第一章 滅びゆくもの 5
「はい、粕谷です」
第一声は、若い女性の声だった。
一瞬、掛け間違えたのかと思った。そしてすぐに思い出した。『粕谷』は彼の名字だという事を。そして東京の大学へ行っている娘がいるということも。
(でも……)
変だと思った。間違ってはいない。でも、何かおかしい……。
違和感の理由はすぐにわかった。
今までは『谷の屋』という旅館の名前を名乗っていた。それが本当の名前である『粕谷』を名乗るということは……。
「もしもし?」
咄嗟に声が出なかった僕に、電話の向こうで訝しげな声が訊ねる。
「え、あの……つかぬ事をお伺いしますが、『谷の屋』さんですか?」
「はい、『以前』はそう言う名前の旅館でしたが……」
「『以前』という事は、今は違うんですか?」
僕の問いかけに漸く相手は理解したらしく、口調を変えた。
「以前ウチをご利用なさって下さった方ですね。申し訳ございません、旅館の方は二年前にやめてしまったんです」
「……そうですか」
余りに声に落胆の色が濃かったのだろう、相手は慰めるように、
「ご利用なさるのでしたら他の旅館をお世話させて頂きますが……」
「あ、いいえ。別に結構です。それより、ご主人はいらっしゃいますか? 自己紹介が遅れましたが、僕は藤岡といいます。少しお伺いしたいことがあるのですが……」
「父、ですか? 少々お待ち下さい」
相手はそう言うと主人を呼びにいったらしい、耳にオルゴールのメロディが聞こえてきた。曲名は「ムーン・リバー」。彼が好きだと言っていた曲だった。これは以前電話をかけた時から変わっていなかった。
時間が逆行したような錯覚に捕われて、僕は暫く送話器から流れてくるメロディに浸っていた。
不意にメロディが途切れ、代わりに耳へ流れ込んだ来た懐かしい声が僕を束の間の過去から引き戻した。
「お待たせしました。藤岡さん、お久しぶりです」
変わらない声と口調にほっとした。
「こちらこそ御無沙汰しています。お元気でしたか?」
「はい、お陰様で」
「旅館、やめられたんですか?」
僕の問い掛けに、彼は一瞬黙り込んだ。
「……ええ、まあ……」
「どうしてですか? 天職とまでおっしゃってらしたのに」
「……耐えられなかったんですよ」
「耐えられなかった……?」
――何に? そう訊ねる前に、彼は呻くように言った。
「窓から見える傷ついた山肌が、です……」
「……ああ」
そうだった。『谷の屋』のすべての窓からはあの林道が見えるのはずなのだ、枯れた杉の巨木のすぐそば傍を走る傷跡のような道が。
「人間の勝手のために切り開かれた道が痛々しくて……。宿泊客を案内する度に目に飛び込んでくるそれを、私はどうしても直視できなくて……」
彼はとても苦しそうだった。
「……そう、ですか」
彼がどれほど旅館の窓から見える風景を愛していたか……。たまたま立ち寄っただけの学生に恋人でも紹介するように話して聞かせていた姿を知っているから、僕はそうとしか言えなかった。
「……それで、どんなご用件ですか?」
黙り込んでしまった僕を労るように、彼が明るさを装った声で訊ねてきた。
「あ……ええっと、ですね」
それに励まされるように僕は訊ねたかったことを口にした。
「新聞の記事を読みました。白骨が発見された《杉》というのは例の《杉》なのでしょうか?」
「そちらの方でも出ましたか……。そうです、あの《杉林》です」
「そちらの様子はどうですか? 人が大挙して押し寄せているんじゃないんですか? それに調査中とありましたが、どこまでわかっているんでしょうか?」
「地元の人間はそうでもないのですが、他県から大勢来てますね。大学の教授とか研究所の職員とか。マスコミ関係の人も多いですよ」
「そうですか……」
僕は状況を想像した。僕一人ぐらい紛れ込んでも目立たないだろう。しかし、人の目はあちこちにあるということだから、こっそりと目的を達成するのは困難かもしれない。
「藤岡さん」
黙り込んでしまった僕に、彼の方から声をかけてきた。
「あなたもこちらへ来られるんですか?」
「ええ、そのつもりです。これでも一応は大学で植物学を修めている人間ですから。それに立ち枯れした状況にも興味ありますから」
一応訊ねられても不信感をもたれないように、一般的なことを理由に挙げた。
電話の向こうは、何事か考えているように黙り込んだ。
「ご主人?」
僕が呼びかけると微かに息を吐く音がして、何事かを決心したようだった。
「泊まるところは決まっているのですか?」
