第一章 滅びゆくもの 4
大学を出ると、そのまま駅へ向かった。
改札をくぐり、ホームへ出る。ほどなくして目的の列車が滑り込んできた。
乗り込んだ車内は、ラッシュが過ぎていて空席が目立つ。乗り換える必要はあるが、目的地まではまだまだある。僕は空いている座席に座ると、旅行鞄を隣に置いた。鉢植えをしっかり持ち直すと顔を窓の外へ向けた。
これから僕がしようとしている事は、樹枝との約束を破ることだ。今朝の夢はそんな僕の罪悪感が見せた、都合の良い言い訳にすぎないという事はわかっている。それでも僕はあそこへ行かなければいけないのだ。それが彼女から未来を託された僕の義務だと思うから。
それから二度ばかり列車を乗り換えた。
たいして重量がないと思っていたのに、鉢を持つ手が重くなってくる。それでも僕は鞄を手から離しても、鉢を離すことはなかった。お金は確かに必要だったけれど、それはなくしてもまた手に入れることができる。でも『これ』は代わりになるものがない。僕にとって命の次――いや、命よりも大事かもしれない。
列車は乗り換える度に少しづつ込んで来た。枝を傷つけないように気を張って乗客から庇うようにして持っていたので、ずっと鉢を抱えていた左腕はそろそろ限界に来ていた。だから最後の乗り換えで、何とか座席を確保した僕は安堵の溜め息をついた。
車内はかなり込み合っていた。
僕は旅行鞄を足元に置いて、膝の上に置いた鉢を掌で包み込むようにして持った。それから周りに視線を巡らせた。
乗客のほとんどは、カメラを持った人々と、いかにも学者然とした人々で占められていた。彼らは訳知り顔で、近くの者と談笑している。
みんなあの記事につられてきたのだろう、謎を解くのは自分だといいたげな自信満々の顔をしている。
ご苦労様――僕は少しばかりの嘲りを含んで、心の中で労った。そのすぐ後で、僕もその一人だと気づいて、思わず苦笑した。最も彼らとは意味が違うけれど……。
レールの継ぎ目を通ったのか、列車が少し揺れた。その揺れに同調して、手の中で植木鉢の木の枝も揺れた。
僕は鉢を抱える手に少し力を込めた。
やがて列車は減速し、目的地が近いことを告げる。それに伴い、車内が急に慌ただしくなる。
目的の駅はただの田舎の一駅にすぎないから停車時間が短い。のんびりしていると降りそびれてしまう、と乗客たちは我先にと扉の方へ移動しようとする。
僕はそんな彼らを観察するように座席に座り続けていた。
こういう田舎の駅は、停車時間は短いけれどその代わりかなり融通が利く。
つまり駆け込んでくる者の目の前でドアが閉まる、なんてことは滅多にない。逆にこっちに向かって走ってくるのが判ると、乗り込むまで待っていてくれたりする。
だから今だって、まだ降りてくる人がいるのに、時間だからとドアを閉じたりはしないということを僕は知っている。
それに、片手に旅行鞄を持ちもう片方の手には鉢植えを抱えた僕では、急に列車が揺れたりするととても危ない。咄嗟に手すりに捕まろうにも、捕まる手が空いていないのだから。完全に止まるまでじっと座っているのが一番安全だ。
列車がホームにすべり込む。アナウンスが駅名を告げ、そして大きく車体を揺らして列車は停止した。それを確認してから、ようやく僕は座席から立ち上がった。
我先に外へ出ようとする人たちの最後尾について、ゆっくりと進む。僕がドアへ辿り着くよりも早く、発車を知らせるベルが鳴り出した。人々の動きに焦りが加わる。
しかしベルは思ったとおり、一番最後になった僕が完全に降りてしまうまで鳴り止まなかった。
田舎の小さな駅の狭いホームは、吐き出された大勢の人間でとても込み合っていた。僕は人の邪魔にならないようにホームの端にある柱まで行くと、鞄を足元に置いて人が少なくなるのを待った。
ベルの音が止むと、大きく身震いして列車が動き出す。
その姿が視界から完全に消えてしまうころになると、帰省ラッシュのインターチェンジ並みに人が溢れていた改札も、ようやくスムーズに流れるようになった。僕は足元の鞄に手を伸ばし、ようやく足を踏み出した。
改札待ちの列の最後尾に着く。手前でいったん鞄を下に置いて切符を出す。汗で滑りそうになる鉢を抱え直す。人の良さそうな駅員の挨拶に会釈を返し、旅行鞄を持って改札を抜けた。
駅前は五年前とさして変わっていなかった。しかし、受け取る空気が心なしかひんやりして活気がないような気がする。
店の並びには変化が無いように思える。いくつかは店先を改装したらしく華やかな色合いになっている。現に今、列車から降りた人達の中にも道の反対側にある店に入ってなにかを買おうとしている人がいる。なのにあの頃よりも寂しくなっているような気がする。なぜだろう?
僕は探すともなしにその理由を探した。
そして気づいた。街路樹の勢いがない、ということに。
五年前は鬱陶しいほどに葉を繁らせていた道端の樹木が、息も絶え絶えにようやく葉をつけている。あの時感じた大地から沸き上がるような『生気』が、まったくといっていいほど感じられない、それが判った。
(――何故?)
どうしてそうなったのか、どうしてそれが僕にわかったのか――二つの疑問が同時に脳裏に浮かんだ。そして同時に答もわかってしまった。
『生気』が消えたのは《杉》が枯れたから。
僕が感じ取ることができたのは、手の中にあるもののおかげ……。
複雑な想いで、僕は腕の中の鉢植えを見詰めた。小さな樹は、まるで僕の心に応えるかのように、微かに枝を震わせていた。
平日の路線バスは空いていた。
同じ列車で来た人々はここのことをよく知らないだろうから、迎えの車やタクシーを利用するだろうとの僕の読みは当たったようだ。バスの中は、僕の他にはいかにも地元民の老人が四人、ぽつんぽつんと座席に座っている。
田舎の路線バスは朝夕のラッシュ時を除いては、乗客がほとんどいない。そのため運行間隔が長く、一時間から二時間に一本ということがざらにある。極端になると、朝夕一本づつということすらある。それでも大抵は列車の時間と連動させてあるので、そんなに待たなくてもよくなっていることが多い。僕は以前ここへ来た時にそのことを聞いた。
バスの揺れに身を任せながら僕は、そんな他愛のないことを嬉しそうに話してくれた『元・宿屋の主人』の顔を思い出していた。
話し好きで嫌味じゃない質の世話好きで人の良さそうな彼にとって、『宿屋の主人』は天職だと僕は思ったし本人もそう言っていた。なのにその天職をなぜやめてしまったのだろうか?
僕は、昨夜宿の相談と現地の様子を訊ねるために彼に電話を掛けた時のことを思い返していた。