第二章 神隠しの森 3
その夜は『谷の屋』の大きめのヒノキ風呂で汗をさっと流した後、夕食となった。
メニューは川魚の刺身や焼き物、山菜の天ぷらや煮物、冷凍の鹿肉を使った焼き肉などだった。僕にとってはどれも物珍しく、美味しかった。僕一人しか客がいないと言っていたのは本当で、二十畳ほどの大広間で独りきりの食事だった。
「お一人では落ち着かないでしょう」
そう言って主人は僕の食事の間中、側で接待してくれた。
「せっかくですからご一緒しませんか」
僕が言うと、
「本当はいけないんですけどね」
と言いながらもいそいそと膳を持ってきて、はては秘蔵の地酒まで持ち出して差し向いに座った。
元々話好きらしいが酒の所為で口が余計に軽くなったのか、家族の事をいろいろと話して聞かせてくれた。
「それじゃあ、ご主人はお一人でここを?」
「ええ。八年前に家内を亡くしましてから、娘が手伝ってくれていたんですが、大学へ進学してしまってからは一人でやってます。まあそんなにお客さまも来られませんし、一人でも何とかなります」
「お嬢さんは休みに帰って来られないんですか?」
「長期の休みには帰って来ますが、そんなに長くは居ないんです。何しろあまり援助をしてやれないので、バイトをいくつも掛け持ちしてるらしくて……」
と、少し寂しそうに言った。
食事がすむと部屋に下がった。夕方説明してもらったように窓を開けると、主人が自慢するだけあって、谷から吹いて来る夜風は気持ちいいものだった。微かに聞こえるせせらぎの音も蛙の鳴き声も、邪魔になるほどではなくごく自然なBGMとして心に染みいるようだ。
僕は電気を消して窓を全開にした。目の前にここに着いた時に見た山の斜面があるはずだが、電燈の類が一切ないので銀粉をちりばめたような星空との境目の色の違いから輪郭ぐらいしかわからない。それでも本当に余計な光がないと言うのは、逆に想像を掻き立てる。
あの杉林はいつごろからあるのだろう? 村の禁足地だという話だが、こっそりと世話をしている人がいるはずだ。美しく立派な林の地面は、大抵上質の絨毯を敷いたように柔らかく気持ちのいいものだ。手入れをしている人は、贅沢にもその上を歩いているのだろう。どんな感触がするのだろう。
そんな事を考えながらうとうとしたらしい、自分のくしゃみで目を覚ました。風はかなり冷たくなっていた。
僕は身震いをすると、敷いてあった布団に入ろうとした。
ふと上げた目に、向かいの杉林が映った。灯りがないのに杉の一本一本がハッキリと見て取れる。しかも杉林の上にゆらゆらと、陽炎が立ち上っている。僕は夢を見ているのかと思って目を擦った。しかし陽炎は消えなかった。それどころかどんどん強さを増し、やがて陽炎はオーロラのように山の上空を照らし、ゆっくりと拡散していった。
その時急に谷風が吹いて来た。その風は冷たくは無く、どこか温かみを感じさせた。そして同時に杉の清々しい香りがした。
僕は布団の中で目を覚ました。気がつくと朝になっていた。
いつの間に布団の中に入ったのか、覚えていなかった。
昨夜は全開の窓辺で、真夜中に杉林が自ら発光していたような不思議な光景を見ていたような気がする――我に返った僕は飛び起きると、正面にある障子を開けた。
まず目に飛び込んできたのは濃い緑色の樹木の衝立だった。昨日の夕方見た山とは比較できないほど生き生きとしていた。それは朝日を受けて葉が輝いているからばかりではない。まるで樹木の一本一本が自分の存在を誇示しているようだった。それほど圧倒的な生命力に溢れていた。
目を横へ転じると、昨日僕が一目で惚れこんだ杉林があった。こちらの方も相変わらず存在感はあったけれど、なぜだか昨日より柔らかな感じがする。
僕は変わっているとよく言われるが、決して夢見がちな人間じゃない。どちらかと言うとリアリストだと思っている。だからこんな感じ方自体おかしいと思う。杉林の印象が鋭くなったり、柔らかく感じたりするなんて……。
「お早うございます。お目覚めでしょうか。朝食の用意ができております」
主人か廊下から声をかけてきた。
「あ、お早うございます。はい、今行きます」
僕は返事を返すと、急いで服を着替えた。
部屋を出る前にもう一度開け放した窓を振り返って、溢れ返る緑の山肌を見た。今日はあの生命溢れる山の中に入り込んでいくのだと思うと、なぜだか押しつぶされるような圧迫感を感じた。
朝食はごく普通の一汁三菜だった。焼きノリや漬物に豆腐の味噌汁、出し巻き卵と西京漬けの魚の焼き物、そして小鉢に入った野菜の煮物。
「好き嫌いはないと伺ったので、ちょっと変わった一品を付けました。こちらではどこの家庭でもよく作る料理を、少しアレンジしたものです」
そう言って主人が供してくれたのは、魚卵と何かの葉を煮詰めたものだった。
「佃煮、ですか?」
「そうです。鮎の卵と春先に山で採った木の新芽を別々に一旦塩漬けにして、それを食べる時一晩塩出しして甘辛く煮たものです。常備菜の一つです。ここらではそのまま白米の上にのせて食べるんですが、今日は杉の葉に包んで焼いてみました」
確かに普通の佃煮よりは香ばしく、杉独特の香りが感じられた。
「手間が掛かってますね。僕一人しかいないんですから、もう少し簡単なものでもいいですよ」
「そうはいきません。何人でも、お客様はお客様ですから。そうそう、昨日伺っていたお話ですが、山の持ち主には連絡をしておきました。案内がてら後でこちらへ来るそうなので、採集の話は直接してください」
「え、わざわざ案内してもらうなんて、そこまで迷惑はかけられませんよ」
僕が慌てて辞退をしようとすると、主人は苦笑いしながら、
「お客さんの人となりを確かめるつもりなんですよ。無茶はしないと言っていても、知らないうちに大切な山を荒らされないとも限らないでしょう。いや、お客さんがそうだというわけじゃないんですよ。一般論として、です」
そう言われればそうだ。こちらにその気がないと言っても、どこの馬の骨ともしれない人間の言う事を鵜呑みにするわけにはいかない。自分の知らないところで大切な財産に傷を付けられるかもしれないと思ったら、心配するのは当然だ。それにこっちもそのつもりがなくても、知らないうちに苗木を踏み荒らしたり、傷つける可能性は皆無とは言えない。
「わかりました。それじゃお願いします」
僕は了解して、頭を下げた。