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「それとも、僕には無理だと思う?」
驚いて呆然とするレイチェルに、エリオットが少しかすれた声で問いを重ねた。
もちろん良い父親になれるに決まっている。
だが、どう返していいのかわからず戸惑うレイチェルを見て、エリオットは吹き出した。
「冗談だよ。だから、そんなに困った顔をしないで」
目尻にうっすら涙を浮かべて笑い続けるエリオットに、レイチェルは腹を立てて握られていた手を振りほどいた。
『酷い! エリオットはやっぱり酷い!』
こんな時にからかうなんてと、レイチェルは怒りをぶつけた。
すると、エリオットは悲しげに笑う。
「うん、そうだよ。僕は酷い奴なんだ。臆病で、卑怯で、大切なものを守ることもできないのに、手放すこともできない」
『……エリオット?』
いつもと様子の違うエリオットに、レイチェルの怒りは急速にしぼんでいった。
考えてみれば、いくら従妹のお見舞いだからといって、国境を越えて突然現れるなんて不自然な気がする。
自分のことばかりだったと後悔して、レイチェルは何があったのか問いかけようとした。
しかし、エリオットはまたにっこり笑って、心配そうに見下ろすレイチェルにそっと手を伸ばした。
「この傷……たくさん血が出て、僕はレイが死んでしまうと思ったよ」
人には滅多に気付かれないが、レイチェルのあごの下には深い傷跡がある。
そこにエリオットが長い指先でいたわるように触れた。
レイチェルには前髪に隠れている額にも、うっすらと傷跡が残っている。
それらは昔、大怪我をした時のものだった。
幼い頃、おてんばだったレイチェルはいつもエリオット達の後をついて回っていた。
しかし年の差があり、思うように遊べなかったエリオットとクライブはある日、レイチェルについて来ないようにと言ったのだ。
それでもついて来るレイチェルを振り切ろうとして、二人は危険な場所を通り抜けた。
そして、ちょっとした勝利を味わっていたところに聞こえた小さな悲鳴。
慌てて戻るとレイチェルが血を流して倒れていたのだ。
あの時の恐怖を、エリオットは今も忘れられないでいた。
急いで助けを呼びに行き、レイチェルの命に別条はないとわかった時にはどれほどほっとしたことか。
だが、大人達に説明を求められた時には、新たな恐怖が湧いてきた。
まともに話すこともできないエリオット達に代わって説明したのは当のレイチェルだ。
――エリオット達にはダメだと言われたのに、我慢できずに一人で危険な場所に行ってしまった、と。
その後、レイチェルからは、我が儘を言ったこと、心配をかけたことを謝罪する手紙が届いた。
たどたどしい文字で書かれたその手紙を見た時には情けなくて恥ずかしくて、エリオットは涙を抑えられなかった。
「――だから僕は誓ったんだ。レイがもう二度とつらい思いをしないように、何があっても守るって。それなのに、結局何もできない。ずっとレイは苦しんでばかりだ」
『どうして? エリオットはいつも私を守ってくれているわ。ブライトン王宮で私が自由に厩舎に出入りできるようになったのは、エリオットが上手く口添えしてくれたからでしょう? 公式行事に出席しないといけない時だって、何度も何度も助けてくれたもの』
懐かしげに微笑むレイチェルを見て、エリオットも微笑んだ。
それからレイチェルの柔らかな頬に残る涙をぬぐい、立ち上がる。
「心配ばかりしていては体に良くないよ。レイはこれから先、自分とお腹の子のことだけを考えてゆっくり過ごすべきだ。お願いだから、ヤギに乗ったり、馬で悪路を駆けたりしないでくれ。いいね?」
『……わかったわ』
落馬したり、飛び乗ったりしたことは言わない方がいいなと、レイチェルはしおらしく頷いた。
しかし、エリオットは怪しむように目を細め、深くため息を吐く。
「間違いなく、その子は強いよ。何せ、長年の沈黙を破って復活したおてんばな女神様が母親なんだからね。さて、それでは気の毒なお守り役のクライブを労ってくるよ。じゃあ、元気でね」
ひらひらと手だけを振るエリオットに向けて、レイチェルは手近にある何かを投げようとした。
だが、残念ながら何もない。
悔しくて地団駄を踏んだレイチェルを残し、エリオットは楽しげに笑って去って行った。
* * *
エスクーム、サクリネ、そしてブライトン。
三国との間の様々な処理に忙殺されているうちに、また十日が過ぎていた。
それなのに、フェリクスはまだレイチェルへの手紙を書けないでいた。
