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「レイチェル姫、ようこそ我が国、我が城へ」
慌ただしい輿入れ準備に続いた長旅を終えたレイチェルに、出迎えに現れたフェリクスの言葉は、簡潔だが疲れた心に沁みるものだった。
思わず微笑みそうになったものの、冷やかな青灰色の瞳に気付いて持ち上がりかけた唇の端が下がる。
よく見れば、フェリクスの後ろに控えるモンテルオ王城の者達の顔には警戒の色が浮かんでいた。
覚悟はしていたが、あまり歓迎はされてないらしい。
レイチェルがただ小さく頷くと、一瞬その場に沈黙が落ちた。
「……では、長旅でお疲れでしょうから、さっそくお部屋にご案内いたします」
フェリクスの後ろに控えていた身なりのいい若者が進み出て頭を下げる。
それにまた頷いて応えると、フェリクスはそれ以上何も言わず踵を返して去って行ってしまった。
その背を幾人もが追う。
「王女殿下、どうぞこちらへ」
対応を間違えたことはわかっていたが、正解がわからない。
呆然とフェリクスの背を見送っていたレイチェルに、少し焦れた声で若者が促した。
* * *
「こちらでございます。王妃様用のお部屋ではございますが、お式まではあの扉――陛下のお部屋と繋がる扉は鍵が掛ったままでございますので、ご安心ください」
明らかに王妃用とわかる部屋に案内されて戸惑いを見せたレイチェルに、案内の若者――フェリクスの側近の一人であるロバートは嫌味っぽく告げた。
その後は侍女頭に任せて立ち去る。
ロバートや侍女頭の態度から、レイチェルは悪印象を与えてしまったことに気付いていた。
だが、どうしようもない。
(やっぱり、お父様の言いつけを破って……)
もう何度目かわからないその考えを打ち消して、室内をしっかりと見回す。
この部屋に来るまでに見た城内もそうだったが、この部屋も今まで暮らしていたブライトン王宮とさほど変わらなかった。
装飾品が違う程度で、造りは同じようだ。
これならすぐに慣れそうだとほっと息を吐いて、ここまで付いてきてくれたドナとクライブに目を向けた。
他のなじみの侍女達は高齢のため、この輿入れを機会に王宮を辞したので、ここでレイチェルの秘密を知るのはドナとクライブしかいない。
ドナはレイチェル付きの侍女として、クライブは護衛兼侍従として従ってくれている。
『ドナもクライブも疲れていない? もう下がって休んでもいいのよ?』
レイチェルは荷解きやお茶を用意する侍女たちに見られないようにこっそり手ぶりで二人に訊いた。
二人は「とんでもない!」といった表情を一瞬して見せ、小さく首を振った。
声が戻らないと悟った時、レイチェルはドナやクライブと一緒に特別な言葉を考えたのだ。
手や指を使ったレイチェルの言葉を理解できるのは、二人と古参の侍女、そして従兄のエリオット。かなりゆっくり手ぶりで表すと、従妹のマリベルもどうにか読み取ることができる。
侯爵夫人とは筆談だったが、マリベルはレイチェルとクライブのやり取りを見て、自分も覚えたいと言い張り、付き合わされたエリオットの方が早々に覚えたのだ。
* * *
「姫様、本当にこのままでよいのでしょうか……?」
荷解きが終わり、他の侍女達を下がらせた後、軽食をとるための小さなテーブルを囲んだドナがためらいがちに口を開いた。
「確かに、このまま黙って結婚なされるよりも、正直に打ち明けられた方がいいと思います。せめてフェリクス国王だけにでも」
『私も何度もそれは考えたわ。だけど、もし破談になったら? ブライトンに返されてしまったら、お父様に恥をかかせてしまうわ。それに私が不足の姫だって知れ渡ってしまうでしょう?』
「姫様に不足などありませんよ。ですから、その心配は無用です。そもそも援助を乞うてきたのはモンテルオですからね。特にフェリクス国王は援軍を必要としていました。サクリネとの国境付近では未だに火花が散っているそうですし、それに乗じて反対側のエクスーム王国がバイレモ地方を狙って兵を集めているとの不穏な噂もありますから。ブライトンからの救援の兵はモンテルオのために戦うんじゃない、ブライトンの女神である姫様のために戦うのですよ」
「ええ、ええ、そうですとも。姫様はブライトン中の男性の憧れですからね」
胸を張って自分のことのように言うドナに、レイチェルは信じていないのか苦笑しただけだった。
しかし、レイチェルのことを高慢で冷たい姫だと噂するのは主に宮廷内の女性達である。
希有な美しさを持つレイチェルに嫉妬し、冷やかな態度でなお男性達の心を掴んでしまうことに腹を立てているのだ。
男性達はいつか自分だけに微笑みを向けてほしい、あの美しい唇で愛の言葉を囁いてもらいたいと思うらしい。
そして直接レイチェルと接したことのない者達――兵達は一人歩きした〝沈黙の女神″の話に憧れ、崇敬している。
「姫様……あなたがこれ以上苦しむ必要はないのです。もしフェリクス国王が姫様の本当の美しさに気付かない愚鈍で狭量な男なら、さっさと国へ戻りましょう。いっそのこと別の国に向かってもいい。私と母で一生お世話を致しますから……」
『ダメ! それは絶対ダメよ!』
レイチェルは珍しく大きな手ぶりで反対した。
今まで散々苦労をかけてきた二人に、これ以上の苦労はさせられない。
クライブの言葉を聞いたレイチェルは、やはり何が何でもこの婚姻は成立させようと決心した。そうすれば自分の心はともかく、二人の立場は守れる。
『大丈夫よ。とりあえず結婚してしまえば、こっちのものだもの。嫌われてもかまわないわ。顔も見たくないって言われたら、頂いた領地に引っ込んで自由に過ごせばいいんだから』
この婚姻に際し、フェリクスからの贈り物としてモンテルオ王国内の王領から土地と城を分け与えられていた。その中の一部をクライブにも与えたので、クライブは念願の土地持ちの騎士となれたのだ。
二人には幸せになってほしい。
その願いだけを胸に抱いて、レイチェルは未来への不安に気付かないふりをした。