表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薔薇の咲く庭  作者: 吉幸 晶
1/2

止まった時間が動き始めるとき。


       家族



 バーミンガムは、ロンドンからおよそ北西へ二百キロ程離れた、イングランドのほぼ中心に有る。イギリス国内ではロンドンに次ぐ二番目の大都市で、中世期に産業革命がこの街を中心に起きたことも、この街の名を有名にした理由のひとつである。

街の景観は、中世期に建てられた建物と、現代の近代的な建物とを上手く共存させており、街の景観を目当てに来る観光客も少なくない。また産業技術の産物として宝石業も盛んで、華やかな一面とシェークスピアの演劇という、芸術の別の面も持ち合わせた街である。


 春日貴一(かすがきいち)は、貿易会社を経営する父が、二度目の心臓発作を起こした時に、大事には至らなかったものの、社長の激務に耐え得る体ではない父をサポートする為に、妻の桜咲(さき)と一人息子の(しょう)()を連れ、この地へ赴いてきた。すでにこの地で生活を始めて、十年の年月が経っていた。

渡英にあたり貴一は、長期滞在する事を、桜咲に反対される覚悟で相談したが、「海外の暮らしなんて、普通ではなかなか出来ない事でしょ。とても楽しそうだわ。それに翔太は、本物の英語が学べるわ。私は大賛成よ。」と、存外にも簡単に承諾してくれた。

 両親の家は、バーミンガム郊外の閑静な住宅街にあった。眼下の田園には緩やかに蛇行した小川が流れ、天気が良く空気が澄んでいるときは、遠くバーミンガムの摩天楼をも望める、申し分のない眺望の高台に建っている。両親は貴一へ、一緒にこの家で暮らすよう勧めたが、バーミンガムの街の外れにアパートを借り居を構えた。


 渡英して四年後のクリスマスの晩、両親の家で行われた、仕事の関係者や父の友人を集めた、クリスマスパーティーに招かれた。貴一の家族を除いても、二十人ほどの客が招かれていたが、その誰もが仕事の話をする訳でもなく、ごく普通のホームパーティーのように、賑やかで楽しいひと時だった。

元来酒に弱い貴一は、普段からあまり酒を飲まない。しかし、この日は接待も兼ねてのパーティーな為、付き合い程度に一杯のシャンパンを、舐め舐め過ごしていたのだが、時間が経つうちに酔いが回ったのか、少し気分が悪くなってきた。

それに気付いた桜咲は、ティーカップを手に、貴一へ小声で言った。

「紅茶を淹れたわ、夜景でも観ながら、少し酔いをさましたら?」

「ありがとう。そうさせてもらうよ。」

小声で礼を言い、窓際のソファに腰をおろして紅茶を一口啜った。アールグレーの風味が、口の中に広がった。窓から遠くに見える街の灯りは、クリスマスの装飾に彩られ、以前ここから観た街灯とは違い華やかだった。

その街明かりを、ぼんやりと眺めていると、父もティーカップを手に、貴一の横に腰を下ろした。

窓の外の夜景を観るのではなく、ただ遠くを見ながら、父は話し始めた。

「貴一が来てもう四年が経ったな。会社の主事業の宝石貿易だけではなく、貴一自らが起案したアンティーク品の事業も、順調に売上が伸びているし、後は貴一に任せ、私達は隠居しようと思っているのだが――」


貴一が産まれて間も無いころ、父が勤めていた貴金属の輸入販売会社が倒産した。不安と戦い、家族の生活を守る為に、父は自分が今まで培ってきた、貴金属の知識を生かす道を選び、東京は文京区のすすけた古い貸しマンションの一室に、今の会社を立ち上げた。

創設当時は父一人の個人事業ではあったが、翌年には、神と運が味方をしたのか、いくつかの顧客を得て、なんとか軌道に乗せる事ができた。数人だが、社員を雇うことができるまでに成果を上げ、業績を伸ばしていた。

そんな折り、大口の話が飛び込んできた。父は大仕事を受け、バーミンガムへ宝石の買い付けに、単身向かったが、小さく新しい会社は信用も信頼も持てないと、門前払いの日々が続いた。父は思案の末、顧客の伝手(つて)を頼り、何とか買い付けのルートを作りだし、転機となる大仕事を辛うじて収めることができた。

それから数日後、父は心労がたたり、宿泊先のホテルの自室で倒れた。バーミンガムから連絡を受けた母は、急ぎ支度を整え、父の所へ文字通り日本から飛んで行ったのであった。

 あれから三十五年、父と母はオイルショックや日本中が恐怖、失望したバブル崩壊という大きな苦境と対峙し、その都度乗り越えて社員数四十人、バーミンガムの支社はもとより、東京本社を小さいながらも自社ビルにし、大阪と長野に、こぢんまりとした営業所も創った。

「まだ隠居するには早いと思うけど、父さん達が歩んできた道程(みちのり)を思うと、隠居と言うより、長期休暇ということであれば、引き受けさせてもらいます。」

 父は、「ありがとう、後は頼む――。」と一言残し、客の輪に戻っていった。貴一は大きいと思っていた父の背中が、いつの間にか小さくなっていたのだと、このとき初めて感じた。

(後は任せてください。微力ですが父さん以上に頑張ります。見ていてください。)

客達の輪の中へ入って行く父の背中へ誓った。

 

貴一が父から、会社とバーミンガムの家を引き継ぐ決心をすると、両親は日本へ帰国し本社の近くに、マンションを借り移った。その後、貴一一家はバーミンガムの家に入り、貴一は会社の経営全てを引き継いだ。あれからすでに五年の月日が過ぎていた。

 この家に越してきた時に、家の前の坂を自転車で登っていれば、運動不足の解消に繋がる、と貴一は家族に言い、各自好きなカラーの自転車を選び買い揃えた。しかし五年後の今では、貴一はその緩いが麓から続く約一キロの登り坂を、自転車で登った事は、数えるほどしかない。が、桜咲や十一歳になる息子の翔太に取っては、然程気になる坂では無いようで、雨天と貴一の自動車を使った外出以外は、愛用の自転車で買い物や通学などが日課になっていた。



 昨夜の台風並みの暴風雨は、朝目覚めたときには、嘘のようにおさまり、穏やかになっていた。青い空の中を点在している大小の白い雲が、吸収しあいながら、ゆっくりと東の方へ歩みを進めて行く。風も時折、庭の草花を揺らした。

 朝方は少し肌寒い感であった気温も、昼を過ぎた頃には、上着を着ていると、汗ばむ程に順調に上っていた。

 昼食後貴一は、明日の会議で使う書類へ目を通す、と言って書斎に入り、小さな活字を追いかけ始めた。開けられた窓からは時折、乾いた微風が、薔薇の香りを運ぶ。その淡い香りに、仕事に追いかけられる貴一の心は癒された。

 この薔薇は、桜咲が日本から持ってきた一株を、十年越しで育て増やしてきた薄紫の薔薇だが、貴一は名前を知らない。桜咲に聞いても、「私の薔薇よ。」とはぐらかされ、教えて貰えずにいた。

 アパートの時は鉢植えだった薔薇も、この家に来てからは、庭に植えなおされ、今では十数本の株になり庭を華やかにしている。

いつの間にか、陽射しは西に傾きかけ、穏やかだった微風も、書斎のカーテンを揺らし、書類を読む貴一の邪魔を始めた。窓を閉めようと手を伸ばした時、薔薇の樹の間から、ブルーの作業用のツナギを着た、桜咲を見付けた。

桜咲は咲いている薔薇の花ひとつひとつに、話しかけているようだが、貴一には何を話しているのかは聞き取れない。


貴一は桜咲の話し方がとても好きだ。どんな時も、相手の目を優しくみつめ、微笑(ほほえ)みを絶やすことなく話しかけてくる。貴一の感情が昂ぶっている時も、桜咲と話しているうちに何故か落ち着いた。

桜咲は薔薇へも、人と同じ、変わること無く接していると判る。花に微笑みながら話している桜咲を、貴一は仕事の手を止めて暫く眺めていた。

風が机の上の書類と、開いていた本のページを(めく)った。貴一は慌てて書類をおさえ、それを期に桜咲へ声を架けた。

「そろそろ、翔太が帰ってくる時間だよ」

「えっ、もうそんな時間?早く仕度をしないと……」

剪定(せんてい)した薔薇の小枝や道具を急いで片付け、慌てて家の中に戻っていった。

 ブルージーンズと、白とライトグリーンの縦縞のコットンシャツに着替え、キッチンに入り、夕食の仕度を始めた。今日は翔太の十一歳の誕生日。桜咲は家族のお祝いの時には、必ずアプリコットのケーキを焼く。

アプリコットが好物な貴一は、シンプルに紅茶を飲みながら食べるが、翔太は生クリームを山ほど掛けて、ホットミルクで食べるのが好きだ。

 夕食の材料は一昨日、買って仕入れていたが、肝心のアプリコットが品切れだったので、今日の午後には入れてもらえるように、店へ頼んでいた。時計を見ると三時半を少し過ぎたところ。

「もう入っているわね、急いで帰ってくればまだ間に合うかな。」トートバッグを肩に掛け、書斎の貴一に声を掛けた。

「ジョディーの店に、アプリコットを取りに行って来ますね」

「了解。ジョディーに捕まらないように。」

貴一は書類から、桜咲へ視線を移し答えた。そう答えた理由に、先週買い物に行った桜咲が、二時間もジョディーに拘束され、仕事から帰った貴一が向かえに行って、やっと開放されたと言う実績があったからである。

「今日は見付からないように上手くやるわ、捕まったらケーキどころか、夕食も間に合わなくなっちゃうもの。」

笑いながら桜咲は、自分の水色の自転車に乗り、ハッピーバースデーの歌をハミングしながら、緩い下り坂を降りて行った。

「捕まりませんように。」と貴一は祈りながら、書斎の窓から桜咲を見送った。

空の青さは朝から変わらずにいるが、白い雲は少し急ぎ気味に、東へ向かって流れている。坂の途中で桜咲の姿が見えなくなってから、貴一はまた書類へ目を向けた。


 どれぐらい時間が経ったのであろうか、書斎の窓から入っていた陽が傾き、手元を窓枠の影が覆い始めた。貴一は机の上の時計を見た。ペン立てを共用している古い置時計は、四時半を、少し過ぎたところを指している。

「ふたりとも随分遅いな。」

窓から外を見ると、翔太が自分の黄色い自転車を、ガレージに入れているところだった。

「おかえり、お母さんと一緒じゃなかったのかい?」貴一は窓を開けて翔太へ声をかけた。

予期しない父の声に少し驚いたが、振り向き書斎の窓に父を見付けると、「ただいま。お母さん出かけたの?」翔太は応えた。

「ジョディーのところへ行く、と言っていたけど」

「ジョディーの店なら逆方向だよ。僕はスイミングスクールに行っていたから」

そう返事をしながら、坂の上を指した。貴一は、翔太が指した逆の方を見たが、桜咲が坂を登ってくる様子は無かった。

またジョディーに捕まったと思い、貴一は手早く書類を片付け、仕事部屋の扉脇に有るコート掛けから、スウェードの上着を取り上げ、羽織ってガレージへ向かった。

「留守番頼む。ちょっと母さんを迎えに行ってくる。」

ガレージで自転車の手入れをしていた翔太へ言った。

「了解。きっとまたジョディーに捕まって、暇潰しの長話しに付き合わされているんだよ。父さんもミイラ取りにならないように気を付けてね。」

「父さんは大丈夫さ。ジョディーは父さんが難しい話ししかしないから、苦手みたいだしね。」

そう言いながら貴一は、埃の積もった青い自転車を出して(またが)った。ハッピーバースデーの曲を、口笛で吹きながら、両足をブラブラさせ坂を降りて行く父を見送り、自分の誕生日を覚えていてくれた事に、ちょっと嬉しくなって、「行ってらっしゃい!」と大きく手を振った。


 坂を下りきったところに十字路がある。そこを右に曲がって、五百メートルほど曲りくねった道の先に、ジョディーの店はある。

 地元では『ジョディーの店』で通っているが、本来はこの町に数店舗あるチェーンのマーケットで、普通で言えばジョディーはその店の一従業員に過ぎない。しかし、彼女が社長の孫娘というとろが実に問題で、取分け雇われ店長風情にしてみれば、扱い難い存在であった。仕事そっちのけで長い無駄話しをしていても、誰も注意ができず、渋い顔を見せるしかできない。

 ジョディーの長話の対象は、従業員仲間だけでは済まず、買い物に来る客も入っているため、周りのほぼ全員が参っているのが実情であった。桜咲もまた、そんなジョディーのターゲットの一人になっている。

 以前桜咲が、他の従業員から仕入れてきた情報で、ジョディーがオフの日は、売上が三割増すと言うのも、(あなが)ちガセではなさそうである。

「今日と言う今日は、彼女にビシッと言ってやるぞ!」

貴一はそう言いながら自転車を扱ぎ続け、緩い左カーブを抜けた所で店が見えてきた。

 店の駐車場まで来ると、人だかりが貴一の眼に入った。

「また、映画の撮影でもきているのかな?」

先月の初め、この店に、何とかと言う人気の出始めた、美男で若い俳優が来て、映画のワンシーンを半日掛けて撮っていたのだと、桜咲から聞いたのを思い出した。貴一は人垣を避けて、店の前に着くとジョディーが先に貴一を見付け、いつもの甲高い声を一層に張り上げ叫んだ。

「キイチ!サキガ!サキガ!」

貴一は彼女の指す方を見た。さっきの人が大勢固まっている方であった。貴一の頭を、不安が過ぎった。

人山を見ながら、一歩踏みでてゆっくりと歩き出し、三歩目からは、早足になり、最後は全力で走っていた。人山へ突っ込み、人垣を掻き分け奥へと入っていった。


 夕焼け色に辺りが染まり始めているが、ひと目でその色とは違う、赤い水溜りの中に、トートバッグから飛び出たのか、割れて中身が半分でているアプリコットのビンが転がっている。その傍らに無表情に横たわっている桜咲を見付けた。

 貴一はしばらく何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立っていた。ジョディーがその背中を押し、我に戻り桜咲へ駆け寄り抱き上げた。

「桜咲!桜咲!」

貴一が呼ぶが、茶色味がかかった憂いのある瞳は、瞼に閉ざされたままで、微笑の絶える事の無い顔も、今は蒼ざめ、微笑も絶えていた。貴一は桜咲の『死』を受け止められず、何度も名前を呼んだ。

 暮色に夕闇が迫り始めた空を仰ぎ、命の()を消した、桜咲の小さく細い空の(からだ)を、貴一は抱きしめ『これは夢だ。悪夢なんだ!』と繰り返し叫んだ。


 夜空の濃い藍色は、夕焼けを西の空の下へと押出して混じり、茜色とのグラデーションを生む。しかし、いくら貴一が呼んでも、貴一の腕の中で、桜咲が応えることは二度と無かった




