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「レイチェル……」
耳元で囁かれる低くかすれた声に、レイチェルの口から甘い吐息が洩れる。
もし自分が声を出せていたならどうなっていただろうと、不安になるほど息苦しく切ない時間。
温かく心地よいフェリクスの腕の中で、レイチェルは幸せに微睡んだ。
フェリクスが領館に現れてから四日、二人は毎晩朝まで一緒に眠っていた。
「――あの夜、本当はずっとあなたを抱きしめていたかった。だが、怖かったんだ。目覚めたあなたが、もし私を見て恐れたらと。私は強引にあなたを奪ったのだから……」
最初の夜にその告白を聞いたレイチェルは、何度も首を振って応えた。
昼間の否定だけでは、フェリクスにちゃんと伝わらなかったらしい。
やはり、二人には話し合いがたくさん必要なのだ。
すんなりとはいかなくても、少しずつでも自分の気持ちを伝えようと、レイチェルはフェリクスを見上げ微笑んだ。
『私は、嬉しかったです』
ゆっくり唇を動かすと、読み取ったフェリクスはぎゅっとレイチェルを抱きしめた。
そして、後悔の滲む声で告げたのだ。
「レイチェル、私は朝まであなたと一緒に過ごしたい。もうあの朝のような思いはしたくない。あなたが熱を出したと聞いた時にはどれほど後悔したか。しかし、その症状を聞いて肝を冷やした。確かにあれは強い毒だったが、私が移してしまったことで影響が出るとは思いもよらなかったんだ。しかし、疑問も湧いた。普通、王家の人間は毒に耐性をつけているものではないかと……」
フェリクスはかすかに眉を寄せ、すぐに自分を落ちつけるように深く息を吐き出した。
「そこでようやく気付いた。毒に耐性を持たない者が、毒を扱うわけがないと。それでは、今までのことも誤解だったのではないか、あなたはただ利用されていただけではないかと思うようになった。だが、謝罪したくても話し合いたくても、あなたは回復せず、私はそのままバイレモへ発つしかなかった。本当に……つらい思いをさせて、すまなかった」
その謝罪に、レイチェルは驚いた。
ひょっとして、自分がまだ知らない何かがあったのではないかと不安にもなった。
レイチェルが毒のことを知ったのは偶然だったのだから。
妊娠がわかった時に、ドナとクライブの話を立ち聞いてしまったのだ。
お腹の子に毒の影響はないはずだと、医師に聞いて安堵したとドナは涙ぐんでいた。
そこで知った事実にようやくレイチェルは気付いた。
突然のフェリクスの怒り、ハンナが姿を消した本当の理由に。
「レイチェル、私達にはまだたくさんの問題が残っている。だが、二人でなら必ず乗り越えられる。だからもう、一人で抱え込まないでくれ」
レイチェルの不安を感じ取ったフェリクスからの力強い言葉。
大きく頷いて、レイチェルが約束したこの夜から、二人はできるだけ一緒に過ごした。
ゆっくりと丁寧に言葉を紡いで、お互いに誤解していたことをほどいていく。
しかし、ロバートが到着してからは、フェリクスも忙しくなってしまった。
フェリクスはロバートの早い到着にぶつぶつと文句を言い、レイチェルはその意外な姿に笑った。
明日には弟王子のパトリスが賊に荒らされた山々の復旧などについて報告がてら、レイチェルに会いに来る。
少し緊張はするが、フェリクスがいるから大丈夫と信じて、レイチェルは深い眠りについた。
* * *
「レイチェル、これが下の弟のパトリスだ。パトリス、こちらが妃のレイチェルだ」
「……どうも」
「……」
「……」
フェリクスに紹介されたレイチェルは、微笑みながら軽く膝を折って挨拶をした。
だが、パトリスはそっけなく返事をしただけ。
続く沈黙に耐えられなくなったのか、ロバートが明るい声を上げた。
「あ、あの! 今日はお天気が良いですよね! 殿下、ここまでの行程は順調でしたか?」
「……それなりに」
「……」
「……」
「で、殿下はお疲れですよね? このまま立っていらっしゃるのも何ですから、あちらでお茶でも……」
「……必要ない」
「……」
「……」
