第三章 樹霊 1
ようやく投稿です。全部やり直しはキツかったです、とくに精神的に立ち直るまでに時間がかかりました。でも何とか年内にあげることができて、ホッとしました。次は来年になります。
それから日が傾きかけるまで、僕は北田氏と一緒に山をあちこち歩き回った。そして改めてこの山の不思議なこところに気が付いた。
『谷の屋』の部屋から見ていた時にも思ったが、いろんな気候帯の植物が混在している。そのどれもが日本の固有種だ。他の山でよく見るような樹が全然目につかないのに、限られた場所にしかないはずの樹が当たり前のように存在していた。しかも普通は同じ種類の樹がかたまって生えているものなのに、ここでは同じ種類の樹が近くに見えない。単独か、疎らにしか生えていない。そして低木高木の差がないほど同じくらいの樹高に成長しているのだ。まるで何か特別な力が働いて、成長をそろえているみたいだ。
ふと、昨夜の夢とも幻とも思える光景が、頭に浮かんだ。
杉林の上に浮かんだオーロラ、それが山全体に降り注ぐ様に拡散していって――あれがこの山の雑多な樹木を均一に成長させている『力』だとしたら……。
そこまで考えて僕は自分の馬鹿げた考えを振り払った。それでは杉林がこの山を管理しているみたいじゃないか。
「おかえりなさい」
宿へ帰りつくと、主人が玄関前まで迎えに来ていた。
「ただ今戻りました。お弁当、おいしかったです。ありがとうございました」
お礼を言いながら空になった重箱を手渡すと、彼はにこにこ笑いながら、
「どうでした、何か参考になりましたか?」
「参考というか、興味深いところだと認識を新たにしました」
「ほう?」
「まるで自然の中にある植物園みたいです。それも日本の固有種ばかりでできた、生きている純粋な日本の植相標本です。どれをとっても、本来の樹はこんな風に成長するんだという見本のようで――」
話しながら僕はここの特異性を再認識した。そうだ、こんな山は他には無い。ここだけだ。その貴重性を人間はもっと認識すべきだ!
山の樹を思い浮かべながら穏やかに話していたつもりだったが、だんだんと興奮してきたのだろう。我に返ると、主人の呆気にとられた顔があった。
「すみません、つい興奮したようで……」
赤面しながら言うと、僕の後ろから北田氏が呆れたように、
「こいつはずっとこんな調子だった。やってられん」
「そうそう、例の杉林を見ました」
話のついでに、なるべくさり気無くそう言った途端、主人の顔が強張った。険しい目付きで北田氏の方を見遣ると、北田氏は肩を竦めて見せただけだった。
「繁みを掻き分けた先にあったんです。想像以上に綺麗でした」
「……藤岡さん」
声に少し咎めるような響きがあった。
「いやぁ、側へ行ってよく見てみたいという衝動を抑えるのが大変でした」
努めて明るく軽い口調で言うと、
「近寄らなかったんですか?」
「ご主人の忠告を思い出して、思い留まりました」
「そう、ですか」
ほっとしたしたように笑顔を見せた。
「それじゃあ疲れたでしょう。風呂は沸いてますから入って下さい。上がられたらすぐ食事にしますから」
主人が僕を促して一緒に宿の中へ入ろうとするのを、北田氏が呼び止めた。
「孝介、ちょっと話があるんだが」
「すみません。先に行っていて下さい」
主人は申し訳なさそうにそう言うと、北田氏の方を向いた。廊下に足を掛けたところで肩越しに少し振り返ると、こちらを見ていた主人と目があった。彼は慌てて視線を戻すと、低い声で話を続けた。どうやら僕が心配をかけるだろうとわざと言わなかった、川の水を飲んだことを北田氏が告げたのだろうと思ったが、敢えて何も気付かないふりをして部屋へ向かった。
言われたとおりに風呂に入って、天井の木目を見ながら考えた。
北田氏から僕が川の水を飲んだことを告げられた彼は、どうするのだろう? 明日からは山へ行くなというのだろうか? そう言われたら僕はどうしたらいいのだろうか? 彼らの目を盗んで入山することは可能だろうか?
