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正餐の間は、とてもひっそりとしていた。
その中でレイチェルはゆうに三十人は座れる長いテーブルの端に座り、反対側にある空席を見つめていた。
食器は用意されているが、肝心の主がいない。
きらきらと銀器が光にきらめく中、今夜もレイチェルは一人で食事をするのだろう。もういっそのこと、朝食や昼食のように自室で夜も食事をとりたい。
しかし、その願いを言うこともできないレイチェルの口から小さなため息が洩れる。
結婚式の翌日、晩餐はフェリクスと一緒だと聞かされた時には、かなり狼狽した。
それが正餐の間へ案内され、用意された席を見て困惑に変わった。
広い室内に並んだ長く大きなテーブルの端と端にそれぞれ食器が用意されていたのだ。
これでは声を出せたとしてもまともに会話もできない。筆談も当然できない。
手紙をいつ渡すべきかと悩んだものの、余計な心配はいらなかった。フェリクスは現れなかったのだから。
二日目も、三日目も、四日目も。そして五日目――。
「遅くなって、すまない」
再び洩れそうになるため息を堪えて唇をかみしめた時、入口の扉が開いて足早にフェリクスが入って来た。
まさか、という思いでレイチェルはフェリクスを見つめたが、どうやら現実らしい。途端に室内が慌ただしくなり、活気を帯びる。
五日目にしてやっと、フェリクスが晩餐の席に現れたのだ。
これが二日目だったのならレイチェルも嬉しかっただろう。あるいは三日目だったら。もしくは昨日でも。
だが今夜は、フェリクスの顔を見るのもつらかった。
どうしてもあの笑顔を思い出してしまうから。たった今、こうして無感動な表情で見つめられていても。
「……食べようか」
その一言であっという間に温かいスープが運ばれてくる。
それから次々に料理が運ばれ、二人は黙々と食事を続けた。しかし、せっかくの温かく美味しい料理もレイチェルの喉を通らない。
(私……また間違えたんだわ……)
先ほどのわずかな沈黙、あれはレイチェルの反応を待っていたのだ。
それなのにレイチェルは目を逸らしてしまった。ほんの少しでも微笑めていれば、違ったのかもしれないのに。
(でも、手紙は部屋に置いてきてしまったし、ドナに説明してもらうわけにもいかないもの)
まさか晩餐にフェリクスが現れるとは思っていなかった。もう諦めていた。
だから手紙は机の抽斗に仕舞ってしまったのだ。
「――今日、アンセルムとアリシアに会ったらしいな」
ほとんど手が付けられることのなかったお皿が下げられ、デザートが運ばれてきた時、フェリクスがようやく口を開いた。
驚いたレイチェルが顔を上げると、まっすぐな視線とぶつかる。
「……アンセルムは真面目すぎるきらいがあるが、悪いやつじゃない。頭も切れるし、父親のシャルロ共々よく働いてくれる。幼い時からずっと側にいたから、私にとっては家族同然の大切な存在でもある」
レイチェルはどこか窺うような表情のフェリクスを見つめ返し、小さく頷いた。
新鮮なフルーツが添えられたアイスクリームは美味しそうで、これならもう少し食べられるかもと思っていたのに。
すっかり食欲が失せてしまったレイチェルは、そっとスプーンを置いた。
この話がどこへ向かうのかわからない。
じっとフェリクスの端正な顔から目を逸らさないまま、レイチェルは膝の上のナプキンをぎゅっと握りしめた。
「先ほどアリシアは……泣いていた。王妃にとても冷たくされ、邪険に追い払われてしまったと……」
冷たいのはいつものことだが、邪険に追い払ってはない。
意味がわからず眉を寄せたレイチェルを見て、フェリクスは顔をしかめた。
こんなに距離があっては、言葉を持っていたとしても伝わりそうにない。
「アリシアは少々生意気だし、我が儘なところもある。だが、根は素直だし、明るく一緒にいて楽しい相手だと思う。だから――」
続くフェリクスの言葉を遮って、レイチェルは乱暴にナプキンをテーブルの上に叩きつけた。
その音に驚いて給仕の者や侍従達が動きを止める。背後ではドナが息をのんだ。
しかし、レイチェル自身が一番驚いていた。
こんなに感情をあらわにしたのは生まれて初めてだった。胸がドキドキして頭の中がガンガンしている。
その中でフェリクスだけが冷静に、呆れたように大きくため息を吐いた。
「礼儀だけは守ってくれと言っただろう?」
言葉なんていらない。弁解なんてしない。
レイチェルはいきなり立ち上がると、フェリクスに背を向け出口へと歩き始めた。
急いだりなんてしない。堂々と立ち去ってみせる。
後ろから追って来るフェリクスの視線を痛いほど感じたが、レイチェルが振り向くことはなかった。
ドナも何も言わず、ただ黙って従う。
レイチェルは怒っていた。
伯爵の冷たさに、アリシアの嘘に、そしてフェリクスの無神経さに。
だが何よりも腹が立つのは、自分の意気地のなさだ。
ずっと、母が亡くなったのは自分のせいだと思っていた。
だから声が出なくなったのも、父や家族から冷たくされるのも、罰なのだと受け入れていた。だけどそれは現実から逃げていただけ。
レイチェルの胸の中は不安でいっぱいだったが、とにかくこれからは前向きに生きようと決意する。
(とはいっても、明日には処刑台に立っているかもしれないわね……)
あれだけ大勢の前で、国王に無礼を働いたのだ。このまま牢に繋がれても文句は言えない。
今のところ、兵を差し向けられている気配はないが。
そもそも二人だけの食事の席に、なぜあんなに人がいるのだろう。しかも、その前でレイチェルは注意されたのだ。せめて二人だけの時なら全てを打ち明け、謝罪できたのに。
そう思うとまた腹が立ってきて、レイチェルは部屋に戻ると手ぶりでドナを制し、そのまま寝室に飛び込んだ。
(酷い! 酷すぎる! 何あれ!? あり得ない!)
今まで一度も晩餐の席を一緒にしなかったのに、アリシアに泣きつかれたからと、ようやくフェリクスはレイチェルの前に姿を現したのだ。
さっきのレイチェルの態度より、よっぽど侮辱している。
枕に突っ伏して涙を流し、怒りを発散させていたレイチェルはふと気付いた。
(ひょっとして、陛下が怒って来られるかもしれない……)
離縁するとか、最悪の場合、この婚姻自体を無効にするとか宣告しに、フェリクスはこの部屋に来るかもしれない。
とすれば、涙に濡れた顔を見せるのは悔しい。
レイチェルは勢いよく起き上がると、急いでドナのもとに戻った。
何事もなかったように、先ほどのことなど全く気にしていないと見せかけるために。
そしてドナや侍女達に手伝ってもらい、寝支度を美しく整えたレイチェルは、ゆったりと寝台に横たわった。
だが結局、その夜もフェリクスがレイチェルの寝室を訪れることはなかった。