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その日の昼下がり、窓際に立ったレイチェルは侍女達と一緒になって、昼食で残したパンを小鳥達にあげていた。
小さなくちばしが手のひらを突くのがくすぐったいのか、侍女達はくすくす笑っている。
ブライトンからついて来てくれた二人の侍女達はとても穏やかな性格で、レイチェルも徐々に心を許し始めていた。
そろそろ二人にも本当のことを打ち明けるべきだろう。
ドナ達に一度相談してみようと決心して振り返ると、クライブはもう一人の護衛騎士と何事かを話していた。
かすかに波打つ彼の黒髪につい目を引かれ、じっと見つめるレイチェルの視線に気付いてクライブが顔を上げる。
表情だけでどうしたのかと問う彼に何でもないと応えようとした時、ドナの案内で先触れの使者が訪れた。
夕刻前に、宰相補佐であるバイヨル伯爵が挨拶に来るらしい。
今朝の話はドナにも言っておらず、レイチェルは一人憂鬱な気分で午後を過ごした。
そして時間になり、訪れたバイヨル伯爵は一人ではなかった。
「王妃陛下、お初にお目にかかります。宰相補佐をしております、バイヨル伯アンセルム・ベルモンドでございます。遅くなりましたが、この度は誠におめでとうございます。王妃陛下におかれましては、モンテルオとブライトンの明るい未来のため、すばらしい懸け橋となって下さることでしょう」
涼やかな声音で挨拶と祝辞を述べた伯爵は深々と頭を下げると、少し後ろで膝を折って顔を伏せる女性に目をやった。
「こちらは私の妹でアリシアと申します。王妃陛下とは年も近いので、何かお手伝いさせて頂けることもあるのではと連れて参りました」
やはりという気持ちでレイチェルは伯爵の妹に視線を向けた。
アリシアは今朝フェリクスと一緒にいた女性であり、あの噂の女性でもあるのだ。
金色の巻き毛に縁取られたアリシアの愛らしい顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。だが、菫色の瞳には挑戦的な光がきらめいていた。
「アリシア・ベルモンドと申します。どうぞアリシアとお呼び下さいませ」
美しい声に親しみが込められた挨拶。
だがレイチェルは小さく頷いただけ。
その態度にアリシア付きの侍女は顔をしかめたが、ドナ達はさらに顔をしかめていた。
結婚への祝辞も何もない挨拶に、女の勘ですぐにアリシアを敵認定したらしい。
「では私はこれで失礼いたしますが、アリシアはまだ時間がありますので、よろしければこの国のことや城内のことなど、何でもお尋ねになって下さい。この城で育ったようなものですからね、詳しいですよ」
アリシアと同じ菫色の瞳を冷たくきらめかせて、伯爵は去って行った。愛らしい微笑みを浮かべた妹を残して。
仕方なく、レイチェルは応接用に据えられたソファを勧めるしかなかった。
アリシアは当然のように座る。上座に着かないのが不思議なくらいだ。
穏やかなはずの侍女の一人が憤然とした様子でお茶の用意に向かう。
そして、扇子を持ったレイチェルがゆっくり腰を下ろすと、待ってましたとばかりにアリシアは口を開いた。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありませんでした。祖母の体調が思わしくなくて、領地に母と兄とで戻っておりましたの。幸い、順調に回復しておりますので、ご心配には及びませんが、陛下からはとても温かなお気遣いを頂いて……。父のシャルロにはもうお会いになっていらっしゃるでしょう? 父は引退しても陛下の相談役としてお側におりますので、ブライトン王へのご挨拶にも同行しておりましたから」
一気に捲し立てるアリシアの言葉を静かに聞きながら、レイチェルは彼女の言うシャルロを思い出していた。
おそらく、フェリクスと初めて顔を合わせたブライトンでの歓迎舞踏会で挨拶に来たベルトラン侯爵のことだろう。確か、シャルロ・ベルモンドと名乗っていたはずだ。
