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――まさか私が結婚することになるなんて。
血相を変えた乳母のドナから、フェリクス国王との婚約の話を知らされた時には本当に驚いた。
レイチェルにとって結婚は、恋とともに諦めたものの一つだったからだ。
一生独りで年老いていくことを思えば寂しかったけれど、姉達のように遠くの見知らぬ人の許へ嫁いでいく怖さに比べれば恵まれていると、ずっと自分に言い聞かせていた。
(あれほど私を人前に出すことを嫌っていたお父様が、急に舞踏会に出席するように命じられたのは、これが理由だったのかしら? フェリクス国王とお会いするため?)
レイチェルは編みかけのレースを膝の上に置いてぼんやり考えた。
ドナが未だに心配して様子を窺っていることには気付いていたが、まだ何と言えばいいのかわからない。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
ふらりと立ち上がったレイチェルは窓辺へと歩み寄り、窓を開けた。
途端に小鳥達が嬉しそうに飛んでくる。
小鳥達の楽しそうなおしゃべりにも耳を傾けることが出来ない。
レイチェルの運命が大きく変わった母の死からずっと、全てを諦めていたのに。
* * *
今からちょうど十二年前、七歳になったばかりのレイチェルは流行病に罹り、何日も生死の境をさまよっていた。
ブライトンの女神と呼ばれ敬われていた美しく愛情深い母は、そんなレイチェルを心配し、周囲の制止も聞かず、付きっきりで看病を続けた。
その甲斐あってか、レイチェルは回復の兆しを見せ始めた。
しかし、あろうことか今度は王妃が同じ病に倒れたのだ。
回復していくレイチェルとは逆に王妃の容体は悪化していき、皆の祈りも神には届かず、ついには天に召されてしまった。
レイチェルは嘆き悲しんだ。
自分のせいで母は亡くなってしまったのだと。
幼いながらに自分を責め、周囲の慰めにも応じられず涙を流し続けていたレイチェルは、ある日ふと気付いた。
――私……どうして自分の声が聞こえないのかしら。
耳が聞こえないわけではない。世話係達の声や、窓の外から聞こえる鳥達の鳴き声、風の音などは聞こえるのだから。
その異変には乳母や世話係も気付き、医師がすぐさま呼ばれた。
しかし、はっきりとした原因はわからず、病と王妃の死が原因ではないかと診断された。
しばらくすれば治るだろうと医師は楽観していたが、その予想を裏切り、十日経っても二十日経っても声は戻らない。
そして一月後、父である国王は無慈悲な決断を下した。
病が癒えぬうちは部屋から出てはならぬと。そして、世話をする者達も制限したのだ。
声は出せずとも体は元気になったレイチェルはその後、七年もの間自由を奪われていた。
七年間――その間、レイチェルは孤独だったわけではない。
乳母のドナや古参の侍女二人もずっと側にいてくれたし、ドナの息子で幼馴染のクライブもよく遊びに来てくれた。また、母の妹である侯爵夫人が月に一度は訪れてくれたのだ。時には夫人の子供達――エリオットとマリベルの兄妹を連れて。
あまりに理不尽な王の命令に異を唱えることはできなかったが、夫人なりにレイチェルを可愛がってくれていた。
そして、動物達もレイチェルの心を慰めてくれた。
ごくごく近しい者達しか知らないが、レイチェルは動物達と心を通わせることができる。
以前から動物達には懐かれていた。それが不思議なことに、声を失くしてから意思疎通が図れるようになったのだ。
侯爵夫人が言うには、母と夫人の祖母が同じような力を持っていたらしい。
しかし、人と違う力を持っていると忌み嫌われるかもしれないと、王や兄達にさえも秘密にしていた。ただでさえ声を失くしたレイチェルを忌避しているのだから。
一生このまま幽閉されたように暮らしていかなければいけないのかもしれない。
レイチェルがそう思い始めていたある日、何の前触れもなく父がレイチェルの部屋に訪れた。
王族用の中庭を散策する姿をこっそり窓からのぞき見ていたこともあるが、間近に対面したのは七年ぶりで、レイチェルは緊張のあまりきちんと挨拶することもできなかった。
膝を折って頭を下げるどことか、椅子から立ち上がることもできない。
そんなレイチェルを厳しい眼差しで見下ろし、国王は冷ややかに告げた。
「十日後、そなたの成人を祝う舞踏会を催す。その時までにきちんと礼儀を弁え、余に恥をかかせぬようマナーを身につけておくのだ」
一瞬何を言われたかわからなかった。しかし、すぐに部屋から出ることを許されたのだと気付いた。それが舞踏会の間だけなのか、これからもずっとなのかはわからないが。
レイチェルは慌てて立ち上がり、深く深く頭を下げた。
嬉しくて伏せたままの顔がほころぶ。ダンスについてはクライブ相手に何度も練習した。まさか人前で披露できるとは思ってもいなかったが、ダンス自体が楽しくて好きだったのだ。
背後でドナや侍女達の嬉しそうな気配も伝わる。
レイチェルの心も喜びに浮かれたが、続いた国王の言葉に一気に下降した。
「これから先、そなたが人前で笑うことは許さぬ。何か話しかけられても耳を傾けずともよい、ただ澄ました顔をしておれ」
先の言葉とのあまりの矛盾にレイチェルは思わず顔を上げた。
「そなたは話せぬのではない、話さぬのだ。そなたの病が未だに癒えぬことは一部の者達を除いて誰も知らぬ。声を失くした王女など、王家の恥。誰かにダンスを誘われても首を振って断るのだ。よいな、決して笑うでないぞ」
* * *
あの時の衝撃を思い出したレイチェルの指先は震えていた。
緊張をほぐすように両手をきゅっと握りしめ、開く。
その時ふと視線を感じ、そちらへ目を向けたレイチェルははっと息をのんだ。
王族しか立ち入れぬはずの庭にフェリクスがいるのだ。
(まさか、私に会いに……?)
