21
翌朝、レイチェルは刺すような光で目が覚めた。
しかし、まぶたが重く開けることができない。それどころか、頭も体も重い。
耳の奥で聞こえるざらざらとした音に混じって、扉が開く音がした。
そして、親しみ馴染んだドナの声。
「レイチェル様、おは――あら?……っあ!」
そこから、周囲は慌ただしく動き出したようだったが、レイチェルは再び眠りに落ちてしまったようだ。
次に目覚めた時には、室内は朱色の柔らかな光に照らされていた。
すべて夢だったのかとぼんやり考えながら、レイチェルは自分の手を持ち上げてみる。
(何も……変わっていないわ……)
まだ体は重たかったが、ゆっくり寝返りを打つと、部屋にいたらしいドナの声が聞こえた。
「……レイチェル様? ああ、良かった! お目覚めになって!」
安堵と喜びに顔を輝かせ、ドナは身を乗り出してレイチェルの額に手を触れた。
どうやら熱も下がったらしいと、ずり落ちていた布を取り上げ水盆に戻す。
それから少しだけレイチェルの枕を高くして、水を飲ませる。
レイチェルはされるがままにぼうっとドナを見つめながら、のろのろと両手を上げた。
『私、風邪でもひいたのかしら?』
「いえ……あ、いえ、お風邪かどうかは……ただ、お熱が……」
ドナにしては珍しく、はっきりしない話し方だったが、レイチェルは特に気にしなかった。
気がかりなことが別にあるからだ。
『今は夕方なの? 陛下とお約束していたのに……陛下は呆れていらっしゃらないかしら?』
「いいえ、陛下は……レイチェル様のことを、とても心配なさっておいででした。それに、レイチェル様は丸一日以上眠っていらっしゃったので、今は城に戻られた日から三日目の夕方でございます」
驚いたレイチェルは目を丸くした。
体が動いていれば、飛び起きただろう。
そんなにも眠りこんでしまったのは、あの流行病の時以来だ。
急に心許なくなり、レイチェルは目を泳がせた。
そこで視界に入ったものにはっとする。
『ドナ! カトレアが!』
「――まあ! 何てこと!」
ドナがレイチェルの指さす方向に振り向いて声を上げた。
また次の季節に咲くよう手を入れて、留守の間は庭師に預けていたのだが、戻って来たその日に部屋へと運んでもらったカトレアが枯れていたのだ。
「他の部屋に置いてある鉢は元気ですのに、なぜこれだけ……」
呟きながら、ドナが鉢へと手を伸ばした。
そして、顔をしかめる。
その様子を見ていたレイチェルはどうしたのかと気になって、注意を引くために軽く枕を叩いた。
『どうしたの? 何かあったの?』
「い、いえ……その、ひょっとして病気かもしれないと思いまして。一度、庭師に見てもらいますね?」
ドナはしっかりと鉢を抱えると、安心させるように微笑んだ。
「何か、必要なものはございますか?」
『……お腹が、すいたわ』
「かしこまりました。それでは何か、お腹に優しいものを用意させましょう」
部屋を出て行くドナを見送りながら、レイチェルは首をかしげた。
どこかいつもの彼女とは違う。
やはり心配をかけたせいかもしれないと、まずは体力をつけるために食事にすることにした。
* * *
翌朝、いつもの時間に目が覚めたレイチェルはベッドから起き出した。
しかし、心配性のドナに寝ているようにと戻されてしまう。
それから甲斐甲斐しく世話をされている間に、ふとレイチェルは違和感を覚えた。
『ねえ、ハンナはどうしたの? 昨日も見かけなかったけど、ひょっとして体調を崩しているの?』
まさか自分の病をうつしてしまったのではないかと心配したレイチェルの問いかけに、ドナは動きを止めた。
不自然なほどに時間をおいて、困ったように笑う。
「……どうやら里心がついたようです。泣いてばかりでしたのでブライトンに帰しました。きっと、戦が始まったことで恐ろしかったのでしょう」
『それは……私が連れまわしたせいで、無理をさせてしまったのかもしれないわね。悪いことをしてしまったわ……』
「いいえ! レイチェル様は少しも悪くなどございません! それどころか、私がもっとしっかりしていれば、このような……申し訳ございません」
