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「これ……を、登るのですか?」
「心配しなくても、ヤギが先に登って縄を支えてくれるんだ。縄さえ手から放さなければ、落ちることはない」
そびえる断崖を見上げて、ぽつりとこぼした兵士の言葉に、クライブが縄を固く結び合わせながら激励する。
「けど、ヤギって……」
なぜヤギが、という疑問を、騎士や兵達は当然ながら抱いていた。
しかし、さすがと言うか、騎士は口にはもちろん態度にも出さず、淡々とクライブの指示に従って動いている。
そして、どこかで見たことがあるクライブの従者である少年は、ヤギに懐かれ囲まれていた。
「ここを登るには多少の時間は掛かるが、その先に続く……道は、イエールまでかなり時間短縮できるらしい」
クライブはヤギの後に続いて崖を登る馬達を見上げた。
鞍を背中に載せただけの馬達は、おぼつかない足取りではあったが、どうにか崖を登っていく。当然、先頭は鼻息の荒いシンディだ。
登る勇気のない臆病な馬達は急ぎ迂回路に向かう。
繋ぎ合わせた縄を大きな体躯のヤギの角に結びつけると、ヤギは馬達とは別の最短路をひょいひょいと登っていった。
そして、太い幹の木の周りを何回かぐるぐると回る。
メー! と鳴いたその声を合図に、クライブは渋々もう一方の縄の先端をレイチェルに巻き付けた。と、貫禄ある一番大きな体躯のヤギが攫うようにレイチェルを背中に乗せ、あっという間に崖を登りだす。
「あ、あれいいな。俺もヤギに乗せてもらいたい」
心配そうに見守っていたクライブは隣で呟いた兵の頭を叩いた。
半分以上、八つ当たりである。
ちなみに、どのヤギも『男を乗せるのはお断り』なのだそうだ。
申し訳なさそうにレイチェルが伝えた時、クライブは無性に苛立った。
どうにもヤギから馬鹿にされているような気がしてならない。
いつか丸焼きにして食ってやると心に誓い、崖の上から縄を落として不安そうに覗くレイチェル目がけて、クライブは登り始めた。
そこからは早かった。なんだかんだで常に鍛えている者達だ。
もう一本下ろした縄も使って兵達は続々と登り、無事に馬も崖の上にたどり着き、街道に出るまでの悪路をヤギの案内で進んだ。
その間、ずっとシンディは文句を言い続け、レイチェルは笑いをこらえていた。
* * *
イエールの街の少し手前で街道に出た頃には、辺りは宵闇に包まれていた。
どうにか間に合ったようだと、皆がほっと息を吐いたその時、山の方角から街に向けて、無数の火の玉が飛び出した。
火矢だ。
襲撃は夜中だとばかり思っていた皆の間に動揺が走る。
「レイはキースと残ってくれ! キース、頼んだぞ!」
クライブは前もって決めていたことをレイチェルに叫ぶように言い、勢いよく駆け出した。
その後ろに他の者達が続く。
本来ならキースも加わっただろうに、レイチェルの護衛のために残らざるを得ないのだ。
「すげー飛距離だな」
当のキースは遠くに見える火矢の軌跡を眺めながら呑気に呟いた。
街は街道の西側に大きく広がっており、東側の山の中から火矢は飛び出している。
「さて、ではレイ……さん、ここは目立つし、少し移動しましょうか」
キースとはブライトン王宮でも何度か顔を合わせたことがあるので、しっかりばれているようだ。
もう二人、キースの従者がいたが、彼らはレイチェルの存在を不審に思いつつも黙って主人に従う。
どこか目立たない街道沿いの茂みでもとしばらく進んだところで、その茂みが大きく音を立てて揺れた。
「おいおい、マジかよ……。ひょっとして橋を壊した奴らか? めんどくせえなあ」
キースはぼやきながら剣の柄を握り、レイチェルを庇うように馬を回した。
「俺が合図したら、馬を全速で走らせて下さい。その馬ならやつらを引き離せますから。後ろは振り返らなくていいです。まあ最悪、街の手前で馬だけ走らせてあなたはどこかに隠れて下さい。いいですね?」
キースの囁きに反論できるわけもなく、レイチェルは頷いた。
唇を噛みしめ、手綱を強く握る。
(私のせいだ。私のせいで……)
レイチェルには茂みに何人潜んでいるのかはわからなかった。
軽い口調を装ってはいたが、一人で逃げろとはキース達の手に余る数だということだ。
お互いが間合いをはかるほんの一瞬。
「行け!」
キースの切迫した声と同時に、力を漲らせていたシンディが駆け出した。
そして聞こえる怒号。が、なぜか悲鳴も混じる。
それは明らかにキース達の声ではなかった。
振り向くわけにはいかないレイチェルの耳に、風を切る音に混じって鳥達の攻撃的な鳴き声が届く。
薄闇の中で、夜行性の鳥達だけでなく、昼行性の鳥達の声も聞こえた。
(みんな……ありがとう、ごめんなさい!)
