3,4 蘇生
3
真洋は暗い意識の奥底で夢を見ていた。
昔――とはいっても幼稚園から小学生にかけてのころだから十数年前、彼にはいわゆる幼なじみというものがいて、毎日その娘と一緒に楽しく遊んでいた。夢の正体は、その頃の記憶だった。
でも彼が目を覚ました時、それは夢の中のできごとと化してしまった。
そして夢の中のできごとは、いずれ頭の中から消え去ってしまう。
「気づいたか」
そう誰かに声をかけられたときには、すでに消えてしまっていた。
ピッ、ピッ、と同じ調子で響く甲高い電子音と、換気扇のせわしく回る音が彼の耳の中に入ってきた。彼は上半身を起こし、辺りを見回した。
「店の更衣室だ。ウチのモンが何かやらかしちまったみたいだな、申し訳ない。代わりと言ってはなんだが、お前を蘇生させてもらった。こっちも金がないんでな、すまないが慰謝料は払えねえ。命あっての物種っつうわけで、勘弁してやってくれ」
店の更衣室らしいその部屋は四畳半より少し広いくらいの空間で、学校にある部室のような土臭い雰囲気を持っていた。
いくつかの錆びついたロッカーが片面の壁伝いに並んでいる。それに目を沿わせていくと出入口の戸があり、そのすぐ隣には、戸の面積よりか少し小さな冷蔵庫が居座る。その上にレンジ。その隣に、
小さな鏡と陶器の流し台。鏡は天井の蛍光灯と、反対向きになった壁掛け時計、そして部屋にいる二人の姿を写す。窓はないようだ。
ロッカーの反対側の壁には、従業員の書いたらしい一筆が、小学校の教室の後ろに掲げられる児童の習字作品みたいに飾られていた。みんな一律に、こう書いていた。
青春
彼はそんな更衣室に不自然に置いてあるベッドの上で横たわっている。そんな更衣室に不自然に設置されている医療機器に繋がれながら。胸のあたりには、たくさんの電極が貼りつけられていた。上着は脱がされて、枕元に畳んである。
男が何か話しかけようとしたとき、突然彼の腹の虫が大きく鳴いた。
「おお。まあ、蘇ったら腹も空くわな。ちょっと待ってろ。確か弁当があったはず」
冷蔵庫の中からコンビニ弁当を取り出してレンジの中へ入れる男の様子を、彼は黙って見ていた。男は謎のツッコミ野郎と同じ、全身黒ずくめの格好をしている。山高帽に学ランという奇妙な組み合わせ。足には黒い革靴――ローファーかもしれない。
しかしさっきのあいつよりはかなり背が高い。学校でも背が高い方に類される彼よりも、もう頭一つ分高そうだった。
「役割上、」
男は彼に割り箸を手渡しながら言う。
「お前の身体を調べさせてもらったんだが……お前、何も持ってないんだな。身の上を示すもの、なんか隠し持ってたりとかしないか。若い顔をしている。まだ学生だろ?」
彼は割り箸を受け取ってうつむいた。なんで学生がこんな裏道に来てるんだ、と遠回しに責められているような気がしたのだ。すると男が心を読み取ったように言った。
「別に責めてるんじゃねえよ。学生がこんなとこうろついてたって、別段俺は気にしない。むしろ学生はそれぐらい好奇心旺盛なくらいが丁度いいのさ。それよりだな、時間が時間だからな。……つまり親御さんが心配してるだろ、って話だよ」
チン、とレンジの動作音が止んだ。まあ、そんなしょうもない話は飯の後でいいか、と男はレンジから取り出したあつあつの弁当を彼に差し出した。真洋は頭を下げて、少しためらってからそれを受け取る
米粒に飴色のタレの染むスタミナ丼。立ち上る湯気が孕む脂の匂い、タレの香ばしい匂い。彼はもう一度腹を鳴らす。唾液をごくりと飲みこんだ後、
「いただきます」
米粒を一気に口の中へかきこんだ。
彼が弁当を食べ終わった後、時計の針はレの字を左右逆にしたように見えた。