ロバートの努力空しく、冷え冷えとした空気が流れる中、フェリクスは大きくため息を吐いた。
しばらく様子を見ていたのだが、レイチェルをこれ以上不安にさせるわけにはいかないと微笑みかける。
それから無愛想極まりない弟に提案した。
「パトリス、厩舎に行かないか? 美人がいるから、王妃に紹介してもらうといい」
「行きます」
「レイチェルも乗馬するわけではないから、着替えなくてもいいだろう?」
問われて、レイチェルはかすかにためらったが、頷いて了承した。
フェリクスの端正な顔が悪戯っぽく輝いているのに断れるわけがない。
パトリスとの対面に備えてベティ達が張り切って着飾ってくれた自分の姿を見下ろし、ちょっとだけ苦笑して、フェリクスの腕をとる。
みんなには後で謝罪しようと決め、ゆっくりと無言で厩舎まで歩いて向かった。
「――本当だ。すごい美人だ」
『あら、美人だなんて、そんな……それほどでもあるわよ』
シンディを目にしたパトリスの第一声にレイチェルは驚いたが、シンディはご機嫌で応えている。
その様子に、フェリクスが小さく笑った。
「あいつがどういう奴か、ここに連れて来た方が手っ取り早くわかると思ったんだ」
楽しそうに言うフェリクスに、レイチェルも微笑んだ。
優しくシンディに話しかける姿も、厩舎の他の馬達の反応からも、パトリスのことがわかる。
「それに、シンディを見れば、あいつもあなたのことをわかるはずだ。会話はできなくても、あいつは馬のことはよくわかっているから」
レイチェルの背中にそっと手を添えて、フェリクスは厩舎の外へと連れ出した。
そして、木陰にあるベンチまで導き、一緒に腰かける。
「あいつは馬と話し始めると長い」
呟いて、ロバートからグラスを受け取り、レイチェルに差し出す。
いつの間に用意していたのか、グラスの中は冷たいミントティーで満たされていた。
今日は少し汗ばむほどの陽気だったので、爽やかな味が口の中に広がると、とても気持ち良い。
喉を潤してほっとしたレイチェルは、しばらく心地良い沈黙を楽しみながら、考えにふけった。
パトリスに会って納得したことがある。
どうしてリュシアンもアリシアも、ほとんど反応のない相手――レイチェルに対してあれほど喋り続けられるのだろうと不思議だったのだ。
その謎が解けたようで、おかしさに頬が緩む。
そこに、何か考え込んでいたフェリクスが、唐突に口を開いた。
「私達兄弟三人の母親が、それぞれ違うことは知っているだろうか?」
ぼんやりしていたレイチェルは何度か瞬いた。
どうにか頭をはっきりさせ、フェリクスを見上げて頷く。
「母達は表面上は親しくしていたが、内実は酷いものだった。私の母はそれでも正妃という自負があったので、他の二人よりはまだ良かったのだろうが……」
今まで耳にしていた話と違うことに戸惑いながらも、レイチェルは静かに聞いていた。
フェリクスには嫌な思い出なのか、顔をしかめている。
「まあ、それでも私達三人は、祖母の計らいで幸い仲良く過ごすことができた。例え……いや、とにかくパトリスはそのせいか、女性に対して否定的なところがあるんだ。元々人間に対しては無口なんだが、どうか気を悪くしないでほしい」
気遣うように微笑むフェリクスの眼差しは温かい。
応えて、レイチェルも微笑み返すと、フェリクスがぼそりと呟く。
「……ずっと以前に、私は妃一人を大切にしようと誓った。だが、そんな誓いも必要なかったようだ」
フェリクスは穏やかな笑みから真剣な表情に変えて、レイチェルの手を握りしめ、まっすぐに空色の瞳を見つめた。
「レイチェル、どうか私の妃として、私と一緒に城に帰ってほしい」
思いがけないフェリクスの言葉に、レイチェルは小さく息をのんだ。
もちろん王城には帰るつもりだった。
だが、こうして改めて求められると、体の奥から震えるような喜びが湧いてくる。
レイチェルもまたフェリクスの手を握り返すと、はい、とはっきり唇を動かした。
今はまだ、少し気後れのする場所だけれど、フェリクスと一緒ならばきっと素晴らしい居場所になるだろう。
そのためにも待つだけではダメなのだ。
レイチェルは強い決意を胸に秘め、眩しいほどの笑みを浮かべた。