滅多に人前に出ることのない自分の顔を見に来たのだろうかと考え、すぐに打ち消す。
婚約したのだから、会いたければ直接部屋に訪ねてくるはずだ。レイチェルが了承するかどうかは別にしても。
自然とほころびかけていた顔を慌てていつもの無表情に戻した。
それでも胸はドキドキと高鳴っている。
庭の入口辺りに立つフェリクスは少し遠いが、陽光にきらめく黒髪と背が高くたくましい体つきはとても魅力的に見えた。
数か月前まで続いていたサクリネ王国との戦では国王自らが出陣し、率先して剣をふるい勝利を得たという話だが、それも納得してしまう。
(手……振ってみようかな……)
笑うことは許されなくても、それぐらいなら。
婚約を知らされたことで、レイチェルは知らず浮かれていたのだろう。
だが、そっと持ち上げた手は振られることはなかった。
フェリクスが背を向けて立ち去ってしまったからだ。
(あ……)
もちろん呼び止めることなどできない。
がっかりして部屋へと向き直った時、いきなり入口の扉が開かれた。そして厳めしい顔をした国王が入って来た。
何の前触れもなく国王がレイチェルの部屋に訪れるのは、あの日以来だ。
それでも五年経った今は、驚きを上手く隠して膝を折り、頭を下げる。
「婚約の話は聞いたな? 式は十日後にモンテルオ王城にある礼拝堂で行われる。フェリクス国王は明日には国へと発ち、そなたを受け入れる準備をするそうだ。そなたも準備を進めよ」
挨拶も前置きもないいきなりの命令。あまりにも性急な日程にレイチェルだけでなく、ドナ達も驚きに息をのんだ。
国王に対しては今まで言葉など必要なかった。ただ命令に従うだけなのだから。
しかし、今回ばかりは必要だった。
この婚約がなぜ決まったのか、フェリクス国王がレイチェルを望んでくれたのか、レイチェルが声を失くしたことはご存知なのか。
知りたいことがたくさんある。
ここで筆談するべきか、あとで正式な手紙で質問するべきかと逡巡するレイチェルにはかまわず、王は続けた。
「この度のフェリクス国王訪問は、表向きは遅くなった国王即位の挨拶とのことであったが、本当のところは我が国へ援助を乞いに来たのだ。サクリネ王国との戦に勝利はしたものの、まだ色々と懸念すべきことはあるのでな。そなたとの婚姻を条件に、援助を約束した。しかしな、そなたの病のことは伝えておらぬ。よって、契りを結ぶまでは決して知られてはならぬぞ。不足の姫を押しつけられたと苦情を申し立てられても困るからの」
レイチェルの口から声にならない息が洩れる。
めまいが激しく今にも倒れてしまいそうだった。
「契りを結べば、そなたはもうブライトンの姫ではない。モンテルオ王国の王妃だ。離縁も簡単には済まぬゆえ、フェリクスも諦めるだろう。よいな、決して笑うでないぞ」
王が立ち去った後も、レイチェルは顔を上げることができなかった。
知りたかったことは全て王が教えてくれた。
この婚姻に愛はもちろんのこと、好意も興味もない。あるのは同盟と欺瞞だけ。
フェリクスは援助を受けることを条件に、不足の姫を押しつけられたのだ。
そのことが知られた時に自分はどうなるのだろう。
これから先の人生を思って、レイチェルは小さく身震いした。