       帰郷



「お茶の支度が出来ましたよ。」

桜咲がトレーにお手製のアプリコットケーキと、紅茶を乗せリビングへ運びながら、オセロに夢中な二人へ声をかけた。

 貴一は勝っている余裕からか、すぐに桜咲の声に応えて席を立ち、ダイニングのテーブルへ移った。が、翔太は三戦して勝ち星が取れず、四戦目でやっと好機が訪れ、優位に立ち始めたところでの休憩を素直に喜べない。盤面に目を落したまま、次の一手の先読みを頭に入れていた。

「お茶冷めるよ。ケーキも父さんが全部たべちゃうよ。」

なかなか腰が上らない翔太へ、貴一が催促した。

「今、行くよ。」

腰は途中まで上ったものの、目と思考力は、盤面に釘付けのまま翔太は答えた。

「負けが混んでいるときは、頭を休めた方が得策ってものだ。まぁ、いくら先を読んでみても、父さんに勝つには、十年はかかるだろうけど」

紅茶を啜りながら、貴一は冷やかしで、ちょっと意地悪な言い方をした。

「貴一さん、そういう言い方良くないわよ。」

すかさず桜咲からクレームが付いた。

桜咲は普段から、貴一や翔太が何か考え事をしている時には、催促することなく、じっと待っている。「お待ちどうさま」の声に、笑顔で「それでは始めましょう。」と澄んだ暖かな声と笑顔で必ず迎えた。貴一もそれを真似ようとするのだが、なかなか身に付かず、桜咲の寛大さを何度も思い知らされていた。

「よし!読めた。」

翔太が掛け声と同時に、自信に満ちた満面なる笑みで二人へ振り返った。

「ごめんね、お待たせ」

「それでは、頂きましょうか。」

貴一と桜咲は、声を合わせ笑顔で翔太を迎えた。


 貴一はケーキを食べようとフォークに手を伸ばすが、何故か届かない。届かないと言うより、手を伸ばせば伸ばすほど、フォークが逃げて行く。桜咲と翔太が何か言っているようだが、貴一には聞き取れない。からだ中に脂汗をかいて、視界も狭くなり意識が朦朧(もうろう)とし始めているのが、辛うじて感じられた。

貴一は焦った。何かがおかしい。目の前で桜咲と翔太が歪み回り始めた。

「……さん」

誰かが自分を呼んでいる。応えようとするが声も出ない。体が大きく揺れている。

「……さん。父さんってば。」

貴一は我に返った。

「大丈夫?また(うな)されていたから、起こしたんだけど」

翔太が心配そうに貴一を覗き込んだ。

「ああ助かったよ。ありがとう」

 貴一は体中に汗をかき、喉がカラカラになっていた。

「キャビンアテンダントを呼んだから、来たら冷たい水を貰って飲んだほうがいいよ。」

「いつもすまないな。そうするよ」

貴一は日本に帰る飛行機の中に居る事を思い出した。

仕事柄、日本へは月に何度か帰るが、その時は機内で仕事をしながら過ごすせいか、今の夢を見る事はまず無いが、私用で飛行機に乗ると、必ずといっていいほどに、同じあの夢を見ては魘され、翔太に助けられた。


 桜咲が亡くなった時は、貴一の父が多方面へ手配してくれた事もあり、悲しみの中、日本で葬儀は執り行なわれた。あれから今年で七回忌を迎えるのだが、貴一と翔太にとっては、埋める事が出来無いほどの大きな穴が明き、未だにその穴は埋まることは無い。

「あと一時間ほどで着くらしいよ」

「そうか。結構長い時間、寝ていたんだな」

「そうだね。映画二本分かな。」

「二本って、翔太は寝ていないのか?」

キャビンアテンダントがきて、翔太が冷たい水をふたつ頼んだ。

「『ローマの休日』と『サウンド・オブ・ミュージック』両方、お母さんが好きな映画でしょ。」

「そうだね。付き合って間もない頃に、リバイバルの映画館で初めて観たのが、『ローマの休日』だった。それから、翔太を身篭ったときに、胎教なんとかっていってね、良い音楽を聞かせるために桜咲が選んだのが、『サウンド・オブ・ミュージック』のレコードだった。毎日のように聴きながらお腹を擦って、君に話しかけていたな。」


 結婚当初の二人は、祖父母から譲り受けた軽井沢の自宅に住んでいた。寒い軽井沢の冬、暖炉で暖たたまった部屋から、ロッキングチェアに座って雪景色を眺め、お腹の中でまだ会えない我が子に、話しかけている桜咲の姿を思い出していた。


 キャビンアテンダントが運んできた水を受け取り、貴一は一気に飲み干した。翔太は自分の分の水を、貴一のテーブルに置いた。

「いいのかい?」

「僕は映画観ながらジュースを飲んだから。」

「では遠慮なくいただくよ。」

貴一は二杯目も一気に飲み干して、自分の頬をパシッと両手で叩き、やっと目が醒めた。目が醒めたと同時に、機内放送が入った。

到着は定刻の日本時間午前九時十五分より、二十五分ほど早くなると告げた。天候も快晴で軽井沢まで運転する貴一にとって、都合の良い内容であった。

「ドライブ日和だな。軽井沢も晴天でいてくれれば、申し分ないけど。」

「成田から軽井沢の家までは、どのくらいかかるの?」

「そうだなぁ、高速道路を乗り継ぎして五、六時間ってところかな?」

「結構かかるんだね。運転変われないから、辛いんじゃない?」

「まぁ急ぐ旅でも無いから、休み休みのんびり行くさ。」

そう翔太へ言い。貴一はシートに(もた)れ、軽く目を閉じた。


 飛行機は機内放送の通りに、定刻より早く成田空港に到着した。

ふたりは飛行機を降りると入国審査を受け、問題無く通過(パス)し手荷物の引渡し場へ移動した。巨大な回転テーブルに乗せられ出てくるであろう、自分の荷物を待ちながら、翔太が貴一へ不満と不安が混ざり言った。

「これって意外と時間かかるんだよね。僕達の荷物が全部出てくる保証もないし――。僕、嫌いなんだ。この時間って。」

「仕方ないさ。着いた飛行機の乗客全員分の荷物が出てくるのだから、時間が掛かるのは、むしろ当然だと思わなくてはね。それに荷物がどこかへ行ってしまうと言うのは、稀なケースだから、そんなに心配しなくても平気だよ。」

帰国と渡英を何度も経験している翔太は、成れているはずだが、未だに、自分の荷物全てと対面するまでは安心出来ず、心配顔で出口を覗いている。

「父さん、もう出てきたよ!ハードトランクは僕が取るから、布の方とボストンバッグを頼むね。」

背伸びして荷物を待っている人垣の上から、出口付近を見ていた翔太が、嬉しそうに言った。

 それを合図に貴一は、比較的空いている人垣の中に入って、荷物が回って来るのを待ち引き上げた。

「今日は最短時間が出たよ。僅か十八分。いつもこうだと良いんだけどなぁ」

翔太がトランクを押しながら戻ってきて、安心を取り戻した事で、嬉しそうに言った。

「そうだな。空港に着いてから自由になるまでの時間は、毎回長くてウンザリさせられる。」

「でしょ。今日だけはこのまま、税関検査もすんなり行きそうな気がする。」

「だったら父さんは嬉しいね。そうだ、翔太の感が当ってさ、最短時間が出たら、昼食は豪勢に寿司にでもしよう。」

「寿司ぃ」

「ははは、翔太にとっては、『和食は豪勢にあらず』って感じかい?」

「うん。寿司だったら、ハンバーガーの方がましってやつかな。」

「それじゃ、フライドポテトにサラダも付けよう。ジュースもフレッシュジュースなら文句ないだろ」

「なんかいつもの食事と、変わらない気がするな……」

「気のせいじゃない?それとも、サンドウィッチの方が良い?」

 二人は話しながら税関検査の行列に並んだ。

「そうじゃなくてさ、フランス料理のフルコースとか、イタリア料理って言う選択肢もある――」

「和食に中華もあるよ。」

貴一が横目で、翔太を冷やかすように見て言った。

「――わかったよ。サンドウィッチで我慢するよ。でも、空港や高速道路のサービスエリアのやつは駄目だからね。ちゃんとした店で、でき立てのサンドイッチにしてよ。」

「うーん。今日は無理かな。いくら最短時間がでたとしても、その倍以上の時間を、移動で取られるからね。」

「えー。今日じゃないと、意味無いような気がするんだけどなぁ」

二人の番が回ってきた。パスポートを見せ、荷物の検査など一通りのチェックが、淡々と行われ終わった。到着ロビーに出た二人は時計を見て、最短記録樹立をハイタッチで祝った。


 ロビーを出るとレンタカー店へ向かい手続きをした。

仕事での帰国では、バスや電車を使い用事を済ませるが、今回は貴一が暮らしていた、軽井沢の家を翔太が見たいと言い出したこともあり、桜咲の七回忌を兼ねて、七泊八日の予定を組んだ。まず軽井沢の家に二泊して、観光をしたのち桜咲の実家がある神奈川へ行き、貴一の両親が住んでいる、法事が執り行なわれる東京へ行く。長い滞在と移動量を考慮して、車をレンタルすることにした。

 車種は、大きなトランクが二つと、ボストンバック一つが余裕で収まることと、軽井沢の雪融け後の悪路を想定して、四輪駆動であること。また、ロングドライブになるので、乗り心地の良い物という条件を出した。貴一の条件を満たす車として、店ではトヨタのハリアーを用意していた。翔太は一目でこの車を気に入ったようで、荷物を店のカウンター近くに置いたまま、車に乗り込んだ。

「体は大きくなっても、まだ子供だな。」

貴一が書類を受け取りながら、ぽつりと言うと、担当の人が愛想良く、「息子さんは、おいくつですか?」と訊いてきた。

「もうすぐ十八ですよ」

「羨ましいですね、若くて優しそうな顔立ちに、細身な長身で。百八十センチは超えて見えますが――。春日様も背が高いですもの、お父様似ですね。」

「そうなりますかね、私が百八十三センチ、息子は百七十八センチ、抜かれるのもそう時間はかからないでしょうね。」

「子供の成長って、親が思っている以上に早いですものね」

「そうですね。息子が生まれて十八年、いろんなことがありましたが、あっという間でした。」

貴一は息子を誉められ悪い気がせず、いつの間にか、自分より十歳ほど年下の担当者と、子育てに付いて話していた。

「どうしたの?免許証忘れたとか?」

受付に手間取っているのかと不安になった翔太が、車から降りてきて聞いた。

「いや、なんでもないよ。」

「それでは春日様、お車のご説明をさせていただきますので、お車の方へ御願いできますか?」

貴一と翔太は車に乗り込み、一通りの使い方の説明を受けた。カーナビには、取り敢えず軽井沢の住所だけをインプットしてもらい、あとは翔太が必要に応じて、インプットすることにした。

「それでは春日様、楽しいドライブをお過ごしください。」

「ありがとうございました。では、行ってまいります。」

二人は一路、軽井沢へ向かい成田空港を後にした。

天気は快晴、春の空にしては霞みは無く、青い空が続く小春日和の、温かな日本初日であった。


 車は東関東自動車道に入り、宮野木インターから京葉道路・東京外環自動車道と進み、関越自動車道へ入った。途中、京葉道路の川口ジャンクション近辺で、多少の渋滞はあったが、それ以外は思いのほか順調なドライブであった。

 関越自動車道に入って蓮田サービスエリアに寄り、レストランで昼食を取った。ちょうど昼食時で混んでいるかと思ったが、レストランは思いのほか空席が多くすぐに座れた。しかし、空港で最短入国時間を出した記念としては、お粗末な昼食になってしまった。

 翔太は頼んだハンバーグランチの、味の濃さに我慢ができず半分も食べないうちに、フォークを置いた。貴一は和食の中から焼き魚定食を選んだが、口に合わず殆どを残した。

「まぁ、こういう事はよくあることさ、今夜は明日花(あすか)ちゃんの手料理だから、夕食に期待して、売店で何か買って行こう」


 明日花とは、フリーでカメラマンの仕事をしながら、軽井沢の家に住み込みで管理をお願いしている、桜咲の妹である。


貴一は意気消沈した翔太を励ますというより、自分自身に言い聞かせているような感じで言い、二人は売店で菓子パンを4個とポテトチップスとガムを買い、自動販売機のハンバーガーを二つ、買い足して車に戻った。

「日本ってさ」

「皆まで言うな。日本はこんなものばかりでは無い。たまたま、そういう物に当ってしまっただけのこと――。」

貴一は翔太の不満を、開口一番に先制した。

「でもね。イギリスだって全ての店が美味しい料理を出すわけじゃないけど、日本のサービスエリアの食事は、百パーセント不味いよ。」

「百パーセントなんて、ちょっと言い過ぎじじゃない?」

貴一がサービスエリアの肩を持つ形になった。

「じゃ父さんはどの位の割合だと思うの」

「そうだなぁ、十五パーセント位かな?」

「ふーん。今の焼き魚は、その十五パーセントに入ったってこと?」

「何を言っているのかね翔太くん。あの焼き魚は八十五パーセントの方だよ」

貴一には珍しく、きついジョークで応えた。翔太は食べ始めていたハンバーガーを噴出すのを我慢したせいで、少し涙目になった。

「十五パーセントの味をどうぞ」

そう言いながら、翔太は熱い箱ごと、ハンバーガーを貴一へ手渡した。

「美味いのなら、機械ごと勝ってくるかい?」

「十五パーセントの味は、初めの一口だけ、あとは、口直しに菓子パンでも食べるよ。」

「そうだな。菓子パンは当り外れが少ないから、安心して食べられるファストフードだ。それではこれ返却ね。翔太食べていいよ。」

貴一はハンバーガーを翔太へ返し、売店のレジ袋の中を漁り、ジャムパンを手に取り食べ始めた。

「うーん。ニッポンの味ですね。」

頬張り過ぎて胸に痞え、慌てて缶コーヒーを飲んだ。翔太は冷ややかな目で、そんな父親を見て笑いを堪えていた。


 質素で慌ただしい昼食を終えた二人を乗せ、車は関越自動車道をふたたび進み出した。藤岡ジャンクションから上信越自動車道に入った辺りで、満腹のせいとは言えないが、暖かな陽射しと心地よい揺れが、翔太をいつの間にか昼寝へと導いた。




       面影



 軽井沢は春から秋にかけて、多方からの人が集まり賑わう。特に夏休みともなると、若いカップルや家族連れが観光や買い物、避暑を求めて集い、軽井沢の人口密度は一気に上昇する。

森の中の小道を散策したり、サイクリングを楽しんだりするには、充分避暑地を満喫できるが、主要道路は多方から乗り入れるマイカーで溢れ、中軽井沢駅と軽井沢駅間の僅かな距離でも、一時間以上もかかる大渋滞を引き起こすことになる。

