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「思ったより、元気そうだね?」
レイチェルが新鮮な空気を吸いに中庭に出て、東屋で小鳥達のおしゃべりを聞いていた時、背後から懐かしい声がかかった。
『エリオット!』
驚き振り向いたレイチェルは、唇だけで名を呼んで立ち上がった。が、急な動きにめまいをおこしてふらつく。
慌てて駆け寄ったエリオットが抱きとめ、支えられてレイチェルは再びベンチに腰を下ろした。
「前言撤回だね。大丈夫かい?」
『ええ、大丈夫。ありがとう。でも驚かせるエリオットが悪いのよ』
「あれ? 僕のせいなの?」
『そうよ。いつもエリオットは私を驚かせるんだから』
心外だという顔をするエリオットに、レイチェルは笑った。
しかし、すぐに笑みを消し、真剣な表情でエリオットを探るように見る。
『私よりも、エリオットは大丈夫なの?』
「うん? 何が?」
『その……エスクーム侵攻で……』
「ああ、僕の失態を聞いたの? それはかっこ悪いな。でも、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。当分の間、登城を禁止されただけだから。それでこうして会いに来たんだ。体調を崩して療養しているって聞いたから、お見舞いにね」
『それなのに驚かすなんて、やっぱり酷いわ』
レイチェルは無理に笑って、膝をつくエリオットの両肩を勢いよく押した。すると、エリオットが尻もちをつく。
「酷いのはどっちだよ」
わざと怒ってエリオットが立ち上がる。そこへドナがやって来た。
「レイチェル様、そろそろお部屋にお戻りに――」
言いかけたドナはエリオットの姿を認め、盛大に顔をしかめた。
「まあ、エリオット様。まさか突然現れて、レイチェル様を驚かせたりなどなさっていらっしゃいませんよね?」
「ドナまでなんて酷いんだ」
白々しく嘆くエリオットに、レイチェルはまた笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりで、心が軽く、気持ちが明るくなっていく。
たとえ、エリオットとクライブにたくさんの隠し事があったとしても、二人は信頼できる。
それは何があっても変わらないことなのだ。
一瞬でも二人を疑ったことを申し訳なく思いながら、レイチェルは昔のままの笑顔をエリオットに向けた。
『部屋でお茶にしましょう。ここの料理人の作る焼き菓子はとっても美味しいのよ』
「……ああ、それは楽しみだな」
眩しそうに目を細めたエリオットは、かすれた声で応えた。
小鳥達はエリオットの登場に、先ほどから嬉しそうに鳴いている。
二人は賑やかに飛びまわる小鳥達に見送られて、館の中へと入って行った。
* * *
「本当にもう大丈夫なのかい? 横になって休んだ方がいいのなら、僕のことは気にしないでいいよ。クライブをからかってくるから」
部屋に戻ってからのエリオットらしい心配の仕方に、レイチェルはまた笑って首を振った。
そばでは侍女のベティが二人のためにお茶を淹れてくれている。
それからレイチェルは叔母やマリベルの近況を楽しく聞いた。
しかし、ベティが部屋を出て行ってからしばらくして、ふと沈黙が落ちる。
どうしたのかと首を傾げたレイチェルに、エリオットは穏やかに問いかけた。
「それで、何を苦しんでいるの?」
突然の問いにレイチェルははっとして、思わず目を逸らした。
だが、エリオットは急かすことなく、黙ってお茶を飲んでいる。
レイチェルはカップの中のお茶をじっと見つめていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
『エリオットは、ハンナのことを知っていたの?』
「――いや、彼女のことは知らなかった」
今度はエリオットがはっとしたが、目を逸らすことなく答えた。
ほっとしたレイチェルの肩から力が抜ける。