『馬鹿なことを言わないで。どうしてドナが謝るの? ドナは何も悪くないわよ』
深い後悔を滲ませるドナを励ますように、レイチェルは微笑んだ。
ドナは責任感が強すぎる。だからこそ、頼りになるのだが。
『それで、どうやって帰したの? バイレモとは反対方面とはいえ、危険ではないかしら?』
「もちろん……兵達をしっかり付けておりますので、ご安心ください。それよりもレイチェル様、クライブが申し上げたいことがあると。あとでお会いして頂けますか?」
『あら、今からでも大丈夫よ』
ほっと安堵したレイチェルは、続いたドナの言葉に明るく応えた。
だがドナは首を振る。
「もう少しお休み下さいませ。いきなり動かれては、またお身体を悪くされてしまいます」
『本当に大丈夫よ。別に動き回るわけじゃないわ。ただ座っているだけ。いつまでも寝てばかりいると、かえって体がなまってしまうもの』
再びベッドからゆっくり立ち上がると、めまいがすることもなかった。
過保護なドナを説得して身支度を整えてもらい、居間にあるゆったりとしたソファに腰を下ろし息を吐く。
そこにクライブがやって来て、膝をついた。
「レイチェル様、まだお顔の色が優れないようです。やはりお休みになったほうが……」
『大丈夫よ。クライブまで大げさにしないで。ところで、何があったの? エスクーム側に動きがあったとか?』
レイチェルは苦笑したあとに、先に話を切り出した。過保護なところは親子そっくりだ。
不満そうではあったが、クライブは表情を引き締めて答える。
「いいえ、バイレモに大きな動きはまだありません。エスクームの侵攻に際し、モンテルオ軍が応戦した最初の戦い以来、睨み合いが続いている状況だそうです」
『そう……』
レイチェルがほっと胸を撫で下ろすと、クライブは本題に入った。
「誠に勝手ではございますが、カントス山脈の山峡の道について、レイチェル様から教えて頂いたことを全て、陛下にお伝え致しました」
『それは良かったわ。情報は少しでも早い方がいいものね。それで……陛下は何とおっしゃっていらした? 私とお会いするお時間はありそうかしら?』
手紙は封を開いた形跡もなく、サイドチェストの上に置かれていた。床に落ちていたのを、ドナが見つけたのかもしれない。
レイチェルが緊張して答えを待っていると、クライブは黙り込んだ。
途端にレイチェルの心臓は誰かに掴まれたようにきゅっと苦しくなる。
クライブはためらいながら、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「陛下は……昨日の昼前に、バイレモへお発ちになりました」
『そんな……それでは――』
「いいえ! 先ほども申しましたが、決して戦況が悪くなっているからではありません! ただ……」
顔色を悪くしたレイチェルに気付いて、慌ててクライブは否定する。
『ただ?』
「恐らく……ここでは策を練るにも、時間がかかりすぎるからだと思います」
『そうなの?』
「はい。はっきり申しまして、城の人間――ブライトンの王宮でもそうですが、彼らは頭が固すぎるのです。ろくに剣を握ったこともないのに、ああだこうだと机の上の地図を見ながら話し合うだけ。実際に戦場に出ている将軍達と話し合った方が何十倍も有意義で実用的です。ですから、陛下は山峡の道のことも含めて将軍達と直接策を練るために予定より早くバイレモに発たれたのではないかと思うのです。あそこには弟君のパトリス殿下もいらっしゃいますから。殿下は寡黙な方だそうですが、軍人としての実力はかなりだそうですよ。私も一度手合わせをお願いしたいと思っております。と言うより、必ず実現させるつもりです」
最後に熱を込めて語るクライブがおかしくて、レイチェルは小さく笑った。
そういえば、リュシアンがよく喋るのは、いつもむっつり口を閉じた弟の分まで話すようにしているからだと言っていたことを思い出す。
ようやく緊張をといて笑うレイチェルに、クライブはほっと安堵して、色々なものを飲み込んだ。




