第三章 樹霊 3
ずいぶん間が空いてしまいました。理由は生活リズムの変化です――言い訳ですが。
「しかし、何度見てもすごいなあ。どうしてこんな植生になるんだろう」
僕は思わず呟いた。
目の前に広がるのは昨日見た同じのと風景なはずのに、まるで違う場所のようだ。今日は自分のペースで進み見たいところに十分時間をかけているからだろうか、昨日は気付かなかった植物にも目が留まった。
ここにはある程度の季節感はあるのだが、その境界線が非常に曖昧だ。
今の季節ほとんど全ての植物が葉を茂らせている。しかし中にはどう見ても芽吹いたばかりの新緑だったり、明らかに休眠中で葉が一枚もついていない樹があったりしている。しかも山の中なのに湿地を好むヤナギ属が生えている隣に海岸に自生しているハマボウが生えていたり、小笠原諸島固有種のシロテツにしか見えない樹があったりする。北田氏の言うことが本当だとすると、種が風に運ばれてきたか鳥が落としていったか、自然に生えたことになる。ここの気候で南国の植物が成長すること自体が信じられないことなのだ。
気候変化や取り残された可能性を考えてみても、本来の土地よりも大きく成長していること自体が謎だ。
「いろんな処の植物を一か所で観察できるのはありがたいけど、本当にどうしてこうなっているんだろう?」
僕の背丈よりもはるかに高くなっているウツギを見上げて、思わず呟きが漏れる。本当は肩よりも低いはずなのに……。
「よく似た新種ってことは、ないよなあ……。」
一番ありそうで、なさそうな可能性だが、この山全体だと説明しきれない。取り敢えず樹木全体の写真を撮って、葉を採取しておこうと決心する。詳しい分析は大学へ戻ってからすればいい――その時はそう思っていた。しかし、僕の前にもここに来た人達がいて、その人達がこの山について何も発表していないのはなぜなのか、その理由についてぼくは考えようともしていなかった。
昨日北田氏と辿った道を一人で歩き、二人で腰を下ろした場所に今日は一人休んだ。昨日の今日でそんなに変化があるはずがないのに、奇妙な違和感があった。そして昨日も感じた監視されているような視線というか、気配というか、そういうものが空気を通じて感じられた。
昼食は持参してきた携帯食で済ませた。『谷の屋』の主人は用意すると申し出てくれたのだが、僕はそれを断った。理由は二つ。そこまで甘えるのは気が引けるというのが一つ、昨日の様な弁当だったら荷物になると思ったのが一つ。
山歩きは不測の事態に備えるための準備は必要だけれど、必要最小限の荷物にするということも必要だ。誰でも楽しめるハイキングやよく知った場所だったらそんなに危険はないと思うが、初めの場所やよく知らないところは何があるかわからない。両手が塞がっていたり、いざというときに身動きが取れないような大荷物は逆に危険なのだ。
「さて、と」
なんだか首の後ろがチリチリする感じがしてなんだか落ち着かなかったので、休憩もそこそこに僕は立ち上がった。心なしか空気の濃度が濃くなったような気がする。呼吸が苦しくなったというより、肺の中が重くなったような感じだ。
「やっぱり歓迎されてないと思ったほうがいいのかな」
僕は今日これ以上先へ進むことを諦めた。山の中の植相はそこそこ見たが、昨日の行き帰りや今日来るときは北田氏の車に乗っていたので道沿いは観察していない。ちょうどいいので、帰り道の植相を観察することにし下山のために歩き出した。不安があるとしたら、無事に山から下りられるかどうかだった。
しかし幸いそんなに奥のほうへ来ていたわけではなかったので、すぐに上って来た獣道へ出ることができた。
さっそく道端にしゃがみ込んで観察を始めた。この辺りは当然植物は育ちすぎなほど育っている。それは樹木に限ったことではなく、雑草といわれているものですら栽培された野菜並みに育っている。オオバコが手のひら大の葉を茂らせているのには驚いた。本気で別の植物かと思ったくらいだ。
そしてその現象は、山を下りても続いているようだった。目に入る植物すべてが、他所に生えている同じものとは別種に見えるほど巨大だった。この現象は一体どこまで続いているのだろう。
道沿いにスケッチをしたり、写真を撮ったりと観察しながら歩いていたら、思いのほか時間がかかったようだ。見にくいなと思って顔を上げると、周囲が薄暗くなっていた。道の先に『谷の屋』の灯りはまだ見えない。
「やばい、遅くなった!」
僕は慌てて、広げていたノートやデジカメをナップザックに放り込むと駆け出した。
『谷の屋』の主人は、宿の前に出てこっちのほうを覗っていた。息を切らせて走ってきた僕を見て、彼はほっとした顔になった。
「すみ、ません……! 遅く、なって……」
整わない呼吸のまま謝罪の言葉を口にすると、彼は穏やかな口調で労いの言葉をかけてきた。
「無事で何よりです。それより汗を流してきてください、疲れたでしょう。食事の用意はできていますから、上がったれすぐに食べられますよ」
勧められるままに風呂場へ行き、湯船の中で手足を伸ばし大きく息をついた。ことの外緊張していたのか、肩から首にかけてお湯の暖かさがじんわり浸みてくる。
しばらく目を閉じて湯船に浸かっていると、ヒノキの香りが今日見た山の様子を思いださせた。
今まで見たどの山より自由にのびのびと枝葉を伸ばしているような植物たち。本当の姿はこっちのほうだと主張しているようで、人間の思惑や物差しで当てはめるのは間違っていると訴えているようだった。
しかしそれでは何の解決にもならない。少なくとも僕がここへ来たのは、他の所とは違うここの状態の明確な理由を探してのことだ。見たことを見たままに理解することは、なんだか悔しい気持ちがする。だとすれば、どうするのがいいのだろうか?
気がつくと、いつの間にか食事が終わっていた。せっかくの主人の心づくしの料理も、気遣ってくれていただろう話も、何も覚えていなかった。悪いことをしたという罪悪感が心を占め、早々に部屋へ引っ込んだ。
部屋の窓は昨日と同じように開いていた。せせらぎの音が微かに聞こえ、カエルの鳴き声も聞こえる。谷川から吹いてくる風は相も変わらず心地いい。
僕は窓枠に寄り掛かると、対岸の山を見やった。真っ暗で何も見えないけれど、生き生きとした木々があるはずだ。昼間見た風景を頭に思い描きながら、シルエットだけの山を見ていた。
そういえば、夢か現実かわからない杉林の上に架かるオーロラ――あれはいったい何だったんだろう?
取り敢えず、明日もう一度だけ山へ入ると決めると僕は布団の中へ入った。




