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――そなたには子を産む義務がある。この際、誰の子でも良い。早急に懐妊し、子を産み、義務を果たせ。
だが決して、不義を人に知られてはならぬ。慎重に行動せよ。
何の変哲もない文面に隠された文章は、容赦ないものだった。
ブライトン王家の者にしか読めない暗号を初めて教えられたのは五歳の時。
王家に生まれれば、幼い頃より家族の誰かに教えられ、覚える義務があったのだ。
それでもレイチェルは七歳で家族に接することを断たれ、それからは一人学び続けたため、最初は解読を間違えたのかと思った。
記憶にある限り、初めて父王から送られた直筆の手紙なのだ。
やっぱり読み間違えたのだとなかったことにして、手紙を燃やして決別したつもりでいた。
自分はモンテルオの王妃なのだと誇りを持って。
だがレイチェルは、モンテルオにとって、フェリクスにとって、脅威でしかなかったのだ。
自分の存在がフェリクスの命を脅かしていたことを思い、レイチェルは込み上げてきた吐き気を抑えられなかった。
「まあ! レイチェル様!」
部屋へとやって来たドナが急ぎレイチェルの背中をさする。
あの夜から体調を崩してしまったレイチェルは、療養のためにアクロスの領館で過ごしていた。
ドナはすぐさま王城から駆けつけ、甲斐甲斐しく世話をしてくれている。
エスクーム軍の撤退から一カ月。
イエールの街での動物達の奇行は、鷹をも従えるレイチェルの為せる力だと噂が広がり、今では王妃様はモンテルオの女神だと讃えられているらしい。
しかし、レイチェルはそれが酷くつらかった。
* * *
「エスクームはついに、長年の間ブライトンと覇権を争っていた東の穀倉地帯を諦めたわけですね」
「穀倉地帯などと……今はただの戦場ではないか。馬鹿馬鹿しい」
アンセルムが書類を置いてため息混じりに呟くと、フェリクスが嘲笑うように応えた。
そのぴりぴりした空気に耐えられなくなって、ロバートが明るい声を上げる。
「で、ですが、ブライトンの侵攻があったからこそ、エスクームはバイレモ地方から撤退したんですよね? モンテルオにとっては助かったのですから……」
「助かったのか、助けたのか……。どうでしょうねえ」
「え……?」
ロバートはアンセルムの言葉の意味がわからず、眉を寄せた。
フェリクスの執務室にいたもう一人、リュシアンがソファに寝そべったまま小さく笑う。
「でも実際、助かりましたよね? ブライトンとしては、もっとエスクームとモンテルオが争い合い、力を削ってからの方が、楽に土地を手に入れられたでしょうに。焦れたサイクス候が命令を無視して兵を進めたらしく、侵攻が早まったそうですから。幸い勝ち戦でしたし、彼は将来の公爵だとかで、処分は軽いものになるようですが……。確か、我らが王妃陛下の従兄殿でしたよね?」
リュシアンはフェリクスの表情をじっと窺いながら、問いかけた。
だが返事はなく、答えたのはロバートだ。
「はい、そうです。王妃様とはとても仲がよろしいようで、以前使者としてこの国に訪問なされた折にも、ずっと一緒に過ごしておられました」
「ふ~ん。ずっと一緒にねえ……」
にやにやしながらリュシアンは呟いたが、フェリクスは黙々と書類に目を通している。
そこにアンセルムが割って入った。
「正直に申しまして、私には陛下が正気でいらっしゃるとはとても思えません。毒を盛られ、矢を射かけられてなお、まだ離縁なさらないなんて。ブライトン国王は最初から我々をエスクーム侵攻のために利用するつもりだったのですから、援助を受けただけの義理は十分に果たしましたよ。エスクームが撤退し、処理も着々と進んでいる今、あの方の存在は害にこそなれ、益など一つもありませんのに」
珍しく強い口調で非難したアンセルムに、フェリクスはかすかに反応したが、顔を上げることはなかった。
