第三章 樹霊 2
パソコンがとうとう没になりました。この話を書き出してからパソコン関係のトラブルによく見舞われます。何かあるのかと疑ってしまします。現実には単にパソコンの寿命なんでしょうけどね。新しいパソコンに慣れるまで、もう少しかかりそうです……。
翌朝、前日と同じ時間に北田氏が迎えに来た。
「おはようございます、よろしくお願いします」
車に乗り込む前に挨拶をすると、昨日より無愛想な顔で小さく頷いただけだった。
軽トラは昨日と同じ道を走った。
車内は沈黙に満ちていた。それは前日と違って息苦しいような重い沈黙だった。北田氏はまるで目に見えない壁があってこちらが見えていないように、前を向いて無言で運転していた。僕は横目でそれを見ていたが、決心して声をかけた。
「昨日、『谷の屋』のご主人と何を話したんですか?」
北田氏からの答えはなかった。僕は話しを続けた。
「夕べご主人から帰るように勧められました。僕が川の水を飲んだこと話したんですね。もしかして僕が飲むまで黙っていたのは、僕を試すつもりだったんですか?」
責めるつもりはなく、ただ確認のつもりだった。ハンドルを握る手がピクリと震えた。僕はそれには気付かなかったように、
「『谷の屋』のご主人にも言いましたが、僕はすぐに帰る気はありません。川の水を飲もうが飲むまいが、気の済むまで何度も山へ入ります。その結果、杉林へ迷い込んでしまうかもしれません。でもそれは偶然で、誰かが悪いわけじゃないと思います。だから川のことは関係ないんです」
それでも彼は何も言わなかった。
「昨日も言いましたが、僕はここはいいところだと思います。北田さんや『谷の屋』のご主人のように、土地を愛して大切にしてらっしゃる人がいる、それは何にも勝るものだと思います」
やがて車は昨日と同じ場所に止まった。
僕が礼を言って車を降りようとすると、北田氏は助手席の方に首だけでなく体ごと向けた。
「あんたが気に入らなかったのは事実だ。川の水を飲むのを止めなかったのはそのためだ。外から来た者がわかったような口を利いていると思った。だがあんたは孝介から聞いていた通りの人だった。すまなかった」
北田氏は頭を下げた。
「止めて下さい。僕は謝られるようなことをされた覚えはないです」
僕は慌てて言ったが、北田氏はなかなか頭を上げなかった。しばらくしてから頭を上げるとぽつりと、
「俺は、あんたが羨ましかったのかもしれない」
「え?」
僕が思わず訊き返すと、
「あんたが悪いわけじゃない、それはわかっているつもりなんだが……。俺たちは好き嫌いに拘らず、ここに縛り付けられているところがある。若い者はそれを嫌ってここから離れようとする。俺の息子もそうだ。この山をこのまま先へ譲りたくても、それは難しいかもしれん。あんたが息子だったらと、チラリと思った自分に嫌気がさした。だからあんたが川の水を飲むのを黙って見ていたのは、八つ当たりみたいなもんだ。孝介には俺のそんな考えがわかっていたから昨日文句を言われた。本当にすまなかった」
また頭を下げた。僕は北田氏の言葉が聞き捨てならなかった。
「息子さんはここを嫌ってるんですか? どうして――」
「ここで生きるモノは皆、山の恩恵を受けている。好むと好まざるとに拘らず、だ。それをありがたく思うこともあれば、息苦しく感じることがある。そういうことはあんたも経験があるだろう」
僕は小さく頷いた。北田氏の言わんとしていることはわかる。自分で選んだことなら仕方ないが、有無を言わせず受け入れさせられる善意に反発したくなる――それと同じようなものだろう。
「口煩く言うほどますます嫌がって反発してくる。おそらく俺が死んだら息子は山へは入らんだろう。もしかすると、山を手放すかもしれん。そう思うとなぁ……」
終りの方は独り言のように口の中へ消えて言った。
北田氏が僕に対して好い感情を持てなかったのは、僕が部外者だからだ。何の束縛も受けず、勝手気ままに他所から来て、勝手気ままに立ち去っていく――その場所から動くことのできない者にとって、それは嫉妬と羨望の対象になる。
「あんたが気に病むことじゃない、俺の言ったことは気にせんでくれ」
僕が黙っていることに責任を感じたのか、北田氏はそう言うと僕の肩を一つ叩いて軽トラから降りるように促した。
「俺がいまさら言うことじゃないが、くれぐれも杉林には近づかんようにな」
僕が降りると、最後に助手席側の窓から顔を出し忠告して、彼は車を発進させた。僕はそれに深々とお辞儀をした。
北田氏との今の会話は、僕にとって少々ショックなことだった。これまで会った人達はここに愛着を持っている人達ばかりだったから、住人全てがここを愛していると思っていた。嫌っている人がいるなんて想像もしていなかった。
世の中に善人ばかりいるわけじゃないことはわかっているが、そうあってほしいと望んでいるから無意識に悪いところを見ないようにしていたのと同じだろうか。外から見えていることが全てではなのだと思い知らされた。
「ここが変わるのは個人的にはイヤだな」
ここに対して何の責任もないから無責任にそう呟くと、僕は気を取り直して昨日通ったケモノ道へと足を進めた。