冬が明けたと言っても、夜はやはり冷え込む。暖房などはこの部屋にはないようだった。許可をもらって電極を外し、素早い動作で上着をかぶる。
「あ、ありがとうございました」
弁当の容器をゴミ箱(ベッドの足元にあったらしい)へ押し込む男に、彼は頭を下げた。意識がぼやけていたおかげか、緊張せずに喋れた。男は「かまわんかまわん」と手を振り答え、ベッドの下から取り出した折り畳み式の椅子を開き、そこへどっかり腰をかけた。
「まあお前にも訊ねたいことはたくさんあると思うんだが、それは後から分かってくるだろうし、まずはこっちから訊ねさせてもらうとするよ。お前、電気街の住民、ではないんだよな」
男は鋭い目をして無精髭を顎に散らしてはいるが、その反面口調は優しい。学ランを着ているせいか、一昔前の頼れる番長のような存在にも見える。
「ああ、はい。電車で……電車に乗ってここまで……」
「なるほど。じゃあ都内に住んでんのか?」
「あいや。あいやあ、隣の、とこですかね」
「隣」
「はい隣」
実際住んでいた県は隣の隣の隣の隣だったのだが、彼は驚かれるのを嫌がってウソをついてしまった。その他には別に何の思惑もない。
幸い、男は「隣」についての全てを受け流してくれた。彼のおどおどした様子を見て、これはワケありだなと踏んだのだ。
「じゃあ持ち物はどうした。最低限財布とか。隣からだったら、まあ位置にもよるが、結構金かかったんじゃないか? まさか無銭乗車とかやってのけたんじゃねえだろうなあ。いやまあ仮に無銭乗車できたとしてだ。金もないのにここ来て何やってたんだ? バイトでもやってるのか」
「やややあ。いあはあ」
彼は斜め上を向いて意味不明な言葉を紡ぎながら、ジーパンの後ろポケットを探った。
あった。四つ折りになった紙切れを取り出して、開いていく。それはメイド喫茶で撮ってもらった写真だった。十字の折り皺がついているその中心に、彼は何とも微妙な笑みを浮かべながら、猫のポーズをとる二人のメイドさんに挟まれている。
「ああ、それな」
男は頭を軽くかきながら言った。
「触れられるの嫌かなと思ってあえて触れなかったんだが、ああ、それは見させてもらった。そんなサービスがあるんだな。喫茶行くために来たのか。まあ名物だしなあ、ここの」
「あいや」
彼は「メイド喫茶に行くために電気街へ来たんじゃない」と言うかどうか迷った。でもそれを口にすると「じゃあなんで来たの」という問いに逆戻りしてしまうので、彼はそれ以上何も言わなかった。代わりに、そうだ、と思い出す。
「たぶん、なんですけど、そこに荷物、あっ、リュック背負ってきてたんですけども、たぶん」
「うん」
「そこに忘れて来ちゃったみたいなんですよね、荷物あっリュック。たぶん。たぶん」
「うんうん」
「そ、そそこに財布とか……財布、えーと財布、とかケータイ、とか、入ってて」
「……つまり、いろんなものが詰まっていたリュックサックを、店内に放置したまま、気づかず外へ出てしまったと」
「はい、そうです。たぶん」
少しの沈黙。
直後、いきなり男が「どぅわはははははは」といった豪快な笑いを口から吐き出し始めた。腹を抱えて椅子から落ちないように前のめりになって、ベッドの掛布団に額をついて。彼は「笑い事じゃないですよ」と思ったが口には出さない。
それに、そう思うには思ったが、不思議と腹はたたなかった。そんなことより、自分の失敗談でこうやって笑ってくれているのが嬉しかった。
「背中にリュック、店出るとき気づかなかったのか、背負ってないの、だははは」
「だって、だって、う、うへへへ」
