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ブライトン軍の出発の日から三日後、エリオット達使者も帰国の途に着くことになった。
「――あの言葉は本気だよ。僕はいつでもレイを攫うつもりだからね」
別れの挨拶時、大胆にもエリオットはフェリクスの前で、レイチェルの耳元に囁いた。
応えて、レイチェルは微笑み首を振るだけ。
そうしてブライトンの一団が去ると、また冷ややかな日常が戻った。
しかし、それまでと違うことがひとつ。
レイチェルは毎日のように午後になると乗馬に出かけるようになったのだ。
葦毛のシンディはモンテルオの厩舎でも大切に手入れされていて、上機嫌でレイチェルを乗せてくれた。
『シンディ、今日もとっても素敵ね』
『ええ、当り前よ。ここのご飯は美味しいし、毎日朝晩ブラシをかけてくれるんだから』
ぶるると満足げに鼻を鳴らしてシンディが応えた。
この城の厩舎では、本当に馬達は大切に扱われている。
馬達の意見を聞くまでもなく、どの馬も一目でそれとわかるほどに毛艶もよく目も活き活きとしているのだ。
『ふふふふ。それにね、今朝はなんと、王様にブラシをかけてもらったのよ』
『え……』
シンディがのんびりと進みながらご機嫌で教えてくれたことに、レイチェルは驚いた。
フェリクスが毎朝乗馬に出かけていることも、馬達をとても大切にしていることも、馬達自身から聞いている。だが自分が乗った馬だけでなく、他の馬の世話までしているとは思ってもいなかった。
『ブラシを優しく撫でるようにかけながらね、とっても楽しい話を色々してくれたのよ。あの方がレイチェルの旦那様なんでしょう? いいわねえ。羨ましいわあ』
うっとり呟くシンディの方がよっぽど羨ましい。
レイチェルには楽しい話をしてくれたこともなければ、優しく撫でてくれたこともない。それどころか、あの初夜から一度も触れもしないのだ。
馬鹿馬鹿しい思いにレイチェルは自嘲した。シンディに――馬に嫉妬するなんて間違っている。
だが、自分の状況があまりにも情けなく、それからレイチェルは惨めな気持ちで部屋へと戻った。
* * *
二日後の朝。
いつも以上に早く目覚めたレイチェルは落ち着かず、寝台の中で何度も寝返りを打った。
あまり早く起き出すと、侍女達に迷惑をかけるからだ。
しかし、ついに寝台から抜け出すと、そっと居間へ向かった。
曙光に満ちた室内はカーテンを引いた寝室より数段明るい。その中をまるで泥棒のように忍び足で歩き、書物机の抽斗を開ける。
そして目的の物を取り出すと、また寝室へ戻った。
泥棒の真似事をした自分がおかしくて、思わず笑みがこぼれる。
胸がドキドキしているのは、その高揚感からか、それとも――。
レイチェルはもう一つの寝室へと繋がる扉をじっと見つめた。
あの向こうにフェリクスがいる。ひょっとすると、すでに起きているかもしれないが。
フェリクスはとにかく忙しいらしい。当然と言えば、当然だろう。
今はサクリネ王国との戦後処理もあれば、バイレモ地方の問題もあるのだから。
それでも、アリシアと過ごす時間はあるのだ。
レイチェルは大きくため息を吐いて、長椅子へ腰かけた。
(馬鹿ね、私……)
幸せな結婚生活を望むなら、嫉妬などしていてはダメだ。
それなのに愛馬にさえしてしまうのだから情けない。昨日はどうしても乗馬する気分になれず一日中部屋にこもっていた。
ところが、夜になって一人で食事をしていた時、フェリクスの側近ロバートが伝言を持って訪れたのだ。
あの夜から晩餐の席には着いていないので、フェリクスがどうしているのかは知らない。
何を言われるのだろうと恐れていたレイチェルは、しばらくして信じられない思いでぼんやり椅子に座っていた。
明日の午後――要するに今日の午後、一緒に馬での遠乗りに誘われたのだ。
もちろんすぐに承諾した。
(今度こそ、今度こそ、ちゃんと謝って、ちゃんと打ち明けよう)
新たな決意に胸が高鳴る。
嬉しくて、楽しみで、そして大きな不安。
ふうっと深く息を吐いて、夜のうちに新しく書いた手紙を見直す。
(…………は、恥ずかしいっ!)
ずいぶん感情的な内容に、いったい自分は何を血迷っていたのだと焦る。
今度は別の意味で胸がドキドキし、嫌な汗が背を伝う。
(良かった……本当に、見直して良かった!)
証拠隠滅に細かく細かく破って屑かごに捨ててほっとする。
それから午前中は何度も何度も手紙を書き直すことに時間を費やし、昼食が終わってからはそわそわと部屋の中を歩き回って過ごした。
そしていよいよ、約束の時刻。
レイチェルは期待と不安で紅潮する頬を澄ました顔で誤魔化し、厩舎へと向かった。
少し早めに着いたレイチェルはクライブと共に厩舎の中へ入り、馬房の並ぶ通路を通ってシンディのところへ進んだ。
シンディの美しい鼻面を撫でてやると、嬉しそうにぶるると応えてくれる。
『おはよう、シンディ。今日もよろしくね』
『おはよう、レイチェル。もちろん任せてね。昨日は寂しかったわ』
シンディの言葉に苦笑いを浮かべた時、馬丁達が馬具を持って現れた。
ブライトンの厩舎では鞍も自分で準備していたが、ここでは遠慮して邪魔にならないようにと外に向かう。
少し離れた位置で静かに待っていたクライブが後ろに続き、出口に差し掛かった時、レイチェルははっと足を止めた。
城の方からフェリクスがやって来る。乗馬用のドレスに身を包んだアリシアと並んで。
アンセルムやロバートも一緒だ。
フェリクスが何事か言うと、アリシアが答え、どっと皆が笑う。
その中でも鈴の音のようなアリシアの声が、耳障りなほどによく響いていた。
(馬鹿だわ、私。本当に馬鹿だわ……)
フェリクスが一人のはずがないのに。
もちろん従者がいるだろうことはわかっていた。
しかし――。
「レイチェル様……」
心配そうなクライブに応えることもできず、レイチェルは痛む胸をぎゅっと押さえた。
懐に忍ばせた手紙がくしゃりと音を立てる。
明るい陽光に照らされたフェリクス達を、レイチェルは薄暗い厩舎の中から立ちすくんだまま見ていた。