そもそも、『山に呼ばれる』とはどういう風になるのだろう? 夢遊病者みたいにフラフラと出歩くのだろうか、それとも拒否することもできずに引っ張られていくような感じだろうか? まあ今の僕なら、あの杉林が見れるなら逆らわずに引っ張られていくだろう。
そんなことを考えていたら、思いのほか長湯をしてしまったらしい。突然入口の戸が開いて主人が顔を出した。びっくりしている僕を見ると、安堵の息をもらして、
「なかなか出てこられないので、湯当たりされたのかと心配しました。食事の用意が出来ていますので、早くおあがり下さい」
「すみません、すぐ出ます」
僕はあわてて湯船から体を引き出した。
浴衣を着て昨日と同じ広間へ行くと、相も変わらず一人分の膳が置いてあった。落ち着かない気持ちで席に着くと、主人がもう一つ膳を運んできた。他に客がいるのかと思っていると、彼は膳の前に座った。
「少しお話があるのでご相伴させていただきますが、よろしいですか?」
「どうぞどうぞ、僕も一人では寂しいですから」
「では失礼します」
食事の始まりは昨夜のよう賑やかではなかったが、主人の心尽くしの食事は美味しかった。魚が一匹丸ごとはいった炊き込みご飯、野菜の煮浸しや鳥肉の冷製、茶碗蒸しなどだった。
「それで話って何ですか?」
僕が尋ねると、主人の箸がピタリと止まった。そのまましばらく動かなかった。やがてひとつ大きく息を吐きだすと、
「宋に聞きましたが、川の水を飲んだのですか?」
「はい、その後で言い伝えを聞きました。川の水を飲むと山に呼ばれるそうですね」
「そう言われてます」
主人は居住まいを正した。
「藤岡さん、夜が明けたらお帰りになった方がいいと思います」
「山に呼ばれるからですか?」
「はい。ここで生まれ育った者でも、山を蔑ろにする者は少なくありません。それなのに、あなたはここをそのまま受け入れてくれた。そんな人は珍しいのです。別の言い方をすれば、貴重なんです。失いたくないのです。だから――」
僕は主人の言葉を遮った。
「離れれば、呼ばれなくなるんですか?」
「おそらく、影響は弱くなると……」
「いつまでですか? 1年ですか? 10年? それとも永遠にですか?」
「……」
「もう二度とここへ来るなと言われるなら、それは無理です」
僕はきっぱり言った。
「ご主人は僕を買い被ってらっしゃいます。僕はそんなに立派な人間じゃない。仮に川の水を飲まなかったとしても、僕はあの山の植相の謎を解くためにまたここへ来ますよ。そうしたら杉林に迷い込んでそのまま帰ってこない可能性もあるでしょう? だから川の水を飲もうが飲むまいが、あまり関係が無いと思います。それより山に呼ばれた人達が具体的にどんな行動をとるのか、ご存知ですか?」
僕が訊ねると、小さく首を振った。
「私も親から聞いただけで、どうなるのか詳しくは知りません。一番最近の話としては、私の祖父が若いころだそうです。本人も特に何も言いわなくて、周りの者が気付くといなくなっていたらしいです。どこを探しても見つからなくて、山に呼ばれたのだろうということになったそうです」
「そうですか……」
ということは、いなくなった人の中には言い伝えを利用してこの村から出て行った人もいる――神隠しじゃない可能性もあるわけだ。
僕が考え込んだのをどう思ったのか、彼は何かを決心したように僕を正面から見た。
「藤岡さんがそこまで決心なさってるのならもう止めはしませんが、黙って出ていくことだけはしないでください。例え山に呼ばれたとしても、一言も言わずにいなくなるようなことはやめて下さい。お願いします」
真剣な面持ちで頭を下げた。
「わかりました。必ず行き先を告げることにします」
そう答えると、ほっとしたように肩の力を抜いた。そして何事もなかったかのように、
「明日は何時頃に出発なさいますか?」
「そうですね……なるべく早い方がいいかな。徒歩だと結構かかりそうだし」
「入口まで宋に遅らせますよ」
「そんな、連日なんて悪いですよ」
「なあに、山の見回りがあいつの仕事です。そのついでですよ、気になさることはありません」
「そうですか? だったらお願いします。本当のことを言うと、結構キツイなと思っていたんです。」
主人は笑いながら、
「わかりました。それで、帰りは何時頃になりますか?」
「それは時間を見て、なるべく暗くならないうちに山を降りるようにします。でも帰りは遅くなるかもしれません」
でも僕がそう言うと、さっと顔を曇らせた。
「できれば道沿いの様子も観察したいので、帰りは歩いてきます。実は昨日ここへ来る途中でも他のところとは成長の度合いが違うようなので、ゆっくり周りを観察したかったんですよ。でも初めての場所でそれをすると、迷う可能性があると思ったので諦めたんです」
彼は心配そうに僕を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。




