17
『素敵な場所……』
『ほんとにねえ。美味しそうな下草もたくさん生えているし、危険な獣もいないみたいだし』
耳をぴくぴくさせながら、シンディがゆっくりと山あいの湖畔に続く道を進む。
城から半刻ほど速足で走ったので、休ませるためにもレイチェルは鞍から下り、一緒に並んで歩いていた。
後ろにはクライブの他に二人の護衛騎士が付き従っている。
穏やかな日射しが降り注ぎ、温かな風に揺れる草花を窓から見ているうちに、レイチェルはついに我慢できなくなったのだが、やはり出てきて正解だった。
美しい自然に囲まれていると、心が軽くなっていく。
湖上を渡る風が、レイチェルの銀色の髪を優しくなびかせ、シンディのたてがみを揺らして通り過ぎる。
『でも、あたしはレイチェルとなら、どこにでも行くわよ』
『え?』
『ここでのんびりしていられないなら、レイチェルの望む場所に乗せて行ってあげるわ』
『あ……』
シンディが何を言っているのかを理解したレイチェルは言葉を失った。
ずっと悩んでいた、それでいて怖くて気付かないふりをしていたこと。
『知って……いるの?』
『そうねえ~。やっぱり、鳥達の噂は耳にするもの』
シンディの口調は軽いものだったが、その顔は心配に曇っている。
しばらく考え込んでいたレイチェルは、やがてニッコリ笑った。
『ありがとう、シンディ』
『あら、当然のことよ。だって、あたしはレイチェルが大好きですもの』
『私も大好きよ』
足を止めて、しなやかな首筋にぎゅっと抱きつくと、シンディがご機嫌に鼻を鳴らす。
それから背中で一つに纏めた銀色の髪を悪戯に軽く食んだ。
レイチェルは更に笑みを深め、強くシンディを抱きしめた。
* * *
「王妃が?」
「はい。陛下のお許しを頂ければ、明日にでも出立したいと」
「明日……」
レイチェルからの伝言をロバートが述べると、フェリクスは呟いて考え込むように口を閉ざした。
わずかに落ちた沈黙を破って、アンセルムが小さくため息を吐く。
「ずいぶん急ですねえ。しかもこの時期に、ご領地をご覧になりたいとは……」
「王妃様はご自分の兵をお連れになるので心配には及ばないとおっしゃっていたのですが、やはり危険なのでしょうか?」
不安になったのか、ロバートの声はやや硬い。
それを聞いたアンセルムが苦笑を洩らす。
「心配しなくても、王妃様は大丈夫ですよ。ただ――」
「今から王妃の部屋に向かう。会って、その真意を直接問いただそう」
「ええ? 陛下、ですが先触れは……」
アンセルムの言葉を遮り立ち上がったフェリクスは、そのまま出口へと向かった。
その後ろをロバートが慌てて追う。
今度は大きくため息を吐くアンセルムを置いて部屋を出ると、ロバートを従えて足早に廊下を進み、王妃の部屋への扉を開けた。
だがそこで、しばらく待つようにと護衛騎士達に懇願される。
そんな彼らを軽くかわして前室を抜け、フェリクスは居間へと足を踏み入れた。が、レイチェルの姿はない。
私室で書物机に向かっていたレイチェルは外の騒ぎに気付き何事かと立ち上がった。
そこへ、居間へと繋がる扉が開かれ、驚きに目を見張る。
フェリクスが先触れもなく、再び部屋に来るなど思ってもいなかった。しかもここはレイチェルの私室だ。
フェリクスは初めて目にするレイチェルの私室を興味深そうに眺めていたが、机上の書きかけの手紙を見つけると目を細めた。
手紙は領地へと向かうことへの説明をフェリクスに宛てて書いていたものだ。もちろん言い訳にしかすぎないが。
しかし、間違った印象を与えてしまったのかもしれないと、レイチェルは手紙を見せようと急いで手を伸ばした。
そこへ、侍女のハンナの震える声が割って入る。
「あ、あの!……その、お、お茶を、淹れましたので……こちらで、ご、ゆっくり……」
人一倍内気で物静かなハンナが精いっぱい勇気を出して、主であるレイチェルを守ろうとしている。
レイチェルは手をぎゅっと握りしめて気持ちを奮い立たせると、フェリクスの先に立って居間へと戻った。
「……ロバートから聞いたが、あなたは明日にでも領地へ向かいたいそうだな?」
どうにかソファへと落ち着いたところで、フェリクスが切り出した。
レイチェルはドキドキしながらも頷いて、ハンナの淹れてくれたお茶を飲む。
フェリクスも一口飲んでから手に持ったままのカップを小さく揺らし、かすかに波立つお茶をじっと見つめた。
重たい沈黙が部屋を支配する。
「これが……あなたの答えか?」
やがて口を開いたフェリクスの声は重く厳しい。
真っ直ぐに向けられる青灰色の瞳にうろたえるレイチェルを見て、フェリクスは顔をしかめた。
そして、ぐっとお茶を一気に飲み干し、立ち上がる。
「――見送りはできない」
フェリクスは突き放すように言い捨て、背を向け去って行った。
どうやら、また間違えてしまったらしい。
この時期に領地に向かうことがどういう意味に捉えられるかはわかっていた。
だが、今のやり取りにどんな意味があったのかがわからない。
「レイチェル様……」
立ったまま、しばらく閉じられた扉を見つめていると、ドナが心配そうに声をかけた。
レイチェルはどうにか笑みを浮かべてドナへと振り向き、首をかしげる。
『何かしら?』
「……明日の予定で出発準備を進めてよろしいでしょうか?」
『ええ、お願い。……ごめんなさいね、急に』
「いいえ、私はレイチェル様がお決めになったのなら、それでかまいません」
きっぱり言い切ったドナは、控えていた侍女達に向き直った。
「さあ、さあ、あなた達、これからちょっとばかり忙しくなりますよ」
不安げな二人を鼓舞するように手を叩いて急き立てる。
そこへ戻って来たクライブに、レイチェルは明るく見える笑みを向けた。
『先ほど、陛下にお許しを頂いたの。だから、明日出発するわ。……大丈夫かしら?』
かすかに肩を上下させて、クライブは何か言いかけ口を開いた。
しかし、一瞬の間をおいて深く息を吐き出す。
「かしこまりました。我々はいつでも発てますから問題はありません。ところで……レイチェル様に一つお願いがあります」
力強く答えたクライブは、控えの間に入って行くドナと侍女達をちらりと見たあと、遠慮がちに切り出した。
その珍しさにレイチェルは驚く。
『どうしたの?』
「実は、ブライトンまでしっかり飛べる鳥に頼み事をしたいのです。それで、レイチェル様のお力をお貸し頂けないかと……」
『ああ……ええ、もちろんよ。手紙を送るの? 今の季節なら夏鳥達がブライトンに向かうはずだから、頼んでみるわ。でも、あまり厚いものはダメよ?』
「はい。ありがとうございます」
納得したレイチェルは悪戯っぽく微笑んで了承した。
クライブは感謝を述べて頭を下げると、急ぎ部屋を出て行った。




