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――人が恋に落ちる瞬間というものを初めて目にしました。
リュシアンがシャルロから届いた手紙の一文を読んだ時には、何かの冗談かと思った。
だが後に続く文章を読み進めるうちに本気だということがわかり、深刻な内容にも関わらず、リュシアンは声に出して笑っていた。
――残念なことに、目撃者は私だけではなかったようです。
ブライトン側が新たに追加してきた条件の裏には必ず何かあるのでしょう。
しかしながら、双方の立場については陛下も十分に理解していらっしゃいますので、心配はしておりません。むしろそれが枷となり、お二人の歩み寄りが難しくなるのではと危惧しております。
何しろ、陛下は義務に縛られるあまり、ご自身のお心については無頓着になっておられるようですから。
彼の姫君が噂通りの冷たい方なら、陛下には苦しみをもたらすだけになるかもしれません。ですが、油断はできずとも、私は今後を見守りたいと思います。
この手紙を受け取っていたからこそ、リュシアンはアンセルムの要請に応えて王城に戻ったのだ。
予定ではサクリネとの交渉にシャルロが加わり次第、リュシアンは軍を密かに率いてバイレモ高原の後方へ向かうはずだった。
エスクーム軍の裏をかくために、サクリネとの交渉は難航し、再び争いに発展するかもしれないとの噂を国内外に流していたからだ。
軍の指揮を副官に任せ、城に戻ったせいでフェリクスに無責任だと叱責はされたが、代わりに面白いものを見ることができた。
リュシアンが王妃の部屋に通うごとに、フェリクスの機嫌が悪くなっていったのだ。
初めは王妃の悪評を広めるためのつもりだったが、本人にはしっかり気付かれていたらしい。
その上で、黙ってリュシアンのくだらないお喋りに付き合っていたのだから、確かに油断ならない相手だと思った。ただの甘やかされた王女様ではないようだと。
「にしても、参ったよな~」
主が留守の執務室でソファに寝そべったまま、リュシアンがぼやいた。
それを聞いたロバートが仕事をしながらため息を吐く。
「殿下、お暇ならご自分のお部屋に帰られてはどうですか?」
「いやだよ。帰ったら仕事しなけりゃならないじゃないか」
「仕事して下さい」
きっぱり言い切ったロバートに背中を向け、リュシアンは子供のようにクッションを抱きしめた。
そして、またぼやく。
「なんだよ、ちょっと兄上に置いて行かれたからって、俺に当たるなよな。乗馬が下手くそな自分が悪いんじゃないか」
「下手くそなのではありません。並みの腕ですよ。ただ、お急ぎになる陛下には足手まといとなってしまいますから。この仕事を終えたら後を追います。それよりも、むしろ殿下が置いて行かれたと、拗ねているんじゃないですか」
ロバートはリュシアンの乳兄弟のため、二人きりの時には遠慮がない。
リュシアンはわざとらしくため息をついて起き上がった。
「俺が一緒に行ったら、噂が治まらないだろ。あぁ、こんなことになるなら、調子に乗って兄上をからかうんじゃなかった」
「自業自得どころか、陛下と王妃様にまでご迷惑をおかけしているのですから、最低ですね。ですが、私は噂よりもアンセルムさんのことが心配です」
冷やかにリュシアンを非難したロバートは、数日前の出来事を思い出して顔を曇らせた。
アンセルムがフェリクスに異を唱えるなど今までになかったことだ。
「あいつは馬鹿がつくほど真面目な上に、思い込みが激しいからな。王としての兄上を信奉するあまり、人間臭い兄上を見たくないんだよ。まあ、兄上があそこまではっきりおっしゃったんだ。牽制にはなっただろ」
言いながら、リュシアンはカップに残っていたお茶を一口飲み、顔をしかめた。
すっかり冷めていて美味しくない。
いつもはよく気が付き、文句を言いながらも世話を焼いてくれるロバートは、リュシアンの言葉に驚き青ざめている。
