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沈黙の女神  作者: もり
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 モンテルオ城内では今、王妃陛下と王弟殿下はただならぬ仲であるらしい、との噂が密かに、広く囁かれている。

 王妃陛下は夫である国王陛下にさえ会うことを拒んでいるのに、王弟殿下とは毎日午後のひと時を一緒に過ごしている、と。

 実際のところは、午後になると先触れもなくふらりとやって来たリュシアンが、沈黙したままのレイチェルを前にひとしきりお喋りをして帰って行くだけなのだが。


「レイチェル様、本当にこのままでよろしいのでしょうか……」


 レイチェルが窓際で小鳥達のおしゃべりを聞きながら刺繍をしていると、ドナが遠慮がちに問いかけた。

 表情だけで「何が?」と返せば、ドナは心なしか声をひそめて続ける。


「リュシアン殿下です。このままでは……国王陛下に誤解されてしまいます」

『……大丈夫よ。陛下は誤解などなさらないわ』

「ですが、城内はお二人の噂でもちきりです。否が応でも陛下のお耳には入っているでしょう」


 部屋にいたクライブが心配に顔を曇らせて口を挟む。

 レイチェルは刺繍道具を置いて、二人にきちんと向き直った。

 そして一度大きく息を吸うと、手ぶりで今の気持ちを打ち明ける。


『私ね、ずっと幸せになることを夢見ていたの。でも、それじゃダメだって気付いたわ』

「レイチェル様、それは――」

『違うの。諦めたわけじゃないのよ。ただ、夢見てるだけじゃダメだって。自分から幸せになるために動かなきゃって気付いたの』


 ドナからクライブへ、ゆっくりと視線を動かして、レイチェルはにっこり笑った。


『いつか王子様が……って、物語みたいに王子様のような誰かが迎えに来てくれることを願っていたから、勝手に陛下を王子様に当てはめて私を幸せにしてくれると思いこんだの。ちゃんとした覚悟もないのに、幸せにしてもらうために努力するなんて……間違っていたわ』

「レイチェル様は何も間違ってなどいらっしゃいません!」

『いいえ、そうじゃないの。私がしなければならないのは、幸せになるための努力よ。陛下が何かして下さるのを待っていてはダメ。自分から動かないと』


 レイチェルは窓際に置かれた鉢植えを見つめた。

 純白のカトレアは、一番上の姉が遠くの国へと嫁いで行く日、髪に飾っていた花だ。

 あの時、母は姉を抱きしめて言った。――幸せは自分で掴むものよ。だから努力なさい。そして、幸せになりなさい、と。

 幼い頃のことを思い出せば、自然と顔がほころぶ。

 優しかった母のことを同じように思い出したのか、ドナは涙ぐんでいる。

 しかし、まだ心配げなクライブは、ためらいがちに口を開いた。


「では、その……リュシアン殿下とは……」

『殿下とは、たぶん……目的が同じなのよ。だから――』


 言いかけたレイチェルは、侍女のベティが戻って来たので手ぶりをやめた。

 どうやら、またリュシアンが訪れたらしい。


「厨房から美味しそうな匂いがしたので、もらってきましたよ」


 にこにこしながら現れたリュシアンは、手にバスケットを持っている。

 お菓子の美味しそうな匂いには確かに惹かれるが、受け取ってもいいものかと躊躇するレイチェルの心を察してか、リュシアンはかぶせていた布巾を上げ、一つ摘まんで食べた。


「うん。やっぱり美味しいですよ」


 ひょっとして毒見のつもりなのかもしれない。

 別に疑っていたわけではないが、ここまでされて断るのもまずいかと、レイチェルは手を差し出した。

 リュシアンは更に笑みを深くする。

 直接レイチェルが受け取ったことが嬉しいようだ。


「今日は、残念ながらお別れの挨拶に来たのです」


 わずかに驚いたレイチェルが眉を上げると、リュシアンは白々しく悲しそうな顔をした。


「なんてことだ。もっと悲しんで下さると思ったのに。……とはいえ、またお会いできる日も来るでしょう。駐屯地までは馬を飛ばせば二日の距離ですし、サクリネとの問題はもうすぐ解決しますからね」