 近年、大型のアウトレットが軽井沢駅の南側にできたが、大きな駐車場を完備していても、その台数の車を簡単には吸収できず、近隣に渋滞を生む。その他の有名店も、日中はほとんど満席で、店の外まで行列ができ、待ち時間の長さで飽きた子供達を、母親が日陰であやし、父親がひとり、強い陽射しを浴びながら、汗を拭き拭き順番を待ち並んでいる姿を良く見かける。いくら軽井沢が避暑地とは言っても、真夏の太陽の真下で、長時間並んで待っているのは、かなり厳しいものがあるはずなのだが――。

 軽井沢の一般住人にしてみれば、そんな多方面からの人々は、騒々しいだけではなく、普段の生活リズムを狂わされて、果てはそこここにゴミを捨ててゆく、大迷惑な存在になっているのだろう。

しかし悲しいかな、こういった裏事情は表面化されず、焼きたてパンや蜂蜜、ジャムといった軽井沢ブランドと、人でにぎわう旧軽井沢銀座や、美しい景観の名所の映像だけが、テレビのニュースや旅番組で紹介され、それを観た視聴者は、軽井沢ブランドに惹かれ、夢を馳せ訪れるのだ。


 貴一は軽井沢の西に位置する、中軽井沢近郊で育ち、桜咲と結ばれ翔太を授かった。翔太が二歳になったばかりの頃、軽井沢の自宅を桜咲の妹に預け、バーミンガムへ渡った。その翔太も今年で十八歳になる。

 毎年この時期に帰国しているが、桜咲のお墓が東京にある為、地理的に便利な、貴一の両親の家に泊まる。遠方の軽井沢は自然と足が遠退き、ここへ来るのは渡英以来、初めてであった。

貴一は、上信越自動車道の碓氷軽井沢インターチェンジを降りてから家までの道すがら、翔太に住んでいた当時の思い出や出来事を、懐かしく語った。


 あと四日で暦は四月に入る。すでに春休みに入っているのだが、平日のせいもあってか、軽井沢の町にはまだ観光客の姿は見えない。旧軽井沢銀座の店舗を改装するために来ている、工事業者と店の関係者が動いているだけで、喧騒は無く、静けさは保たれていた。

道も風景も貴一が知っている頃とは変わり、成田空港のレンタカーの店員が、カーナビに住所登録をしてくれなければ、恐らく道に迷い、日本の自宅には着けなかったかもしれない。

 軽井沢駅から主だった名所を巡り、翔太に教えながら自宅へ帰る予定であったが、馴れない長距離の運転での疲れもあり、名所案内は明日にして、今日は何処へも寄らずに、家へ行く事を翔太に告げた。翔太も父を気遣い快く了承した。

 貴一はカーナビの言うが(まま)に、南軽井沢の交差点を左折し、車を西へ向けた。数キロ行った所で塩沢湖の標識が見えた。

「塩沢湖……」貴一の心の奥底で、何かが(うず)いた。塩沢の交差点をカーナビが示した右折を無視して左に折れ、塩沢湖が右手に見えたところで、(おもむろ)に車を路肩に寄せて停めた。

「どうしたの?カーナビの言う通りにしないから道に迷った?」

翔太は笑いながら父の横顔を見たが、貴一はさっきまでの若かれし頃の昔話を、笑いながら話していた顔ではなく、何かを思い出そうとしている、難しい顔をしていた。

「どうしたの?気分でも悪くなったの?」

翔太は黙ったまま動かない父を心配して、おおげさに顔を覗いて聞き直した。

「あれは、まだあるかなぁ……。時間はまだ間に合うな。よし今から行ってみよう!」

貴一は翔太への返事の変わりにそう言うと、塩沢湖の駐車場へ車を移動させ停めた。車から降りると、助手席に回りドアを開け、翔太に声をかけた。

「来てごらん。お母さんが、翔太との思い出に残した物が、まだ残っているかもしれない。」

「え?なに?」

唐突な成り行と、貴一のおかしな物言いに戸惑いながら、翔太は辛うじて聞き返したが、その声が届かなかったのか、貴一は黙って長い足を大きく開き、早足で入り口へと歩き始めていた。翔太は慌てて車を降り、小走りで後を追った。何とか入り口でチケットを買っている貴一に追いついたものの、貴一は黙ってチケットを翔太へ一枚渡し、回転式のバーを押し中へ入った。


 園内に入っても、貴一の急ぎ足のペースが落ちる事は無かった。周りの景色を見ることも無く、常に急ぎ足で湖畔に沿って歩き、ペイネ美術館やボート乗り場を通り過ぎ、湖を半周回った北側にある、小高い丘の頂上へ向かった。

翔太は訳もわからずとにかく父親の後を追って行く。丘の上には小さな遊園地があり、その傍らの傾斜面に芝の生えた広場が隣接している。貴一の目指す物は、その広場を少し()りた、左側の植え込みの近くにあった。

「……。まだ残っていたなんて……」

 五センチほど、地面から頭を出した、丸みがかった石を見付け、十六年の間、ここに残っていた事が信じられない気持ちと、また逢えた事への感動とが込み上げて、貴一の目から数粒の涙が溢れてきた。

 翔太には、そんな父の涙の意味はわからないが、父の涙に気付かない振りをして、芝生に腰を下ろし、数隻のボートが作る放物線の軌跡を見ながら、父の言葉を待った。

 貴一は翔太と石の間にゆっくり腰を下ろし、静かに話し始めた。

「あれは十六年前の、六月も終わりに近い頃だった。日本を出る前日の朝、お母さんが日本での思い出に、ここへ来たいといってね。引越しの準備の忙しい中で、お弁当を作って翔太と三人でピクニックに来たんだ。」

 貴一は正面に見える景色よりも、遥か向う側の、過ぎた日を見ているかのような遠い目をして、そう切り出した。

「引越しの支度を、運送屋と手伝いに来てくれていた明日花ちゃんに押し付けて、父さん達はここに来て、そこの平らになったところにビニールシートを広げて、桜咲の作ったお弁当を食べた。」

貴一は後ろに体をひねり、少し上に有る平らな所を指した。

「あの日は梅雨の中休みでね。周りの新緑と、空の青が陽射しの中でいっそうに映えて、晴天って、こんな日の事を言うのだと、改めて気付かされた。翔太はおにぎりを片手に歩き出してさ、行儀が悪いから注意しようとする僕を、お母さんはそっと抑えてね、『今日は特別、お願い。』と言って。ずっと翔太を目で追っていた。僕はシートの上で横になって、そんな君とお母さんを交互に見ていた。」

貴一は正面を向いたままだが、心の奥の方から蘇ってくる、懐かしいあの時の情景を詳細に表現して、翔太へ告げようと言葉を選び続けた。

「翔太は平らな所からちょっと傾斜の方へ出て、傾斜の下りに足が追いつかなくなって、最後はこの石に躓いてね、おにぎりは下の方まで転がって行って、翔太は転んだまま大泣きして……。僕が慌てて起き上がって行こうとしたら、お母さんがゆっくり立ち上がって、『私が行くから、貴一さんはここにいて。――翔太。頑張ってひとりで起きるのよ』って、声をかけて歩いて行った。お母さんがすぐに来ない不安と痛さで、翔太は一段と声を大きくして泣いていた。それでもお母さんは、『自分で立つのよ』って言いながらゆっくり歩いた。翔太の目の前に着いても、立って見ているだけで手を伸ばそうとはしなかった」

貴一の話を聞いている翔太にも、忘れていた記憶が甦り、その情景が十六年の時間(とき)を超えて、見える気がした。

「翔太は大泣きしながら一人で立ってね、お母さんの足に抱き付いた。お母さんはしゃがんで、『翔太、頑張った。偉いぞ!』って言いながら、翔太が泣き止むまで、ずうっと、優しく抱きしめていたよ。本当に長い時間、嗚咽が収まって、『おにぎり、逃げたちゃった』って、翔太が言うまで。ただ、翔太の背中を擦りながら、待っていた。」

陽射が大分傾きかけてきていた。湖面に放物線を描いていた数隻のボートも、いつの間にか船着場に落ち着き、ボートに乗っていたカップルは、土産でも買うのか、湖畔の売店へ姿を消した。時より湖面には、風が作る(さざなみ)の上に、何処から飛んで来たのか、数羽の水鳥が羽を休めていた。

「翔太が泣き止んで戻って来た時に、『翔太頑張ったでしょ。ひとりで立ったのよ。あの石は、翔太の『頑張りの石』よ。私と翔太の日本での最後の思い出。本当はあの石を掘り出して持って行きたいけど、翔太が大きくなってから、ここへ遊びに来た時にね、今の話をしてあげるために我慢するわ』って、お母さんは笑顔で僕にそう言った。こんなことを忘れていたなんて、桜咲に叱られそうだな……」

この湖には、貴一の幼少のころからの思い出が沢山あった。その殆どを忘れる事無く覚えていると思っていた。「塩沢湖」の標識を見てから、家族の思い出の引出しを、ひとつひとつ開けてゆき、やっとこの引出しに辿り着いたのであった。

「桜咲に叱られそうだな……」

桜咲の怒った顔を思い浮かべて、貴一は頭を掻いた。


 塩沢湖一帯は暮色に染まり、閉園の時間が迫っている事を二人に教えた。もうこの場所には貴一と翔太の父子の他には、走り回っている子供へ、帰宅を呼びかけ慌てて片付けをしている、三人の家族連れと、手を繋ぎブラブラ坂を降りていく、一組のカップルぐらいしか見当たらなくなっていた。

「この石、持って行くか?今なら誰もいないから、掘れるよ。」

貴一は真面目に訊いた。

「お母さんが残してくれたんでしょ。ここに置いて行くよ。僕が大人になって結婚して子供ができたら、今の話をするためにね。」

立ち上がりズボンのお尻を(はら)いながら、翔太は答えた。

「翔太の子供ってことは、僕達はお祖父さんとお祖母さんってことか、桜咲が聞いたらどんな顔をするのかな。」

貴一は夕陽の中に、桜咲の喜ぶ顔を見ながら、二人が桜咲を忘れない限り、止まった桜咲の時間は、二人の心の中で共有し動いているのだと改めて思った。

「それでは行きますか。」

貴一も立ち上がり、ズボンを掃いながら歩き始めた。


車に戻る途中、翔太は貴一に聞いた。

「この湖には他にも思い出があるの?」

貴一は歩きながら少し考えて答えた。

「お母さんと初めてのデートがここだった。」

顔が赤くなっているのを翔太に言われ、慌てて夕陽のせいにした。

「お母さんとは、お母さんの夏休みに、明日花ちゃんと二人で軽井沢へ遊びに来た時に知り合った。」

貴一は当時の事を思い出しながら話し始めた。

「お母さんに出遭った時『運命の女性(ひと)』って感じた。あの時は、色々と有って、どさくさに紛れて泊まっているペンションを知ってね。明日花ちゃんに内緒で、お母さんへ連絡を付けて、帰る日の僅かな時間の中で、お母さんを誘ってここに来た。お母さん達の帰りの電車までの、本当に僅かな短い時間の中で、父さんの一方的な思いをお母さんに伝えた。そしてお母さんは、自宅の住所と電話番号を教えてくれた。だから今、翔太が存在しているんだけどね。」

売店を通り過ぎ、出口のゲートを潜り外へでた。辺りにはもう夕闇が迫っている。車に乗り込み話を続ける。

「今は携帯電話があって、連絡なんかは簡単にできるけど、当時はそんな便利な物は無いから、手紙を出すか、自宅へ電話をするかのどちらかしかなくてね。電話だって父さん達の時代は、だいたい居間なんかに固定されていて、誰が出るかわからないと言う、極限の緊張の中でかけるんだよ。だからお母さんが出ると、その緊張した糸が切れて、父さんが一方的に話していたな。それでもお母さんは、優しく受け応えてくれた。」

桜咲の澄んだ声と、静かな話し方が、貴一の中に甦ってきた。

「翌年の正月に電話したとき、ゴールデンウィークに、お母さんがこっちへ来るって聞いてね。父さんは、家中のカレンダーすべてに印を着けた。あの、五ヶ月がなんて長かったか、一日千秋の思いってさ、きっとあのときの気持(こと)を言うんだよ。」

車は、国道を横切って、中軽井沢駅を目指し進んでいる。

「お母さんが来る三日ぐらい前から、落ち着かなくて、仕事でつまらないミスをしたり、デートコースの見直しに夢中になって、夕食を作っているのも忘れて、鍋を焦がしたり。早寝すれば早く時間が経つなんて思い込んで、早寝したこともあったな。でもね、デート前夜は、まったく寝れなくてね、睡眠不足のまま、お母さんを軽井沢駅に迎えに行った。」

懐かしいあの時が鮮明によみがえった。

「『今日は軽井沢のどこでも案内するよ。いくつかコースも考えてきたけど、桜咲さんの行きたいところから行こうと思って、どこが良いかな?』って聞いたら、『塩沢湖でボートに乗りたい』って、笑いながら言うんだ。塩沢湖はデートコースの締めにするつもりだったから、三日間の徹夜で練り上げた案が、再会五分と持たずに音を立てて崩れたな。」

貴一は笑いながら、助手席の翔太を見た。翔太は両手を胸の前で開き、首を左右に振って、外人特有のジェスチャーを父親にみせた。しかし貴一は、息子の悪態を無視して続けた。

「塩沢湖に着いて、芝生に腰を下ろして湖面を見ているうちに、父さんは寝てしまった。三時間もお母さんの膝枕で熟睡しちゃってね。でもお母さんは僕が目覚めてからも、文句は言わなかった。多分、僕が寝ていないのを、駅で会った瞬間(とき)にわかっていたんだな。充血した目とクマでさ。だから塩沢湖へ行きたいって、言ったんだとあとからそう思った。きっと、寝不足で事故でも起こしそうに見えたんだね。」

翔太は右手の親指を立てそのまま下に向けた。貴一は咳払いをひとつした。

「そのあとボートに乗って、湖畔をぶらぶら歩いて、夕焼けを見ながら石碑のところで、プロポーズして、初めてのキスをした。」

貴一の語尾が小さくなった。翔太は両親のロマンスを聞くのも、照れた父親をみたのも、初めてであった。

 長野新幹線の陸橋を超え、しなの鉄道の踏み切りの手前を左に曲がったところで、カーナビの音声ガイドが終了を告げた。貴一は自宅の車庫にレンタカーを入れ、エンジンを切った。

