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(雨が……降りそうね……)
鈍色の雲が広がる空は、まるでレイチェルの心のように暗い。
昨日の夜、部屋で一人食事をとっている時ほど孤独を感じたことはなかった。
ドナ達に余計な気遣いをさせてしまったことが申し訳なく、居たたまれなかったのだ。
(やっぱり、間違ってばかりだわ……)
諦めようと思うのに、諦められない。もうどうでもいいと思うのに、気になってしまう。
頑張ると、エリオットには強がってみせたが、結局なにもできていない。
曇天の下を巣へと急ぐ鳥達の姿を見つめていたレイチェルは、ふと視線を下げて目をとめた。
(あら?……あれは、ひょっとして……?)
雨になる前に時折吹く強い風にあおられて、中庭の大木の根元でちらちらと鮮やかな色が揺れている。
思わず身を乗り出したレイチェルだったが、閉じられた窓ガラスにゴンッと派手な音を立てておでこをぶつけた。
その音に驚いて、ドナが駆け寄る。
「レイチェル様!? お怪我はございませんか!?」
『大丈夫よ。ちょっとうっかりしていただけ』
自分の間抜け加減が恥ずかしくて顔を赤くしたレイチェルとは逆に、ドナは青ざめている。
ドナは昔から過保護だ。
しかし、必要以上に心配をかけている今の状況では、ちょっとしたことでもドナが大騒ぎをするのを止められない。
白いものがちらほら混じり始めた黒髪を見ているうちに切なくなって、レイチェルはぎゅっとドナを抱きしめた。
「……あらあら、レイチェル様。本当は痛かったのですね?」
笑いを含んだ優しい声に、背中を撫でる温かな手。
幼い頃のように少しだけ甘えて、レイチェルはドナを解放した。
『見て、あそこにカトレアが咲いているの』
「まあ、本当に。やはりブライトンより暖かいからか、屋外でも花を咲かせるのでしょうかねえ?」
カトレアはレイチェルの母が好きだった花だ。
母を亡くし、声を失くし、嘆いていた時に、侯爵夫人が固い蕾のついた鉢を持って来て優しく言った。「この蕾が綺麗に咲いたらまた見に来ますわね」と。
どうしても夫人に早く来て欲しかったレイチェルは、せっせと蕾の世話をした。
水をあげすぎてドナに注意され、真剣に植物の本を読み、侍女にお願いして庭師から栄養剤を分けてきてもらったり。
ようやく華麗な花が咲いた時、夫人はエリオットとマリベルを連れてまた来てくれたのだ。
それ以来、レイチェルの部屋は美しい花と緑で溢れるようになった。
輿入れの際には、環境の変化を考えて全てを王宮の庭師に預けたのだが、また植物の手入れを始めるのもいいかもしれない。
『今日はお天気が悪いから無理だけれど、明日にでも見に行きたいわ』
「さようでございますね」
レイチェルが元気を取り戻したことを喜んで、ドナがにこやかに応えた。
その時、侍女の一人が慌てた様子でやって来た。
先触れの使者もなく、突然リュシアン殿下が訪れたというのだ。
追い返すわけにもいかず、前室に待たせたまま、あたふたと身支度を始める。
どうにか体裁を整えたところで、入室の許可を出した。
「突然の訪問、申し訳ありません。ですが、私はどうも堅苦しいことは苦手で……」
朗らかに笑って言い訳めいたことを口にするリュシアンに、レイチェルは目を奪われた。
フェリクスとよく似た面立ちが笑み崩れ、温かな視線が自分に向けられている。
レイチェルは高鳴る胸を無視して、平静を装い冷ややかな視線を返した。
「王妃陛下、お初にお目にかかります。ルースロ公リュシアン・カルサティと申します。噂以上にお美しい王妃陛下にこうしてお目にかかれるなど、ひょっとして私の一生分の幸運を使い切ってしまったかもしれません」
仰々しくレイチェルの足元に跪いて挨拶するリュシアンを、皆が呆気に取られて見ている。
動揺する心を押し隠して見下ろすと、顔を上げたリュシアンの青色の瞳がきらきらと輝く。
「これほどにお美しい方を娶ることができた兄が本当に羨ましい。間違いなく、兄は一生分の幸運を使い切ったでしょうね」
お世辞とはわかっているが、どう反応していいのかわからず、レイチェルは目を泳がせた。