 そう言って、リュシアンの顔に笑みが戻った時、血相を変えた侍女のハンナが部屋に飛び込んで来た。


「あ、あの――」

「別に、知らせずともよいだろう? 王妃とは、先触れのない方が会えるのだから」


 ハンナの後ろからいきなり現れたフェリクスに、部屋にいた者達は固まった。

 その中で一人、リュシアンが陽気な声を上げる。


「やあ、兄上。お久しぶりです。お元気そうですね」

「お前とは今朝会ったばかりだ。それよりも、久しぶりなのは王妃、あなただ」


 青灰色の瞳で見据えられ、我に返ったレイチェルは慌てて膝を折った。

 皆も急ぎ従う。

 フェリクスはスカートを摘まんだレイチェルの右手をちらり見て、窓際のテーブルの上を見ると、緊張に青ざめる彼女の顔に視線を戻した。


「……怪我が治ったようで何よりだ」


 呟いて、フェリクスはにやにや顔のリュシアンを睨みつける。


「午後は出立前の会議だと申しただろう?」

「はっ! そうでした! 甘い匂いに釣られて、すっかり忘れておりました!」

「リュシアン、いい加減にしろ」

「おやおや、男の嫉妬は見苦しいですよ」


 軽口を叩く弟を無視して、フェリクスはレイチェルに向かって頷いてみせると、踵を返した。

 リュシアンも「では、また」と簡単な挨拶を残して去って行く。

 顔を赤くしたレイチェルは呆然として、二人を見送るしかなかった。



   * * *



 リュシアンが出立する前日の出来事は、あっという間に噂になった。

 そして、次第に尾ひれがついて広がり、今では王妃様と殿下の密会中に陛下が踏み込み、怒った陛下が殿下を駐屯地に追い返した、ということになっているらしい。


「これで満足か?」

「さて、何のことでしょうか?」

「リュシアンをわざわざ呼び戻したのは、お前だろう?」

「はい。それが何か問題でも?」

「……」


 不機嫌な声での問いに、アンセルムは薄い笑みを浮かべたまま。

 フェリクスは何も言わず立ち上がると、壁に貼られた地図の前まで歩み、静かに眺めた。

 二人だけの執務室には重たい沈黙が広がる。


「――おかしいと思わないか?」

「何がでしょう?」

「王妃の行動だ。あれではまるで……」

「評判通りの姫君ではありますけどねえ」


 言葉を濁したフェリクスに応えたアンセルムは、書類を置いて立ち上がった。

 そして、フェリクスの隣に並ぶ。


「モンテルオとエスクーム王国を東西に隔てるこのカントス山脈も、南側のこちらは比較的勾配が緩やかです。エスクーム軍がバイレモへの侵攻を企てているのは間違いなくここからでしょう。ただ問題は、今までエスクーム王家が放置していた……と言うより、反目していた山岳部に住む部族――山賊まがいの好戦的な部族と手を組んだという噂が事実だったことです。彼らはかなり厄介な相手になるでしょうね。だからこそ、ブライトンに救援を頼んだわけですが、さて……」


 地図を指さしながら、ここ最近仕入れた情報を確認するように言うアンセルムの話を、フェリクスは黙って聞いていた。

 祖母の見舞いを口実に側から離れ、アンセルムは自らエスクームに潜入していたのだ。

 フェリクスにとっては、幼い頃からかなり世話になっていた彼らの祖母の病を利用したことは心苦しくもあった。そのため、アリシアが吉報を持って戻って来た時には、かなり安堵したのものだが――。


「ブライトン側が王妃様の領地として所望したのが、バイレモ地方の北に位置するこのアクロス。ここはカントス山脈の一番険しい山々によってエスクームからは守られていますので、余程のことがなければ安全でしょう。そして北の地はブライトンと接しています。要するに、この地を通ればブライトン軍は簡単にバイレモへと向かえる。ちなみに、この度の輿入れで王妃様がお連れになった私兵の多くが、元はサイクス候の配下だったそうです」

「……王妃が裏切り、エスクームと手を組めば、簡単にバイレモは陥落するな。だが、その兆しもない」

「ええ、ブライトンとエスクームが密約を結んでいる事実はありませんね。……今のところは」

「ここ数年は落ち着いているとはいえ、長年両国は争っていたんだ。そう簡単に手を結ぶとは思えないな。ただ気になるのは……ブライトンの真意が読めない。王女を送り込み、アクロスを求めてくるなどと、やり方があからさま過ぎるかと思えば、レイチェルの――王妃の態度には矛盾ばかりだ。だが、彼女は……」


 言いかけて思い直したのか、フェリクスは口をつぐんだ。

 その様子を見て、アンセルムがため息を吐く。


「私ごときが陛下のお心に関知するべきではありませんが、王としてのご判断を鈍らせてしまうのでしたら、話は別です。陛下、ブライトンは油断ならない相手です。そのことをお忘れなきようお願い申し上げます」

「……」


 フェリクスは深々と頭を下げるアンセルムに目を向けることなく、地図を睨むように見ていた。




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