それがアンセルムには不服なのか、言い足りないのか、さらに続ける。
「そもそも、王妃様がなぜ賊のイエール襲来をご存じだったのか、私は未だに納得できません。獣に関しても、何か怪しげな薬でも使っていたのではないでしょうか。それに、ブライトンがエスクームに侵攻すると、事前に知らせて下さらなかったことからしても、やはりあの方は父親に加担して――」
「黙れ、アンセルム。お前の意見は必要ない」
「……失礼しました」
フェリクスの静かな怒りを感じ、アンセルムは渋々といった調子で謝罪した。
もうロバートではどうしようもないほどに張り詰めた雰囲気の中で、リュシアンだけがのんびりとくつろぎ、誰へとはなしに一人呟く。
「まあ、シャルロも言っていましたからねぇ。油断はできずとも、見守るしかないって」
フェリクスが訝しげに片眉を上げたが、それ以上の言葉はない。
アンセルムも唇を歪めただけで、結局そのまま室内は静かになり、事務的な音が響くだけになった。
だがやがて、リュシアンが声を上げて笑い始めた。
そして、苛立ったフェリクスから丸められた紙屑が飛ぶ。
「すみません、兄上。あることを思い出したら、つい……。ほら、他人の修羅場っておもしろいじゃないですか。しかも、本人はまったく気付いていないのですから、なおさらです」
「……どういう意味だ?」
何がおかしいのか、また笑い始めるリュシアンをフェリクスは睨みつけた。
アンセルムは席を外しており、ロバートが代筆の手を止めて、恐る恐る口を開いた。
「あのー、恐らく殿下は王妃様とアリシア様のことをおっしゃっているのかと……」
「王妃とアリシア? 二人に何かあったのか?」
「え? いえ、特に何かあったわけでは……」
問い返されて、ロバートは戸惑った。
仕方なく起き上がったリュシアンはソファにきちんと座り直し、深くため息を吐く。
「ダメだよ、ロバート。兄上にとってアリシアは本当にただの可愛い妹なんだから。わざわざあんな噂を兄上のお耳に入れる馬鹿もいないだろうしね」
「あんな噂とは何だ? アリシアに何かあるのか?」
まったくわからないといった様子のフェリクスを見て、リュシアンは少し考えるように黙り込んだ。
アリシアはフェリクス達三兄弟にとっても、本当に妹のような存在なのだ。
幼い頃から、アンセルムを加えた四人の後ろをついてくるアリシアをリュシアンがからかう、といった日常を繰り返しながら大きくなった。
ただアリシアがフェリクスに対して抱いている気持ちは兄妹のものではない。
そのことにフェリクス以外の誰もが気付いていたのだが。
「……クロディーヌ嬢が亡くなった時、兄上はかなり落ち込んでいましたよね?」
「あれは……正直に言えば、自分の薄情さが嫌になっていたんだ。婚約者でありながら会うこともほとんどなく、ろくに彼女を知ろうとしなかったんだから。もっと彼女に関心を向けるべきだったと……」
「あの頃は父上が急逝したばかりで、大変でしたからね。仕方ありませんよ。ただ、それから陛下はアリシア以外の女性と接することもあまりなく、新たな縁談も断っておいででしたので、口さがない者達が噂するようになったのですよ。陛下とアリシアがただならぬ仲だとね」
一瞬何を言われたのか、フェリクスは理解できなかったようだ。
だが飲み込むと同時に、腹立ちのあまり立ち上がった。
「――何を馬鹿げたことを! そんな面倒くさい関係に誰がわざわざなるか!」
「ですよね」
怒りに満ちたフェリクスの言葉に、リュシアンが同意して頷いた。
ロバートは俯き、小さくなっている。
噂についてはもちろん知っていたが、自分が伝えるまでもないと思っていたのだ。
フェリクスは少し熱くなり過ぎたと感じたのか、一度大きく息を吐いて腰を下ろした。
「アリシアの名誉に関わる噂を、なぜ誰も否定しなかったんだ? 今後の縁談にだって影響するだろうに」
「まあ、おっしゃる通りですが……」
アリシア本人に否定する気がないどころか、他の女性をわざと寄せ付けず、助長していたのだからどうしようもない。