サクリネの提案にかなり悩んだものの、アンセルム達の説得で受け入れることにしてひと段落ついたところに届いたのは、エリオットからのレイチェルを見舞う許可を求めた書状。
許可しないわけにもいかず、フェリクスは苛立った。
そして、その頃から新たに囁かれ始めたレイチェルに関する噂が、フェリクスに行動することをためらわせていた。
「陛下、このまま放置しておいて良いわけがありません」
「……何のことだ?」
「王妃様のことです」
アンセルムの言い様が気に障り、フェリクスは表情を険しくした。
だが、怯むこともなくアンセルムは続ける。
「陛下のお耳にも入っていらっしゃるでしょう? 王妃様がご懐妊なされたらしい、と」
「……」
「で、ですが、噂ですし……もし事実なら、王妃様が直接陛下にお伝えになるはずです。何もおっしゃらないのは……」
不穏な気配を察して、ロバートが口を挟む。だが、上手い言葉がみつからないようだ。
その様子にアンセルムが鼻で笑う。
「王妃様のお心に、やましさがあるからではないでしょうか」
「言い過ぎだ、アンセルム」
いつもはのんびりと構えているリュシアンが鋭い声を出した。
笑いごとではすまされない問題だが、今はまだ噂にすぎない。
「おめでたいことなのに、なぜ正式に発表されないんだ?」
「王妃様は陛下よりも、リュシアン殿下と過ごされる時間の方が多かったそうだが、まさか……?」
「いや、それを言うなら、ご自分の騎士とはかなり親しくなされているそうだぞ」
王妃懐妊の噂が広まり始めるとすぐに、後を追うように流れ始めた悪意ある憶測。
このまま放置すれば、好意的な噂をあっという間に塗り替えてしまうだろう。
「聞いたところによると、先日はアクロスの領館にある中庭で、王妃様はサイクス候と抱き合っていたそうですよ」
「私としては、それを誰から聞いたのかを知りたいな。ご懐妊の噂といい、王妃様の領館には口の軽い信用ならない者がいるようだね?」
青色の瞳を真っ直ぐにアンセルムに向け、リュシアンが問いかける。
アンセルムはそれでもなお、薄い笑みを浮かべていた。
「それを殿下がお知りになって、どうなるのです? 何も状況は変わりませんよ。ただ、その者が嘘を言うことはありません。それだけはお伝えしておきます。ですから、私は――」
「いい加減にしろ、アンセルム。王妃は潔白だ」
力強い声でフェリクスがはっきり言い切ると、アンセルムはようやく口を閉ざした。
ロバートはほっと息を吐いたが、平和な沈黙も一瞬。
感情のまったく見えない冷たい表情でアンセルムは立ち上がった。
「だとしても、どうか王妃様を追放なさって下さい」
「何を馬鹿なことを……」
「そうすれば、モンテルオにとっての懸案事項はかなり減りますし、アクロスは王領に戻ります。ブライトン側が何も言えないよう、不義密通の罪をあげればいいのです」
あまりの訴えにリュシアンとロバートは言葉を失った。
しかし、フェリクスは凄まじい怒りを漲らせて執務机を飛び越え、アンセルムに殴りかかった。
構える間もなく、アンセルムは多くの書類や筆記具と共に床に転がる。
それでも我慢ならず、フェリクスはアンセルムをつかみ上げ、壁に押し付けた。
そこでようやくリュシアンが止めに入ったが、アンセルムは解放されない。
「兄上! お怒りはわかりますが、どうか――」
「リュシアン、放せ! こいつは今、何と言った!?」
「何度でも申します! でなければ、陛下はこの先もずっとお命を狙われ続けてしまいます!」
「それがどうした! そんなものは王妃がいようが、いまいが変わらないだろうが!」
今までにない激しいフェリクスの怒りに、ロバートはおろおろするしかなかった。
そこへ騒ぎを聞きつけて衛兵達が駆けつける。
扉が叩かれ、安否を問う声がかけられた。
「陛下! どうなされました!?」
「ご無事なのですか!? 陛下、お返事を!」
「陛下!」
「―――大事ない! 下がれ!」
応えたフェリクスはどうにか落ち着こうと深く息を吐き出し、それでも怒りを湛えた青灰色の瞳でアンセルムを睨みつけた。
「もし王妃が懐妊しているならば、それは私の子だ。私は王妃も子も、見捨てるつもりは一切ない。この先、何があっても守り抜いてみせる。例え、自分の命に代えても」
「陛下――」
「もう、何も言うな」
フェリクスの言葉にはっと息をのんだリュシアンとロバートと違い、アンセルムは鼻から血を流しながらなおも異を唱えようとした。
だが、いきなり解放されて、激しくせき込む。
フェリクスはリュシアンの腕を振り払い、扉へと向かった。
「……兄上、どちらへ?」
リュシアンの問いに答えることなく、フェリクスは執務室から出て行った。




