5
ぱたんと扉が閉まる音がどこかで聞こえ、レイチェルはビクリと肩を揺らした。
部屋で一人になったものの、このまま眠るわけにはいかず、先ほどから室内をうろうろと歩きまわっている。
披露宴を退席してからどれくらい時間が経ったのだろう。
レイチェルの神経は張り詰め、わずかな物音にも反応してしまっていた。
(本当に陛下はこの部屋にいらっしゃるのかしら? でももうずいぶん遅いし……)
窓から夜空を見上げれば、月はすでに山向こうに隠れてしまっている。
あれほどフェリクスは怒っていたのだから、やはり今夜は来ないかもしれない。
そう思うと、なぜかほっとするより落ち込んでしまった。
ドナが言うには、花嫁の義務とはとても幸せなことらしい。初めはビックリするかもしれないが、陛下にお任せしておけば大丈夫とも。
しかし、ドナは早くに夫を亡くしてしまったが、とても仲の良い夫婦だった。全てにおいて信頼し合い、愛し合っていたのだ。
(やっぱり……お怒りを覚悟で打ち明けるべきかしら……)
今夜はもうフェリクスは来ないだろう。
朝までにはまだ時間がある。だからそれまでにきちんと考えよう。
レイチェルは深くため息をつくと、カーテンを閉めて窓辺から離れた。
「――まだ起きていたのか」
いきなり声をかけられて、レイチェルははっと振り向いた。
考え事に夢中になっていたせいか、フェリクスが扉を開けたことに全く気付かなかったのだ。どうやら先ほどの扉が閉まる音は、彼が隣の自室に戻ったものだったらしい。
まだ結論が出ていないのに、フェリクスはレイチェルの寝室へと入って来る。
「まあ、起きていたのなら……」
仕方ない――と続きそうなほど気乗りしない様子で呟くと、レイチェルの目の前に立ったフェリクスはすっと手を伸ばしてきた。
大きな手が頬に触れる。
何が何だかわからないまま、うろたえたレイチェルはぎゅっと目をつぶった。
そんな彼女の真っ赤に染まった頬からすべり下りた手が顎をとらえ、何か柔らかなものが唇をふさぐ。
驚いたレイチェルはパッと目を開け、またすぐに閉じた。
鼻と鼻が触れそうなほど、フェリクスの顔が近くにあったのだ。――いや、実際に唇は触れている。
(私……キスされてる!)
これがキスなのだ。
ずっと密かに憧れていた、諦めていた、キス。
しかし、夢に見ていた初めてのキスとは違う、彼女の意思を無視した行為に、レイチェルは怯えた。
(ドナは、陛下にお任せしていればいいって……でも……)
レイチェルはフェリクスの口づけから逃れるように顔を逸らし、きゅっと唇を強く引き結んだ。まるでキスを拒むように、フェリクスを拒むように。
だがそうではない、ただ怖かったのだ。
昔――声を失ったばかりの頃、どうにか声を出そうと色々努力した。そして無理に息を吐き出した時、喉の奥から酷くしわがれた耳障りな音が鳴ったのだ。
それは何度繰り返しても同じで、醜い獣の鳴き声のようだった。
このままキスを続けられたら、あの醜い音が喉の奥から吐き出されてしまう。
そのことが強引なキスよりも、そのあとに続くであろう義務よりも怖かったのだ。
「それほどに……私を拒むんだな」
独り言のような静かな言葉は、怒鳴られるよりもつらかった。
また失敗をしてしまったのだ。
レイチェルは慌てて首を横に振ったが、フェリクスは更なる拒絶だと思ったようだった。
一歩、二歩と下がり、踵を返す。
立ち去るフェリクスを呼び止めることができない。
もう何度、彼の背中をこうして見送っただろう。
誤解なのに、それを正せない。声が出せない、勇気が出せない。
音もなく閉じられた扉を、レイチェルは立ちすくんだまま見ていた。
* * *
初めての夜から五日後、フェリクスとすれ違いの日々を過ごしていたレイチェルは決心した。
このまま会えない日々が続くなら、自分から会いに行こうと。
結婚式の翌日、一人で眠れぬ朝を迎えたレイチェルは手紙を書いたのだ。
全てを打ち明け謝罪した手紙を。できるだけ簡潔に、丁寧にと、何度も書き直した。
それが渡す機会もないまま。
この五日間、城内を案内してもらっている時以外はほとんど部屋に籠っていたせいもある。