「翔太やっと、着いたよ。お疲れ様。」

「お父さんも、遠路お疲れ様でした。」

翔太は父へ(ねぎら)いの言葉を送った。


 もともとこの家は、貴一の母親、孝子の実家であった。木造の二階建てで、居間には暖炉があり、寝室や客室用の部屋を入れると六LDKと言う大きな家であった。庭も二十坪程の広さがあり一面を芝生が覆っていた。今は、桜咲が育てた薄紫の大輪を咲かす、薔薇が五株ほど庭の南西に植えてあるが、昔は芝生だけの、どちらかと言うと殺風景な庭であった。


貴一は未熟児で生まれたせいか、赤ん坊のころから病弱だったために、東京よりも自然が多く、環境の良いこの家で、母と祖父母の四人で暮らすことになった。

 貴一が五歳になったとき、父親が海外で心労から倒れ、母親は父親の仕事の手伝いと家事を兼ね、貴一を祖父母に預けバーミンガムへ渡った。

 祖父母は、両親のいない寂しさを感じさせないほどに、貴一に接した。貴一もそんな祖父母が大好きで、充実した日々を送り過ごした。年に二度ほど帰国する両親は、会う度に健全に育つ貴一をとても喜んだ。

 高校を卒業し、長野市にある信州大学経済学部に入学し、卒業するまでの間、長野市内に下宿をしていたが、休みのたびに家へ戻り、祖父母と過ごした。大学三年の夏休みには、サークルの合宿をこの家でしたこともあった。祖父母は孫が十人もできたと大喜びして、貴一の友人をもてなした。


 大学卒業後、両親は自分達の会社に入るように進めたが、貴一は祖父母を置いて、軽井沢を離れる事に気が進まず、地元の商社に入った。

 入社して二年目、貴一が二十四歳の冬、祖父が脳溢血で倒れた。貴一と祖母が誠心誠意看病したが、倒れてから十日目に介抱の甲斐なく、八十三歳で永眠した。祖父を亡くしてから祖母は、一気に年を取った。

 家に閉じ篭っている祖母を、その年の暖かな春の午後、貴一は塩沢湖へ連れて出た。風は穏やかで、いたる所に花が咲き満ちて、春爛漫の中を祖母と話しながら湖畔を歩いた。

 祖父とのなり染めを恥らいながら、しかし楽しげに話す祖母が、祖父を亡くしてから、塞ぎ気味の毎日が嘘のように思えた。

疲れたと言う祖母を湖畔のベンチに座らせて、「喉が渇いたでしょ、お茶を買ってくるね。」と告げ、貴一は売店へ走った。

天気が良いせいか、売店には思いのほか客が多く、お茶を探すのに苦労したが、祖母には日本茶を買い、自分用にコーヒーを買って祖母の待つベンチへ戻った。

「お待たせ、売店混んでいて……」

祖母は日向ぼっこをしながら寝ていた。貴一は上着を脱ぎ祖母の肩に掛け、買ってきたコーヒーを飲みながら、祖母が目覚めるのを待った。コーヒーを飲み終え、ここでの思い出に慕っていたとき祖母は目覚め、貴一が渡したお茶をひと口飲んだ。

「おじいさんの夢をみたよ。若くてね、髪がふさふさとしていて……。何か喋っていたけど、覚えていないよ。」と笑った。

貴一は祖母の手を取り家路に着いた。夕食のとき、祖母は貴一と暮らせて良かったと何度も言っていた。翌朝、祖母は静かに七十八年の人生を閉じた。祖父を亡くしてから、僅か三ケ月、貴一はかけがいの無い大事な二人を相次いで亡くした。祖父母がいなくなった貴一の心には、とても大きく深い穴ができた。


 車を降りてこの家を見たとき、祖父母と三人で暮らしていた、二十四年の歳月が僅かな時間で甦り、貴一は祖父母が貴一の帰宅を出迎えてくれたのだと感じた。

「翔太、明日はお墓参りに行くからね」

「お墓参り?母さんは東京でしょ?」

リアのドアを明け、引きずるように荷物を下ろしながら、翔太は父に言った。

「父さんの、お祖父さんとお祖母さんのお墓だよ。」

翔太が差し出す荷物を受け取りながら貴一が応えた。


 車の音を聞いたのか、明日花(あすか)が玄関のドアから顔を覗かせた。

「お帰りなさい。随分遅かったのね。道に迷ったか、事故にあったのかって心配していたのよ。」

サンダルをつっかけて出てきた明日花は、無事に着いた貴一親子を笑顔で迎えた。

「ごめんね。明日花ちゃん。心配かけたみたいだね。」

貴一は、明日花が笑顔の中に隠して、見えないようにしている思いに気付き素直に謝った。

「明日花おばさん、お久しぶりです。」

荷物を両手に持ちながら、翔太が挨拶をした。

「翔太ぁ。私を呼ぶ時に、『おばさん』は付けるなと、この前会った時に言っておいたよね。」

そう言いながら明日花は、翔太の荷物を受け取ると、翔太の臀部へ軽く蹴りを入れた。


明日花は小柄で、細身の桜咲と容姿は極めて似ているのだが、性格はまるっきり違う。桜咲は物静かで控えめな才色兼備で、明日花はと言うと、小学校五年から高校卒業まで習っていた合気道を含め、スポーツ万能な姉貴肌の、さっぱりした性格をしていた。そんな明日花を翔太は少し苦手だった。

「ごっ、ごめんなさい。明日花さん」

慌てて訂正する翔太へ「ははは、もう良いよ。本当におばさんと云われる歳になっちゃたから、いたしかたないか。さぁ、疲れたでしょ。お風呂沸かしてあるから、貴一さんから入ってください。」

「ありがとう。では遠慮無くそうさせて貰いますか。」

二人は大荷物と共に明日花に押され、玄関の中へと消えた。


 家の中は、貴一達が暮らしていた時と殆ど変わらずに、整理整頓されていた。男勝りの明日花のことだから、家の管理を任せても、大雑把なものと思っていたが、存外そうではなく、ドアの飾りに至るまで掃除が行き届いており、埃は勿論、塵一つ落ちてはいない。こうなると祖母が亡くなり、桜咲が嫁いで来るまでの、貴一が一人で暮らしていた時が、一番散らかっていたと言える。まさに、『(おとこ)(やもめ)(うじ)が沸く』を、立証しているようなものであった。

 家具や調度品も、昔と変わりなく置かれており、桜咲と暮らしていたときに戻ったのかと、勘違いしてしまいそうであった。

 貴一は自分の部屋へ荷物を運び、風呂に入った。翔太は客間を使うよう明日花に言われ、荷物を運び込んで居間に戻った。

「この写真は明日花さんが撮ったの?」

キッチンで夕食の準備をしている明日花へ、廊下から翔太が訊くと、キッチンから出てきて、「そうだよ。こう見えても私はプロのカメラマンだからね。なんだったら、記念に翔太のヌードでも撮ってやろうか?」

「いえ、結構です……。は、裸には自身がないので……。」

赤らいだ顔で俯いたまま、低調に断りをいれた。明日花は冗談か本気か判断できない『残念!』の一言を残しキッチンへ戻った。


 壁に飾られている数枚の写真は、軽井沢の風景を描写している中に、明日花の優しい一面を覗かせている。翔太は飾られている写真の中でも、木漏れ日の小道の真中で、野ウサギが耳を立て、背伸びをしながらこちらを見ている写真が気にいった。

 野ウサギが道の真中で停まっている事と、明日花がそこに居合わせた偶然。そして、人の気配に気付いた野ウサギが、逃げる前に明日花へ見せたこのポーズ。その一瞬をカメラに収めた、叔母のカメラマンとしての腕は凄いと翔太は思った。が、木漏れ日をスポットライトのように浴びている野ウサギが、裸の自分と置き換えた絵が()ぎり、翔太は慌てて頭を振って、変な妄想を打ち消した。

「その写真はね、一昨年の、軽井沢のお祭りのポスターに使われたのよ。私のお気に入りで、プロとしての代表作の一枚ってとこね」

「ここにある写真全部、本当にすてきですね。」

翔太はお世辞ではなく、本心からそう言った。

「そうでしょ!だから、ヌード撮ってみない?翔太のような女らしい男を、一度撮ってみたいと思っていたところなのよ。一枚どぉう?」

返事に詰まったところに、運良く貴一が風呂から戻ってきた。翔太は着替えを持ち、慌てて風呂に入ると言いながら逃げ出した。


 夕食は明日花の得意料理の純和風で、芋の煮物に葉物を茹でた胡麻和えと煮魚。どれも貴一には懐かしいものだが、日頃洋食しか食べていない翔太には、苦手なものであった。

残そうとする翔太へ、間髪入れずに、「今日は私の得意料理へ一層の愛情を注いだから、残さずに全部召し上がってね。」と明日花に言われては、無理をしてでも食べないわけにはいかない。

貴一はそんな二人の遣り取りを観て楽しんでいた。久し振りの和食を堪能して、満足な父の顔が翔太には少し恨めしくもあった。


 夕食も済み、貴一は居間のソファに座り、暖炉の上に置いてある、帆船の模型をぼんやりと眺めていた。翔太が父の視線を追って、暖炉まで行き貴一へ聞いた。

「この帆船はどうしたの?」

「それはね、父さんが十歳になった誕生日に、亡くなったおじいさんが買ってくれた物でね、木の部分はおじいさんと二人で毎日少しずつ作ったんだ。帆はおばあさんに縫い方をきいてさ、模型に付いていた部品意外にも、図書館に行って調べてね、おじいさんにナイフの使い方を教わって創った。完成させるのに一年以上かかった力作なんだよ。」

貴一はソファに座ったまま、帆船と翔太を見て応えた。

「父さんこの模型、マストが折れてるよ」

「ああ、それは……」どのように息子へ話そうか、考えている貴一に気付かず、夕食のあと片付けを終えた明日花が、居間にお茶を持ってきながら「それは翔太が壊したのよ。」と、あっさりと言った。

「えっ、僕が壊したの?」

桜咲姉(さきねえ)から、そう聞いたわよ。」

翔太は真意を確かめようと父の顔を見た。

「翔太が。と言っても、まだ二歳のころのことだから、気にする事はないさ」

貴一は翔太を気遣うように言った。

「そうね、むしろ壊した翔太より、桜咲姉の方が大変だったもの」

「桜咲がどうしたって?」

明日花の思いも寄らない言葉に、慌てて貴一が聞いた。

「あっいけない。桜咲姉に口止めされていたんだっけ……」

「明日花ちゃん、内緒ってどう言うことだい?僕に教えてもらえるかな」

誤魔化しは利かない。と言っている貴一の目が明日花を捕らえていた。仕方なく明日花は二人へ、桜咲から口止めされた当時の話しをした。


 あの頃明日花は、自宅近くにあった大手コピー機メーカーに勤めていた。その日は仕事が休みで、撮り貯めしていたビデオを、自室で観ていた時だった。居間の電話がいきなり鳴った。両親と姉夫婦は仕事へ出ているのか、しばらく待っても誰も出ない。しょうがなくビデオの再生を停めて居間へ降りた。電話のベルは休むことをせずに、明日花の到着を待っているようであった。

「はい、鶴畑です。」

明日花はわざと無愛想に出た。

「あっ、明日花ちゃん。いてくれて良かったわ。お願い助けて。私どうしていいかわからないの。翔太がね。壊してね。私じゃ治せないし、貴一さんに怒られてしまう。もしもし、明日花ちゃん聞いてる?もしもし?」

明日花は()いて話す、桜咲を落ち着かせようと「大丈夫、聞いてるよ。それより桜咲姉、とにかく落ち着いて順序よくはなして、私このまま、電話を切らずに待っているから。」そう告げ、受話器を持ったまま桜咲が落ち着くのを待った。

 明日花は桜咲の荒い息遣いが、啜り泣きに変わるのを、受話器越しに感じた。

「落ち着いた?桜咲姉どうしたの?翔太が怪我でもしたの?」

「ううん、怪我はしていないわ。翔太がね、貴一さんが大事にしていた物を壊しちゃったの。亡くなったおじいさんとおばあさんと三人で作った大事な宝物を……。私どうやって貴一さんに謝ればいいのか……。」

「何?そんなことだったの?桜咲姉が取り乱しているから、もっと大変なことが起きたのかと思った」

本心、明日花は安堵した。

「そんなことって……。明日花ちゃんには、大したことじゃないけど……、私には……」

「ごめんね桜咲姉。そう言うつもりで言ったんじゃないよ。貴一さんは、正直に話せば判ってくれる人でしょ。たとえ壊した物が形見の品だとしても、残念がりはしても、桜咲姉や翔太を責めたり、怒ったりなんかするはずは無い。そう言いたかったのよ。もし、そんなことで翔太や桜咲姉を泣かすなら、飛んでいってぶん殴ってやる。」

「……」

「もしもし桜咲姉、聞いてる?」

「うん。ありがとう明日花ちゃん……。なんか安心した。ごめんね、貴一さんには正直に話して許してもらうわ。直して誤魔化そうとしたのが恥ずかしい――。だから、貴一さんを殴りにこないでね。お願いだから」

「殴りになんか行かないわよ。言葉のアヤってやつよ。でも、怒られても正直に話すのが一番良いよ。ところで真犯人の翔太はどうしてる?」

「真犯人だなんて――。翔太が可愛そう」

「あははは、やっといつもの桜咲姉に戻ったね。」

明日花の男勝りの性格がでた、豪快な笑い声で桜咲は救われた。その時桜咲は、貴一へちゃんと謝り許してもらおうと決めた。

「あのね明日花ちゃん。この事は」

「みなまで言うな、心得ているよ。桜咲姉から電話なんか来なかった。でも、次に悪戯坊主に会ったら、お灸を据えてやる。あははは」

桜咲は明日花に礼を言い電話を切り、何事も無かったかのように、ソファの上で寝息をたてている、真犯人の息子の横に座った。

「将来は大物かな?」

桜咲は帆船の本体と折れたマストを拾い、暖炉の上の定位置に戻すと手を合わせた。

「おじいさん、おばあさん。ごめんなさい。壊れた模型は今の翔太には直せません。そのかわり、翔太が大きくなったら私と二人で必ずなおしますから、それまで待っていて下さい。」と、小さな声でお願いした。


 明日花の話しを聞き終えた翔太は「ごめん……なさい。」とその時の自分に代わり父へ詫びた。

「ははは、もう済んだ事さ、時効成立だ」

貴一は笑いながら翔太へ言った。そして、明日花が淹れてくれたお茶を一口飲み、帆船と桜咲の思い出を翔太と明日花へ語り始めた。

「普段からお母さんは優しい人でね。翔太が悪戯しても、『元気な証拠よ』とか、『物に興味がでてきたからよ』、なんて言って、翔太を叱る僕を、美味い具合に止めるんだ。でも、その帆船の模型を壊わしたときは、『貴一さんの大事な物を壊したのは、本当に悪い事をさせてしまったと、心から反省しています。簡単に許してもらえるとは思いません。でも、翔太が大きくなって、模型を創れるようになったら、必ず二人で直しますから、私と翔太を許してください。』って、素直に言われたら、許すしかないものね。」

