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国王フェリクスの下に鷹が舞い降りた話はあっという間に広がった。
それは馬よりも鳥よりも早く、風のように。
「勝利の象徴である鷹が、陛下に従われたんだ。すぐにエスクーム軍など、打ち負かすさ!」
「そりゃそうだ! それで、その鷹を遣わされたのが、王妃様らしいぞ」
「王妃様が?」
「おうよ。なんでも、その鷹は王妃様からの手紙を届けに来たんだってよ!」
「へ~! あんな自由に空を飛ぶ鷹をお遣いになられるなんて、王妃様はすごいんだなあ。しかもブライトンから援軍も連れて来て下さったんだろ? こりゃあ、この国の勝利の日も近いな」
「王妃様が女神だって噂はあれだ、勝利の女神ってことじゃないか?」
「おお、その通りだな!」
などと、民が噂する中、王城では貴族達が今さらながらレイチェルの機嫌を取ろうとしていた。
しかし、面会を求めても、体調を崩しているとの理由で断られている。
「まあ、私にもお会いして下さらないなんて。……王妃様はそれほどお悪いの?」
「いえ、念のためにと大事をとっておられるのです。王妃様は万が一にも皆様のご負担になるようなことがあってはならないと、心配なさっていらっしゃいます。どうかここは、このままお引き取り下さいませ」
「そう。まあ、いいわ。では、一日も早いご回復をお祈りしておりますと、伝えて下さるかしら?」
居丈高に告げて、アリシアは去って行く。だが、ドナの耳には「何よ、もったいぶって!」と言い捨てる声がしっかり聞こえた。
その後ろ姿を見送り、やれやれと居間へ戻ったドナは、不安そうに待っていたベティに笑いかける。
「大丈夫よ。レイチェル様がお部屋に籠ってしまわれるのはいつものことと、皆様もご納得されているわ」
「そうでしょうか? 私はもう、はらはらし通しで。なんだか急に皆から声を掛けられるようになりましたし、何か失敗をしないかと心配です」
「気にせず、笑ってやり過ごすのよ」
頼りなげなベティの背中を優しく叩いて励ましながら、ドナはため息を飲み込み、レイチェルへと思いを馳せた。
そんなドナ達の苦労をよそに、レイチェルはといえば、アクロスにあるクライブの領館に来ていた。
堀に囲まれた領館は跳ね橋が下ろされ、解放された雰囲気を漂わせている。
レイチェルは館全体を見渡せる場所でシンディから下り、じっくり眺めた。
『すごく素敵ね! 想像していたよりもずっと大きいし、立派だわ!』
「……ええ、そのようですね」
興奮するレイチェルとは逆に、クライブの声は気乗りしない。
レイチェルは訝しげな視線を向けた。
『初めて目にする自分のお屋敷なのに、嬉しくないの?』
「こういう状況でなければ、嬉しかったと思います」
『レイチェル、気にする必要ないわよ。クライブはね、拗ねてるのよ』
『拗ねてる?……わかったわ。お屋敷に最初に入るのが花嫁でなく、私なのが気に入らないのね?』
「全く違います」
『じゃあ、どうして?』
首を傾げるレイチェルと意地悪く鼻を鳴らすシンディを見て、クライブは深くため息を吐いた。
「思い出しました」
『何を?』
「レイチェル様は幼い頃、エリオット相手によく取っ組み合いのけんかをなさっていましたね」
『あれは……エリオットが悪いのよ。意地悪ばかりするから』
「ええ、それは繊細な少年の若さゆえの過ちですから仕方ありません。それよりも、あの頃によく思ったものです。四歳も年上の体も大きな相手に、なんて向こう見ずな王女様なんだろうと……」
『それは……』
昔を懐かしむように遠い目をするクライブに、レイチェルは顔を赤くして言葉を詰まらせた。
シンディは楽しげに笑っている。
そこへ門番から知らせを受けたのか、屋敷の玄関が開き、誰かが走り出て来た。
「クライブ様、お待ち致しておりました!」
満面の笑みで出迎えたのは、ブライトンの王都にあったクライブの屋敷に仕えていたジョンだ。
レイチェル直属の騎士として、クライブが王妃領から土地を分け与えられた時、一番喜んだのはジョンかもしれない。
「よくこの時期に、レイチェル様のお側を離れることができましたね。今はこの辺りでも王妃様のお噂でもちきりですよ! なんでも……」
嬉々として話しだしたジョンは、クライブの従者が口を覆っていた布を下ろした顔に目を止めて、あんぐりと口を開けた。
頭に巻いた布からは、幾筋かの美しい銀髪が流れ落ちている。
しばらく微妙な沈黙が続いたが、焦れたようにシンディが足踏みをした。
ジョンははっとして、恐る恐る問いかける。
「その……まさか、お二人でいらっしゃったわけではございませんよね? 奥様はどちらに?」
「母は城で……王妃様のお側に控えている」
首を伸ばして二人の後ろに見えない姿を捜すジョンに、クライブは咳払いをして告げた。
そして、言いにくそうに付け加える。
「それで、こちらが……従者の……レイだ。よろしく頼む」
「…………かしこまりました」
色々察したらしいジョンは、どこか気まずそうに応えた。
それから、クライブの従者である少年に用意されたのは、一番上等な南の客間。
手伝いにはジョンの妻であるサリーがやって来た。
「まあ! まあ、まあ、まあ、なんて無茶を……」
驚き目を丸くしたサリーは薄汚れたレイチェルをまじまじと見て顔をしかめた。
「あの奥様がよく、レイ……様のお側を離れることを納得されましたね」
言いながら、サリーは湯浴みの用意を始める。
レイチェルは見知った人物が現れたことでほっとし、宿を出る時に自分で編んだ髪をほどいていった。
一番簡単な髪の結い方をドナに教えてもらったのに、どうしても上手くできない。
男物の服は自分で着られるが、やっぱり慣れず、この四日間の旅は本当に大変だった。
だが、レイチェル以上にクライブは大変だったろう。
正直、甘く見ていたことを反省する。
ドナ達を説得した時は、あれほど自信を持って大丈夫だと告げたのに。
ひりひりするお尻を我慢して湯を浴びると、サリーに手伝ってもらって、ベティから借りた服に着替えた。
レイチェルがここにいることはもちろん秘密である。
待っていてほしいとフェリクスには言われたのに、それを裏切るのはかなり心苦しかった。
それでも、少しでもバイレモの近くにいたかったのだ。
何か動きがあった時、いち早く知りたい、知らせたい。
その強い思いから、みんなに迷惑をかけてここまで来てしまった。
レイチェルは窓から見えるカントス山脈を眺めた。
少し霞みがかったひときわ高い山のふもとにイエールの街があるはずだ。
鳥ならば、ここからは数刻の距離。フェリクス達が駐屯している高原までは半日程度。
ふと西の空に視線を向ければ、遠くに黒い点が浮かんでいた。
何だろうと目を凝らすと、黒点はどんどん近づき、はっきりとした形になる。
(――あの鷹だわ!)
五日前、フェリクスに宛てた手紙を託した鷹が、勢いよく向かって来ている。
慌てて窓を大きく開けると、鷹は一度急旋回をして速度を落とし、ふわりと窓辺に舞い降りた。
『やあ、王妃。息災なようで何より。まさかこちらに出かけているとは知らず、城まで戻って無駄に小鳥達を怯えさせてしまったぞ』
壮年の鷹はくくっと笑って首をくいくいと左右に動かす。
ここまでの道中はレイチェルの行方を動物達に訊ねながら飛んで来たのだと語り、そして片足をひょいと持ち上げた。
『王より返書を預かって来た』




