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厩舎の入口に立つレイチェルに、初めに気付いたのはフェリクスだった。
ふっと表情を硬くして、一瞬足を止める。
それだけで皆の視線が向けられ、レイチェルは怯んだ。
今までの気安い雰囲気があっという間に緊張に変わる。
「待たせたようで、すまない」
硬い声での謝罪がひどく他人行儀に思えて、レイチェルの目が熱くなった。
結婚してひと月近くになるのに、交わした言葉は両手で足りる。
独りよがりの期待が粉々に打ち砕かれて思わず泣き出しそうになったレイチェルは、フェリクスの後ろで満足そうに微笑んでいるアリシアを見てぐっとこらえた。
向こうからは陰になったこちらの顔はよく見えないはずだ。
レイチェルは唇を硬く引き結び、顎をつんと上げて数歩前へと進み出た。
温かな日射しの中で、重たい沈黙が辺りを覆う。
フェリクスの――国王の謝罪にレイチェルが何か返すのを皆が待っているのだ。
だが、何も返せない。返せるわけがない。
パニックに陥ったレイチェルを救ったのは、当然のことながらクライブだった。
「――レイチェル様、シンディの準備が整いました」
この状況にまったく気付いていないといった様子で、クライブはシンディを連れてにこやかに厩舎から出てきた。
レイチェルの動揺を感じ取ってか、シンディは慰めるように――傍から見れば嬉しそうに、彼女の肩に鼻先を押しつける。
応えてレイチェルが撫でてやると、シンディはご機嫌で尾をぶらぶら揺らした。
「……その馬は……本当にあなたが好きなんだな」
フェリクスはそう言うと、馬丁に連れられて次に出てきた馬に注意を向けた。
邪魔にならないように、レイチェルはシンディとクライブと場所を空けるために少し歩く。
安堵したレイチェルは一気に疲れを感じたが、クライブに向けて小さく微笑んだ。
『ありがとう、クライブ』
クライブは軽く首を横に振る。
立ち止ったレイチェルは腹帯などの最終点検を手際よくして、シンディを優しく叩いた。
『ありがとう、シンディ』
『いいのよ~。夫婦喧嘩? ダメよ、隙を見せちゃ。ああいう女はね、性質が悪いから。いるのよねぇ、馬にも。あたしがちょっと美しいからって、僻んじゃって。気立てが良いとかなんとかって、馬鹿な男は騙されるのよ。馬も人間も、男ってホント馬鹿』
ふんっと鼻を鳴らすシンディの言い様がおかしくて、レイチェルは思わず笑う。
その様子をさりげなく見ていたフェリクスは、やがて目を逸らして自分の愛馬の点検に集中した。
『あら、あの子、ルルに乗るのね。大丈夫かしら?』
シンディの言葉を聞いてアリシアへ目を向ければ、彼女用に用意された馬は栗毛の雌馬、ルルだった。
ちょっと気が強いシンディと違って、ルルはとても気立てが良くおとなしい。しかし、少し神経質で臆病なところがある。
手綱を誰かが引いて、馬場をゆっくり歩いたりする初心者の練習には最適の馬だが、遠乗りには向いていない気がする。
「ルルは遠乗りには向いていないんじゃないか? 他の馬に変えた方がいい」
まるでその気持ちが通じたかのようなフェリクスの言葉。
レイチェルが驚きながらも知らないふりをして聞き耳を立てていると、アリシアの拗ねた声が聞こえた。
「いつもこの馬に乗っているんですもの。他の馬なんて慣れていないし、無理ですわ」
「だから、また――」
「陛下、少しよろしいでしょうか?」
呼ばれてフェリクスの言葉は途切れる。
城から政務官がやって来て、何かを伝えているようだ。
皆の注意がそちらに向いた時、シンディが訝しげに鳴いた。
『どうしたのかしら? ルルったら、ずいぶん怯えてるわ』
レイチェルはフェリクス達の方へと向けていた視線をルルへと移した。
そこで、ルルが落ちつかなげに首を振り、尾を振っていることに気付く。
手綱はアリシアが引いており、馬丁の姿は近くに見えない。
そのアリシアもフェリクス達に気を取られ、ルルの様子には気付いていなかった。
よくよく見れば、ルルの鼻先に小さな虫が飛んでいる。どうやら蜂のようだ。
自分の馬を引いて来たクライブに知らせる間もなく、レイチェルはシンディの手綱を預け、ルルのもとへ向かった。
『ルル、大丈夫よ。落ち着いて』
近づきながら優しくなだめても、すっかり怯えたルルにレイチェルの心は届かない。
ルルが荒々しく鼻を鳴らしてようやくアリシアが馬の様子に気付き、苛立たしげに手綱を強く引いた。――瞬間、ルルが激しくいなないて後ろ足で立ち上がった。
手綱に引っ張られたアリシアが地面に投げ出される。
レイチェルが身の危険も顧みずアリシアの前に立ちふさがると、ルルはどうにか別の場所へと前足を下ろした。
その時、幸いにも手綱を掴むことができたレイチェルは、必死にルルをなだめにかかった。
『ルル、落ち着いて。もう蜂はどこかに飛んで行ったわ』
『酷い! あの子、酷いの! 急に手綱を引くなんて! 蜂に刺されたらどうするの!?』
蜂はすでにいなくなっていたが、興奮するルルには伝わらない
暴れるルルを駆け付けた馬丁と押さえた時、尻もちをついたままのアリシアがわっと泣き出した。
「お、王妃様が急に! この馬を驚かせたから!」
レイチェルは唖然としてアリシアを見下ろした。
馬丁がまだ落ち着かないルルをその場からどうにか引き離していく。
「アリシア、大丈夫か!? どこが痛むんだ!?」
アンセルムが泣き喚くアリシアの側に屈み、心配そうに体のあちこちを調べ始めた。
辺りは他の馬達も興奮して騒然としている。
レイチェルが視線を感じて顔を上げると、何か言いたげにフェリクスが見ていた。
そして皆から向けられる冷たい視線。
思わず一歩後じさったレイチェルの肩に、そっとクライブが触れる。
「レイチェル様、戻りましょう。お怪我の手当てをなさらなければ」
意味がわからず振り向いたレイチェルの足元にクライブは跪き、懐から取り出した布を彼女の右手に巻き付けた。
見下ろせば、白い布がじわりと赤く染まっていく。
「手綱を引かれた時に、お怪我なされたのでしょう。さあ」
促され、呆然としたままレイチェルはその場をゆっくり離れていった。
背後からはアリシアの泣き声とアンセルムのなだめる声、騒然とする場を治めるフェリクスのきびきびとした声が聞こえる。
まるでその声から守るようにクライブが背後に従ってくれていた。
怪我の痛みはまったく感じない。
ただ胸が酷く痛み、レイチェルは上手く息ができなかった。




