22
レイチェルは窓際に座り、今までにないほど一針一針に祈りを込めて、小さな青い布に刺繍を施していた。
アクロスにいる時から始めたもので、もう完成も近い。
出来上がれば縫い合わせて香袋に仕上げるつもりだった。
とはいっても、香料を入れるつもりはない。中には魔除けの石とされる瑠璃を入れようと思っている。
刺繍の紋様は鷹を模したもので、母方の家に伝わるものだ。
この大陸では鷹は勝利の象徴とされており、瑠璃は輿入れの道中に鷹が落としていったものだった。それは上等な原石で、磨けばとても美しく輝くだろう。
フェリクスが城を発ってから、もう二十日が過ぎていた。
その間、バイレモではたまに小競り合いが起こる程度で膠着状態が続いているらしい。
できれば、お守り代わりの香袋を明日にはフェリクスに宛てて送りたかった。
迷惑に思われるかもしれないが、それでもレイチェルは何かしたかったのだ。
(もうすぐ、嵐が来るわね……)
レイチェルは黒雲を広げる空を見上げて眉を寄せた。
鳥達は早々に巣へと帰り、城内でも嵐に備えて人々が忙しく動き回っている。
山峡の道はあと少しというところで放置されているらしい。
最終的にはどこに繋げるのかはまだわからないが、山は深く、分け入っての確認が難しいため、フェリクスは近辺に兵を置いて見張らせているそうだ。
それを察知されて警戒されているのかもしれない。
(このまま、道が繋がらなければいいのに……)
アンセルム達の言う通り、ただの取り越し苦労で終われば、いくらでも責めを負うつもりだ。
余計なことをと、フェリクスに怒られても嫌われてもかまわない。
だからどうか、早く戦が終わり、無事に帰って来てほしい。
レイチェルはその想いを込めて、また針を動かし始めた。
* * *
あの嵐の日から十日。
レイチェルに宛てて、フェリクスから手紙が届いた。
嬉しさのあまり頬を紅潮させ封を開こうとして、レイチェルはふと不安に襲われる。
先日送ったお守りに添えた手紙には無難なことしか書けなかったのだが、可愛げがなかったかもしれない。
戦況は変わっていないはずだが、他に何か悪いことが書かれていたらどうしようと、レイチェルは震える手で封を切った。
そして現れた力強く流れるような筆跡。
――あなたからの御守を先ほど受け取った。ありがとう。勝利の象徴とされる鷹を模した刺繍は本当に見事だと思う。
体調はその後どうだろうか? 見舞いもできず、出立時にきちんと挨拶もできず、申し訳なかった。それ以上に、あなたには謝罪しなければならないことが多くある。
馬鹿げた誤解から、あなたにはつらく当たり、傷つけてしまった。もうこれ以上の誤解がないよう、一度ゆっくり話し合いたい。それまで、どうか待っていてほしい。
あなたが、ブライトンではなく、城に戻って来たことは驚いたが嬉しかった。
では、体に気を付けて無理をしないよう。
レイチェルは信じられなくて何度も何度も読み直した。
ようやく夢でも幻でもないと思えると、今度は言葉にできないほどの喜びが湧き上がってくる。
声が出せていたなら、叫んでいたかもしれない。
ただもう嬉しくて嬉しくて、その場で何度か足踏みをすると、私室から寝室に駆け込み、ベッドに飛び乗った。
そこへ、何事かとドナが慌ててやって来る。
「レイチェル様! どうなさ――」
手紙を胸に抱えてベッドの上に立つレイチェルを見て、ドナは呆気に取られたようだ。
ぽかんと口を開けたドナからそっと目を逸らし、真っ赤になったレイチェルはすごすごとベッドから下りた。
「……レイチェル様、ベッドの上で飛び跳ねてはなりませんと、ずっと以前に何度も注意させて頂きましたね?」
『はい。ごめんなさい』
レイチェルは手紙を丁寧にサイドチェストの上に置いて素直に謝った。
必死に笑いをこらえながら、ドナはしかつめらしい顔をして頷く。
「では、ベッドはご自分で整え直して下さいませ」
ドナはわざと厳しく告げて寝室を出ると、居間で心配そうに待つベティ達に笑顔で大丈夫だと伝えた。
怒られたレイチェルは反省しながらも、高揚した気持ちのままフェリクスからの手紙を大切に仕舞う。
(どうしよう、こんなに幸せな気持ち、初めてかも……)
誤解をさせていたのはレイチェルの方で、傷ついたのは自業自得だ。
それでもフェリクスは謝罪したいと言ってくれている。
(本当に陛下は優しい方だわ。あの……夜だって――)
思い出したレイチェルはベッドに突っ伏してじたばたと悶えた。
せっかく直したシーツがまたくしゃくしゃになっていく。
やがて落ち着いたレイチェルは、それでも笑みを浮かべたまま、今度こそきちんとベッドを整え直した。
しかし、幸せな気分も長くは続かなかった。
翌日、バイレモ近辺の山から、切迫した様子で鳥が飛んで来たのだ。
『大変! 大変だよ! 怖い人間が、山の中にいっぱいいるよ!』
急ぎ駆けつけたクライブに、レイチェルは鳥から聞いた要領を得ない話を伝えた。
クライブは険しい顔で黙り込み、どうにか理解しようとしている。