「まあ、まあそんなこともあるよな、はは、あるよあるよそういうことさ。いやすまん。うん、気づかないときは全然気づかないよな」
男は笑い終えると、なるほどなあ、と姿勢を正して腕を組んだ。
「実はメイド喫茶には行ったことがないんで、俺にはあんまりよく分からないんだが。まあサービス業なのはウチの店と変わらないだろうし、大事な大事なお客様の忘れ物ということで預かってくれてるだろうな。そこは安心していい。必ず戻ってくるさ」
「僕もそう思って、店捜してたんですけど、迷って……ああ、地図とかもそこに入れてて、たんです」
「そうしてたどり着いたのがここで良かっただろ。ははは、それであいつのツッコミ受けたって順路だ。何をボケたのか分からんが、あいつのツッコミは殺人的でな、それでここに、これ、」
男はベッドの頭側近くに設置されている医療器具を、手のひらでぽんぽんと軽く叩いた。
「除細動器と心電図無理くり組み合わせたようなモンが置いてあるってわけよ。ナニガシ電気街はジャンクパーツの山みたいなもんでな、腕さえあれば何でも作れる。こいつはウチの従業員に作ってもらった。いろいろ危ないとこ探れば、小さい爆弾なんかも作れるかもなあ」
彼は、じゃあ僕心臓止まってたのか、と軽く驚愕しながら、というかツッコミで心停止ってどういうことだよ、とツッコミたくなる気分で、というかそんな危険な従業員売り子にすんなよというかそんな理由でこんな機械まで作ったのかよ、と思いつつもその全てを心の中に飲みこんで、苦笑いを浮かべていた。
「お前は案外スッと状況を受け入れられるタイプなんだな」
男が突然そう言ったので、彼は一瞬ドキリとした。男は彼の訝しがるような表情を見て、早口で進める。
「いやな、度々ここにはお前みたいに倒れたやつが運ばれてくるんだが、揃いも揃って『なあなあ俺の身に何が起こったんだよ』とか言ってパニックじみてくるんだよ。まあ、それが普通なのかもしれんが、お前はこうやって、やけに自然体のままでここにいる。珍しいやつだなあって思ったわけよ」
彼は「そ、ほ、そうですか?」とできるだけ明るい声で言ったが、しかし心中は暗く沈んでいた。
それは受け入れてるわけじゃない。我慢しているのだ。溜め込んでいるのだ。それに慣れているだけだ。そう、心の中で呟いた。
「でも、」
男が少し語気を強めて言ったので、彼はうつむき加減になっていた顔を上げた。
「多少の疑問は持っていた方がいい。ツッコミだよ、ツッコミ。なんで○○やねんっていう。参考程度に覚えておくといいかもな。社会は、まあ企業によるが、受け入れる人材よりもツッコむ人材を欲しがってる。受け入れるのが悪いってわけじゃないが……まあ社会の傾向だな。受け入れてばっかりなやつは良くてサラリーマン行き、か、保守的な社長がいつまでも玉座に居座り続けてる、ロクでもない企業だよ」
男は意味深に、にかっと表情をほころばせて彼の顔を見た。
そしてゆっくり口を開いたあと、こう言った。
「お前、ツッコミニスト協会員にならねえか」
「つ、」
「ツッコミニスト協会に入ったらそういうことにもならないぞ。ツッコミスキルを磨くんだよ。ツッコミスキルが上がれば上がるほど自由かつ優秀な企業に入社できて、独創的な意見、アイデアをもってして社会に貢献することができる。上手くいけばそれなりの役職を得ることができ、それなりの収入でそれなりの生活をすることができる。まさに夢のような日々だ。どうだ、入らないか」
「う。」