『じゃあ、お父様が何を考えて、私をこの国に嫁がせたのかは知っていたのね』
「……はっきりと知らされていたわけじゃないけど、薄々は気付いていたよ」
『そう……』
レイチェルが悲しげに微笑んで応え、また沈黙が落ちる。
二人とも窓辺で戯れる小鳥達を眺めた。
今日は暑いくらいの陽気だったが、開け放たれた窓から入る風はとても気持ちが良い。
静かに流れる時間の中で、全てを先延ばしにしているのはわかっていた。
本当は決断しなければならない。だけど怖くて決められない。
思わず俯いたレイチェルの視界に、赤い髪が映る。
いつの間にか傍に来ていたエリオットは、膝をついてレイチェルの青ざめた顔を覗きこんだ。
「レイ、僕は本気だと言ったよね? もし、レイがつらい思いをしているなら、僕は攫って帰るつもりだって」
エリオットの優しい言葉を聞いて、途端に空色の瞳が涙で曇る。
だが、レイチェルは首を横に振った。
「どうして? 戦争はもう終わったんだ。レイはこの国のために十分なほど力を尽くしたよ。みんなそれをわかってる。だけど、これ以上この国にいても、利用されてつらい思いをするだけかもしれない。それに、こうして療養中だっていうのに、フェリクス国王からは何も――」
『違うの! そうじゃなくて! 私は……』
勢いよく遮ったものの、どう伝えればいいのかわからず、レイチェルは言葉を詰まらせた。
それでもエリオットは黙って待っていてくれる。
レイチェルは一度大きく深呼吸をして、ゆっくりと手を動かし始めた。
『私、自分の立場を何も知ろうともしないで、お父様のおっしゃる通りの行動を続けていたわ。そのくせ、ちょっとばかり反抗してリュシアン殿下と噂が流れるままにしてみたりしたの。馬鹿よね? だけど、陛下はとても辛抱強く、誠実に接して下さったわ。だから本当はこれ以上迷惑をかけないためにも、離れるべきだってわかってるの。でも、離れたくない。私……それがつらくて、苦しくて、どうしたらいいかわからないの』
「その……つらい気持ちはわかるよ」
呟いて、エリオットはわずかに視線を逸らした。
だがすぐに、青ざめ顔を伏せるレイチェルに強い眼差しを向ける。
「レイ、僕は――」
『私、妊娠しているの』
「……え?」
エリオットが何か言いかけていることにも気付かず、レイチェルは顔を上げ、震える両手を動かした。
一度打ち明けてしまうと、一気に感情が溢れ出して止まらない。
『でも、きっとこのままじゃお父様に利用にされてしまう。この子の存在は、今以上に陛下のお命を脅かしてしまうことになるわ。だから私、嬉しいのに喜べなくて、どうしたらいいかわからなくて……怖いの』
「それは……」
『……もちろん、陛下の子よ?』
「わかってるよ! 馬鹿だな! 本当に、……馬鹿だよ」
呆然とした状態から立ち直ったエリオットは、どうにか笑みを浮かべた。
つられて、涙で頬を濡らしたレイチェルもかすかに笑う。
「とにかく……おめでとう、レイ」
穏やかな笑みに変えて、エリオットは優しく言った。
そして、今度こそレイチェルの視線を捉え、華奢な両手を握り締めた。
まるで反論を許さないように。
「その子は祝福されて生まれてくるべきだよ。もちろん、誰にも利用なんてさせない。だから……レイ、一緒にこの国を出よう」
驚きのあまりレイチェルは立ち上がりかけた。
しかし、さらに両手を強く握り、エリオットは続ける。
「もうこれ以上、レイが苦しむ必要はないんだ。クライブやドナも連れて、僕の領地で暮らせばいい。幸い領地はあちこちにあるから、住みやすい地を見つけよう」
レイチェルは再び涙を流しながら何度も首を振った。
このままお腹の子を産めば、父王が今まで以上に強く介入してくるのは避けられない。
だからといって、フェリクスの子を連れて逃げ出すわけにもいかない。
何より、エリオットに全てを負わせるわけにはいかないのだ。
そんなレイチェルの思いに気付いていながら、エリオットはにっこり笑った。
「レイ、僕は良い父親になれると思うよ?」