 翔太と明日花は、貴一が座るソファの前の床に座って、貴一が話す桜咲の事を真剣に聞いている。

「帆船が壊れたのは、本当にショックだったけど、翔太とお母さんの二人で直してくれれば、おじいさんやおばあさんも喜ぶと思った。でも今はお母さんがいないから、この帆船はこのままでも良いかな、と思いながら眺めていたんだ。それにこれも家族の思い出の一つだし……」

「そうだね、記憶に無いけど、これも塩沢湖と同じ、僕とお母さんの思い出の一つなんだよね。」

親子は揃って、明日花が淹れてくれたお茶を飲みながら、帆船を改めて眺めた。明日花はその親子の後ろ姿を、姉に代わって見守った。

 くつろいだ時間ゆえに、この部屋の時間は止まっているように感じていたが、柱時計が十一時の時を刻むと、やはりこの部屋の中の時も、世の中と同じに流れていたのだと、明日花は現実に戻され、それを潮時と貴一へ聞いた。

「ところで明日以降の予定はどうなっています?」

「予定では、明日はおじいさんとおばあさんのお墓参りのあと、翔太と軽井沢の、名所旧跡観光をしようかと思っていたんだけど……」

「それ、私も一緒できないかしら?」

明日花が、お邪魔を承知の上で聞いた。

「良いけど、仕事は大丈夫なの?」

「うん。仕事の一環でね。この時期の軽井沢の写真を、採り貯めしておきたいの。」

「ではこちらもお願いで、明後日の三十日の午後から桜咲の法事までの三日間、子守りをお願いしたいんだけど」

「僕はもう子供じゃないよ。」自分の事を言われて、すかさず翔太が反応した。

「僕は三十日の夕方には、会社へ出なければならないから、法事まで翔太と一緒って訳には行かないし、三日間も東京の家にいるのでは、長い休みを取って、日本まで来た意味も無くなる。だから、もし明日花ちゃんが迷惑で無ければ、翔太はここにいて、桜咲の若い頃の話しでも聞ければと思ってね。」

「そうね。別に私は構わないけど……。そうだ!だったら貴一さんが出かけた後、神奈川の実家へ行きましょう。実家へ行けば、桜咲姉の子供の頃に撮った写真を見ながら、ジジババから話しが聞けて良いんじゃない?」

「それ良いな!お母さんの家って、行った記憶が無いし、たまには鶴畑のおじいちゃんやおばあちゃんとも話がしたいしね」

「では、決まりかな。明日花ちゃん、面倒掛けて申し訳ないけど、お願いしていいかな」

「勿論。女一人で、実家まで移動なんて危険ですもの――」

「翔太がボディガードじゃ、ちょっと頼りないようにも思うけど」

「父さん、僕だって一応は男なんだから、今の一言は失礼だよ」

「じゃ、神奈川までの途中で、暴漢に襲われたら戦うんだね。」

「当然!明日花さんの後ろに隠れるよ。」


 軽井沢の夜は長い。イギリスから帰国した二人は、疲れのピークが来ているはずなのだが、当の貴一と翔太は何処と無く桜咲と三人、親子水いらずで、久し振りの家族の団欒を過ごしているような錯覚に陥って、眠ることが勿体ないと思った。しかし、明日花は二人の体を気遣い、翌朝の起床時間を定め、『消灯』を宣言した。




       足跡



 四月に近いこの季節でも、軽井沢の朝はまだ肌寒い。明日花は昨夜告げた起床時間よりも、一時間も早い6時に起きて、家の中を暖めながら身支度を整え、朝食の支度をした。テーブルの上に朝食の準備が済みミルクティーを淹れて飲んでいるところへ、貴一と翔太が約束の七時に起きてきた。

「あら。二人ともちゃんと起きてきたの。貴一さんはともかく、翔太は絶対起きられなくて、お越しついでに寝顔を撮ってあげようかと思っていたのに。残念だな。」

「えっ。危なかった。ヌードの次は寝顔だなんて……。今夜からは鍵を掛けて寝ようっと」

「ヌード?翔太のかい?」

「そうなの、プロのカメラマンが撮ってあげるって言っているのに、嫌がるのよ。」

「それって、不通でしょ」

「いや、明日花ちゃんが撮ってくれると言うなら、撮ってもらえばいいじゃないか」

「二人とも、考え方変じゃない。」

 翔太は何か別なものを見るような目つきで、貴一と明日花を見て言った。

「まっ。気が変わったら、撮ってもらいなさい。」

「まだ言うのか、このオヤジは」

「あら、私だってまだ諦めた訳じゃないかならね。」

「はいはい。あのウサギの変わりに、僕が裸で立てば良いんでしょ」

 例のポスターになった、壁にかかっている写真を指して、翔太が冗談で言った。

「それは気が付かなかったな。それも有りね。貴一さんどうかしら」

「うん。冗談で言ったつもりだったが、翔太が構図まで考えていたなんて、満更でもなかったってことか――。僕には、近頃の若い奴の気持ちが判らないな。」

「あの、僕も冗談で言っているんですけど」

「明日花ちゃん、朝食にしようか」

「はい。もうできています。冷めないうちに召し上がれ」

 翔太の言葉をやり過ごし、貴一はテーブルに着き、明日花は飲み物を用意しにキッチンへ入って行った。

「何か嫌な感じ……」

 明日花は翔太の為に、朝食を洋風にしていた。トーストに生野菜と目玉焼きに、茹でたウインナーが、食卓に並んでいる。

「紅茶とコーヒー、どちらにします?」と訊かれ、貴一はコーヒーを選び、翔太はホットミルクを頼んだ。


 朝食を摂りながら、今日のコースを貴一と明日花が話していた。貴一の友人が、軽井沢駅の近くでペンションとレンタサイクルを営んでいた。そこで自転車を調達して、軽井沢のサイクリングを楽しみながら、巡って行こうと貴一が提案した。

「それじゃ、桜咲姉と私が回ろうとしていた、コースなんかどうかしら?」

「それいいね!」

 トーストを加えたまま、貴一が即座に答えた。

「どう言う事?」

「僕とお母さんが知り合うきっかけになったんだけど、そう言えば何処をどう周ってきたのか、詳しく聞いていなかった気がする」

「じゃ、お父さんも知らない事を、一緒に体験できるんだ」

「そうね。桜咲姉の自転車が壊れて、途中までしか周れなかったコースを、やっと今日、全部回れるかもしれないのね。」

「明日花ちゃん、ガイド役をお願いしても良いかな」

「任せて。問題は体力が持つかってところね。」

 明日花は即答で了承し、悪戯な目で貴一の顔を見た。

「それって、僕のことかい?」

 明日花が貴一へ妙な視線を向けたので、貴一は反動で聞き返した。

「僕や明日花さんじゃ無いってことだと、お父さん以外には、いないように思えるんだけど」

 貴一は『ゴホン』と、うそ臭い咳をして二人へ言った。

「経営者はね、体力も要求されるものなんだ。常日頃、時間ができればジムへ行って、体力が衰えないよう管理しているから、僕からみると、細身で体力が乏しそうに見える翔太や、ちょっとだけ歳を召した明日花ちゃんの方が、完走できるか心配なんだけど」

「少々歳を召していてごめんなさい。でも、カメラマンだって体力勝負なのよ。甘く見ない方が良くてよ。貴一さん。」

「僕だって、十五年間ずっと水泳をしているんだよ、細身なのは体力が乏しいのではなくて、早く泳ぐために、無駄な筋肉を付けないようにしているからさ。家の前の軽い傾斜の坂道を、ぜいぜい言いながら登ってくるお父さんこそ、完走できるか心配だよ。」

 三人が三人とも、自分の体力を自慢し終えたところで、明日花が切り出した。

「そうと決まれば急ぎましょう。遅くても9時前に出ないと、日暮れまでに周り切れないかもしれないわよ」

「なんか凄い強行軍みたいだな。でもお墓周りはどうするの?」

「今日しか丸一日使うことができないから、お墓参りは明日の午前中に皆で行こう」

「ごめんなさい。私が余計な事を言わなければ――」

「大丈夫さ。おじいさんもおばあさんも、「気にせず行ってきなさい」って、言ってくれると思うよ」

「本当にそれで良いの?」

 ロングサイクリングを言い出してしまい、申し訳無さそうに明日花が訊いた。

「あぁ。大丈夫だよ。気にせずにサイクリングを楽しもう。どんなコースかは判らないけど、できる限り頑張るよ」

「あれ、お父さん弱気な発言だけど、本当に大丈夫なの?」

「僕はこの町で育ったんだよ、距離はあったとしても、登り降りが少ないのがこの辺の地形なんだよ。愛宕山や浅間山へ行かない限りは、問題ないさ」

「コースを簡単に説明すると、旧軽井沢から白糸の滝を経由して、中軽井沢に抜けて、そこから追分の方へ出て、最後は南軽井沢の塩沢湖を巡って、軽井沢駅に戻る。これが、桜咲姉が立てた計画の大筋なんですけど」

「一日で、その距離を自転車で行くつもりだったのかい?」

「やっぱり無理です?」

「いや無理ではないけど、ママチャリではかなり辛い行程だな」

「あの時は、自転車が壊れたせいで、途中棄権したのが幸いだったのかな」

「そんなに大変なの?」

 それまで黙って聞いていた翔太が訊いてきた。

「軽く六十キロ近くはあるんじゃないかな。十五キロを一時間程度としても、四時間は掛かることになる。どこも観ることもせずに、自転車を漕ぎっ放しでほとんど半日かかってしまう。しかも、白糸の滝辺りは、山道で起伏も意外ときついし、その後から追分と塩沢湖だとすると、普通のママチャリで、一日で周れる距離やコースでは無いと僕は思うよ」

「地図を見ながら、私も桜咲姉に言ったんだけど、二泊三日の日程では、中一日しか動けないからしょうがないって言っていたの」

「まぁ、今日行けるところまで周ろう。二人とも頑張って僕に付いて着なさい」

 貴一が締めて、何か有った場合の連絡の為に、貴一と明日花が、携帯電話の番号とアドレスを交換した。これで、朝食兼サイクリングのミーティングは終了した。

翔太が朝食の後片付けを手伝っている間に、貴一は友人のペンションへ電話をして、車を預かって貰えるように頼み、スポーツタイプの自転車を三台予約した。

「八時四十分には家を出るので、各自、時間までに準備を終わらせて、玄関に集合のこと!」

 貴一は二人が二階の各自の部屋で、支度をしていると思い、階段の下から二階へ向かって大声で伝えた。

「お父さん、スイッチ入っちゃったみたいだね」

「本当に楽しみね。」

 朝食で使った食器を洗いながら、翔太は張り切りだした父親を茶化したのだが、明日花は本当に楽しみにしているのだと、翔太は明日花の笑顔を見て感じた。


 貴一が予告した時間の五分前には、三人が玄関に揃っていた。明日花は、あの短い時間の中で、カメラを含んだ身支度だけではなく、三人分の水筒に氷入りのお茶まで用意していた。

「お昼は中軽井沢駅近くの、お蕎麦と和食のお店に行く予定だったんだけど、翔太がいるから洋食に替えようか?」

「一応、当時のお母さんが立てた計画通りに動くのが今回の目的だから、お蕎麦と和食のお店で良いよ」

「翔太、本当に良いのかい?無理することは無いよ。」

「大丈夫。その代わり夕飯は、洋食でお願いします。」

 交渉が成立して、三人は軽井沢駅に向かって、車で移動を始めた。平日で出勤時間もすでに過ぎていたため、五分と掛からずに目的地のペンションに着いた。車を駐車場へ入れているところへ、貴一の友人が店から出てきて三人を笑顔で迎えた。

「本当に、春日じゃないか!」

 貴一の幼馴染の澤田清が、驚きと懐かしさが混ざった口調で言った。

「本当にって、俺はちゃんと名乗ったぜ」

「あぁ。お袋から聞いていたよ。貴一君から自転車三台貸して欲しい。と言って電話が来たって。でもお袋って、結構ボケがきているもんでさ、最初に話しを聞いたとき、『聞き間違えたんじゃないのか』って怒鳴っちゃって。今も、お袋と言い合いしていたところだったんだよ」

「それは、大変迷惑をかけてしまったようで済まない。でもさ、十数年振りの再会って、こんなもんかなぁ。テレビのドラマなんかだと、もっと違っているような気がするんだけど。」

「こんなもんだわ。貴一となら。まさか、抱き合って喜ぶなんてことせんだろ」

「酷い話しだな、桜咲や明日花ちゃんだと変わるのか?」

「そりゃ当然。俺は男には興味ないからな。遠方からの、可愛いお嬢さんと触れ合う機会を求めてさ、東京へ出て行くのをやめて、親のペンションとレンタサイクルを引き継いだんだ」

「随分と不純な動機なのね。ちょっと幻滅したかな」

「あっ。明日花さん。三人って明日花さんも入っていたの。だったら、最新式の電動アシストの自転車を出しておいたのに」

 澤田は久し振りに会った貴一と話しているうちに、つい若かれし頃に良く口にしていた、家業を継ぐ口実が出てしまった。マドンナ的存在の明日花に聞かれ、ばつが悪く、なんとか誤魔化そうとしたが、明日花の睨みにたじろぎ、貴一へ救いの目を向けた。

「明日花ちゃん。今の話しってね、清は高校卒業してから、東京の大学へ行きたかったんだ。だけど丁度その頃、このペンションの経営が悪くなって、東京どころか、大学そのものへの進学を諦めることになって、その自分の夢を諦めるための口実を、僕と会って久し振りに使っただけだなんだ」

「本当なの澤田さん」

「うん。そう言っておけば、自分の夢を諦められる。って、自分に言い聞かせて、あの時の自分の気持ちを抑えていたんだ。今となっては家業を継いで良かったと思っているよ」

「いつも明るい澤田さんにも、やっぱり色々とあるのよね。ごめんね、さっきの言葉は撤回するわ。逆にちょっと見直したかも」

「そう!良かった。じゃ俺、自転車出してくる。最新式の電動アシスト付きとはいかないけど、十段ギア付きの、取って置きがあるからさ、それで勘弁して。」

 そう言って澤田は店の中へ入っていった。店の奥で、澤田が恐らく母親に、貴一が来ている事を伝えたのであろう。母のミヨが、お茶を持って出てきた。

「貴一君、久しぶりだね。奥さんとお子さんかい?」と貴一へ声を掛けてきた。

明日花が顔を赤く染め、困惑している様子を翔太は黙って見ていた。貴一は、ミヨへ桜咲の妹だと、一生懸命説明したが、理解を得たのかは疑問が残った。

一部始終を無言で傍観していた翔太を、ミヨへ紹介したが、それについてもやはり理解してもらえたのかは疑問であった。

 貴一と清の母親がやり取りしているところに、清が自転車を一台押して店の奥から出てきた。貴一は翔太へ清の手伝いをするように言い、翔太は軽く頷き、店の奥へ戻りかけた清の後に付いていった。