「日本ツッコミニスト協会は全く新しい形態の団体です。ここであらかじめ私たちは自分たちのことを『宗教法人』と名乗りますが、これは便宜上そういうものに属しているというだけで、その実、怪しい宗教臭の全くしない、健全かつ有意義な団体なのです。素晴らしい社会を作るための素晴らしい人材による素晴らしい団体。それが一言でいう日本ツッコミニスト協会です。しかしやはり一言では日本ツッコミニスト協会の素晴らしい点は説明できません。限界があります。詳しいことは○○ビル二階、ツッコミニスト協会ツッコミ道場本部にて初級研修会を行っておりますので、というわけで早速明日一緒に行こうじゃないか」
彼は本気で焦った。相手が見知らぬ土地の見知らぬ人であることをすっかり忘れていた。断らないとヤバいというのは自分でも分かっている。しかし頭の中で断り文句が上手く組み立てられない。言葉の断片だけが口からこぼれ出る。
「おっ、おっびゅ、おびゅびゅ」
男の不気味なにやつきがだんだんと迫ってくる。
「あっひひ、そっそそそそ、そういうのは、ちょと、ちょっと」
身振りで何とか拒否を示そうとする。だが男の表情は、中空に染みがついたみたいに変わらない。
次の瞬間、男は「どぅわははははは」とまたも大きな声をあげて笑い始めた。
彼はきょとんとしたまま、何も言えず男が笑うのをただ見ていた。男は、今度はやじろべえのように頭を前後左右に揺さぶりながら腹をよじらせている。やがてベッドに手をつき、ふう、と息をついて彼の顔を見る。
「すまんすまん、うはは、冗談だよ、冗談。うっく、ういひひひ。でも、ツッコミの重要性が分かっただろ、はは。何もかもありのままに受け入れすぎて信じちまったら、こういう目にも遭っははは、遭う。ああこいつならいけるな、って思わせちまうんだ、相手にさ。宗教の輩だけじゃなく、もっと他にもいろいろ。
ああでもたぶん、お前は受け入れてるんじゃないのかもな。さっき断りかけてたし。うん、確かにツッコミというのは勇気がいる。文句言うのとほとんど一緒だからさ。でもな、ツッコまれて嫌な気がするやつなんて、案外少ないもんだ。それがただの文句じゃない限りは、な。ツッコまれて嫌な気がするやつなんてのは、そいつ自体が嫌な奴だと思え。それか、こっちのツッコミがただの文句に変わってたか」
男は「ところで、」と一旦言葉を切り、椅子から立ち上がった。
「トイレ」
彼は気づいていた。これがただの言葉でないことに。
――これは“ボケ”だ。そしてボケには、渾身の力を込めてツッコまなければならない。何事も恐れず、立ち向かう勇気をもって。
彼は腹から声を吐き出した。緊張は、やはり襲ってきた。喉を締め付ける縄のような緊張。
だが彼はそれを大仰な動きで振りほどいた。右手を鞭のようにしならせ、背を向けた男の腰骨めがけて力を込めた。
「トイレってどこにあるんやねん!」
スパァァン――、と、彼の右手が男の背中にめりこんだ。
沈黙が、室内を覆った。
冷蔵庫の低いうなり声が続いていた。
換気扇は、時折カラカラと音をたてつつも回り続けていた。どこから入ってきたのか、一匹の蛾が蛍光灯の周りを枯れ木の葉のようにかさかさ飛び回っていた。
「君は」
沈黙を破って、男が少し振り返る。
そして、ツッコんだモーションのまま固まっている彼を見る。
「君は……ボケ向きだな」
4
薄いベージュの陶器の表面に、黄金水が砕け散る。男二人の堂々とした立ち姿がその前に並ぶ。薄汚れた青タイルの空間。若干黄ばんだアイボリーの天井。何とも言えない生臭い匂い。
二人はじっと、銀色に光る流水ボタンを見つめながら、排出の快感に浸っていた。
「お前もずっと小便我慢してたんだなあ。うん。なら、あのツッコミはある意味では的確なものだったのかもしれない……」
「こ、渾身の、一撃でした……」
真洋が先にボタンを押し、チャックを上げ、手を洗う。
