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沈黙の女神  作者: もり
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 昼下がりの日射しが差し込む部屋の中で、レイチェルは書物机に向かい、手紙を書いていた。

 しかし、どうしても筆が進まない。

 王城に戻って、今度こそ何があっても手紙を渡そうと筆をとったものの、何と書けば良いのかわからないのだ。

 このひと月余りずっと悩み続け、やはりフェリクスに全てを打ち明けるべきだとようやく決意できたのは昨日。

 明日には王城に向けて出発するつもりだったが、やはり怖かった。


 喜び迎えてくれることを夢見ても、すぐに現実に戻ってしまう。

 どんなに優しい人物でも、自分の命を脅かす存在をそうそう受け入れられるものではないだろう。

 ブライトン兵達も国へと帰還した今となっては、レイチェルはモンテルオにとってはお荷物なのだ。

 それでもお腹にはフェリクスの子がいる。

 レイチェルは庇うようにお腹に両手を当てた。


 もし、フェリクスが噂を信じてしまっていたら。

 それが一番怖かった。

 これまでの自分の馬鹿な行動も、思えば意趣返しだったのかもしれない。

 そのことについて今さら後悔していても始まらないが、とにかくお腹の子だけは何があっても守ろうと誓い、レイチェルは立ち上がった。

 少し休めば頭も回るかもしれないと、窓際の小鳥達に声をかける。


『今日はみんなとても楽しそうね? 何かいいことでもあったの?』


 応えて、小鳥達は楽しそうに鳴く。


『だって、いよいよなんだもの』

『そうそう、一昨日に噂で聞いてからずっと待ってたんだよね』

『楽しみだよねー』


 朝から入れ替わり立ち替わりやって来る鳥達は、みんなこの調子だ。

 ひょっとして外で何か楽しいことでもあるのだろうかと、レイチェルは窓から外を眺めた。

 だが何もない。

 小鳥達はぴいぴいと笑うだけで、レイチェルは小さなため息を吐いた。

 そこで、ふと領館内の騒がしさに気付く。


(どうしたのかしら……?)


 気になったレイチェルは廊下へ繋がる扉へ足を向け、突然開いた扉にびくりと肩を揺らした。

 そして、はっと息をのむ。

 扉を開けたのは、ここにいるはずのない人物――フェリクスだった。


「レイチェル様……」

「下がっていてくれ」


 心配したドナが廊下側から恐る恐る声をかけたが、フェリクスは低い声で命じて扉を閉めた。

 途端に喧騒が遠のき、室内には小鳥達の浮かれた歌声が大きく聞こえ始める。

 幻ではないのかとまだ信じられないでいるレイチェルに、フェリクスはゆっくりと近づき、あと一歩で触れられる距離で立ち止った。


「その……体調はどうだろうか? もうずいぶん良くなったとは聞いたが……」


 レイチェルが頷くと、フェリクスはほっとし、それから自分を見下ろして顔をしかめた。


「すまない、こんな格好で。ずいぶん埃っぽいが、もしよければこのままでもいいだろうか? もう何者にも邪魔されずに、話をしたいんだ」


 どこか切迫した様子のフェリクスに戸惑い、レイチェルはかすかにためらった。

 それでもまた大きく頷き、何か飲み物を頼もうと、控えの間に向かいかける。

 その細い腕をフェリクスがつかんで止めた。


「いや、何もかまわないでいい。それよりも……」


 言いかけてレイチェルの青ざめた顔を見たフェリクスは、急ぎ付け加える。


「その、あとで……できれば、あなたがお茶でも淹れてくれると嬉しい。だが今は、大切な話があるから座ってくれないか? 立ったままでは体に良くない」


 以前のことを思い出したレイチェルは、知らず顔に出ていたらしい。

 フェリクスに気を使わせてしまったことを申し訳なく思いながら、ソファへと座った。

 向かいに腰を下ろしたフェリクスは、探るように改めてレイチェルを見る。


「以前、手紙にも書いたが、私達は話し合わなければならないことが多い。しかし、その前にはっきりさせておきたいことがある」


 厳しい表情で、フェリクスはきっぱりと告げた。

 何を言われるのだろうか、離縁についてだろうかと不安になりながら、レイチェルは膝の上で両手を握りしめ、覚悟を決めた。

 肝心なことをまだ書けていない手紙は頼りにならないが、すぐそばには石板がある。

 だが、フェリクスの言葉はレイチェルが予想していたものとは違った。


「レイチェル、あなたは……声を持たないのだろう?」


 虚をつかれたように驚きの表情を浮かべるレイチェルを目にして、フェリクスは苦笑を洩らした。

 それから優しげに目を細めて続ける。


「いくら私が鈍くても、それくらいはさすがに気付く。……とは言っても、おかしいと思い始めたのは一緒に遠乗りに行こうとしていた頃からだから、やはり鈍いのだろうな」


 最後は呟くように言ってフェリクスは立ち上がると、常に用意されているピッチャーに手を伸ばし、グラスに水を注いだ。

 それを一気に飲み干してから、心配に顔を曇らせているレイチェルに向けて、安心させるように微笑んだ。

 途端にレイチェルの頬が赤く染まる。


「知りたいことが多すぎて気にはなるが、それもあとでいい。もう一つ、大切なことがあるんだ」


 フェリクスはグラスを置くと、レイチェルの座るソファまで歩み寄り、膝をついた。

 慌ててレイチェルもソファから下りようとしたが、座面についた右手に大きな手が重ねられて動きを止める。


「レイチェル、私はあなたが好きだ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 だが、じわりと沁みてくるにつれて体が震え、心が震える。

