかけてきて、耳を澄ますとお母さんの声が聞こえてくる。でも、僕が返事をしてもお母さんは、僕を微笑みながら見ているだけで、何も答えてくれない。僕がどんなに大きな声で叫んでも、お母さんには僕の声が届かないから、何も答えてくれないんだよ。十一歳の時から今までの間、ずっと変わらずにそんなお母さんに、僕は会っていたんだ。ずっとずっと、同じ距離を保ちながら何年も――。」

 貴一も明日花も、何も言わずに翔太の話を聞いていた。窓の向うでは、どこの国へ行くのか判らない白い機体の旅客機が、恐らく、凄まじい轟音を上げているのだろうが、ここへは聞こえずに無音の中で飛び立っていった。

「でもね。今回日本に来て、お父さんや明日花さん、鶴畑のおじいちゃんおばあちゃんと小百合おばさん達から聞いた、僕が知らないお母さんの事や、お母さんのアルバムを見て。お母さんがいなくなった穴が塞がった訳では無けど、今まで空いていた部分に『思い出』って言う新しい(ピース)が入って、開ていたお母さんとの時間が埋リ始めた。そのお陰で距離がずっと短くなった気がする。」

 翔太の目から涙が零れた。貴一は腕を組んだまま、目を閉じて何も語らず、明日花もテーブルの上の、三個のコーヒーカップをぼんやりと見つめているが、それでも翔太の声は二人にちゃんと届いていた。

翔太の桜咲へ対する思いは、二人が心の中に持っている、桜咲の思い出の引き出しとは別の、新しい、出来立ての引出しの中へ収まっていた。

貴一が腕組を解いて目を開けた。少し考えた後にゆっくりと話し始めた。

「翔太は大人になった――ってことかな。」

 少しの沈黙の後に、貴一が翔太を真直ぐに見ながら感想を言った。

「よく『時が解決する』って言うけど、それは直面した人の見方や感じ方が、時と共に少しずつ変わるからであって、何も変わらない、(かたく)なに昔のままでいようとする人には、いくら時間を費やしても『時間が解決する』ことは無いんじゃないかと僕は思う。」

「そうね。当事者自身が、変わることが必要なんだと理解して、実際に変わるために必要な時間が、解決の手引きをしてくれる。私もそう思うわ。」

 明日花がぼんやりと見ていたコーヒーカップから、話をする貴一の横顔に目を移し、話しに同意して補足した。

「僕には、まだその辺が良くわからないけど、僕の中にいるお母さんは、いつでも僕を微笑みながら、見守ってくれているんだと思うし、そう思い続けたい。」

「その通りだよ。お母さんは翔太を見守っている。」

「私もそう思うわ。桜咲姉はずっと大事な二人を見守っていてくれる。」

 明日花はそこまで話して、次の言葉の『私も』と続けるのに躊躇した。が、翔太が明日花の目をじっと見ている。明日花は何かを決心して、少しの間を取り話しを続けた。

「私がいくら二人の事を大事に思っても、桜咲姉の代わりにはなれないし、三人の中にある大きな穴の中に、私が入る事はできないの――」

 明日花は桜咲に遠慮して、貴一への思いを秘めたままでいようと決めていた。しかし、翔太はその扉をわざと抉じ開け、貴一へ詰め寄って言った。

「アプリコットが嫌いで、食べられなかったお母さんは、お父さんの好物だから、努力して攻略したと小百合おばさんが言っていた。けどね。それは、明日花さんも同じ気持ちで、お母さん以上に苦手なアプリコットを頑張って、食べられるようにしたと、小百合おばさんが話してくれた。」

 貴一も知らなかった事を翔太から聞かされ、思わず明日花を見た。明日花は絶えられず両手で顔を覆った。

「翔太。大人の事を無邪気に話せるほど、もう幼い歳では無いだろ。それ以上は、翔太が触れて良い事では無いぞ」

 貴一は怒った口調で言った。

「判ってる。でもお父さんだって、明日花さんを軽井沢の家の住人だって言っていたじゃない!」

「一昨日、小百合さんから、明日花ちゃんの気持ちを知らされて、そんなにまで、僕や翔太。桜咲のことを思っていてくれたことは、素直に受け入れたいと思う。でもやっぱり、たった二日間で答えが出せるほど簡単な事では無いんだ。」

「僕だって簡単な事じゃ無いと知っているから、今の僕の気持ちをここで言っておかなければいけないと思った。だから、生意気かもしれないけど話しているんだよ。僕はお父さんより若い分素直に言える。明日花さんを『お母さん』と呼ぶ事が、今ならできる。お父さんも、明日花さんも、お互いにもっと素直に言うべき事があるんじゃないの!」

 明日花は翔太に背中を押され、二十年近く封印していた気持ちが前にでた。明日花が顔から手を外し、貴一の目を見て振るえた声で言った。

「貴一さん……、イギリスへ……、行ってもいいですか?」

 貴一は明日花の両手を自分の両手で優しく包み、しばらく考えたのちに、明日花へ本心で応えた。

「いいや。僕達が軽井沢に帰る。三人で、冬の白糸の滝を見るって約束だから。もう少し、あの家で待って居てくれないかな。来年には、桜咲の薔薇が咲き誇るところも見たい。でも、何よりも君と暮らしたい――。」

「軽井沢で……、あの家で貴一さんを待っていても良いですか?」

「あぁ。仕事を引き継ぐのに少し手間が掛かるけど、今年の秋までには僕達は帰るから、それまで待っていて欲しい。」

 翔太が両手を高く掲げた。明日花は貴一の胸に顔を埋めて泣いた。貴一は明日花の体を優しく包み込んだ。


 見送りに来ていた貴一と明日花の両親は共に、突然の成り行きで驚きながら挨拶を交わした。

「とんでもない七回忌になってしまった。」と貴一の父親は鶴畑の両親へ詫びた。

「これからも、末永くお願いいたします。」

明日花の父は返事に窮して、可笑しな返事をした。

双方の母親は、長い時間が生んだ結果だと言い。今秋の結婚式の日取りと、仲人や列席者について話し始めた。


 両家の両親を喫茶ルームに残し、明日花は見送り用デッキに出て、貴一と翔太が乗った飛行機を見送っていた。

二人が乗った飛行機は、明日花との暫しの別れを惜しんでいるかのように、螺旋を描き徐々に上昇し、春の青空高くに到達した後、目的地の方角へ機首を向け、白い線を空に真直ぐに引きながら徐々に小さくなり、やがて見えなくなった。



                            完


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