 

 店の前に、新品で十段ギア付きのスポーツタイプの自転車が三台並んだ。清は、入念にタイヤの空気圧やギヤチェンジの確認をして、油を差して点検を完了したのち、それぞれの高さにサドルを合わせて、貴一達へ自転車を渡した。

「今日は天気も良いし、絶好なサイクリング日和だから、軽井沢を満喫してこいよ。」

「あぁ。そうさせてもらうよ」

「コースはもう決まっていると思うけど、無理は禁物だぜ。引く事も大切だ。」

「有り難う。これから、旧軽銀座へ出て、旧三笠ホテルから白糸の滝を目指し、白糸の滝から反転して、三笠パークから遊歩道へ入って中軽へ抜ける。そこから、追分で泉洞寺の半跏思惟の石仏を見て、塩沢湖へ行き、ここへ戻るという非常に厳しい行程なんだ」

「明日花ちゃんや、そっちの若いお兄ちゃんなら、可能かもしれないけど、お前には無理だと思うけどな――。まぁ、動けなくなったら電話しろや。昔のお前が桜咲さんを車に乗せたみたいに、特別に行ってやるからさ。」

「ありがとう。でも、この行程だけは、この三人でやり遂げたいんだ。できる限り頑張ってみるよ。」

「わかった。では、楽しいサイクリングを!」

 そう言って澤田は三人を見送った。三人が乗った自転車は、県道百三十三号線を軽井沢銀座へ向けて、小春日和の爽やかな風を切って走りだした。

 東雲の交差点を左へ曲がったところで澤田親子は店に戻った。お茶碗を片付けている母親に聞いた。

「一緒にいたお兄ちゃんは、いったい誰だったんだ」

「貴一君の息子の翔太ちゃんだよ。」

「えっ。あのちび助の翔太だったのか。お袋は良く知っていたな」

「そりゃ、貴一君が自慢気に話していたもの。私だってわかるよ」

 


 明日花が先頭を走り、翔太を挟んで貴一がしんがりを勤めた。百三十三号線を途中から右に折れて、諏訪神社に寄り、道中の安全祈願をした。そのあとテニスコートを通り過ぎる際に、明日花がテニスコートに付いて自転車に乗ったまま説明した。

「ここのテニスコートはね。今の天皇陛下と皇后様がテニスを楽しまれたところなのよ。」

「へぇ。古めかしいのは、その歴史を保存するためなのかな」

「恐らくね。ちょっと横道に入って、万平ホテルを外から見てみようね」

 明日花はテニスコートを左手に見ながら、真直ぐに進み、小川に架かる小橋を渡り、二つ目の辻を左に入った。洒落た洋館が見えてくると翔太が感嘆な声を上げた。

「ジョン・レノンとか数多くの著名な方々が、宿泊したと聞いているな」

「えっ!ジョンが泊まったの?僕も泊まりたいな」

「自分の力で泊まることができるように、頑張って大人になることだな。」

「目標がひとつ、出来たと思えば良いのよ」

「うん。そうだけど……。ちょっとだけでも、中に入れない?」

「今は時間的に無理だから、明日、実家へ行く前に、ここでお茶しようか?」

「ほんと!明日花さん約束だよ。」

「了解。それじゃ次に行くわよ」

 翔太はホテルの中に入って見たかったが、うしろ髪を引かれる思いで、エントランスを目の前にし、そのまま方向展開をして万平ホテルを後にした。


細い林道を小川に沿って走ると、真新しいコンクリート製の橋に出た。橋を渡り百三十三号線に戻ったT字路で、明日花は自転車を停めて、右手方向を差した。

「この先には、ショー記念礼拝堂があるんだけど、見えるかな?」

 翔太は明日花が指す方向を、背伸びしながら、体を左右に振った。木々の間に何か建物らしい物が僅かに見えた。

「見えるといえば、見えているみたいだけど――」

「明日、ちょっと寄ってみようね。新緑が映える、五月中旬以降だと、すごく美しい景色なのよ。今度写真撮って送るね。」

そう言って、明日花はT字路を左へ進み、わずか三十メートル程で右の小道に入った。

「ここは通称、水車の道って言われているの。この先にある聖パウロカトリック教会が目的地よ。」

「ちなにみ、今の道を真直ぐいくと、旧軽井沢銀座と言う、軽井沢最大の観光型商店街があって、その先を行くと、澤田の店がある軽井沢駅に繋がる。」

 貴一が方角を補足した。三百メートルほどで聖パウロカトリック教会に着いた。地図で見ていると結構離れてみえるが、意外と近い所に集まっているのだと翔太は感じた。

「桜咲姉と、この教会の中を見たあとに、二人の写真を撮ったのよ。同じように写真撮るから、二人はそこに並んで立って頂戴」

 明日花の言葉に従い、二人は教会の全体が入る位置に立ち、照れくさそうに、親子でポーズを取った。撮影後に、翔太が自分のデジカメを取り出して貴一と明日花を並ばせて、写真を数枚撮った。

「もっと寄って」、と二人のモデルに要求したところ、ファインダー越しに見る明日花の頬に、僅かに朱が入ったように翔太には見えた。


「次は、旧三笠ホテルから山道に入って、白糸の滝を見に行くの。このコースで一番の難所兼メイン観光となるから気張ってよ。」

 三人はそれぞれ気合を入れ直し、自転車に跨り三笠通りにでて進路を北へ取った。愛宕山を右手に見て、殆ど真直ぐな道で途切れ途切れだが、大木の並木が続く中央分離帯が有り、軽井沢を代表した絵葉書や旅雑誌などで見られる風景でもある。


 旧三笠ホテルに到着して、貴一が入り口で入場券を購入し中へ入った。

「このホテルは実業家の山本直良という人が、さっき見てきた万平ホテルのオーナーの、佐藤万平と言う人に相談しながら、千九百年頃に、アメリカとイギリスの建築様式を取り入れて建てたホテルでね。当時はこことは違う場所に建てられたけど、一九七〇年に、老朽化が進んだ事が元で廃業になったんだ。しかし、どこかの銀行が買い取りここに移築して、その後の一九八〇年に重要文化財に指定された。ってところだったかな。」

 貴一は高校の時に勉強して覚えたことを、翔太へ話した。

「十五年以上この土地を離れていても、忘れずにいるなんて、さすがに地元の人って感じだわ」

「僕もそう思うよ。仕事に追われて、色んな事に取り組んでいる毎日を過ごしていても、昔覚えた事を忘れずにいる、お父さんを尊敬しちゃうな」

 二人に誉められて、ちょっと照れたところを、明日花がカメラに残した。慌てて「今のはちょっとNG」だと、明日花とやりとりしている二人を、今度は翔太がデジカメに残した。


 短い見学時間であったが、意外と景色や建物の写真を多く撮ることができ、翔太と明日花は満足して旧三笠ホテルを出た。貴一にしても、昔取った杵柄で、ガイド張りの説明ができ、父親として又、元住人としての面目躍如といった点では満足できた。


ここからは本格的な山道になり、幾つものアップダウンを繰り返し進まなくてはならない。今日のコースの難所で、結構急な山道を三人は登りだした。

目指す先は白糸の滝だが、途中の休憩地点として竜返の滝を選んだ。翔太と明日花は人が入らない、滝と周りの風景写真を数枚カメラに収めた。

「さて、もうひと頑張りしようかね。旧三笠ホテルからここまでが約三キロ。ここから目的地の白糸の滝までが、ほとんど上り坂で約四キロ。ここまでの観光や写真撮影で、ちょっと予定より遅れているけど、何とか今日中には完走できる感じだな。」

「そうだね。休み休みだから、お父さんも意外と余力がありそうだし」

「何を言っているんだ。お父さんはまだまだ大丈夫だよ。」

「桜咲姉と周った時には、白糸の滝から三笠まで戻って、中軽井沢に抜ける途中で自転車が壊れて、困っていた時に貴一さんに助けてもらったのよ。」

「それが、お父さんとお母さんの初めての出会いなんだね」

「そうね。私は自転車を借りた店へ、文句と助けを言いに、自転車を飛ばしたんだけど、桜咲姉は、途方に暮れていたところの助け舟だったでしょうから、貴一さんが白馬ならぬ、軽トラックに乗った王子様に見えていたのかも」

「さぁ行くぞ!」

 貴一は何時までも話している二人へ、照れくささを隠しながら出発を促し、自らも自転車へ跨った。


 確かにこのコースの難所と言うだけの事はあった。翔太と明日花は無理をせずに、登りが厳しくなり始めたところで自転車を降りて押した。貴一は最後まで抵抗したが、カーブの先に続く長い登り坂を見て、ついに諦め自転車を降りた。結局三人は自転車を押して歩き、竜返の滝を出て一時間程で、目的地の白糸の滝にやっと到着した。

 滝の入り口に売店を見付け、貴一は店の中へ入り、数分で出てきた。

「水分だけではなく、糖類を摂取することも、大事なことだからね。少しずつ食べるんだよ。」

そう言って貴一は売店で買った、チョコレートとキャラメルを二人へ配った。


白糸の滝は、軽井沢の街全体に流れる、湯川の源泉に位置した滝で、湾曲になった壁面に幾筋もの白い水が湧き落ちている。岸壁の上には木々が生茂り、春には新緑が映え、夏には木陰が涼しくしてくれる。秋には紅葉と、白く流れ落ちる水とのコントラストで楽しめ、冬は氷柱と化した滝と、周りに積もった雪が、幽玄明媚な風景を見せる。


桜咲もそのシーズン全てを、自分の目で見たいと言っていたのを、貴一は滝を見ながら思い出していた。

 澄んだ滝壷の水を手で掬い、水の温度と感触を確認した翔太が、考え事をしている貴一の横に立って訊いた。

「ここにも、お母さんとの思い出は有るんだよね」

「あぁ、四季折々の風景を観たいと言っていた。結婚して、春から秋までのスリーシーズンは何とか見せることが出来たんだけど、冬の極限の寒さは、妊娠中や産後の上、赤ん坊の君を抱いては危すぎると思って、結局見せてあげる事が出来なかった。」

「じゃ、今年の冬に、またこの三人で観に来ようよ」

「えっ、私もお邪魔しても良いの?」

「明日花さんなら、きっとお母さんも駄目とは言わないよ。」

「そうだね。では、明日花ちゃんの都合が合えばそうしよう」

「ありがとう。とっても嬉しいわ」

 三人は、冬の景観を見に来ることを約束して、一路来た道を戻り始めた。


旧三笠ホテルを過ぎたところで、右の林道へ入った。別荘が点在する迷路のようになった林道を、明日花のガイドで迷わずに進んで行く。建物の数は、思っていたより多かったが、殆ど人が住んでいる感じは無く、避暑地特有の別荘地であることを、翔太は再認識した。

「この右手は野鳥の森といってね。色々な野鳥の観察を、ボランティアのガイドさんが案内してくれるのよ。私も、去年の秋口にお願いして、写真を多く撮ることができたわ」

「ところで、あのウサギの写真はどこで撮ったの?」

 翔太が一番気になっていた事を訊いた。

「あれはね、このコースの終わりに通る、離山公園なのよ」

「離山公園って、看板を家の近くで見た気がするんだけど」

「翔太は良くみているな。その通りだよ。家から国道を越えたところにある、山全体が離山公園だ。父さんも、子供の頃、おじいさんと山登りした記憶があるよ。」

「灯台基暗しってやつだね。まさか、家の目の前で、あんなに素晴らしい写真が撮れるなんて」

「腕よ、腕。写真を撮るよりも、私には強運を呼ぶ腕の方が強いのよ。だから、翔太のヌードもまだ諦めていないの。」

「何か違っているようだけど……。あれ、父さんが停まってる」

 二人は話しながら進んでいたが、数十メートル後方の、別荘が点在し、道同士が入り組んだ辻の途中で、貴一は自転車を停め佇んでいた。

翔太が声を掛け様とした時、「ちょっと待って、あのままにしてあげて」明日花が止めた。

「あそこの辻だったのね。貴一さんと桜咲姉が始めて会ったのは」

「明日花さんも知らなかったの?」

「うん。自転車が壊れたのは、もっと国道寄りだったの、そこで待っていてって、桜咲姉に言って、私一人で、軽井沢駅へ向かって走ったんだけど、桜咲姉も戻り初めていたのね。」

 貴一は数分佇んで、周りの景色を見ていた。桜咲と初めて会った時の、お互いの仕草や会話を、思い出しているのであろう。二人は少し離れた道端に自転車を停めて、小休止にした。

「明日花さん、ひとつ訊いても良い?」

道端の草の上に腰を下ろした翔太が訊いた。

「ん?何、改まって?」

水筒のお茶を飲みながら、明日花も翔太の横に並んで座った。

「明日花さんの左手のリストバンドは、何か意味があるの?」

「あぁこれ。」明日花は左手首を掴んで、「大したことは無いの――。仕事用のカメラって結構重たいのよ。ここ数年で手首が痛み出して、サポーターをするようになったの」

「やっぱり一眼レフは、女性の細い腕には辛いんですね?」

「観光なんかで使う分には問題はないけど、私みたいに殆ど毎日だと、手首が疲れてきてもしょうがないわ。」

そう返事をして、キャラメルを口に入れた。



二十年程前、貴一は父の会社の『輸入』に目を付けて、イギリスを始め欧州からの、雑貨や家具を扱う会社を設立していた。

会社と言っても、貴一一人の個人商店みたいなものであったが、別荘族や学生時代の友人。地元の知人などから意外と注文を貰い、貴一が一人で生活するぐらいの稼ぎにはなっていた。

そんなある日、祖母の友人で、千ケ滝温泉の西側にある住宅街に住んでいた人からの注文で、ロッキングチェアを配達した帰り道のこと、自転車を押して、歩いている若い女性を追い越した。貴一は、「平地なのに変だな。」と思い、車を道の路肩に寄せて停め、女性へ声を掛けた。

「観光旅行で軽井沢へ?」

女性は怪訝そうに貴一を見て、返事をして良いものか、否かを思案しているのか、返事に戸惑っている様だった。もし、彼女が困っているのであれば、どんなことをしても、彼女の力になりたいと、強い意志が沸々と湧き上がってくるのを感じた。

貴一の『一目惚れ』であった。

「僕は軽井沢で、輸入雑貨と家具を売る店をやっている、春日貴一と言います。たいらな道なのに、一人で自転車を押して歩くのは、変だと思って、怪しまれると思いながらも、声をかけました。」