「まさか、アンセルムさんもさすがにそこまでは……」
「さあ、どうだかな。ただ当分はあいつも、アリシアにかかりっきりになるだろうし、それまでにお二人の仲がしっかり固まれば大丈夫だろ。シャルロも戻ってくるだろうし。それよりもロバート、お前早く兄上の後を追った方がいいんじゃないか?」
諦めてカップを置いたリュシアンは立ち上がり、眉間にしわを寄せている ロバートの額を小突いた。
「聞いているのか? このままいけば、恐らく王妃様はパトリスと対面なされることになるぞ」
「……何か問題でもあるのですか?」
「少し考えればわかるだろ? パトリスだぞ?」
一瞬の間をおいて、ロバートがはっと気付くと、リュシアンは呆れたように小さく首を振った。
そして、扉へと向かう。
「まあ、せいぜい頑張ってくれ。じゃあ、俺はご婦人方とお茶でも飲んでくるよ」
「ええ? 仕事して下さいよ!」
「ばーか。俺の失策で招いた事態に始末つけてくるんだよ」
にやりと笑って、リュシアンは出て行く。
その後ろ姿を見送ったロバートは、こうしてはいられないとばかりに猛烈な勢いで仕事にとりかかった。
* * *
ちゅんちゅんと賑やかに小鳥達がおしゃべりする中、レイチェルは呆然としてフェリクスを見上げていた。
本当に、嬉しいと言ってくれたのだろうか。
自分の願いが幻聴を引き起こしたのではないかと思っているうちに、フェリクスは気まずそうに再び口を開いた。
「ずいぶん身勝手だと自分でも思う。だが、私はあなたとの子がほしい」
レイチェルは何と返せばいいかわからず、ただ涙を溢れさせた。
たとえ声が出せていても、きっと何も言えなかっただろう。
夢に見た通りのフェリクスの言葉はとても嬉しい。
だけど、心配でたまらない。
そんなレイチェルの気持ちを察したのか、フェリクスは安心させるように微笑んだ。
「もし、あなたが私の身を案じているのなら、心配はいらない。王というのは何かしらの災難に遭うものだ。しかし、私は今までも無事に乗り切ってきたし、これからも乗り越えてみせる。それよりも、私はあなたが心配だ」
次々と流れるレイチェルの涙を、フェリクスは親指で何度も優しくぬぐう。
そして、小さく首を傾げたレイチェルからふと目を逸らし、また青灰色の瞳を真っ直ぐに向けた。
「その……それで、子ができたというのは本当だろうか?」
改めて問われ、レイチェルははっきりと頷いた。
すると、フェリクスはほっとしたような、困ったような複雑な表情を浮かべる。
「それでも……あなたはかまわないだろうか? つらい思いをしているのなら――」
言いかけたフェリクスを遮り、レイチェルは頬に触れる大きな手を握りしめると、しっかり目を合わせて微笑んだ。
言葉はなくても、自分がお腹の子の存在をどれほど喜んでいるかを伝えたかったのだ。
その笑みをじっと見つめ、フェリクスもまた微笑んだ。
「ありがとう、レイチェル」
少しかすれた、低い声で囁いたフェリクスは、そっとレイチェルを抱き寄せた。
しかし、そこで二人は窓へと視線を移した。
窓の外に見える木々の枝には、たくさんの鳥達がとまっている。
その全てが二人の行く末を心配して見守っているようだった。
『仲直りできたみたい』
『うんうん。よかったね!』
『じゃあ、二人はこれからキスするのかな?』
『キスって何?』
『くちとくちをひっつけるのよ』
『え? 何か美味しいものを分けっこするの?』
『そうよ。〝アイ″を分けっこするのよ』
『へ~。ボクも食べてみたいな~』
レイチェルは鳥達の会話を聞いて、真っ赤になった。
その様子を見て、フェリクスが笑う。
「あなたの力は便利なようで、色々と大変そうだな」
フェリクスの朗らかな笑い声を聞いているうちに、レイチェルも楽しくなって笑った。
これからたくさんの苦労が待っていることはわかっている。
それでも、レイチェルの心は幸せな気持ちでいっぱいだった。




