第二章 神隠しの森 2
いくら観光地がないとは言え、夏休みなのにそこには人の気配がなかった。
「御免下さい」
薄暗い玄関で声を張り上げた。少しエコーがかかったように思えたのは、奥が深いからだろうか。
しばらく待って、返事がないのでもう一度声をかけようと息を吸い込んだ時、
「……はいはい」
ぱたぱたと足音がして、四十代半ばくらいの男性が奥の方から小走りに出てきた。体格はがっしりとしているが、顔つきは穏やかで、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「あのォ、いきなりで申し訳ありませんけど、部屋は空いてますか?」
「はい、空いておりますよ。お一人ですか?」
「はい。できれば二三日泊まりたいのですが、大丈夫ですか?」
僕がそう言うと、男性は不思議そうな顔をした。
「二三日、ですか? ウチはかまいませんが、この辺りに若い方の喜ぶようなものは無いと思うのですが、どういった御用件でしょう?」
「僕はS大学で植物学を専攻しているのですが、この辺りの植物相が変わっていると聞いたので、それを調べに来たんです」
途端に男性は破顔した。
「そうですか、S大学の学生さんですか。実は私にもS大へ行っている娘がいるんです」
「じゃあ、構内で擦れ違っているかもしれませんね」
男性はここの主人で、粕谷と名乗った。
「さっきも言いました通り、ここは本当に何もないところでお年を召した方には静かで落ち着くと評判なんですが、若い方には退屈なんですよ。近くにコンビニもありませんし」
主人は話好きらしく部屋へ案内してくれる間中、僕にいろいろ話してくれた。
「でも余計な灯がない分、夜は星が綺麗でね。それに緑が多い分空気が澄んでいるから、余計に綺麗に見えるんです。そうそう、長期の休みに静養にお見えになる方も時々いらしゃいますね。あ、お部屋はこちらになります」
案内されたのは、六畳の和室だった。陽に焼けた畳の色が、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。両側が襖で仕切られていて、正面には障子戸があった。
「右側は押し入れになっています。床は後で敷きに参りますが、下の段に浴衣が入っていますから着替えて寛いで下さっても結構ですよ。左側は大人数様用に襖を外せば広い部屋になるようになっています。今日は他にお客様はいませんから、使ってくださってもかまいませんよ」
主人が正面の障子を開けると、小さな板の間の向こうに擦りガラスの窓があった。
「夜に窓を開けて網戸にしておきますと、谷からの川風が入ってきてエアコンがいらないくらいですよ。うちの部屋はみんな山の方を向いていますから、覗かれる心配もありませんしね」
窓を開けると、もう夜の気配をたっぷりまとった川風が入って来た。自然の涼風は人工の冷気と違って、優しく僕の周りを取り巻いた。
だけどそれより僕の心をとらえたのは、夕日を受けてオレンジに輝く山の木々だった。
日本という国は暖帯から冷温帯に属し、大抵の樹木を見る事ができる。沖縄や小笠原諸島では亜熱帯に属する植物もある。固有種も多い。だから同じ地域に暖帯系の植物と、温帯系の植物が一緒にあるのは理解できる。同じように寒帯系と冷温帯の植物が一緒なのも。そしてその中に、植樹されて暖帯系の植物が紛れ込んでいるのなら、理解はできる。しかしその場合、生長にばらつきがあったり同じ種類の樹木がかたまっていたりするはずだ。ところが、今、目の前にある植物相は……。
主体はこの辺りなら普通であろう温帯林のようだ。常緑樹のシイやカシ、落葉樹のナラの中に、ソテツやトドマツらしいものが混ざっている。ただ、遠いからはっきりと断言できないが、それらが同じような樹高や幹の太さをしているように見える。
まるで誰かが何気なく集めたものを、気紛れにそのまま放りこんだかのようだ。そして、山肌一面を隙間なく埋め尽くす雑多な植物のその一角に、スッキリと伸びている杉林があった。そこだけ線引きされたように他の植物が一切見当たらなかった。
「うわ、凄い……」
僕の口から感嘆のため息が漏れた。等間隔に並んだ、同じほどの太さの樹。遠くからでもわかるほど、杉林は圧倒的な存在感を持っていた。
「これを見られただけで、ここまで来た価値があるなあ」
「地元民としては、そう言っていただけると嬉しいですね」
主人は嬉しそうに笑いながらそう言った。
「ところでご主人、あの杉林はどなたの土地ですか? ぜひとも側で見てみたいので、入山の許可を貰いたいのですが」
植生を調べるのにあちこち入り込んで視て回るのは良いが、土地には必ず所有者がいる。所有者の許可を貰わないで入り込んで勝手に採取や撮影をすると、トラブルのもとになってしまう。だから必ず許可を貰えと、所属する研究室の先輩から教えてもらった。無用なトラブルは避けるに越したことはない。
「あそこは……」
それまで調子よく話をしていた主人が、急に口籠った。言い難そうに、
「あの杉林には近づかない方が良いですよ」
「何か訳ありですか?」
「ええ。あそこには神隠し伝説があって、あの杉林に入った人間は戻って来ないんです。『杉に喰われる』と言われていて、地元の人間は一切近付かないんです。だから近付かない方が良いですよ」
嘘だ――僕は心の中で思った。
樹木に限らず、植物は人の手を加えずに自然のままに放置されているといろいろな力を受ける。例えば風の力で風下の方へ傾いたり(風衝林という)、雪の重みで根元が湾曲(根曲がりと言われるものだ)したりする。しかも枝や葉はどこからでも出てくるのだ。人が下枝を切ったり、万遍なく太陽光線が当たるようにしなければ木目が偏ったり、節だらけで使えない板や柱になる。木を育てる目的のほとんどは、材木を取るためだから、売れないものを作るわけにはいかないだろう。今見ているような高さも太さも揃った真っ直ぐにすっきりと伸びた樹にするには、必ず人が手をかけて世話をしなければならない。
しかも『杉が喰う』? 僕は心の中で首を傾げながらそれでも、地元の人が言う事に逆らわない事にした。その土地その土地に禁忌はあるし、その理由は余所者にはわからなかったり、理解できないものが多い。それでも反発せずにそれに従った方が良い、彼等はそうやって生きてきたのだから――これも先輩から何度も言われたことだ。
例えば僕が個人で勝手にやって来て、ここで地元民と軋轢を生むのはそれこそ勝手だ。二度とここへ来なければ、お互い不快な気持ちを持ったままでも、やがて風化するだろう。しかし僕は学校の名前を名乗った――つまり僕の行動が全て『S大学』への評価になる。この後ここを訪れる後輩や、OB・教授陣の妨げになる。それに僕自身も、またここを訪れないとも限らない。だから『郷に入っては、郷に従え』だ。
「そうですか。わかりました、近づかないようにします。で、その周りは持ち主の方は?」
「それなら知り合いですから、頼んでおきましょう」
「ありがとうございます。写真撮影や、できれば採集の許可が頂けると嬉しいのですが」
「わかりました。頼んでおきましょう」
主人は笑いながら頷いてくれた。
――ほら、反発しなければ、こんなにスムーズに事が運ぶ。僕は主人に向かって礼を言って、頭を下げた。