焦る気持ちを抑えて、レイチェルはじっと待った。
「……そういうことか」
『どういうこと?』
ぽつりと呟いたクライブに、すかさずレイチェルが問いかける。
クライブはわずかに驚いたようだが、そのまま答えた。
「エスクームの山岳部族――奴らがなぜエスクーム王家と手を組んだのか、ずっと不思議だったのですが……恐らく、山腹に潜んでいる者達には戦をするつもりはないのでしょう」
レイチェルは理解できず首を傾げた。
窓際では一仕事終えた鳥が、ドナから水とパンくずをもらっている。
「奴らは戦うのではない、襲うのです。――街を」
『街を襲うって……バイレモにある街を? でも、街には子供もお年寄りもいるのよ?』
武器を持たない者を相手に、剣をふるうというのだろうか。
レイチェルは信じられない思いでクライブを見つめた。
「……バイレモの北にある街道沿いの街……例えばイエールですが、あそこは鉱山から掘り出した原石や加工石を北や南へ運ぶための拠点となっています。要するに金も物も集まっているのです。ですが、この国は通常ならば非情に治安が良く、街は無防備です」
『そんな……それじゃあ……』
上手く言葉にできず、ただ震える手をもどかしげに動かすレイチェルに、クライブは頷いた。
「はい。モンテルオ軍がエスクームの侵攻に気を取られている隙に、山賊達が街を――イエールに限りませんが、とにかく裕福な街を襲えば、ひとたまりもないでしょう。モンテルオ軍は街への襲撃の知らせを受け、戦力を割くかどうかの決断を迫られることになります。ただでさえ、先のサクリネ王国との戦で痛手を受けたばかりですから、かなりの負担になることは間違いありません。ですが、ブライトンがエスクームに侵攻を開始すれば、戦況はまた大きく変わるでしょう」
『――何、それ? 奪い合い、騙し合いばかりじゃない!』
あまりの腹立たしさに、レイチェルは怒りをあらわにした。
だが、ここで怒りをぶつけても仕方ないのだ。
無力な人々が犠牲にならないためにも、できることをしなければならないのだから。
それなのに、レイチェルの心に迷いが生まれてくる。
『結局、山峡の道に関しては、無駄な情報だったの? 私は、いったいどうすれば……』
「いいえ。無駄ではありません」
クライブは大きく首を振って、今にも泣きそうなレイチェルの問いを否定した。
そこに、二人のやり取りを窓際で見ていた鳥が割り込む。
『そうそう。あの道にはね、今はロバがいるよ。いっぱい荷物を運ぶ台を引いて、退屈そうにおしゃべりしながら待ってるんだ』
その言葉を伝えると、クライブは確信したようだ。
道は攻め込むためのものでなく、逃げるためのものなのだと。
「誰かが山腹に潜む者達に気付けば良いのですが、それは難しいでしょう。奇襲は奴らの得意とするところでしょうから……。レイチェル様は陛下にこの旨をお知らせするべきです」
『……わかったわ』
「では、私は早馬の準備をして参りますので、レイチェル様はお手紙をご用意下さい」
レイチェルが力強く応じて、二人は動き出した。
が、ドナが鋭い声で押し止める。
「お待ち下さい、レイチェル様。それはなりません」
「母さん?」
クライブが驚いて声を上げる。
レイチェルも困惑していると、ドナが心配顔で続けた。
「アクロスに滞在なされていた時は上手くいきましたが、この城にいらして、どうやって情報を得たとご説明なさるおつもりですか?」
問われて、レイチェルとクライブはあっと気付いた。
確かに、王城にいて手に入れるにしては不自然な情報だ。疑われ、警戒されてしまう可能性が大きい。
だが、今度の迷いは一瞬だった。
レイチェルは決意に満ちた顔を二人に向けた。
『やっぱり私、陛下にお知らせするわ。そして、動物達のことも正直に打ち明けます』
「レイチェル様、それは……」
ますます心配に顔を曇らせるドナに、レイチェルは安心させるように微笑んだ。
『すぐには信じてもらえないかもしれないし、気味悪がられるかもしれない。でも陛下ならきっと、調査して下さるだろうし、用心するよう街へ通達して下さるわ。それだけでも、全く知らないよりはずっといいはずよ。だから、クライブはシンディの用意をしてくれる?』
「は? 何を――」
『ドナは乗馬服の用意をお願い。私は急いで手紙を書くわ』
「まさか、ご自分で届けられるおつもりですか!?」
『もちろん、違うわよ』
仰天する二人を見てレイチェルは吹き出した。
それから呼吸を整えて説明する。
『この際だもの、手紙は鷹にお願いしようと思うの。その方が説得力があるし、馬よりも断然早いものね。街を抜けて少し行った森に棲む鷹なら、陛下のお顔を知っているはずだし、他の鳥達の縄張りに入り込んだりすることなく飛ぶことができるんじゃないかと思って。勝利の象徴とされる鷹が、陛下の許に舞い降りれば、兵達の士気もあがるでしょう?』
そう言って、レイチェルは震える体を必死に抑え、悪戯っぽく笑った。




