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レイチェルが怒りに任せて正餐の間から飛び出して三日。
その噂はあっという間に城内に広まり、レイチェルはますます部屋に閉じこもるようになってしまっていた。
あの翌日、また眠れない夜を過ごして冷静になったレイチェルは、きっと何かお咎めがあるはずだと、ビクビクしながら自室で通達を待っていた。
しかし、何もない。
夜になって体調不良を理由に晩餐の席に着くことは断った。
次の日には気分転換にと勇気を出して中庭へ散歩に出かけようとしたものの、城内の人達からの冷たい視線が怖かった。そして、あちらこちらで交わされるひそひそとした話し声。
あの時の決意もむなしく、レイチェルは部屋へと逃げ帰ってしまったのだ。
それ以来、部屋からは出ていない。
(このまま私は……また部屋に閉じこもって暮らしていくのかしら……)
無心になるには刺繍が一番。
だからブライトンの王宮でも、いつも部屋で刺繍をしていた。それなのに、モンテルオに来てから、――いや、フェリクスとの結婚が決まってから、ハンカチ一枚の刺繍も仕上がらない。気がつけば手が止まり、ぼんやりしている。
今もレイチェルの膝の上には従妹のマリベルに贈ろうとしていたハンカチが広がったまま。
そこへ、王からの言伝を携えた使者が部屋へと訪れた。フェリクスの側近、ロバートだ。
レイチェルは背筋を伸ばして立ち、ロバートを迎えた。
いよいよ処分が下されるのだろうとドキドキしながらも、平静を装って待つ。
しかし――。
「明日の正午過ぎ、ブライトン王国からの援軍が城に到着予定です。王妃陛下におかれましては、正面広場にて、国王陛下とご一緒にブライトンの将軍並びに使者の方々をお出迎えして頂きます。陛下からは、そのおつもりでご準備していらっしゃるように、とのこと。以上でございます」
レイチェルは無意識に頷いて了承を伝え、ロバートを帰した。
それから倒れるように椅子に座りこむ。きっと声が出せていたのなら大声で笑っていただろう。実際、レイチェルの顔には笑みが浮かんでいた。あまりの馬鹿馬鹿しさに。
(処罰なんてされるわけがなかったんだわ……)
レイチェルはブライトンから援軍を得るための花嫁なのだ。だがそれだけ。
モンテルオがこの危機を乗り越えれば、きっとレイチェルは完全に忘れ去られてしまうのだろう。
大きく息を吐き出したレイチェルは、心配そうなドナ達ににっこり笑ってみせた。
『明日は、とびきり綺麗にしてね』
「ええ、もちろんでございますとも! いったいどの将軍がいらっしゃるのでしょうね?」
ドナがほっとして、いつもより明るい声で答える。
侍女達もどのドレスにするか、髪型はどうするかなど相談を始めた。ブライトンの将軍達だけでなく、モンテルオの者達に改めてレイチェルの美しさを見せつける機会だと思ったらしい。
侍女達には昨日、真実を打ち明けている。
やはりずっと側にいたので、薄々は気付いていたようだ。普段のレイチェルと噂の高慢な王女との違いに戸惑っていたこともあり、すぐに納得してくれ、今まで以上の忠誠を誓ってくれた。
(私はとても恵まれているわ……)
声が出せなくても、周囲が冷たくても、レイチェルのことを心から大切に思い、慕ってくれる人達がいる。
信頼できる者を得難い地位にあって、それはとても幸せなことだろう。
侍女達の楽しそうなおしゃべりを背に、レイチェルが窓際へと歩み寄ると、小鳥達が気付いて飛んでくる。
窓を開けたレイチェルは満面の笑みを浮かべた。
『レイチェル様、とても楽しそう』
『何かいいことあったの? 何があったの?』
おしゃべりな小鳥達に答えようとした時、まるでレイチェルの気持を表したかのような笑い声が聞こえてきた。
そちらに思わず目をやれば、フェリクスとアリシアが腕を組んで中庭を歩いている。
フェリクスが何事かを言うと、大げさなほどにアリシアがまた笑い声を上げた。
小鳥達にも劣らぬその美しい声はレイチェルの心に突き刺さる。
『王妃様、どうしたの?』
『大丈夫?』
急に変わったレイチェルの様子に小鳥達が心配する。
レイチェルは笑顔を作ると首を振った。
『大丈夫よ。心配してくれて、ありがとう。ちょっと用事を思い出してしまって……。だから、またね』
どうにか言い繕い、笑顔のまま窓を閉めようとした時、視線を感じて手を止めた。
フェリクスに見られている。
途端にレイチェルの笑顔が凍りつく。
アリシアがフェリクスの視線を追おうと振り向きかけ、レイチェルは慌てて窓を閉め部屋へと下がった。
* * *
翌日の昼下がり、物見の塔に詰めていた兵が、ブライトン軍の旗を街道の先に見つけ、にわかに城内は騒がしくなった。
城下に入って来るのは使者と将軍以下数名、物資を積んだ荷馬車、それに伴う人員だけで、ほとんどのブライトン兵は街の外で野営をすることになっているらしい。
それが常識なのかどうなのか、そのあたりのことはレイチェルにはよくわからないが、とにかくモンテルオの王妃として、ブライトン軍を歓待しなければならない。
レイチェルは正面広場に出ると、フェリクスの隣に並んで緊張しながら待った。もちろん、会話はない。
しばらくして見えてきたブライトン軍旗、そして馬に乗って堂々と入って来た先頭の人物に、レイチェルは驚いた。
(まさか、来てくれるなんて……)
背後に控えたクライブも驚いているようだ。
陽の光に照らされて、燃えるように赤い髪を揺らす彼は、レイチェルの秘密を知っている数少ない人物だった。
サイクス侯エリオット・マクミラン――レイチェルの従兄であり、クライブの親友だ。
嬉しさに頬を紅潮させたレイチェルは、エリオットから目を離せなかった。
どうやら彼の甘い顔立ちは、モンテルオの貴婦人達の心も掴んだようで、女性達の視線も集中している。
その中で馬を下りたエリオットと将軍達は毅然とした姿で広場を歩み、フェリクスとレイチェルの数歩前まで来ると膝をつき頭を下げた。
そこからは長々とした儀礼的なやり取りが続く。
そして――。
「レイチェル王妃陛下、お久しぶりでございます。こうして再びレイチェル様にお会いしたいがために、使者に立つことを図々しくも願い出てしまいました」
エリオットが改めてレイチェルの前に膝をつき、右手の甲に恭しくキスをする。
芝居がかったその仕草にクライブは呆れ、周囲の者達ははっと息をのんだ。幾人かは思わず声を上げている。
レイチェルが、笑ったのだ。
声こそ出さなかったが、嬉しそうに満面の笑みで。
まるで春の女神が地上に現れたかのように、その笑みは温かく美しい。
「こうしてまた、美しく微笑むレイチェル様にまみえることができて、これほど幸せなことがありましょうか。本当に……良かった」
エリオットもにこやかに微笑み返して言葉を継ぐと、立ち上がって一歩後ろに下がった。
「王妃陛下には、国王陛下からのお手紙を預かっております。また私の母や妹など個人的にも幾つかの預かり物がございますので、のちほどお届けに参ります」
そう言い終えて、エリオットはちらりとクライブに目をやり、すぐにレイチェルを見つめてまた微笑んだ。
そして深々と頭を下げる。
レイチェルはその後もブライトンの将軍達から挨拶を受けたが、微笑みを消すことはなかった。