「いいえ、まだ……。本当のことを言うと、『谷の屋』さんにお願いしようと思ってたんですが、旅館をやめられたのなら他を当たろうかと……」
「藤岡さんお一人ぐらいなら家にお泊めしますよ」
「本当ですか?」
僕は勢いこんで訊ねた。
たくさんの人が来ているというなら、おそらくどこもかしこも満員だろうと思い始めていたのだ。
「旅館をやめたとは言っても、建て替えたわけではありませんから部屋は残っています。それに今はどこでも人が一杯でしょうから、飛び込みの人間の泊まるところはないでしょう。たいした御持て成しはできませんが、それでもよければ――」
「御願いします! 泊めて下さるだけで結構です、ぜひ御願いします!」
僕は彼の言葉を引ったくるようにして、受話器に向かって叫んでいた。
タイヤの下に空き缶でもあって、それに乗り上げたのだろうか、バスが大きく上下に揺れた。それに呼応して手の中で鉢植えの木が枝を揺らした。落とさないようにと、僕は植木鉢を抱える手に少し力を込めた。
やがてバスの車内アナウンスが聞き覚えのあるバス停を告げた。僕は手近のボタンを押して、降りる旨を運転手に告げた。植木鉢を抱えたまま少し苦労して小銭を用意し、考えてから植木鉢を持っている方の掌でそれを握り込んだ。
老人が立ち止まるようにゆっくりバスが止まる。動きが完全に止まってから、僕は足許の鞄を持ち上げた。
運転手の横にある料金入れで一旦止まる。鞄を足元に置いて、左手に握り締めていた小銭を右手に移す。箱の中に小銭をすべり込ませると、屈んで鞄を手に取った。
「ありがとうございました」
引き攣った笑顔で言う運転手に会釈を返し、ステップを下りた。完全に降り立ったのを確認したように、背後でドアが閉まる空気圧の音がした。クラクションを鳴らしてバスが動き出した。肩越しにそれを見送る。バスが見えなくなってから僕は少し息を吐いて、前方を見やった。
ここからではよく見えないが、前方の山肌を切り裂いたように道が走っているはずだ。周辺の木々をなぎ倒し、押し潰し、地面を抉り取った跡が。それは人間の自己中心を表しているようで、僕は苦々しく思った。
「藤岡さん」
無意識のうちに唇を噛み締めて前を睨んでいた僕の背後から、誰かが名を呼んだ。
振り向くと少し息を切らせた懐かしい顔が、にこにこと笑いかけていた。
「ご主人」
僕も知らず知らずのうちに入っていた肩の力を抜いて、彼に笑いかけた。
「お久しぶりです。よくいらっしゃいました」
「こちらこそ、御無沙汰しておりました。今日は突然無理なお願いをして申し訳ありませんでした。よろしくお願いします」
僕は頭を下げた。彼は相変わらず笑みを浮かべ、
「いいえ、こちらから言い出したことですからお気になさらず」
「しかし、よく僕の着く時間がわかりましたね。確かお知らせしていなかったと思うんですが?」
「何となくそんな気がしたんですよ。なかなか勘がいいでしょう?」
彼は少し意味あり気な笑顔で言った。
宿への道は、彼が先に立って進んだ。僕はわかると言ったのだが、彼は頑固に案内すると言い張った。
「宿をやめた時に案内板はすべて取り外してしまいました。もともと少しわかりにくいところに建っていましたので、迷うようなことはなくても時間がかかるでしょう。それに道の方も手入れをしていないのでかなり悪くなっていますし……」
彼の言葉に僕は心の中で首を傾げた。
『手入れをしていない道』?
その意味はすぐにわかった。
前に訪ねた時は看板を見ながら歩いていたから、僕は周りの様子をよく見ていなかったのだろう。
こんなところを入っただろうかと思えるほど細い道は、以前はもう少し広かったと思う。通る人の減少がケモノ道のように細くしたのだろうか。しかもその道すらも覆い隠すように両側から木の枝が張り出している。まるで人の侵入を拒んでいるように見える。
彼はそれを掻き分けるようにして進んで行く。そして彼だけは受け入れている、とでも言うように枝は静かに道を開ける。
僕はそんな背中を見失わないように、なるべくすぐ後ろをついて行った。
木の枝葉でできた厚みのある門を抜けると、ぽっかりと開いた穴の中に『谷の屋』は五年前と同じ姿で建っていた。
「……懐かしいなぁ」
思わず口を突いてそんな言葉が出てきてしまった。前を歩く彼は少し驚いた顔で僕を振り返った。
僕が通されたのは五年前に泊まった部屋だった。
入った正面が一面磨りガラスの窓で、両側が襖で仕切られた六畳の古い作りの部屋。 一気に五年の月日を遡っていた。