レイチェルはシンディに張り付くように体勢を低くして街道を駆け抜けた。
やがて、きな臭さが鼻をつき、顔を上げて息をのむ。
街のあちらこちらで火の手が上がっていたのだ。
『レイチェル、今のうちにどこかに隠れましょう』
速度を落としたシンディの提案に、レイチェルはためらった。
目の前の光景を見ていながら、隠れるのは心苦しい。
だが、このまま争いの中に身を投じても迷惑をかけるだけだと自分に言い聞かせ、さらにシンディの歩調を緩めた。
そこへ兎が飛び出す。
『ちょっと! 危ないじゃない!』
『ごめんね、お馬さん。でも、この先に怖い人間がいるよ。綺麗な馬だから頂こうって、相談してるよ』
『あら、綺麗だなんて……って、まずいわね』
お礼を言う間もなく、兎は茂みに飛び込んで行った。
嫌な気配に怯えながらも教えに来てくれたのだ。
見つかってしまった今は、隠れるわけにもいかず、引き返すこともできない。
シンディがゆっくり進みながら、鼻をひくひくさせた。
『やだ、本当だわ。焦げ臭さに混じって、人間のにおいがする。たくさんいるわね』
レイチェルは改めて手綱を強く握り締めた。
いったい何人の男達が山を越えて来たのだろうか。
先ほどの者達が橋を壊したのだとすれば、この先に潜んでいる者達にも目的があるはずだ。
耳の奥でどくどくとうるさく脈打つ音に、シンディの緊迫した声が混じる。
『レイチェル、いち、に、さん、で一気に駆け出すわよ。いい?』
『ええ』
『いち、に、さんっ!』
シンディの掛け声と共に、レイチェルは前傾姿勢をとった。
駆け出したシンディは立ちはだかろうとした男達をひらりとかわす。
「くそっ! 逃げられた!」
「馬鹿か、この野郎!」
男達を振り切り満足げに鼻を鳴らしたシンディの背後で、甲高い耳障りな笛の音が響く。
途端に、街の入口に多くの男達が現れ立ち塞いだ。
『え? ウソでしょう!?』
シンディが驚愕の声を上げていななく。
先ほどの男達は見張りで、この男達は街への救援を妨げるためにいるのだ。
目の前に迫る男達の向こうに見える街道には、ほとんど人の気配はない。 争いは街中で起こっているのか、剣がぶつかり合う金属音や怒声が聞こえる。
レイチェルはつかの間、自分自身に迫る危険を忘れ、クライブ達の身を案じた。その時、また別の場所で甲高い笛の音が響き、途切れた。
何の合図かはわからない。ただ、今は目の前の危機から逃れなければ。
『シンディ!』
『まかせて!』
賊達はシンディを傷つけることを避けてか、長い槍のようなものでレイチェルを襲った。
本来ならば、馬の脚を狙うべきだが、一騎だけだと甘く見ているのだろう。
シンディは器用に攻撃を避け、街道を進んだ。
しかし、街道の中ほどまで来たところで、焦れた男の一人が錘のついた縄をシンディ目がけて放った。
それは脚に絡まり、レイチェルを乗せたままシンディが転倒する。
『シンディ! 大丈――』
『大丈夫! あたしは大丈夫だから、レイチェルは早く逃げて!』
レイチェルが下敷きにならないよう、無理な体勢で倒れたシンディは、なかなか起き上がれない。
『でも……』
『いいから、早く!』
走り寄る男達の気配が背後に迫る。
レイチェルは歯を食いしばり、駆け出した。
「おいっ! ガキが逃げたぞ!」
「待て! この野郎!」
追いかけて来る男の声がすぐ後ろで聞こえ、背中に痛みが走る。
体当たりされたレイチェルは無様に転び、ぐっと後頭部を掴み上げられた。
『――っ!』
「おい、こいつ女だ! しかも、すげえ上玉だ!」
「うわっ、マジだ! あの馬よりよっぽど高値で売れるぜ!?」
頭に巻いていた布がほどけ、一本に編んだ長い銀髪がこぼれ落ちる。
レイチェルは痛みに耐えながら、それでも転んだ拍子に掴んだ砂を男達に向けて投げつけた。
「ぎゃっ!」
「くそ! このあま――!」
一人が怒りで我を忘れ、剣を振り上げる。だが、体が強張って逃げることができない。
なすすべもなく、レイチェルは男を見上げた。――瞬間、剣を握った男の手に音もなく矢が突き刺さる。
もう一人の男は肩と脇腹に矢を受け、短い悲鳴を上げた。
レイチェルは呆然としたまま剣を落とした男の視線を追い、そこでやっと、向かって来る騎馬の集団に気付いた。
集団の先頭を走る男――フェリクスは弓を仕舞い剣を握ろうとして、襲われていた少年の姿をはっきり捉え、目を見開いた。
まさか、と思わず声が洩れる。
しかし、すぐに頭を切り替え、走る馬上から身を乗り出し、大きく右腕を伸ばした。
「レイチェル!」
舞い上がる砂埃の中、レイチェルは幻を見ているのかと思った。
それでもどうにか立ち上がると、手を伸ばし、ありったけの力で大地を蹴る。
レイチェルはわずかに体勢を崩したものの、一瞬後には力強い腕の中にいた。
「いったいどうして――」
荒く呟くフェリクスの青灰色の瞳を間近に見上げ、レイチェルは未だ信じられない思いで目を閉じた。
恐怖と安堵と悲しみと喜びがない交ぜになって頭がくらくらしている。
フェリクスはもう何も言わず、震えの止まらないレイチェルの細い体を、強く強く抱きしめた。