 レイチェルは何か言おうと口を開き、今さら何も言えないことを思い出して、左手で口を覆った。


「初めから素直に認めれば良かったんだ。一目見た瞬間から、あなたに心を奪われていたことを。それなのに、噂に惑わされ疑心を抱き、自分の直感を信じられず、むしろ意固地になって、あなたに冷たく当たってしまった」


 そこまで言って、フェリクスは一度大きく息を吐き出し、涙に滲む空色の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あの夜のことも、本当にすまなかった。怒りに我を忘れて……だが正直に言えば、怒りはすぐに消えていたんだ。ただ、どうしても抑えられなくて、離れがたくて……言い訳にもならない。あなたは私のせいで――」


 レイチェルはもうそれ以上聞いていられなくて、ソファからすべり下りるようにしてフェリクスに抱きついた。

 あの夜のことは、レイチェルにとっては幸せな時間だったのだ。

 初めは確かに訳がわからず怖かった。

 だけど、荒々しかった手はすぐに優しくなり、まるで夢を見ているように心地良く、レイチェルの心まで包んでくれた。

 結婚式の夜に失敗してから、ずっとずっと願っていたこと。すごくすごく嬉しかったこと。


 フェリクスはレイチェルの震える体にそっと手を伸ばして抱き寄せた。

 埃と汗のにおいが少しする腕の中は、やっぱり温かくて心地良い。


 意固地になっていたというならレイチェルもだ。

 初めは嫌われてもいいと言いながら、本当は好きになってほしかった。

 どんどん惹かれていきながら何も伝えず、ただ気付いてくれることを待っていた。

 今もこうしてフェリクスからの気持ちを受け入れただけで、自分からは何もしていない。


 レイチェルは勇気を出して顔を上げた。

 声を持たなくても、気持ちを伝えることはできるのだから。

 じっとフェリクスを見つめながら、ゆっくりと唇を動かす。


『好き、です』


 ありったけの想いを込めたつもりだったが、フェリクスからの反応はない。

 伝わらなかっただろうかと不安になって、レイチェルが小さく首を傾げると、フェリクスははっとして微笑んだ。


「その……ありがとう、レイチェル。少し、信じられなくて。私はあなたの気持ちに値するようなことを何もしていないのに」


 その言葉に驚き、慌てて否定しようとするレイチェルの淡く色づく頬に触れ、フェリクスは自嘲するように笑った。


「ブライトンの舞踏会で広間に入って来たあなたを目にした時は、噂通りの冷たい王女なのだと思った。だが、私を見て今のように小さく首を傾げた姿はとても頼りなく、それからも時々不安そうな表情を浮かべていたのに、なぜ誰も気付かないのだろうと不思議だった。そのくせ、援助の条件にあなたの輿入れが追加された時には騙されたような気分になって、アクロスを奪われるのだと、勝手に腹を立てたんだ」


 フェリクスは謝罪するようにレイチェルの頬をそっと撫でた。

 それからほんのわずかの時間、二人は黙ったまま見つめ合い、やがてフェリクスがぽつりと呟いた。


「……視線を感じる」


 体を起こしたフェリクスの視線を追って、レイチェルも窓辺へと目を向ける。

 すると、窓際にはあの鷹がとまっていた。


『やあ、王妃。息災なようで何より。今まで何度か王との間を往復したが、もうその必要もないようだな』


 鷹はくくっと笑って首をくいくいと左右に動かした。

 そして、真っ赤になったレイチェルと眉間を寄せたフェリクスを楽しそうに見る。


『我は巣に帰るゆえ、あとは何も遠慮はいらんぞ。ただ王妃よ、場所は移した方が良いのではないか? いつまでも床に座り込んでいては、ややこに良くないであろう。それでは、また都で会おうぞ』


 高らかに告げた鷹は、レイチェルがお礼を言う間もなく、ひゅっと窓から飛び出した。

 すぐにふわりと風に乗り、まるで太陽に向かうように羽ばたいていく。

 レイチェルはフェリクスの手を借りて立ち上がると、姿が見えなくなるまで窓から見送った。


「あの鷹は、まるであなたに話しかけているようだったな」


 しばらくして呟いたフェリクスは、うろたえるレイチェルを見下ろした。

 その眼差しはとても優しい。


「それに、シンディもそうだ。あなたとは目線だけで会話しているようで、初めは不思議だった。馬と心を通い合わせるにしても、普通は声をかけてやるものじゃないかと。それでも、イエールでの動物達の行動を目にしていなければ、手紙に書かれていたことはなかなか信じられなかったと思う。そして今は正直……動物達が羨ましいな」


 冗談とも思えない口調でフェリクスは言うと、急に真剣な表情になってレイチェルの両手を握った。


「レイチェル、もし噂の通り、あなたが子を宿しているのなら、私はとても嬉しい」




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