第二章 神隠しの森 4
朝食が済んでから、僕は一旦部屋に戻った。部屋の中はもう布団が片付けられて、さっぱりとしていた。窓は全開になっていて、山肌の木々は太陽の移動と共に少し陰影がついていた。眩しいような輝きは見えなかったが、逆に重厚な雰囲気が漂っていた。
それをしばらく眺めていたが、山歩きの準備をしなければいけない事を思い出した。
「許可が出ると仮定して用意をするか。ダメだったらご主人に預かってもらえばいいし……」
ナップザックにノートや筆記用具などを詰め込み、ボストンバッグから出した長靴も一緒に置いた。用意したものを持って部屋を出ると、丁度こちらへ向かってやって来る主人が目に入った。向こうも気付いて、
「よかった。持ち主が着いたので呼びに来たんですよ。そのまますぐに出かけられますか?」
「はい」
主人について行くと、宿の玄関に壮年の男性が立っていた。いかにも山の仕事を生業としているらしく、がっしりとした身体つきにかなり着古した作業服を着て、腰に折り畳みの鋸とロープを付けていた。足には安全靴だろうか、普通の長靴とは違って見えるものを履いていた。
主人がお互いを紹介してくれた。
「こちらはあの山の持ち主で、北田宗平。宗、昨夜話したお客さんの藤岡さん」
僕はなるべく機嫌を損ねないように、丁寧に頭を下げた。
「藤岡です。よろしくお願いします」
「北田だ」
男性は不機嫌そうに僕を上から下まで舐めるように見ると、むっつりと名乗った。そして僕が持っているナップザックに目を止めた。
「その中身は?」
「僕が今までした山歩きで必要だったものです」
言いながら口を開けて、詰めたばかりの中身を取り出して見せた。
中に入っていたのは、ノート、筆記用具、カメラ、軍手、方位磁針、採集箱、ペットボトル、携帯食、傷テープなどの入った小さな薬箱、ゴミ袋、ナイフ、ライター、古新聞、タオルなどだった。
「これは?」
北田氏は、採集箱を指差して言った。
「採取したものを入れる箱です。すぐに枯れてしまうものは新聞やノートに直接挟みますが、木の実や樹皮など落ち着いてからゆっくり仕分けしたりします」
「ライターやナイフは何に使うんだ?」
「ナイフは採取する時に使います。手で折るよりきれいに採れますし、その後防腐剤なんかを塗る時に楽ですから。ライターは非常事態用です。もし道に迷ったり遭難した時に、火をおこしたり狼煙を上げたりするのに使う予定です。幸い今まで使った事はありませんけど」
「採取する度に、防腐剤なんか塗っとるのか」
北田氏は驚いたように言った。
「時々です。木によっては切ったところか雑菌が入って、腐っていく事もあるので」
僕が薬箱の中から防腐剤の入った容器を取り出すと、宿の主人まで一緒に目を丸くして容器を見詰めた。
「それで、これ、持って行っていいですか?」
中身をザックに戻しながら訊ねると、まだ少し呆然とした顔で、
「あ、ああ。好きにしろ」
僕が荷物を詰め直すのを待って、北田氏は玄関を出ていった。慌てて後を追いかけようとした僕を呼びとめて、宿の主人は荷物を手渡した。
「お昼に宗と一緒に食べて下さい。お弁当です」
僕は驚いて辞退しようとするとそれを制して、
「あいつもそうですが、私も驚いているんですよ。ここまで山の事に気を配ってもらえるとは、思っていなかったんです。失礼ですけど、都会の人だからと見くびっていたんですね。気を悪くしたらすみません」
少し気まずそうに、主人は謝った。僕は思ったより高評価を貰えた事に逆に驚いた。
「いえ、気にはしません。それが当たり前だと思いますから。僕のゼミの教授はかなりこういう事には厳しい人で、学生には『植物を研究対象としてだけ見るな、教えを請うつもりで見ろ』というのが口癖なんです。それにどんなに成績が良くても、その教授からのお許しが出ないと、フィールドワークに出かけられないんです」
「つまり、藤岡さんは許可を貰えるほど精通していると」
「精通だなんて、そんな事はありません。毎回山に入る度に自分の無知を自覚するばかりですよ」
「いやいや、なかなか見上げた心構えですよ。こっちの方こそ見習わないと」
僕は心の底からそう思っているのに、主人は謙遜していると取ったようだった。
実際いろんな所へ行っているが、最初の頃は山の持ち主や同行していた先輩から何度も怒鳴られたし、遭難しかけた事も何度かある。その度に装備するものが増えたり減ったりして、今の量に落ち着いたのだ。
宿の前で車のクラクションがした。
「あ、宗の奴が来たようです。お気を付けて行ってらっしゃい」
主人に送り出されて玄関を出ると、目の前に軽トラが止まっていた。荷台には青いビニールシートが掛けてあったが、何も積んでいないらしく平らだった。
僕はこの軽トラが、この宿に来るために辿った道をどうやって通って来たのか疑問に思った。しかし、どうやらその考えは間違っている事がすぐにわかった。トラックの進行方向に、舗装はされていないが車一台楽に通れるほどの道があった。しかも宿の陰に宿の名前入りのワゴン車まであった。ここへ着いた時、僕はようやく着いた宿の方しか目に入っていなかったようで、そこに道があった事にまるで気付かなかった。
でもよく考えれば、いくら宿泊客が少なくても食材や日用品は必要だし、それらを買い出しに行ったり、客を迎えに行ったりする必要がある。そんな事にも気付かないなんてどうかしている。
『谷の屋』の主人の見送りを受けて、僕は北田氏の軽トラで山の麓まで行った。本当はずっと歩いていくだろうと思っていたので、内心驚いていた事は秘密だ。『谷の屋』の主人は僕の事を見くびっていたと言ったが、事この場所に関して辺鄙な所だと見くびっていたのは僕も同じだ。未開地とまでは言わないけれど、コンビニも無いような開発から取り残された田舎で、失礼だが昭和中頃ぐらいかもしれないと少なからず考えていた。
「うちの山はここからだ」
北田氏は車を止めてそう言った。確かに車が通れるほどの道はここで途切れているが、目の前には人一人が通れるほどの獣道が延びていた。僕はもっと奥の方だと思っていたので少し面食らった。
北田氏は車を降りるとその獣道を歩き出した。僕は慌ててナップザックを肩にかけて車を降りると、北田氏の後を追い掛けようとして忘れものに気付いて取りに戻り、車が施錠されてないかったので驚いて訊ねた。
「車に鍵、掛けないんですか?」
「キーは取ってある。中に盗られて困るようなものは無い。それより、それはなんだ?」
彼はむっつりとした顔で答えたが、僕の荷物が増えている事に気付くと訊ねてきた。
「お昼の弁当だそうです」
宿の主人から渡された包みを持ちあげて見せると、少し目元を緩ませて、
「マメな奴だ」
ぼそりと言った。