 女性は明るく丁寧に話す貴一を『大丈夫そうな人』と判断したのか、先の問いに答えた。

「神奈川から、観光に来ました。連れと――、妹なんですが、サイクリングをしていたら、私の自転車が壊れてしまって……。今、妹が自転車を借りた店へ、向かっているところです。」

「軽井沢駅の近くで、ペンションをやっている店でしょ?」

「どうして?」

「自転車に張ってあるシールが、友人の店の物だったのでわかりました」

「そうですか。距離はどのくらいありますか?」

「四、五キロってところかな。自転車だったら二十分ほどだけど、この辺の道は入り組んでいるから、一本間違うと迷子にも成りかねないですよ。」

「本当ですか?大変だわ。明日花、大丈夫かしら――」

「僕の車で、妹さんが迷い込みそうな所を通って、友人の店まで送りますよ。」

「ありがたいお話しですが、それは……。ちょっと……。」

「心配されてごもっとも。では、こうしましょう。この辺りの家から、貴方が電話を借りられそうな家を選んで、その家へ二人で行き、店へ電話をして、僕が悪人では無い事を証明する。という事でいかがですか?」

 女性は貴一の提案を受けて、近所の家のインターフォンを押した。対応した一軒目の住人へ、電話を貸して貰えるように頼むと、住人は気持ちよく受けてくれて、初老の女性が玄関に出てきた。

家人は女性の横にいる貴一に気が付くと、「あら春日さんじゃない。貴方が一緒にいながら、電話を貸してなんて――」

「こちらの方が、私と自転車を乗せて、自転車をお借りしたお店まで、行ってくださると――。ですが、ちょっと心配で――。」

「そうよね。見知らぬ土地の男では、貴方の方が慎重で良いわよ。でも、この人は大丈夫。信じてあげて」

家人に言われ若い女性は「そのようですね」と貴一の顔を見て微笑んだ。

「信じていただけた様だけど、電話は拝借できますか?一応、澤田へ電話して、この女性(ひと)の妹さんが行っても、店で待つように伝えないとならないので」

「えぇ、良いわよ。使って頂戴。」

 家人は気持ち良く電話を貸してくれた。二人で礼を言い、辞去して停めていた車まで戻り、自転車を荷台に積み、若い女性を助手席に乗せ走り出した。

 女性は運転している貴一へ、失礼を改めて詫び、鶴畑(つるはた)桜咲(さき)と名乗った。

貴一は照れながら、「とても素適な名前ですね。」と答えた。

道は入り組み、右へ左へと曲がり進んでいる。

「見付からないですね。ひょっとしたら、澤田の所にもう着いているかもしれない。そっちへ行きましょう」

「済みません。ありがとうございます。」

 二人は十分程で澤田の店に着いた。自転車を下ろしていると、澤田が店から出てきて桜咲へ詫びた。桜咲は、妹の明日花が着いているか訊いたが、答えは「ノー」であった。

「僕がもう一度、三笠辺りへ行って探してみるから、自転車を貸してくれないか。」

「別に構わないけど、車の方が早いだろ」

「車だと、鶴溜の細く込み合った道を走るのは不向きだ。それに、会ったとしても中々信じて貰えない。澤田の店の自転車なら、動き易く説明し易いだろ。」

「そうか。判った。今、持ってくるよ。」そう言って澤田は店の奥へ急いだ。

「ご迷惑をお掛けして本当にすみません。何てお礼を言えば良いのか――。」

「気にしないでください。基は澤田の自転車が原因ですから、友人として、澤田に力を貸すのは当たり前のことですよ。」

澤田が自転車を押して来て貴一へ渡した。

「貴一。悪いが頼む。」

「任せておけ。三十分ほどで、一度戻るか、電話を入れる。ただ日が暮れると厄介だから、その時は警察と消防団へ連絡するようにしてくれ」

「判った。吉報を待ってるよ。気を付けてな。」

 澤田と桜咲は、貴一の後ろ姿を見送った。

「日が暮れると危険なんですか?」

「そうですね。鶴溜辺りだとすると、日が暮れたら、僕でも道に迷うかもしれませんね。」

「そんなに――」

「えぇ。林道でも五番目状になっている、今の宅地などと違って、あの辺りは、蜘蛛の巣みたいに絡み合っているので、この軽井沢の隅々まで走り慣れている春日でも、慌てると間違う可能性は高いです。」

「私は、そんなところだと知らずに、サイクリングコースにしてしまったんですね。」

「景色も良いいので、『これこそが軽井沢』って、感じが強い所でもあるから、意外と大勢の観光客は行きますよ。大筋だけを通っていれば迷う事は無いのですが、細かい脇道などに入り込むと、地図も当てにならなく方角も判らなくなって焦る。そうなると、同じ道をぐるぐる回っているだけのように感じて、どうして言いか判らなくなり、パニックに陥る事も――。」

「助かるのですか?」

「簡単な事なんですよ。近くの家へ行って、『道に迷った』と伝えて、国道か三笠通りに出る道を聞けば良いんです。親切な人であれば、送ってくれることもありますから。」

「明日花も落ち着いて、道を訊いてくれれば良いのね」

 桜咲は妹の無事を祈り、貴一へ縋った。


 店を飛び出た貴一は、六本辻から北へ向かい雲場池の横を通り、旧軽井沢ゴルフクラブを目指した。そこから西へ向かい、林道を走り続け鶴溜の辺りまで来ると、貴一の前を急いで走って行く自転車を見付けた。貴一は必死に自転車を漕ぎ、前を走る自転車へ近付き声を掛けた。

「すみませーん。鶴畑明日花さんですか?」

 前を行く自転車はいきなり停まった。貴一は息を切らしながら、もう一度訊いた。

「澤田自転車の者です。鶴畑明日花さんですか?」

「そうですけど」振り向いた明日花が、涙ぐんでいるのに貴一は気付いた。

「怖かったんだろうな」と思いながら、息を整えて明日花に深く頭を下げて詫びた。

「お姉さんは、私が車で店へ連れて戻りました。しかし、明日花さんが店に着いていなかったので、恐らく道に迷っていると思い、探していたのです。お会いできて本当に良かった。」

「この森から出られなくて、本当に――。本当に怖かったんだから――」そう言いながら、涙ぐんでいた目から、大粒の涙が零れた。そんな明日花へ、貴一はハンカチを取り出して渡した。

「本当に申し訳ありませんででした。私がゆっくり先を走って案内しますので、後ろから付いて来てください。」

「ありがとうございます。」

涙を拭きながら貴一へ礼を言った。途中の知人宅で電話を借りて、澤田へ『見付かった』と連絡した。当然、桜咲と澤田は安堵して喜んだ。それから二十分程で二人は澤田の店に戻ってきた。

 無事に出会えた姉妹は、貴一へ何度もお礼を言った。その中で明日花は宿泊先の電話番号を教え、明日帰る前にもう一度お礼をしたいと言った。

 貴一は翌朝、ペンションへ電話をして明日花ではなく、桜咲を呼び出して塩沢湖へ誘った。そして桜咲の自宅の電話番号と、住所を教えて貰い、そこから貴一と桜咲の付き合いが始まったのであった。


 姉妹が乗る電車の時間前に駅へ行き、貴一が好きなアプリコットのケーキを土産に姉妹へ渡した。明日花は午前中会えなかったことが残念だと告げた。桜咲はそのとき、明日花の貴一へ対する気持ちが、自分の物と同じ物と知り、少し()えた。

 明日花も、貴一には桜咲以外は目に入っていない事を知り、姉には敵わないと、自分の初恋は一晩で散った事を知った。



貴一が自転車を漕いで二人の所へきた。

「ごめん。待たせちゃったね」

「もう、良いの?」

 翔太が遠慮しながら訊いた。

「あぁ。もう済んだよ。さぁ行こう」

貴一は明るく、二人へ返事をした。しかし三人は各々、妻として、母として、姉としての、それぞれの桜咲を無言で考えながら、暫く自転車を漕いだ。


別荘地の入り組んだ林道を進んみ国道に出る。坂を下ると、中軽井沢で観光の目的地にしていた内のひとつ、軽井沢高原教会の前で停まった。

「ここで軽井沢高原教会と、石の教会の見学をしてから、昼食と言うのが桜咲姉の計画だったけど、お昼はどうします?」

 明日花に聞かれ、貴一は腕時計を見た。父から大学卒業の時に貰った古いロレックスは、十二時四十分を指していた。

「昼食時は混んでいるかも知れないし、ここまできているんだから、先にふたつの教会を見学しようか」

「僕も賛成。さっきキャラメル食べたから、まだ持ちそうだしね」

「わかったわ。それでは、軽井沢高原教会から、見学と撮影をしましょう。」

 教会を正面から見て、木造の三角形と言う印象が強い教会だと、翔太は感じた。開設百年近い由緒のある教会で、白秋や藤村が集ったと、教会の歴史の説明文に書いてあった。

中を覗くと、突き当たりにある大きな三角形の窓から、外光が教会の建物の中全体を、包んでいるかのように見えた。

翔太は色々な角度から写真を撮った。その様子をみていた貴一は、明日花に小声で言った。

「まるでカメラマンになったようだ。もし翔太にその気があったら、明日花ちゃんに預けるから、一人前にしてもらえるかな?」

「考えておきます。翔太は良い感性を持っていることは、確かだと思うけど、やっぱり貴一さんの会社の跡取りと言う、観念も何処となく持っていると思うの」

「桜咲がいたら、翔太をどう言う道へ向かせたのか判らないけど。翔太の希望を、一番に聞いたと僕は思うんだ。だから翔太が将来就きたい職業を見付けたら、黙って応援するつもりだよ。勿論ヌードモデルは別としてだけど」

「貴一さんたら。私だって同じです。翔太のヌードは半分本気ですけど」

「冗談でしょ」

「勿論よ。」

 今の『勿論』は、肯定なのか否定なのか判断に悩んだ。


飽きもせず写真撮影に夢中な翔太へ、「石の教会へ行くよ。」と、声を掛け、三人は自転車を押しながら移動した。移動しながらも貴一の頭の中に、先程の『勿論』が居座っていた。

(肯定?否定……。どっちだ)


石の教会を初めて目にした翔太は、驚きと感激で心が踊った。持っているのがデジカメだから、フィルムの枚数に関係なくシャッターを押せるのが、今の翔太への救いであった。外観からは教会には見えず、石とガラスでできたトンネルのような構造が、翔太を釘付けにした。

「凄いね。本当に素晴らしいね」

「おい翔太!いい加減にしないか?ここは、教会なんだよ。」

「ごめんなさい。ちょっと興奮しちゃった。」

「それだけ凄い建造物ってことが、翔太にはわかるのよね。」

「僕にも、こんな建物を考えられるのかな」

 注意されて、翔太の声のトーンは少し下がったものの、変わらぬ熱い視線で、教会の内部を隈なく見ている。そんな翔太を見て、貴一は明日花へ勇み足で親ばかな一面を見せてしまい、恥ずかしそうに言った。

「さっきの話しは無しだね。どうやら今度は、建築家になるらしい」

「しばらくは、放って置くのが良いみたい」

「さて、お昼を食べに行こうか」

「賛成。お腹空いたわ」

「僕も同じ」と二人の話しに翔太が加わった。

「君を待っていたんだけど――ね。」

 三人は石の教会の外へでて、通りがかりの人にカメラを渡し記念撮影をした。外から見ると石でできた、芋虫の様な『石の教会』をバックに、三人で初めての記念写真であった。


 その後、日本ロマンチック街道と呼ばれる、国道百四十六号線を中軽井沢駅方面へ南下し、予定通りに国道の左側にある、和食と蕎麦の店に入った。

店内は二時を回っているせいか、比較的空いていて、三人は離山が望める窓際の座敷を選んで座り、貴一と翔太は蕎麦と丼のセットを、明日花は山菜が入った、暖かい蕎麦を頼んだ。

座敷に落ち着くと、明日花は時より足を揉む動作を、無意識のうちにしていた。貴一はそれに気付き、出掛け際に澤田から言われた『引く事も大切だ』の言葉を思い出していた。


昼食後のお茶を飲み終えると、テーブルの上に地図を広げようとした明日花を貴一は止めた。

「計画したコースの三分の二まで来たけど、実はもう足が言う事を聞いてくれそうも無いんだ。膝はガクガクだし、太腿はプルプルと軽く痙攣している。今ならまだ下り坂と殆ど平地の、澤田の店までなら帰れると思う。だけど、この先の追分や塩沢湖へ進むのは、二人には本当に申し訳無いが、正直言って無理だと判断した。出る前は豪語していた分、格好悪いけど。許して貰えるかな?」

「そうだね。僕もお父さんの体の方が大事だから、お父さんの判断に従うよ。この続きは又、今度と言う事にしよう。」

 翔太も明日花の疲労に気付いていた。明日花を傷つけないように、庇う父が翔太は誇らしかった。

「ありがとう。では、明日花ちゃんには悪いけど、コース変更で澤田の店へ戻る事にさせてもらうね。」

「やっぱりお父さんは、歳と言うことだ。」

「それは否めないな。でもさ、元々このコースの計画は、二十歳前半の桜咲と明日花ちゃんが立てた物だから、四十過ぎの僕ではがんばった方だと思うんだけど」

「そう言う取り方もあるか。」

 明日花は二人の、さり気なく自分を庇う会話で、心身共に救われた。貴一が支払いを済ませ三人は店を出ると、一路、軽井沢駅を目指し走り出した。


 日本ロマンチック街道を中軽井沢駅まで行き、駅前を左に折れて、国道十八号線に入り東へ向う。軽井沢の町役場と貴一の母校の中学校を過ぎた所に、離山の三叉路に当たり、それを左へ行き離山ロードに入る。左手に離山を見ながら進むと、精進場川を渡りやがて六本辻に出る。

そのまま真直ぐ進めば、旧軽井沢銀座へ、左斜め後方へ行くと、雲場池へと続くが、三人は右側へ三方向に伸びる道路の中、右斜め前方へ行く道を選び進むと、すぐに出発点であった澤田の店が見えてきた。


 店の前で自転車を降りて、貴一が店の中へ声を掛けたが、返事が無い。今度は明日花が呼んでみた。奥の方から澤田の声がして、サンダルを突っ掛けた澤田が、あっという間に三人の目の前に現れた。

「楽しいサイクリングになりましたか?」

 澤田が少し息を乱しながら、明日花に訊いた。

「えぇ。とっても楽しい一日になったわ」

「ウチの自転車が、お役に立てた様で何よりです。」

「澤田、本当に感謝しているよ。」

 素直に感謝の意を表した貴一だったが、二人の会話に割って入った格好になり、澤田に睨まれた。

店先で澤田と明日花が話しをしていると、奥から明日花と年恰好の似た女性が出てきた。澤田はその女性を、自分の妻だと三人へ紹介した。しかし澤田の奥さんの、異様な雰囲気に気付いた貴一は、慌てて自転車のレンタル代を支払い、二人を促して自動車に乗り込んだ。