扉近くに立つクライブは警戒の色を滲ませ、リュシアンを見ている。
心配性の彼らしい態度がおかしくて心が軽くなったレイチェルは、そこで今更ながらリュシアンが侍従も連れず一人だと気付いた。
「先ほども申しましたが、私は堅苦しいことが苦手なのです。その上、人を驚かせるのが大好きで、更に厚かましい性格をしておりますので、今は王妃陛下にお茶を頂けたら嬉しいなと思っております」
まるでレイチェルの心中に応えたようなリュシアンの言葉。
だがその後に続いた内容に、思わずレイチェルは笑みを浮かべた。
その明るく美しい微笑みを見て、リュシアンが目を見開く。
結局、お茶を一緒にすることになったレイチェルは、ドナを従えてソファに座ったが扇子の出番はなかった。
よく喋るリュシアンのお陰で、レイチェルは首を縦か横に振ればいいだけだったのだ。そして、予想外に楽しい時間を過ごすことができた。
* * *
翌日は朝からよく晴れ、レイチェルは中庭を散策する決心をした。
久しぶりに部屋から出るのは怖かったが、やはり外の空気は気持ちがいい。
温かな昼下がりの日射しの中で、草花は美しく輝き、時折前日の雨の滴を落とす。
ゆっくりと歩みながら色とりどりの花や緑を楽しみ、レイチェルは大木の下へとやって来た。
『やっぱりカトレアだわ。ブライトンで世話していたものより、少し小ぶりだけど、とても鮮やかな色ね』
「さようでございますねえ。日当たりが悪いわけではないようですので、品種が違うのでしょうか?」
『土が違うからかもしれないわね。それともやっぱり屋外だからかしら? 室内より温度変化が激しいのですもの。クライブはどう思う?』
「レイチェル様、無茶ぶりはやめて下さい」
花には全く興味のないクライブに意地悪い質問をして、レイチェルは笑った。
もう笑顔を隠すつもりはない。
偽りの世界で十二年間生きてきたレイチェルには、まだ全てをさらけ出す勇気は持てなかった。だが、少しずつ自分の世界で生きればいい。
ドナとクライブの笑顔を見ていると、そう思えた。
しかし、ふっとクライブの顔に警戒の色が浮かぶ。
レイチェルも澄ました顔を取り繕い、彼の視線を追って振り返った。
「ずいぶん楽しそうですね。何かおもしろいものでもありましたか?」
爽やかな笑みを浮かべたリュシアンが近づいてくる。
明るい日差しに照らされた艶やかな黒髪は軍人らしく短めに整えられているが、リュシアンはやはりフェリクスによく似ていた。
人々に無視されるのは慣れている。軽蔑を隠した偽りの笑みを向けられるのも。
だが、心から親しみを込めた笑みを向けられると、どうしていいのかわからない。
レイチェルはぷいっと顔をそむけ、カトレアをじっと見つめた。
「ああ、カトレアが咲いているのですね。この花はどれも美しいですが、私は特に純白のものが好きですね。あなたにぴったりだ」
リュシアンはレイチェルの側近くまで来ると跪き、薄紅色の花びらをそっと撫でた。
そして見上げて微笑む。
「でも今は、この花のようですね」
リュシアンは頬を赤く染めたレイチェルの右手を取って、敬愛を示す口づけをした。
ドナははっと息をのみ、クライブはぐっと歯を食いしばって拳を握る。
つんと澄ました表情を装うことも忘れたレイチェルが呆然としてリュシアンを見下ろしていると、回廊から明るい笑い声が聞こえた。
それからすぐにフェリクスとアリシアが現れる。
「あら、まあ」
レイチェルとリュシアンが一緒にいることに驚いて、アリシアが声を洩らす。
フェリクスは何も言わず、ちらりとレイチェルの右手を見た。
立ち上がったリュシアンに未だ右手を取られたままだったことに気付いたレイチェルは、慌てて手を引く。
リュシアンは気にした様子もなく、フェリクスの腕を縋るように掴むアリシアの手をちらりと見た。
「おや、まあ」
わざとらしく声を上げて、リュシアンが楽しげに笑い始める。
すると、フェリクスまで声を出して笑い、アリシアが拗ねたように頬を膨らませた。
さっぱりわけがわからない。
レイチェルはフェリクスに向けて小さく膝を折ると、逃げるようにその場から離れた。




