第一章 滅びゆくもの 2
彼女たちの名を呼びながら屋敷の外へ出た僕は、いくらも行かないうちに背後で微かに名を呼ぶ声を聞いた。振り返ると、屋敷を取り巻く巨大杉の蔭から樹枝の白い顔とほっそりとした姿が見えた。
「樹枝!」
僕は彼女の側へ駆け寄った。見上げてくる寂しげな顔に胸が締めつけられた。
思いきり抱きしめた。彼女の髪に顔を埋めると、あの時と同じ緑の匂いがした。
樹枝は抵抗しなかった。されるがままになっている。
そっと唇を重ねた。冷たい、陶器のような感触。彼女特有の暖かさはない。
もう一度きつく抱きしめた。今にも消えてしまいそうな彼女がちゃんといることを確認したかった。
僕の胸に顔を埋めた彼女が、囁くように言った。
「あの子、元気?」
「え? ……あ、ああ。元気だよ」
一瞬、言葉の意味を捕まえられなくて戸惑ってから僕は答えた。
「逢いたい? 連れてこようか?」
樹枝は顔を伏せると、静かに首を横に振った。
「もう間に合わないから……」
「樹枝!」
『諦め』を含んだ終わりの言葉に恐怖を覚えて、僕は彼女の言葉を遮った。けれど彼女は、そんな僕の思いすら否定するように小さく首を横に振った。
「私が他の女達より幸せなのは、あなたに逢えたこととあの子を残せたこと……」
微かに微笑みながら、樹枝が僕を見上げた。凪いだ水面のように静かな、すべてを悟り切った聖者のような表情だった。そこに哀しみが浮かんだ。
「……あの子も私達みたいに、一生をかけて叶わない夢を待つのかしら? もしそうなら、私は自分ができなかったことをあの子に押しつけることになるのだわ。だとしたら、あの子も可哀想ね……」
自嘲気味に少し笑った。
「そんなことはない、叶わない夢だなんて……そんな風に考えちゃいけない。いつかきっと叶う、必ず君たちの想いは僕達に届くから。そう信じて。僕も協力するってあの時言っただろう?」
無駄とわかっていても何とか力づけたい、絶望のまま終わりを迎えさせたくない――そんな僕の気持ちがわかったのか、樹枝は嬉しそうな顔になった。
「そうね、いつか叶う日が来るかもしれないわね。……ねえ、お願いがあるの」
「何?」
「あの子のこと……」
縋りつくような瞳で、樹枝は僕を見上げた。
「あなたにできるかぎりでいいの、無理は言わないから。あなたにできる間だけあの子をお願い。私の最後の我が儘よ、本当にこれで最後だから」
「勿論だよ。君の娘だ。僕の一生分面倒を見る、安心していいよ」
僕は彼女を力一杯抱きしめた。
不意に樹枝の感覚が消え、僕の両腕は空を抱いた。
「……樹枝?」
空っぽになった自分の腕を呆然と見つめ、それからのろのろと視線を上げた。いつの間にか僕は白い霧の中に一人きりで立ち竦んでいた。
今まで僕の後ろにあったはずの屋敷はなくなって、屋敷を取り巻いていた杉林だけが残っていた。急に寂しさを身に感じた。
「……ありがとう……」
杉林を吹き抜ける風の声に混じって、微かに彼女の声が聞こえたような気がした。儚い蛍火よりももっと儚い樹枝の笑みが見えた気がした。
「樹枝!」
僕は彼女を呼んだ。しかしもう風の音以外、何も聞こえなかった。
僕は彼女の名前を呼びながら、霧の中を捜し回った。視界の利かない霧の中で、自分の所在に対する不安はなかった。ただ彼女の気配を感じられない焦燥感だけがあった。
「樹枝……!」
彼女を呼ぶ声が虚しく空回りする。僕が彼女を捜す声は、霧に吸い込まれて辺りに響くことはなかった。
急に強い風が吹いて、僕は思わず目を閉じた。
再び目を開いた時、辺りの風景は一変していた。
すっかり霧は晴れ、周囲にあったはずの杉林がなくなっていた。遮るものの何一つない広い空き地に一人で立ち尽くしている僕を、眩しい陽光が照らしていた。
あまりの眩しさに、僕は目を覚ました。朝になっていた。
カーテンを引いてない窓からは、容赦なく朝日が入り込んでいる。窓もロックしてないのが見えた。
感情的にならないように行動していたつもりなのに、どうやら知らないうちに興奮して、昨日はカーテンも引かずに眠ってしまったらしい。これは出かける前にもう一度持ち物をチェックした方が良さそうだ。とんでもないものを忘れている可能性がありそうだ。
そんなことを考えながら、上体を起こした。
部屋の中は生まれたての光がキラキラと踊っていた。空気はしっとりと水分を含み、その清涼感は森の中を思わせた。
目覚め切っていない頭でぼんやりと辺りを見渡していた僕は、部屋の中に露が下りているに気がついた。畳の上や布団の上、テーブルの上に出しっぱなしにしたままの書類の上、旅行鞄は言うに及ばず、僕の髪までしっとりと濡れ、それが朝日を受けて虹色に輝いていた。
綺麗だな――そんな風に思いながら部屋の中を見回していた視線が、窓際で止まった。
おそらくは、それがこの朝露の原因だろう。窓ガラス越しに入る日の光を受けて緑の細い葉を煌めかせている、高さ十五センチほどの杉の若木。それは自らが泣いているように、葉先から露を滴らせていた。