その上、周囲もそのうちフェリクスが絆されるだろうと思っていたのだ。
冷静になってようやく頭が回り出したフェリクスは、そこで一番肝心なことに気付いた。
「まさか……王妃もその噂を知っているのか?」
「そりゃ、当然ご存じでしょう。女性というのは噂話が好きですからね。若い侍女あたりから、お耳に入っているのではないでしょうか」
「それでは……」
フェリクスはあることに思い当り、言葉を詰まらせた。
どうにか時間の都合をつけ、初めて晩餐を共にできたあの夜のレイチェルの突然の怒り。
思わずロバートを見ると、そのことを察してか酷く申し訳なさそうな顔をしていた。
「ずいぶん残酷なことをおっしゃるなとは思ったのですが、あの頃はまだ王妃様について私も良くは思っておりませんでしたから……陛下もわざとなのかと……」
わざと怒らせるつもりも、傷つけるつもりもなかった。
例えそれがどんなに信用できない相手でも。
言い訳にもならない自分の愚かな言動に、フェリクスは頭を抱えた。
「兄上は剣の腕も確かで、知略に長け、指導力もあり、人望もあります。ですが、女性に関しては残念ですよね。女心がわからないというか、鈍いというか」
「……女心などがわかる男がいるのか?」
「少なくとも、療養中の妻を一カ月もほったらかしにはしない程度には。せめて見舞いの花くらいは贈りますかね?」
指摘されて、フェリクスは気まずそうに目を逸らした。
実は何度も見舞いの手紙を書こうとはした。だが、元々筆不精のフェリクスには何を書けばいいのかわからず、忙しさを理由に後回しにしていたのだ。
「あの……王妃様は今回のことでかなりお心を痛めていらっしゃるのではないでしょうか。その……もし、王妃様が今までのことを何もご存じなかったのでしたら、ご自分の国の者が陛下に弓を引いた姿を目にしてお倒れになったのも頷けます。それで、この城にもお戻りになることができないのでは……?」
「ああ、そうですね。あの時の驚きは本物ですし、もしこれを機に今までのことも知ってしまったとしたら、どれほど苦しまれるか……。毒の入ったお茶や酒を、兄上に勧めていらしたのですから」
ロバートに応えたリュシアンの言葉を最後に、室内には重たい沈黙が落ちる。
フェリクスは今までのことを思い返し、自分への怒りでめまいがしていた。
以前、王妃の部屋まで押しかけた時、微量の毒がお茶に含まれていることに気付いて、フェリクスは腹を立てたのだ。
飲んでもかすかにめまいがする程度の大したものではなかったが、王妃からの決別の証なのだと思い、全てを飲み干した。
あの程度では、幼い頃より毒に耐性をつけているフェリクスには効かない。
だがあの夜、初めてフェリクスに微笑んでみせたレイチェルが勧めてくれた酒には、強い毒が入っていた。
無味無臭の遅効性のもので、一定量を飲めばゆっくりと毒が体を蝕み、やがて死に至る。
口に含んでから気付いたフェリクスはすぐに吐き出し、グラスの中身も近くにあった鉢に捨てた。
そして、そのままの怒りを全てレイチェルにぶつけてしまったのだ。
翌朝、彼女が熱を出したと聞いた時には動揺し、激しい後悔に襲われた。
バイレモへの出発を一日遅らせたもののレイチェルは回復せず、謝罪することもできずに城を発ったのだ。
それなのに、彼女は見事な鷹を刺繍した香袋を御守として贈ってくれた。無事を祈る手紙と共に。
フェリクスはようやく顔を上げ、二人へ目を向けた。
「私はいったい、どうすればいい?」
「額を床にこすりつけて謝罪するべきですかね」
「愛の詩を贈られてはどうでしょう?」
二人の返答を聞いてフェリクスが顔をしかめた時、アンセルムが部屋へと戻り、意味ありげに三人を見まわした。
「今しがた、父のシャルロより使いが参りました。サクリネとの交渉にて、この先の未来に向けてより良い関係を築くためにも、婚姻による同盟を望むと、先方が提案してきたそうです」




