第四章 樹霊 4
翌朝僕は、徒歩で『谷の屋』を出発した。主人は北田氏を呼ぶと言ったのだが、予定では今日は最終日になるのだから、心残りの無いようにしたいと断ったのだ。本音はこの山のような植物の巨大化(育ちすぎ?)がどこまで続いているのか――それを確かめてみようと思ったのだ。
しかしこの考えを北田氏や『谷の屋』の主人に言えば、いい顔はしないだろうことは想像できた。彼らはそういう意味で探られるのを、嫌がっているような気がした。それはとりもなおさず、植物の巨大化や渾然とした植相にこの山が何らかの形で関係しているということや、それを彼等が知っているということになる。植物の巨大化の境界線がわかれば、どこまでこの山の影響を受けているのか、その目安になるのではないかと思った。そして影響を与えている『何か』を特定することもできるような気がした。
巨大化の理由や原因がわかったとして、それをどうにかしようとは僕は思っていなかった。恐らく原因がわかれば、それを利用することはできると思う。利用方法によっては、巨額の利益を生むことも(本来より大きくなるのだからいろんなものに応用することでコスト削減ができるとか、生産量が増えるから食糧事情が緩和されるとか)容易く想像できる。でも僕としては単純に原因が知りたいだけで、それを利用して何かしようなんて思っていない。
植物学に限らず、学問というのは企業なり商業なりと結びついて利益を生まないことには何の役にも立たない。まったくの道楽・役立たずだということはわかっているが、そんな人間がいてもいいんじゃないかと僕は思っている。
僕はここへ来た時のことを思い出しながら歩いた。
駅前の植物は目を見張るほどの違いはなかった。バスから降りた時点で巨大化が始まっていたような気がする。
「たしか、『谷の屋』の看板が出ていたところは影響があったよなあ」
ということは、道路が境界線か、それよりも駅寄りかもしれない。山へ行くふりをして道路のほうへ行ってみるか、それとも明日帰る道筋でいっそのこと『谷の屋』の反対側へ行ってみるか――そんなことを考えながら歩いた。
山の入り口の獣道に着いた。今日は少し風が強い。葉擦れの音が木々の囁きに聞こえる。自分でそう思っているからか、それは不気味な感じがした。
「歓迎されていないのかな」
思わず弱気な思いが口をついて出てきた。ざわざわと頭上から落ちてくるような音に、心細さを感じて周りを見回した。そして気づいた。
風の音しか聞こえない。正確には風が揺らす葉擦れの音しか聞こえない。この季節どこでも当たり前に聞こえる蝉の声や、鶯の囀り烏の鳴き声が全く聞こえないのだ。
思い返してみると、北田氏とこの山へ入った時も、『谷の屋』で夜聞こえていたカエルの声や虫の姿を見ていない。蜘蛛の巣すらなかった。この山は、植物以外の生命がないのだろうか? それはいつからいないのだろう。この山ができたころからか、それとも最近のことだろうか?
もしそうだとしたら、風媒花以外の植物は実をつけることができない、子孫を残せないということになる。子孫を残すことができなければ、その分のエネルギーを成長に回すことができる。大きな実を収穫するために果樹の実を間引きしたり、球根に栄養を回す花を摘んだりすることの逆バージョンだ。この山の巨大化は、それも影響しているのだろうか。
考え事をしながら歩いていたら、急に周りが薄暗くなったことに気がついた。日が陰ったのかと思って空を仰いだ。木々の間から青空が見えるはずなのに、それが見えなかった。見上げた木の形も違っている。足元は茶色く細かい針のようなものが積もっていて、足音を吸い込んでいた。踏み出した足の下では、その針が折れる感覚が伝わってくる。
周りを見回すと、それまでの雑多な植相が嘘のように単一の植物になっていた。
まっすぐに伸びた、太さ1.5m位の樹木――あの「杉林」だとすぐにわかった!
一瞬息が止まった。
慌てて振り返ると、どこまでも続く杉の木だけが見えた。そんなに長く歩いていただろうかと思って腕時計を見ると、山へ入ってから1時間ほどしか経っていない。
(俺等はここの水を生では飲まん。山と繋がって、山に呼ばれやすくなるといわれているからな)
北田氏の言葉が頭を過った。――もしかして、呼ばれた?
そう思ったら腹が決まった。ここまで来たなら、いまさらじたばたしても始まらない。どうせ川の水は飲んだし、入りたいと思っていたんだ。杉の精霊とやらに会ってやろうじゃないか!
とはいえ、どこへ行けば杉の精霊とやらに会えるのだろう?
「ま、いいか。取り敢えず真っ直ぐ行ってみよう。うまくいけば杉林を突っ切れるだろう」
できればここから何事もなく脱出できれば、それに越したことはない――そう決心して僕はまっすぐに進んだ。




