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沈黙の女神  作者: もり
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 王城に着いた時には、不穏な空気の漂う城内を人々は慌ただしく動き回っているだけで、出迎えはなかった。

 だがレイチェルはむしろほっとして、ドナ達と自室へ向かう。

 そこへ急ぎロバートが駆け寄り、頭を下げた。


「おかえりなさいませ、王妃陛下。お出迎えができず、誠に申し訳ありませんでした。ご無事でのお戻り、何よりでございます」


 微笑む顔から本心であることがわかり、レイチェルはちょっとだけ面食らった。

 ロバートには嫌われていると思っていたのにと、首を傾げる。


「陛下がお話をなさりたいとのことなのですが、なにぶん今はお忙しく――」


 途中でロバートが口をつぐむ。

 回廊の向こうから歩いて来る人物に気付いたのだ。


「まあ、これはこれは、王妃陛下ではございませんか。お戻りになるとは存じませんで、お出迎えができず申し訳ありません。それで、ご領地はいかがでした? やはり恐ろしかったのでしょうか? たかが猟師などのたわ言に、早馬をお使いになってまで陛下に助けを求められるぐらいですもの」


 相変わらずよく喋るアリシアをレイチェルはしばらくじっと見つめ、ふっと笑った。

 遠巻きに見ていた人々が目を見張る。

 ただアリシアは馬鹿にされたと思ったのか、顔を赤くして唇を歪めた。

 レイチェルは軽く頭を下げて、その横をゆっくり通り過ぎる。


「あの……実は私、アクロスの出身なのです」


 わざわざ部屋まで送ってくれるつもりなのか、付き従うロバートがためらいがちに口を開いた。

 レイチェルがわずかに驚きを見せると、ロバートはそのまま続ける。


「この時期に王妃様がアクロスへご視察にいらして下さっただけでも皆、喜んでおります。その上、ご自分の兵まで置いて下さるなんて、きっと心強く思っているでしょう。あいにく、戦は始まってしまいましたが、モンテルオ軍は必ず卑劣なエスクーム軍を打ち破ります。王妃様のお陰でブライトンからの援軍も得られたのですから」


 感謝に微笑むロバートから、レイチェルは目を逸らした。

 好意的な言葉を素直に受け取ることができない。どうしても騙しているような気がしてしまうのだ。

 そんなレイチェルの様子を誤解してか、ロバートはわずかに顔を曇らせた。


「アクロス近辺の山々には深い谷も多く、たくさんのヤギが棲みついています。もちろん他の動物も。ですから、幾筋かの獣道があって当然です。しかもエスクームの山賊達は悪名高いですからね。奴らはどんなことでもするそうですから、今回のことだって驚くことではないですよ。バイヨル伯爵達は王妃様からのご忠告を本気にしていませんが、陛下は考慮して下さっています。今さら私が言うまでもありませんが、どうか陛下に王妃様がお知りになったことをお伝え下さい。よろしくお願い致します」


 深々と頭を下げるロバートに、レイチェルは力強く頷いた。

 一人でも信じてくれる人がいると思うと嬉しい。

 部屋に入ってからも笑みを浮かべたままのレイチェルに、ドナがそう言えばと問いかけた。


「レイチェル様はなぜあの時、笑われたのですか?」

『あの時?』

「はい。侯爵令嬢がくどくどと嫌味をおっしゃっていた時です」

『ああ、あれね。……それが、彼女を見ていると、どこか懐かしくて……なぜかと考えていたの。その理由がわかったからよ』

「その理由とは?」

『ほら、ブライトン王宮の厩舎に、小さな犬がいたじゃない? 目が大きくて、薄茶色の毛をふわふわさせた』

「ああ! あの、キャンキャンとよく吠える!」


 思い当ったドナが盛大に吹き出した。侍女達もクスクス笑う。

 アリシアには申し訳ないが、皆の緊張がほぐれたことで、レイチェルは安堵していた。



   * * *



 その夜――。

 寝室の窓から、レイチェルは暗闇に揺れる木々を眺めていた。

 晩餐のあとでフェリクスと会う予定は、バイレモからの早馬が着いたため、明朝に変更になってしまったのだ。

 気持ちばかりが焦って、疲れているはずなのに眠れないレイチェルは、ずっと室内をうろうろしていた。

 そこに居間側の扉を、誰かが窺うように叩く。

 戸惑いながらもきっとドナだろうと扉を開くと、そこにはハンナが立っていた。


「あ、やはりまだ起きていらっしゃったのですね。その、レイチェル様はお酒を召されませんが、もしかして……今夜は陛下がお見えになるかもしれないと……」


 琥珀色のお酒を入れたクリスタルのデカンタとグラスを盆にのせ、ハンナが恐る恐る述べた。

 余計なことだったかもと、心配しているらしい。

 その気遣いが嬉しくて、微笑んだレイチェルは唇の動きで『ありがとう』と伝えた。

 嬉しそうに顔を輝かせてハンナが頭を下げ、寝室を出て行く。

 それから、レイチェルはじっとデカンタを見つめ考えた。

 いっそのことお酒を飲めば、ぐっすり眠れるかもしれない。

 だが、朝になってちゃんと起きる自信がなく諦める。

 その時、今度は反対側の扉がそっと開かれた。


「――思いのほか、早く会議が終わったので、ひょっとしてと……」


 驚くレイチェルを見て、どこか遠慮がちにフェリクスが部屋へと入って来る。

 疲れた様子ではあったが、それでも精悍な顔つきは変わらず、レイチェルの胸は高鳴った。

 数日ぶりに会えたことが、扉を開けて来てくれたことが、とにかく嬉しい。

 頬を染めたレイチェルは、震える指でお酒を注いだ。

 こういう時にはお酒でもてなした方が良いと聞いたことがある。

 ハンナに感謝しながら、レイチェルはぎこちなく微笑んでグラスを差し出した。


「……ありがとう」


 応えて、フェリクスもかすかに微笑み、受け取った。

 もうこれ以上ないほどレイチェルの心臓は速く打っている。

 初めてフェリクスに微笑みかけられたのだ。

 微笑みかけたのも初めてだが、レイチェルはそのことには気付かず、嬉し恥ずかしで背を向けると、用意した手紙を探した。

 手紙には、声のことを打ち明けて謝罪し、山峡の道のことについて詳しく書いている。

 ブライトン軍のエスクーム侵攻については、あとで説明した方がいいだろうと判断した。

 サイドチェストの上に置いてあるのを見つけ手に取るとほっとして、レイチェルはフェリクスへと向き直った。

 そして、息をのむ。


 フェリクスの顔からは先ほどの笑みが消えていた。

 手に持ったグラスは空になり、デカンタを睨むように見ている。

 レイチェルは慌てて手紙を置くと、もう一杯勧めた方がいいのかとデカンタに手を伸ばした。が、その手をフェリクスが掴む。


「もう、充分だ」


 吐き出された低い声には怒りが滲んでいる。

 訳がわからず、レイチェルは呆然としてフェリクスを見上げた。

 瞬間――視線が絡まり合い、引き寄せられ、閉ざされる。

 口の中に広がる苦くてかすかに甘い味。

 月明かりが射しこむ寝室には、むせかえるような酒の匂いに満たされていた。




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