「今夜は、何か起こりそうだな。」

 貴一がエンジンを掛けながら呟いた。店先で、悲壮感を漂わせて見送っている澤田へ、「ありがとう。又来るな。」と告げ、車を店の駐車場から出した。

「私が原因だったら嫌だな。」

 明日花は三人を見送っている、澤田の顔を窓ガラス越しに見ながら言った。

「こう言うのって、自業自得って言うんだよね。」

 明日花のせいでは無いと、強調するかのように翔太が援護した。

「確かにそうだが、父さんは見捨てて来た様で、大変心苦しいよ。」

 貴一はいち早く逃げ出した自分に後悔していた。車内の重たくなった空気を軽くしようと、翔太が話題を変えた。

「早く帰ってお風呂に入りたいな」

「そうね。疲れを取るには、お風呂が一番よね」

「そうだ、『温泉の元』を買って帰ろうか」

「箱根温泉の元で良ければ、家にあるけど――」

「じゃ、今日は箱根の湯で疲れを取ることにしよう」

 以降、澤田の事には誰も触れる事はなかった。


 帰宅した三人は、貴一の提案で役割を分担した。翔太は『温泉の元』を入れてみたいと言った事から、風呂を洗い沸かす係りに任命され、貴一自身は暖炉に火を付け、戸締りをする係りに付いた。明日花は翔太のリクエストに応え、洋食の献立で、夕食の支度に急いで入った。


 自分の役割を終えた貴一は、ファックスで来ていた明日の会議の資料を、暖炉の前で目を通し始めた。

風呂が沸くと、『温泉の元』を入れたがっている翔太が、一番風呂の権利を得た。

「酷い筋肉痛にならないように、湯船の中で良く足を揉むんだよ」

 貴一が資料から目を離し、脱衣場に入る翔太へ声を掛けた。

「了解。温泉にゆっくり浸かってきます。」

 そう返事をして、翔太は生まれて始めて『温泉の元』を手に、浮かれ気分で脱衣場へ消えた。その頃、貴一のいる居間の暖炉の前まで、空腹を刺激する夕飯の良い匂いが漂い始めた。その匂いに誘われて貴一は、資料を持ったままキッチンへ入ったが、女性がキッチンに立ち料理をしているところを見るのは、桜咲が亡くなって以来、実に久し振りな事で、春日家に突如欠けた風景だと、明日花を見てそう感じた。

「疲れているのに、贅沢を言ってすまないね」

「良いのよ。翔太との約束だし、気にしないで。」

「ありがとう。それにしても、すごくいい匂いだな」

「そう?お世辞でも嬉しいわ」

「僕はお世辞が上手く無くてね。何ができるのか楽しみは取って置きたいけど、味見役は必要無い?」

「お生憎様。今のところは間に合っております。」と明日花が笑いながら答えた。

「残念だな」

「紅茶でも淹れましょうか?」

「いや。夕食を優先して。僕は大人しく資料の続きを読んでいるから」

 そう言って貴一は、暖炉の前のソファに戻り、再び資料に目を通し始めた。

資料を一通り読み終えチェックをして、明日の会議内容の確認が済んだとき、翔太が風呂から上機嫌で出てきた。

「お父さん温泉っていいね。沢山買って帰りたいな」

「判ったよ。日本に居る内に、明日花ちゃんに訊いて、いくつか買えば良いさ。お父さんも好きなんだが、イギリスの家のバスタブは、浅い上、ここの風呂みたいに追い焚きができないから、温泉の元を入れて浸かる事を今まで考えなかった」

「そうか……。家で使っても大丈夫かな?」

「いつもより熱めのお湯を張れば、別に問題は無いと思うよ。」

「お父さんが早く帰れたら、続けて入れるけど、普段は僕一人で温泉を捨てるのは勿体無いな」

「その時は、父さんが熱湯を入れて浸かるよ。とりあえず、買って帰る『温泉の元』が無くなるまで、やってみれば良いじゃないか」

「わかった」

「では父さんも、箱根の湯に浸かってくるかな。翔太は明日花ちゃんの手伝いを頼むね」

 貴一は急いで自室に戻り、着替えを持って風呂へ入った。


 風呂上りに何か飲むものを貰いに入った台所で、翔太も貴一と同じく、女性がキッチンに立ち料理をしているところを見て、忘れていた懐かしい光景に出会った。母が亡くなってから四年ほどは、キッチンには常に貴一が立ち、食事を用意していたが、この頃は翔太が料理に目覚め、貴一の代わりに食事を作っていた。

「あら翔太、何か用事?」

「うん。お風呂上りに何か飲みたくて。それと、お父さんから、明日花さんの手伝いをするように言われたから」

「ありがとう。オレンジジュースなら、冷蔵庫に冷えたのが有るわよ」

「飲んで良いの?」

「当然でしょ。ここは翔太の家なんだから、変な遠慮はしなくて良いのよ」

「そうかな?何かピンとこなくて、明日花さんの家に居る感じが強いんだよね。」

「それもそうか。翔太は二年と二ヶ月と二日しか、この家に住んでいないんだものね。私なんか、もう十六年も居座っちゃって。あと少しで、貴一さんが住んでいた年数さえ、越してしまいそうだもの」

「何となく明日花さんの言っている事、判る気がする。この家って、昨日着いて感じたんだけど、居心地が良いんだよね。」

「そうなのよ。何か安心するって言うか、落ち着くって言う感じがあって、貴一さんに甘え継いでで、ついつい出そびれて居座ってしまっているの。」

「このままずうっと居れば良いじゃない」

 冷蔵庫から、オレンジジュースを出しながら翔太が言った。

「そうはいかないのよ。この家は貴一さんにとって特別な思い入れがあるんだから。いつかお返しする日がきっと来る。私はそれまで、この家を昔のままに保つだけ……」

 明日花は寂しそうに笑った。翔太は始めてみる、明日花のそんな笑いを切なく感じ、機会があったら、父へ今の話しをしようと思った。


「やっぱり箱根は良い温泉だな。今度は本物の箱根の温泉へ行こう。」

 貴一も上機嫌で風呂から戻ってきて、翔太が注いで調理台に置いていたオレンジジュースを一気に飲み干してしまった。

「僕が飲もうと思って淹れたのに」

「まだ有るんだろ。一杯位良いじゃないか」

「二人とも邪魔になるから、居間で大人しくしていて頂戴?」

 二人はオレンジジュースのビンを持ち、居間へ逃げた。


 夕食はコーンポタージュに生野菜のサラダが前菜で、鶏肉のトマト煮と牛肉のサイコロステーキに、バターライス。食後のデザートは、アイスクリームのメイプルシロップ掛けであった。

 久し振りのご馳走に、普段から小食な翔太だが、些か食べ過ぎた。貴一も珍しく、明日花に薦められて、ワインを飲んだ。貴一と翔太、それに一人暮らしの明日花は、昨夜に続き華やいで楽しい夕食の時間を持った。


 夕食の後片付けは貴一と翔太がすると言い、明日花は二人の言葉に甘えて風呂へ行った。食器を洗いながら翔太が、いつかこの家を出て行く事になると、寂しげに語った明日花の話しをした。貴一は勿論否定した。

「この家自身が、明日花ちゃんを望んでいると父さんは思うよ。それに難しい話しになるけど、いつ名義を変更しても良いように準備はしてある。ただ、税金もかかるから、明日花ちゃんが承諾しなければ出来ない事なんだ。この事は、父さんが明日花ちゃんに直接話すから、翔太は何も言わなくて良いからね。」

 その話しを聞いて翔太はほっとした。

「さぁ。翔太も疲れているだろうから、さっさと片付けて早く休もう」

 貴一は自分にも発破を掛けて片付けを急いだ。

片付けが終わっても、中々明日花は風呂から上って来ない。黙って先に寝ることもできずに、二人は暖炉の前のソファで寛いでいた。

「明日は何時にここを発つの?」

暇潰しで地図を見ていた翔太が訊いた。

「そうだなぁ。会議の予定は四時だから、遅くても昼前には出たいね。」

「お父さんの、お祖父さんとお祖母さんのお墓ってどの辺なの」

 翔太が見ていた地図を持ってきて、貴一の隣に座った。

貴一は渡された地図を見ながら、墓地の有る寺を探し「えーと。佐久の警察署の近くにある寺だから、この辺りだな」そう言って地図の上を指した。

「うーん。良く判らないけど、時間的にどのくらいかかるの?」

「家からだと、国道十八号線を小諸の方へ行って、三ツ谷東から佐久へ抜ける近道があって、そうそうこの道だ。小田井北の交差点を左に折れて中山道に入るだろ――。ここだな。後は道なりに真直ぐ行って、上信越自動車道の佐久インターチェンジを過ぎて、一キロほどだから、全部で二十キロか。まぁ一時間は掛からないと思うけど」

 地図の上で、指で道を辿り翔太へ説明した。

「じゃぁ、別々に行った方が良いんじゃない?そのまま上信越に乗れば、少しは楽出来そうだし」

「良いのかな。そうして貰えれば、確かに楽はできるけど……」

「楽が出来るって?」

 長い風呂から明日花が戻ってきて、二人の話しの内容が判らず訊いた。

「明日のお墓参りは、佐久インターの近くだから、お父さんと車を別々にすれば、お父さんが楽できるねって、話していたの」

「そうね。私も神奈川へ帰る時は、いつもお墓参りをしてから佐久を越えて、国道をひたすら走って、須玉から中央道で帰る事が多いものね。翔太が不安じゃ無ければ、私の車と貴一さんの車の二台で行きましょう」

「お母さんの実家に帰るのも、そのまま行った方が、明日花さんも楽なんだよね。」

「そうだけど。明日は万平ホテルへ行く約束をしているから、一度戻ってホテルでお昼を食べてから、実家へ向かうつもりよ。」

考え事をしている翔太を見て「どうしたんだい?」と貴一が訊いた。

「万平ホテル――。今度、軽井沢に来た時でも良いよ」

貴一と明日花が顔を見合わせ「遠慮しなくても良いのよ。」と明日花が翔太の気持ちを汲んで答えた。

「別に遠慮じゃなくて、佐久って所から直接神奈川へ行けば、早く鶴畑のお祖父さんとお祖母さんに会えるってことでしょ。だったら、その方が良いかなって思っただけ。」

「そうして貰えると、父さんも安心できるが――。」

「安心って、お父さんは明日花さんの運転を心配しているの?」

「いや違うよ。戻ってまた出かけると、朝から一日中運転している事になるんだ。今日の疲れも有るし、できれば父さんと同じように、明日花ちゃんにも、少しでも楽して欲しいからね。」

「ありがとう。二人の気持ちとても嬉しいわ。でも翔太が次来るまで、あのホテルが有るかどうかは約束できないから、明日行きましょ。」

「いいよ。やっぱり早く神奈川へ行きたい。お祖父さんとお祖母さんに内緒で行って、驚かすんだ」

「本当にそれで良いのかい?」

「うん。」

「わかったわ。それじゃお昼は、清里の牧場近くにある、イタリアン料理をご馳走してあげる」

「本当?明日花さん。興奮して、今夜寝られないかも」

「添い寝して、子守唄を歌ってあげるわよ」

「急に眠たくなってきた。先に寝るね。おやすみなさい」

そう言いながら居間から出て行き掛けた翔太へ、「明日は七時半起床で九時出発だよ。」と貴一が言う。

「了解。何だったら、明日の朝食は僕が作ろうか?」

「頼めるのかい?」

「いつも通りの、トーストにベーコンエッグでよければ」

「イギリス仕込みの、翔太の料理を食べてみたいし、折角だからお願いするわ」

「了解。それでは、お父さん、明日花さんおやすみなさい。」

 翔太が階段を登って行く音が聞こえる。暖炉の火で、濡れた髪を乾かし始めた明日花を見て、貴一は台所へ行き、ビールとグラスを二つ持って来た。

「今日はお疲れ様でした。」

 グラスを渡しながら、労いの言葉を掛けた。

「貴一さんも、お疲れ様でした。」

出されたグラスを受け取り、応接セットのテーブルに置くと、貴一のグラスへビールを注いだ。

「ありがとう。明日から翔太の事頼むね」

「はい。」

今度は貴一が、明日花のグラスへビールを注ぎ、二人はグラスを合わせ一口飲んだ。

「今夜は良く飲まれますね。」

「そうだな。ワインの後にビールだなんて、めったに酒を飲む事など無いのに――。今日は特別かな」

「倒れたら介抱しますから、安心してください。」

「そう?たまには介抱されるのもいいかもね」

「姉が亡くなってから、貴一さんは一人で、頑張り過ぎているみたいで――。心配していたのよ。」

「ありがとう。でも僕からして見ると、この家もそうだけど、桜咲が庭に残した薔薇の世話とか、任せっきりで申し訳ないと思っているんだ。」

「そんなことは気にしないで。私はこの家が好きだし。桜咲姉が残した薔薇だって、毎年綺麗に咲いてくれるのが楽しみで、面倒見ているだけだもの。」

「さっき翔太から聞いたけど、明日花ちゃんがこの家を出ると言ったらしいね。でも僕はずっと明日花ちゃんに、この家に居て貰いたいと思っている。結婚しても、この家に住んでくれれば良いとも思っている。」

「私は結婚なんかしません。多分ずっと独身です。」

「独身でも良いよ。ここは明日花ちゃんの家なんだ。ずっと居てくれて良いんだよ。古くて嫌だとか、神奈川へ戻るからと言うのなら別だけど。決して僕からこの家を空けてくれなんて言わない。」

「でも何時の日にか貴一さんが再婚して、日本に戻って来るとしたら、この家に住むでしょう。その時は――」

「僕が再婚なんかする訳ないよ。生涯独身を通す積りだし、大体、桜咲以外に、僕に好意を寄せてくれる女性(ひと)なんかいやしないさ。」

「そう?貴一さんが気付かないだけかも知れないわよ」

「僕はそれほど鈍感じゃ無いよ」

「本当にそう思って?」

「そう何度も聞かれると、僕が鈍感だと言われているみたいで――。心外だな。」

 貴一のその言葉を聞いた明日花は、グラスに残っていたビールを一気に飲み干すと、貴一のグラスを重ね、空ビンを持って立ち上がり、「充分、鈍感だと思います。」と言って、キッチンへ行ってしまった。

 迷子事件を思い返し、明日花の言葉の真意が薄っすらと見えてきたが、明日花の気持ちには応える事は出来ないと、あえて掘り起こさずに、このままにして置くことを貴一は選んだ。

 片付けが済んだ明日花は、キッチンの入り口から顔だけを出して貴一へ向けて『あっかんべー』をした。しかしすぐに、しおらしく「おやすみなさい」と言い、階段を上っていった。

 一人残った貴一は、明日花の背中へ、「おやすみ」と呟き、暖炉の火を消して寝室に入った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