男の黄金水は止まらない。
うははっ、と男が笑いをもらした。
「なんか全然、止まらないんだが」
男は笑いに肩を震わせながら黄金水を垂れ流していた。なんかよく分からんところでよく笑う人だな、と思いながら彼も苦笑する。そのあと、連れションなんて久しぶりですよ、という言葉がふっと頭を横切った。
しかし彼はそれを言わずにおいた。友人のいないことがバレるのを、恐れたからだ。
「なあ、お前って学生なんだよな」
笑い終えた男は小便も終えたようで、水気を切るように腰を小さく振りながら言った。
「あ、はい。高二、高校二年生です」
男はボタンを押す。陶器に付着した汚れや匂いを水のベールが洗い流していく。
「じゃあ、今の時期は春休みか。だよな。えー今日何日だっけ。えー、三月二十三が木曜で今日土曜で二十五か」
「はい、ちょうど今日から始まりましたね」
「やっぱな」
男が洗面所に近づいてきたので、彼はすぐ隣の扉近くへ避けた。そのトイレには洗面台が一つしか設置されていなかった。男は蛇口をひねると流水の中で手をこすり合わせ、鏡を見る。彼はその鏡に映る男の首あたりを見ている。
「春休みの期間中」
男は水を止め、手についた水をパッ、パッと二度払った。鏡の中で男と彼の目が合った。
「ウチで働いてみねえか」
えっ、と声をあげる彼に男が振り向く。「どうだ?」と念を押すように言って、ポケットから出した青いハンカチで手を拭いた。使うか? と言って差し出されたハンカチを受け取り、彼も手を拭く。手を拭きながら考える。少し湿った、薄い生地のハンカチ。そして声を口に出す。
「なんでウチで働いてみねえかになるんねん!」
「ボケじゃねえよ」
言ったあと男は、うはは、と一小節分の笑い声をあげた。
「ああ、質問にもなってるのな、それ。ほうほう、なるほどな。うん。一つには、やっぱお前が面白いからだよ。ああいや、正しく言うと、面白そう、かな。つまり気になってるってこと。そういえば、名前聞いてなかったな、なんていうんだ?」
「えっと……檜原真洋、っています」
「ヒノハラ、マヒロ。オーケー。じゃあマヒロ。俺のことは店長と呼んでくれ。何と言ったってこの店の長だからな。まあ、もし働いてくれるんなら、の話だが」
「でも、この店って……その、風俗とかじゃ」
「それなら心配ご無用だ。というか、このトイレ来るまでに大体分かっただろ。ここは風俗じゃないって。じゃあなんなのかって話だが、それは働き始めてからはっきりと分かる」
言われてみれば確かにそうだった。彼は思い出す。
控室からここまでの道のりは、一本の廊下によって結ばれていた。二人は股を押さえつつの急ぎ足でここまで来たから周りを見る余裕なんてほとんどなかったのだが、その廊下の印象は、彼の網膜に強く焼き付いている。
更衣室から出てすぐ彼の目を射した、窓からの日の光。その木枠の窓は列車の中を思わせるような等間隔で廊下に暖かい光をもたらし、同時に豊かな木々の緑色を映していた。その向こうには真っ青な空とグラウンドが広がっているようにも見えた。
ここが本当に、さっきまでいた場所と同じところなのか。彼は思わず後ろを振り向く。
そこには下部に赤い十字の描かれた、木の戸がある。開けるとガラガラ音をたてる、木の戸。
保健室
そう書かれた小さな吊り看板が、戸の上で小刻みに揺れていた。
すぐに男が「こっちだ」と駆け出したので注視することも驚くこともできなかったが、走っている間にも彼の目には様々なものが頭に貼りついてはがれなかった。
職員室の吊り看板。時間割変更の書かれたホワイトボード。その右下の落書き。校長室の重々しそうな扉。走ると響く床の音。木のやさしい匂い――。