礼儀を守るようにとフェリクスに言われたレイチェルは、話すことはできなくても少しくらい微笑めばいいのではないかと、笑おうとしたのだ。
だが笑えなかった。
ドナやクライブの前では自然に笑えるのに、人前ではどうしても緊張して顔がこわばってしまう。
それで人前に出ることが怖くなってしまった。
(……でも、このままじゃダメ)
決心が鈍らないうちにと、レイチェルは部屋を出た。
ドナがいるとつい頼ってしまいそうで付き添いは断り、鍛練中のクライブに代わって別の護衛騎士を供にして。
補足説明ができるようにと、携帯用の石板とろう石も持っている。
朝食の後のこの時間帯、フェリクスは比較的ゆっくり過ごしていると側近のロバートが言っていた。
それでももし忙しそうなら手紙だけ預ければいい。
そう思ったものの、一歩一歩前へと進みながら、もう後悔していた。
(やっぱり、きちんと先触れを出した方がよかったかも……)
今日は特別の用事が入って留守だったら、それどころか手紙の受け取りを拒否されたら。
悪い考えばかりが頭の中に浮かんでくる。
手紙と石板を両腕でぎゅっと胸に抱え直した時、朗らかな笑い声が聞こえてレイチェルは足を止めた。
レイチェルがずっと憧れていたような、女性の綺麗な声。
いったいどんな人だろうと、主棟へと繋がる回廊の先をそっと窺う。
そしてはっと息をのんだレイチェルは、慌てて柱の陰に隠れた。
自分の見たものが信じられない。だが、かすかに聞こえてくる低い声が事実だと伝えている。
フェリクスが笑っていたのだ。とても嬉しそうに。
金色の巻き毛の可愛らしい女性に向けて。
陽の光を浴びた二人は、まるで一枚の絵のようだった。
美しい鈴の音のような笑い声がまた聞こえてくる。
胸が苦しくなって、ぎゅっと目を閉じ、すぐに開いたレイチェルは、少し離れた位置で控えている騎士の怪訝そうな表情に気付いた。
とりあえずここから離れなければ。
どうにか落ち着きを取り戻し、今通ってきたばかりの廊下を再び歩き始める。
「……お忘れ物ですか?」
遠慮がちに問いかけてくる騎士に頷いて答えたものの、レイチェルはまっすぐ部屋に戻ることをためらった。
おそらく今、ドナに顔を見られれば心配をかけてしまう。
結局レイチェルは、先ほどとは違う廊下を進んだ。
(確かこちらにはバラ園があったはず……)
数日前にこの辺りを案内してもらった時、美しいバラが咲き誇っている小さな庭園があった。
そちらに足を向けたレイチェルに、騎士はもう何も言わず黙って従う。
バラ園はとても芳しい香りに満ちていた。
レイチェルはほっと息を吐き、しばらく美しいバラとその香りを楽しんだ。
そして、そろそろ部屋へ戻ろうと考えた時――。
「……がお兄様のバイヨル伯爵と戻られたそうね」
「ええ、さっそく今日から登城されてるみたい」
「おばあさまのお加減が思わしくなくて、領地に戻られていたんでしょう? その間に陛下がご結婚なされるなんて思ってもみなかったでしょうねえ」
「本当にねえ。婚約者だったクロディーヌ様がお亡くなりになってからずっと、気落ちしていた陛下のおそばでお慰めし、支えていらっしゃったんですもの」
レイチェルの頭上、城の二階にある開かれた窓から聞こえてきたのは、若い女性数人の噂話。
聞きたくない、聞いてはダメだと思うのに、レイチェルの足はその場から動けなかった。
「――でも実のところ、あの方はクロディーヌ様の後釜を狙っていらっしゃったんだと思うわ」
「あら、そんなことみんな気付いていたわよ」
「それが結局、ぽっと出の王女様に奪われてしまったわけよね」
「まあ、あの沈黙の女神様からなら、奪い返すのも簡単じゃない?」
「そうよねえ。王妃陛下は輝く月の光のように美しいなんて言われているけれど、冷たくて温かみがないってことよねえ……」
「しかも、月の女神様はすぐに拗ねて雲隠れするのよね?」
くすくすと笑う女性達の声は楽しげに弾んでいる。
美しいバラに癒され少しだけ元気を取り戻した心が、先ほど以上に重く沈んでいく。
どこにもレイチェルの居場所がない。
レイチェルはまるで逃げるように、唯一の避難場所――自室へと足早に戻って行った。




