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「何をなさっているのですか、レイチェル様」
『……ちょ、ちょっと……話を聞いていたの』
十数頭のヤギに囲まれたレイチェルの頭上では、ちゅんちゅん、ちーちーと何羽もの鳥が賑やかに鳴きながら飛びまわっている。
笑いと呆れを滲ませてため息を吐いたクライブは、レイチェルを救出すべく、ヤギの群れに分け入った。
そして、いきなりレイチェルを抱き上げると、草を食むシンディへと向かってすたすたと進む。
『だ、大丈夫よ、クライブ』
「大丈夫そうには見えませんよ。ですから――ぃてっ」
『どうしたの? 大丈夫?』
「いててて、っ、噛んでます、こいつら――って、ケツを噛むな!」
レイチェルが攫われると勘違いしたのか、ヤギ達がクライブに攻撃している。
笑いごとではないのだが、らしからぬクライブの慌てぶりがおかしくて、レイチェルはつい吹き出してしまった。
「レイチェル様、笑っていないで――こらっ! 服を食うな! こいつらを止めて下さい!」
クライブの抗議を受けて、レイチェルは笑いを抑えながらヤギ達に大丈夫だと伝えた。
すると、ようやくヤギ達が引き下がる。
「ありがとうございます、レイチェル様。それで、お知りになりたかったことは、お聞きできたのですか?」
『……ええ』
ほっとしたクライブからの問いかけに、レイチェルは笑顔を消して答えた。
事態は予想以上に深刻だった。
強い決意とともにここまで来たのに、何をどうすればいいのかわからない。
結局、今のレイチェルには何もできないのだ。
深く沈んでいく心が苦しくてうつむくレイチェルの耳に、シンディの明るい声が聞こえた。
『あら~。いい男がだいなしねえ。ヨレヨレじゃない』
近づいて来たクライブを見て、シンディが笑う。
それから、レイチェルを鞍に乗せようとしたクライブの左肩をカプリと噛んだ。
「いてっ! こら、シンディ! お前まで何するんだ!」
シンディの意地悪に、クライブはいつもの騎士然とした態度がすっかり崩れている。
昔、エリオットとよく悪戯をしていた頃のような気安い態度だ。
あの当時は、レイチェルもよく泣かされた。主に、エリオットにだが。
二人は意地悪で、優しくて、そして頼りになった。それは今も変わらない。
こうしていつも助けてくれるクライブや、遠くからでも駆けつけてくれるエリオット。
二人がいるのに、どうして弱気になったのだろう。
顔を上げたレイチェルは、謝罪と感謝の気持ちをこめて、クライブをぎゅっと抱きしめた。
「どど、どうしたのですか!? レイチェル様?」
すぐに解放したのに、クライブは顔を赤らめ狼狽している。
その姿がおかしくて、だが、また笑っては失礼だと我慢するレイチェルを見て、からかわれていると誤解したらしい。
「もう、勘弁して下さいよ」
クライブはぶつぶつ文句を言いながら自分の馬へと戻って行く。
レイチェルには話を聞いてくれるシンディに、どんな時だって味方をしてくれるドナだっているのだ。
(大丈夫。きっと、大丈夫よ)
レイチェルは自分に強く言い聞かせ、シンディに合図して領館へと戻って行った。
* * *
「エスクーム軍が、山を越えて来る?」
領館に戻り、相談があるからと二人きりにしてもらった室内に、クライブのかすれた声が響く。
あまりの驚きのためか、クライブの顔はかすかに青ざめていた。
レイチェルは重々しく頷いて、話を続ける。
『バイレモ地方の北側、アクロスと接している辺りのカントス山脈の山々は険しいけれど、山峡にちょうどうまい具合にモンテルオ王国とエスクーム王国を繋ぐ細い道のようなものがあるらしいの。とはいっても、普通の人がそこを通るにはかなり苦労するらしいわ。要するに獣道ね。それが、エスクームには山岳部に住む人達がいて、彼らがその道を広げ始めたそうよ』
「それでは……背後から攻め込まれてしまう。そんなことになれば、不意を衝かれたモンテルオ側はあっという間に崩れてしまうでしょう。しかも、挟み撃ちにされることを考えると……」
眉間にしわを寄せ、考え込むクライブを見て、レイチェルはうなだれた。
やはりもっと早く行動するべきだったのだ。
『道は……かなり出来ているそうよ。本当はね、以前からそうではないかと思っていたの。山深くに住む大型の鳥達が最近、山裾にまで飛んで来て困るって小鳥達が噂していたから。もっと早く確かめれば良かったんだけど……でも……』
「レイチェル様が気になさる必要はありません。むしろ、こうして情報を得て下さったことを、本来ならモンテルオ側は感謝すべきなのですから」
クライブがレイチェルを力強く励ます。
少しだけ気持ちが軽くなったレイチェルは、先ほど聞いたばかりの話に移った。
落ち込んでいる暇はない。時間を無駄にした分、急がなければならないのだ。
『ヤギ達はかなり怒っていたわ。自分達の住処に踏み込まれたばかりか、仲間が何頭か……犠牲になったそうなの。それで鳥達に私のことを聞いて、なんとかできないかって言いに来たのだけれど……道はあと十日もあれば、モンテルオ側の山沿いに通る街道と繋がるそうよ。どうすればいいのかしら?』
「そうですね、まずは急いで皆に知らせなければならないでしょう。ただ問題は……この話をモンテルオ側が――フェリクス国王が信じて下さるかです。陛下はレイチェル様のお力のことをご存じないのでしょう?」
確かめるように問うクライブに、レイチェルは答えを詰まらせた。
そもそもレイチェルが行動することをためらっていた一番の理由――動物達から聞いたなどと、誰が信じるだろう。
しかも、人と違う力は忌み嫌われることもあると叔母に聞いたように、気味悪がられてしまったらと思うと怖かった。
「まあ、何より懸念するべきことは、我々からの情報をモンテルオ側が信じるかです。ブライトンと同盟関係にあるとはいえ、心から信じ合える仲、というわけではありませんから……」
皮肉交じりに呟いたクライブは、静かに立ち上がった。
どうしたのかとレイチェルが見ていると、クライブは控えの間に繋がる扉へ音も立てずに近づく。
そして、いきなり開いた。
「――きゃっ!」
扉のすぐ向こう側に立っていた侍女のハンナが驚いて声を上げる。
青ざめるハンナをクライブは厳しい眼差しで見下ろした。
「何か用か?」
「い、いえ、あの……お茶をお持ちした方がよろしいかと……」
「……どうします?」
振り返ったクライブに、レイチェルは頷いた。
緊張していたせいか、喉がずいぶん渇いている。
ハンナが慌てて頭を下げお茶の用意に向かうと、クライブは扉を開けたままにして戻ってきた。
「ひとまず、陛下にお手紙を書かれるのがいいかもしれませんね。地元の……猟師から聞いたということにしましょう。あとは事実のみの内容でいいと思います。では、できるだけ急いだ方がいいでしょうから、私は早馬の手配をして参ります」
そう言って、クライブは出て行く。
二人分のお茶を用意して部屋に入って来たハンナにレイチェルは謝ると、素早く喉を潤して手紙を書くために立ち上がった。
内容は簡潔にわかりやすく、客観的に。ちょっとだけ嘘を添えて。
鳥に頼めないことがもどかしかった。早馬だとおそらく三日はかかるだろう。
やがて手紙を書き終えると、戻って来たクライブに確認してもらい預ける。
レイチェルは逸る気持ちを抑えて、再び部屋を出て行くクライブを見送った。