そこはまるで、校舎だった。
いや、「まるで」ではない。
そこは、確かに、ちょっと古めかしい、だけど懐かしい感じがする校舎だった。
「二つ目は」
男の声を聞いて、彼ははっと目が覚めるような心地になる。
「……まあ、働いてみたら分かる。言葉にして言っておくと、きっと、いい経験になる。俺はそう思う。どんな経験するかは分からんがな。三つ目は実は従業員が少ないってことと、四つ目はマヒロ自身の寝泊りする場所の問題と、五つ目はいろいろと……と続いていくわけなんだが、結論から言うと、働いてほしいんだ。とてもな。
もちろん、家の都合とかがあるだろうから、決めるのはリュックが見つかって、親御さんと連絡がとれて、そのあとでいい――」
続く言葉を耳に入れながら、彼は心の中でどうするか考えていた。彼にいつものような焦りはほとんどなかった。それほどこの男が、彼の心に近づいてきたということだった。
男は彼の心に取り入っただけなのかもしれないし、寄り添ったのかもしれない。それは分からない。もしかしたら、本当に宗教勧誘の人間なのかもしれない。そういう疑念もあった。でもそれは、先に踏み込んでみなければ分からないことだった。
いつものくそ真面目な彼なら、校則でバイトは禁止されている、などと言って考えるまでもなく断っただろう。それに、働くのが怖い、という感情もあった。恐怖。人間に対する恐怖。他人と接することに対する恐怖。そんな恐怖たちが彼の前進を引き止めただろう。
でも、今回は不思議とそんな恐怖が薄れていた。そっと力を加えるだけで、そんな恐怖も簡単に破けそうな気がした。
男の親身のせいだろうか。
それもある。こんなに誰かに必要とされたのは、久しぶりのことだったのだ。その確信を押しのけるように、仮面をかぶっているんじゃないだろうかという疑心が沸く。それをあの豪快な笑いがかき消してくれる。彼の緊張を優しく解きほぐしてくれた、見下げられているようには感じない、不思議と温かな笑い方。
唐突な助言めいたものには少し戸惑ったが、そんな風に時折見せる不器用さが親近感に繋がった。自分と男には、どこか共通項があるような気がした。
信じてみよう。そう思うようになっていた。
そして、何より彼自身が変わりたかったのだ。歩く人々を見て感じた強い劣等感。自分には何もない。自分には夢も、希望も、情熱もない。そんな自分から、抜け出したかったのだ。
思い出した、田舎を出ようと決めたときのこと。
何の目的もなくこのナニガシ電気街まできたんじゃない。
自分を変えるため、ここに来たんだ。
自分を変えるという目的を果たすため、ここに辿りついたんだ。
「店長」
彼は言った。男――いや、店長の目を食い入るように見つめた。
「この店で、働かせてください」
お願いします、と深く頭を下げた。
店長は帽子のつばを手に添えて、表情を隠すように下を向く。くっ、と歯をむきだしにしながら笑いをこぼし、その笑いをこらえながらも口を開いた。
「断る」
店長は満面の笑みで彼を見た。
それを見る彼もまた、満面の笑みを浮かべていた。
と思ったら「まじで!?」といった悲壮な顔に変貌した。
すると突然彼の背後の扉が豪快な音をたてて開かれた。その黒い影に、彼は見覚えがあった。
しかし反応する余裕はない。
脳裏を電撃のようにほとばしる映像。感覚。出会いがしらに突かれた目の痛み、頭の痛み、胸を撃った鉛のような衝撃。
――その黒い影は例のツッコミ紳士だった。
「そこはツッコむところやろがバカタレええええええ!」
声と同時に鋭い一閃が彼の胸に刺さった。
そうして彼は再び、心停止に陥るのだった。