(そういえば、菫色の瞳をしていたわ……)
ぼんやりと考えているレイチェルにはかまわず、アリシアはなおも続ける。
王妃があまり話さないことを聞いているのだろう。相槌がないことを気にした様子はない。
「私は父の立場上、兄が申しましたようにこの城で育ったも同然ですの。ですから、クロディーヌ様ともとても親しくさせて頂いていたのですが……。クロディーヌ様のこともご存じでしょう?」
優越に微笑むアリシアを真っ直ぐ見つめながら、レイチェルは当然だという顔で頷いた。今朝、噂で知ったばかりだが。
アリシアは少しむっとした様子で目を細める。
「クロディーヌ様には本当の妹のように可愛がって頂いていたのです。きっと陛下とご結婚なされたあとも、それは変わらなかったでしょうね。ですから私、クロディーヌ様の思い出をこれからも大切にしていこうと思っておりますの。……ところで、陛下の弟君のリュシアン殿下とパトリス殿下にはお会いになられました? お二人はサクリネとの国境付近とバイレモ地方に駐屯する軍をそれぞれ率いていらっしゃるのですけど……?」
フェリクスの婚約者だったというクロディーヌのことはかなり気になる。だが今はひとまず目の前のアリシアを相手にしなければ。
次々とフェリクスの近親者をあげていく彼女の子供っぽさに呆れながらも、レイチェルは扇を開いて口元を隠した。
ドナへの合図だ。
このくらいならドナの判断で応えてくれるはずと、耳を近づけてきたドナに対して手ぶりでは何も伝えなかった。
ドナはさも了解したという仕草で頷き、体を起こす。
「お二人には結婚式に先立って、丁寧なお手紙と素晴らしい贈り物を頂いたので、王妃様はとても喜んでいらっしゃいます。ご興味がおありでしたら贈り物をお見せして差し上げると、王妃様はおっしゃっておられますが?」
「いいえ、結構です」
何を言っても動じない、微笑みもしない、ただ冷やかに自分を見つめるレイチェルに、アリシアは苛立っている。
しばらく続いた重たい沈黙の中で、二人お茶を飲んでいると、アリシアが唐突にカップを置いた。
やっと帰るか、とレイチェルは期待したが甘かったようだ。アリシアの顔には意地悪い笑みが浮かんでいた。
「リュシアン殿下とパトリス殿下は、陛下とはそれぞれお母君は違いますけど、ご兄弟の仲は本当によろしいのですのよ。きっと、お母君の皆様がとても仲がよろしかったからでしょうねえ。陛下のお母君でいらっしゃる王妃様はお優しくて寛大な方でしたから……」
フェリクスの弟二人は、要の軍をそれぞれ任せられるほどに信頼されているらしいとは、クライブから聞いていた。
しかし、皆の母親が違うと知らなかったレイチェルは内心で動揺していた。
国王が愛妾を持つなどよくあることなのに、なぜ自分がこれほどうろたえてしまうのかがわからない。
レイチェルの父母であるブライトン国王夫妻は、覚えているだけでもとても仲が良かった。だからこそ、母が亡くなった時、父はレイチェルに対し心を閉ざしてしまったのだ。
目に見えない傷がまた広がっていく。
冷静な態度の下で苦しむレイチェルに、アリシアはとどめの言葉を放った。
「国王が愛妾を持つことは、どこの国でも常識。そのことも当然ご存じですわよね? 私、今朝陛下にお会いしてお願い致しましたの。陛下はずっと私をお側に置いて下さっていたのですもの。もちろんこの先も変わらないとお約束して下さいましたわ。ですので、これからどうぞよろしくお願い致します」
軽く頭を下げると、アリシアは呆然とするレイチェル達を残して出て行ってしまった。
まだ退室の許可も出していないというのに。
「なんと無礼な!」
「思い上がりも甚だしいですわ!」
ドナや侍女達が憤然として声を上げる。
だがレイチェルはぼんやりと、カップに残ったお茶を見つめていた。
その実、頭の中には今朝目にした光景――アリシアに向けられたフェリクスの笑顔が浮かんで離れなかった。




